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Act.2  アンブロワーズ視点

神の庭

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 見習い修道士の無染色のごわごわしたローブに、同色の分厚い頭巾。石を飲み込んだような思いでサンダル履きの足元を見ながら歩いている私の目に、鮮やかな色が飛び込んできた。

 ハッとして目を上げれば、噴水から木桶に水を汲む一人の少女。
 生成りの地に水色の縞柄ストライプの足首までのドレスに、白い麻のエプロン。金茶色の髪はおさげにして、白い三角のチーフを頭に巻いている。私の足音に気づいて振り向いた瞳は、溢れる新緑を移したような若草色。

「こんにちは、修道士様」

 明るい声で挨拶され、私は戸惑う。――彼女は、修道女ではない。何かの事情で修道院に身を寄せている、俗人の少女だった。

「あ、こ……こんにちは」

 面食らった私は辛うじて声を絞りだし、それから慌てて言う。

「その……花を、もらいに……病人の部屋に飾るのです。……どこに、行ったら……」

 少女は首を傾げ、微笑んだ。

「でしたら、シスター・リリーにお願いしたらいいわ。このハーブ園の管理をしていらっしゃるから」
「君は……」
「わたしはアニエスと言います。アニエス・ロサルバ。こちらの修道院でお世話になって、いずれ、修道誓願をしてシスターになりたいけど、今はまだ……」

 修道女になる、と言う少女を私はまじまじと見た。純潔を意味するアニエスという名が、かくもふさわしい場所はあるまい。
 ドレスは派手ではないが、質は悪くない。身のこなしや言葉遣いからも貴族の生まれとわかる。エプロンをして庭仕事の手伝いをする、そんなに身の上ではないはず。噴水から水を汲み、細い腕で桶を抱えた危なっかしい様子に、私は反射的に駆け寄り、桶を支えた。

「僕が持とう」
「え、でもこれも修行ですし……」
「そんな様子では、目的地に着くまでに水のほとんどが零れてしまうよ」

 自分を痛めつけるために過酷な労働ばかりしていた僕は、年齢の割に筋力があった。――今なら、あんな女たちに押さえつけられることもないのに。もっと早くから身体を鍛えておけば、あんなことにならなかったかもしれない。後悔が胸を過ぎるのを無視して、私は少女から桶をひったくった。

「えっと、あそこの、花壇の花にやるんです」
「じゃあそこまで――」

 それから、私はなんとなく水やりと雑草抜きを手伝った。暑くなった私は僧衣の腕をまくり、頭巾を脱いで剃髪トンスラをさらしていた。少女が不思議そうに私の顔を見た。

「……珍しい?」
「いえ、お若い方の剃髪は初めて見たので……その……お年を召した修道士さまのは、剃髪なのか、自然におぐしが抜けたのか、わからないから……」
「ああ、これ……」

 私はつい、泥のついた手で剃髪に触れる。金髪を短く刈り、頭頂部を剃り落としている。――王宮に戻れば、髪を伸ばすことになるだろう。

「そろそろ、シスター・リリーのところに行かないと。わたしもハーブをもらいに行くから、一緒に行きましょう」

 わたしとアニエスは並んでハーブ園への小道を辿り、薬草小屋に近づく。小屋の側で、老尼僧がゴリゴリと陶器の坩堝るつぼで何かをすりつぶしていた。

「シスター・リリー!」
「はいな……アニエスかい。……おや、お客人かね」

 老尼僧が腰をさすりながら立ち上がり、私を見て眩しそうに目を細めた。

「あの……塔の病人に花をもらってくるようにと……院長様から……」
「ああ、あの塔の……じゃあ、ちょっとそこのベンチに座って待っておいで。気鬱に効く、匂いのいい花を摘んでくるから」
「わたしにはパセリとセージを。厨房から頼まれているの」
「はいよ」

 老尼僧が花を準備する間、私たちは石のベンチに腰を下ろし、取り留めのないおしゃべりをした。青い空で雲雀が啼き騒ぎ、トンビがピーヒョロロロ……と平和な啼き声を響かせる。風に乗って、真っ白いアーモンドの花びらが雪のように舞う。

 少女は母を失い、後妻に虐待されて家に居場所がなく、母方の親族が寄進をして修道院に入れたのだと。

「だからお母さま側の家名の、ロサルバを名乗っているんです。……お父様は私のことはもう、どうでもいいみたい」
 
 そう言ってから慌てたように付け加える。

「ロサルバって白い薔薇ロサ・アルバのことで、綺麗だから気に入っているの。名前負けしそうだけど」
「綺麗な名前だ。……君にピッタリだよ」
 
 僕が言えば、アニエスは恥ずかしそうに微笑んだ。ロサルバ、という家名は異国風だから、亡くなった母親は外国にゆかりがあるのかもしれない。

「妹がいるんです。三歳下で、妹だけはわたしを家族として扱ってくれて、修道院に入る時、別れを惜しんでくれました」

 優しく愛らしい声、俯いた繊細な横顔の、少し尖った顎の線も、ややぷっくりとした唇も。長い睫毛に覆われた若草色の瞳は、くるくると表情を変え、新緑を映して輝く。健康的な桃色の頬と、綺麗に整えられた細い指先。――飾りのない美がそこにあった。
 
 こんな美しい少女を、ただ生さぬ仲だからと虐待する継母も許し難く、実の娘を修道院に放り込む父親も理解不能だった。――いやそれでも、実の息子を宴の余興で凌辱する父親よりは、はるかにマトモだけれど。どいつもこいつも、死ねばいいのにと思う。何もかも国ごと地獄に墜ちればいいのに。燃え盛る業火に焼かれ、のたうち回ればいいのに。

「妹はね、とっても素直で可愛らしいの。わたしの自慢の妹。……でも、誰からも愛されている妹を見ると、だんだん辛くなってしまって。羨ましくて、妬ましく思えてしまって。わたしはみかけも今一つなのに心まで醜いから、お義母かあ様も愛してくださらないのかしらって……」
「そんなことないよ、君はとても可愛らしいよ?」

 アニエスは慌てて首を振り、それから言った。

「ありがとう。……でも、やっぱりわたし醜いのよ。妹は悪くないのに、妬ましいって思ってしまう。だから、そんな醜い気持ちを抱いている自分が情けなくて、こうして神様の元で自分の罪と向き合って、綺麗な心を持てるようになりたいと思っているんです」

 彼女のまっすぐで清らかな言葉に触れて、私こそ自分が情けなかった。

 罪があると言うのなら、それは私のことだ。
 いっそこの世に生まれてこなければよかったのだ。そうすれば、父の命令で汚されることもなく、少なくとも母は壊れずに済んだ。あんな凄惨な事件も起きず、兄たちも死ななかったかもしれない。汚された身で狂うこともできず、代わりに母が狂った。
 私こそ忌むべき存在だ。なのに、どうして私が生き残り、優秀な兄たちが死んでしまったのか。


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