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序章 はじまりの森
ときわ木の下で
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出会ったその瞬間から、少女はシウリンにとって、唯一無二の存在になった。
シウリンは少女に尋ねる。要領を得ない返答から、彼女が迷子になったことだけは、わかった。
こんな森の中に、幼い子供が一人きりという時点で、何か異常なこと起きたのは明らかだ。
ちょうど、シウリンの僧院と〈星の雫〉尼僧院の中間地点で、行くも戻るも同じくらいかかる。僧院は女人禁制だから、シウリンは少女を連れて元来た道を引き返すことにした。
シウリンは少女に、尼僧院でもらった焼き菓子と、瓶詰された山葡萄の果汁水を与え、彼女に名を尋ねる。
「〈オジョウサマ〉よ。でもお母様とお父様だけはメルーシナって呼ぶの。あなたも特別にそう呼ばせてあげてもいいわ。このお人形さんはローザっていうの。可愛いでしょ、お母様が作って下さったのよ。ずっと寒いところに居て風邪をひきそうだわ。早く温かいところに連れて行ってちょうだい」
いきなり下僕認定され、シウリンはやや鼻白むが、もともと穏やかな性格なので、高慢な物言いにもめげず、あくまで下手に出る。
「わかりました。〈オジョウサマ〉……じゃなくてメルーシナ? 少し時間はかかりますが、温かいところに移動しましょう」
ついでに言えば、シウリンは〈オジョウサマ〉を彼女の名前だと勘違いした。彼の世界にはお嬢様なんて種族の生き物は存在しない。そして〈オジョウサマ〉という生き物の、非常に厄介な性質を彼もまもなく思い知らされる。歩きだしていくらも行かないうちに、メルーシナはぐずぐずと音を上げたのだ。足が痛い、疲れた、寒い、もう歩けない。
シウリンは改めて少女の姿を眺める。
白絹の、光沢のある滑らかな上衣は、たくさんの襞を寄せて足首まで届き、宝石飾りのピンで留められ、生地は薄くてフワフワだ。肩にかけるケープは極細の毛糸で繊細な模様を編み込んであり、美しいが防寒の用は為さないと思われた。シウリンの常識では、腰紐は麻縄と相場が決まっているが、メルーシナが胸高に締めているのは、金糸銀糸を織り込んだ豪華な細帯で、花弁のような凝った結び方に真珠のブローチまで付けてある。靴に至っては黄金づくりのごくごく軽いサンダルで、しゃらしゃら鳴る飾りがたくさんついていた。――美しいが、長い距離を歩くには全く適しておらず、素足にはすでにサンダル擦れができていた。
ついでに言うと、少女の持つ人形は、宝石飾りのピンに至るまで少女と全く同じ姿をしていた。つまりすべて誂えで、彼女の非常に裕福な育ちを示していたが、清貧の暮らししか知らないシウリンには、その価値はわからない。ただ、これが『聖典』に出てくる〈金持ち〉なのだ、とはおぼろに理解した。長い距離を歩き慣れない少女は、間違いなく、疲れ切っていた。
しばし、シウリンは思案にくれた。シウリンは年明けにも得度することになっていて、生涯不犯を貫く誓いを立てたばかりだった。世俗女性に触れることは禁じられていた。シウリンはメルーシナを背中に背負うべきか否か、真剣に悩んだ。
(子供だし、緊急事態だし……)
かなりの葛藤の末に、シウリンは恐る恐るメルーシナの小さな手に触れる。妙にぼかぼかと温かい。
「……メルーシナ、熱がありますね。寒くて風邪を引いたかもしれません」
これはもう、猶予がない。シウリンは覚悟を決め、メルーシナと彼女の人形を背負っていくことにした。この程度の戒律破りなら、反省房に一日閉じ込められればなんとかなるはずだ。
シウリンは、自分の毛織のマント(とは名ばかりのただの四角い布)を彼女の頭から着せかけ、顎の前でそれを結ぶと、背中に乗るように促した。疲れていたメルーシナは大喜びで負ぶさる。首に回された小さな手と、背中にかかる重みと体温。うなじに熱い息遣いを感じ、シウリンの身体の奥に、これまで知らなかった熱が灯り、身体の中を不思議な〈気〉が巡る。シウリンは経験したことのない幸福感で満たされ、頭の芯がぼうっとなる。メルーシナの長い髪からは、薔薇のような甘い香りが漂って彼を包み込む。
シウリンは背中で楽し気に話す少女にぽつぽつと答えながら、夕暮れの近づく森の小道を歩く。
「シウリンはおじいさんでないのに、どうして髪の毛がないの?」
「剃っているからですよ。見習いの僧侶なんです」
「ソウリョってなあに?」
「太陽神に仕えて世界の成り立ちを勉強するのです」
「シウリンは勉強好きなの?偉いのね」
そんな話をしていると、やがて、白い雪が舞い散る。
「この白いものはなあに?」
「雪ですよ。今年初めての、初雪です」
少女は珍しそうに、雪を眺める。
「ご本で読んだことがあるわ。見るのは初めて……。」
メルーシナの生まれ育った所では、雪は降らないのだろうか。雪を見慣れたシウリンは、そんな風に思う。
粉雪がちらつく中、シウリンは立ち止まる。冬枯れの森の中で、ぽつんと常緑樹の大木があって、緑の葉が雪から守る木陰を作っている。
「少し、休憩しましょうか」
森を抜ければ、尼僧院まではあと少しだ。シウリン自身が休みたいというのもあったが、メルーシナに水分の補給をさせる必要があった。
シウリンはメルーシナを背中から降ろすと、下草が湿っていないことを確認してから、木の根元に腰を下ろした。メルーシナもその隣にチョコンと座った。
肩から腰に下げたずた袋から、残りの焼き菓子と、果汁水を取り出す。
「もう少しですから、頑張ってくださいね」
実際に歩いているのはシウリンだけだが、シウリンの言葉にメルーシナがこくんと頷く。果汁水を瓶から直接口をつけてラッパ飲みし、瓶をメルーシナに手渡す。彼女の手には大きく重い瓶を支え、飲むのを手伝ってやる。残りの焼き菓子を彼女に食べさせ、シウリンはほっと息をついた。
陽はすっかり落ちたが、まだ西には残照が残る。霊峰は、すでに黒い巨大な影となっている。早く森を抜けなければならないが、さすがのシウリンも歩き詰めでくたくただった。
「シウリンはずいぶんと汚い着物を着ているのね。大きくなったらわたしと〈ケッコン〉して、わたしの旦那様になるといいわ。そうしたら、シウリンはわたしのお母様の子供も同じになるのでしょう?お母様はきっと、シウリンにもたくさん、綺麗な着物を作ってくださるわ」
メルーシナはシウリンの腕にもたれかかって、シウリンの粗末な服を引っ張りながら言った。少女の無邪気な申し出に、シウリンは飲んでいた果汁水を噴き出しそうになって、思わず咽せる。〈ケッコン〉――その言葉に、シウリンの顔が赤くなる。ケッコン? 血痕じゃないよね? 結婚? 結婚って?
世俗の男女がするという結婚。陰(女)と陽(男)が結びつき、新しい生命を生み出す聖なる営み。陰陽の教えに導かれるこの世界において、結婚は人間の営みの中で、もっとも神聖なる意味を与えられて重視されていた。
愛し合う男女に天と陰陽が与える祝福、それが結婚だと、『聖典』には書かれている。大きくなって、メルーシナと愛し合って、天と陰陽の祝福を得られたら、それは素晴らしいことだろう。シウリンは頭がぼうっとなり、心臓が早鐘を打つ。
メルーシナの触れる部分から、シウリンの身体を熱い〈気〉がめぐる。これはきっと、彼女がシウリンの唯一無二だから。もし、シウリンが結婚するならば、それは彼女以外にはあり得ない。腕に纏いつく体温と、伝わる熱と〈気〉が、シウリンにそれを確信させた。
だが――。
「ありがとうございます。お申し出は大変ありがたいのですが、僕は僧侶ですので、一生誰とも結婚しません」
シウリンは少女に尋ねる。要領を得ない返答から、彼女が迷子になったことだけは、わかった。
こんな森の中に、幼い子供が一人きりという時点で、何か異常なこと起きたのは明らかだ。
ちょうど、シウリンの僧院と〈星の雫〉尼僧院の中間地点で、行くも戻るも同じくらいかかる。僧院は女人禁制だから、シウリンは少女を連れて元来た道を引き返すことにした。
シウリンは少女に、尼僧院でもらった焼き菓子と、瓶詰された山葡萄の果汁水を与え、彼女に名を尋ねる。
「〈オジョウサマ〉よ。でもお母様とお父様だけはメルーシナって呼ぶの。あなたも特別にそう呼ばせてあげてもいいわ。このお人形さんはローザっていうの。可愛いでしょ、お母様が作って下さったのよ。ずっと寒いところに居て風邪をひきそうだわ。早く温かいところに連れて行ってちょうだい」
いきなり下僕認定され、シウリンはやや鼻白むが、もともと穏やかな性格なので、高慢な物言いにもめげず、あくまで下手に出る。
「わかりました。〈オジョウサマ〉……じゃなくてメルーシナ? 少し時間はかかりますが、温かいところに移動しましょう」
ついでに言えば、シウリンは〈オジョウサマ〉を彼女の名前だと勘違いした。彼の世界にはお嬢様なんて種族の生き物は存在しない。そして〈オジョウサマ〉という生き物の、非常に厄介な性質を彼もまもなく思い知らされる。歩きだしていくらも行かないうちに、メルーシナはぐずぐずと音を上げたのだ。足が痛い、疲れた、寒い、もう歩けない。
シウリンは改めて少女の姿を眺める。
白絹の、光沢のある滑らかな上衣は、たくさんの襞を寄せて足首まで届き、宝石飾りのピンで留められ、生地は薄くてフワフワだ。肩にかけるケープは極細の毛糸で繊細な模様を編み込んであり、美しいが防寒の用は為さないと思われた。シウリンの常識では、腰紐は麻縄と相場が決まっているが、メルーシナが胸高に締めているのは、金糸銀糸を織り込んだ豪華な細帯で、花弁のような凝った結び方に真珠のブローチまで付けてある。靴に至っては黄金づくりのごくごく軽いサンダルで、しゃらしゃら鳴る飾りがたくさんついていた。――美しいが、長い距離を歩くには全く適しておらず、素足にはすでにサンダル擦れができていた。
ついでに言うと、少女の持つ人形は、宝石飾りのピンに至るまで少女と全く同じ姿をしていた。つまりすべて誂えで、彼女の非常に裕福な育ちを示していたが、清貧の暮らししか知らないシウリンには、その価値はわからない。ただ、これが『聖典』に出てくる〈金持ち〉なのだ、とはおぼろに理解した。長い距離を歩き慣れない少女は、間違いなく、疲れ切っていた。
しばし、シウリンは思案にくれた。シウリンは年明けにも得度することになっていて、生涯不犯を貫く誓いを立てたばかりだった。世俗女性に触れることは禁じられていた。シウリンはメルーシナを背中に背負うべきか否か、真剣に悩んだ。
(子供だし、緊急事態だし……)
かなりの葛藤の末に、シウリンは恐る恐るメルーシナの小さな手に触れる。妙にぼかぼかと温かい。
「……メルーシナ、熱がありますね。寒くて風邪を引いたかもしれません」
これはもう、猶予がない。シウリンは覚悟を決め、メルーシナと彼女の人形を背負っていくことにした。この程度の戒律破りなら、反省房に一日閉じ込められればなんとかなるはずだ。
シウリンは、自分の毛織のマント(とは名ばかりのただの四角い布)を彼女の頭から着せかけ、顎の前でそれを結ぶと、背中に乗るように促した。疲れていたメルーシナは大喜びで負ぶさる。首に回された小さな手と、背中にかかる重みと体温。うなじに熱い息遣いを感じ、シウリンの身体の奥に、これまで知らなかった熱が灯り、身体の中を不思議な〈気〉が巡る。シウリンは経験したことのない幸福感で満たされ、頭の芯がぼうっとなる。メルーシナの長い髪からは、薔薇のような甘い香りが漂って彼を包み込む。
シウリンは背中で楽し気に話す少女にぽつぽつと答えながら、夕暮れの近づく森の小道を歩く。
「シウリンはおじいさんでないのに、どうして髪の毛がないの?」
「剃っているからですよ。見習いの僧侶なんです」
「ソウリョってなあに?」
「太陽神に仕えて世界の成り立ちを勉強するのです」
「シウリンは勉強好きなの?偉いのね」
そんな話をしていると、やがて、白い雪が舞い散る。
「この白いものはなあに?」
「雪ですよ。今年初めての、初雪です」
少女は珍しそうに、雪を眺める。
「ご本で読んだことがあるわ。見るのは初めて……。」
メルーシナの生まれ育った所では、雪は降らないのだろうか。雪を見慣れたシウリンは、そんな風に思う。
粉雪がちらつく中、シウリンは立ち止まる。冬枯れの森の中で、ぽつんと常緑樹の大木があって、緑の葉が雪から守る木陰を作っている。
「少し、休憩しましょうか」
森を抜ければ、尼僧院まではあと少しだ。シウリン自身が休みたいというのもあったが、メルーシナに水分の補給をさせる必要があった。
シウリンはメルーシナを背中から降ろすと、下草が湿っていないことを確認してから、木の根元に腰を下ろした。メルーシナもその隣にチョコンと座った。
肩から腰に下げたずた袋から、残りの焼き菓子と、果汁水を取り出す。
「もう少しですから、頑張ってくださいね」
実際に歩いているのはシウリンだけだが、シウリンの言葉にメルーシナがこくんと頷く。果汁水を瓶から直接口をつけてラッパ飲みし、瓶をメルーシナに手渡す。彼女の手には大きく重い瓶を支え、飲むのを手伝ってやる。残りの焼き菓子を彼女に食べさせ、シウリンはほっと息をついた。
陽はすっかり落ちたが、まだ西には残照が残る。霊峰は、すでに黒い巨大な影となっている。早く森を抜けなければならないが、さすがのシウリンも歩き詰めでくたくただった。
「シウリンはずいぶんと汚い着物を着ているのね。大きくなったらわたしと〈ケッコン〉して、わたしの旦那様になるといいわ。そうしたら、シウリンはわたしのお母様の子供も同じになるのでしょう?お母様はきっと、シウリンにもたくさん、綺麗な着物を作ってくださるわ」
メルーシナはシウリンの腕にもたれかかって、シウリンの粗末な服を引っ張りながら言った。少女の無邪気な申し出に、シウリンは飲んでいた果汁水を噴き出しそうになって、思わず咽せる。〈ケッコン〉――その言葉に、シウリンの顔が赤くなる。ケッコン? 血痕じゃないよね? 結婚? 結婚って?
世俗の男女がするという結婚。陰(女)と陽(男)が結びつき、新しい生命を生み出す聖なる営み。陰陽の教えに導かれるこの世界において、結婚は人間の営みの中で、もっとも神聖なる意味を与えられて重視されていた。
愛し合う男女に天と陰陽が与える祝福、それが結婚だと、『聖典』には書かれている。大きくなって、メルーシナと愛し合って、天と陰陽の祝福を得られたら、それは素晴らしいことだろう。シウリンは頭がぼうっとなり、心臓が早鐘を打つ。
メルーシナの触れる部分から、シウリンの身体を熱い〈気〉がめぐる。これはきっと、彼女がシウリンの唯一無二だから。もし、シウリンが結婚するならば、それは彼女以外にはあり得ない。腕に纏いつく体温と、伝わる熱と〈気〉が、シウリンにそれを確信させた。
だが――。
「ありがとうございます。お申し出は大変ありがたいのですが、僕は僧侶ですので、一生誰とも結婚しません」
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