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16、まだ見ぬ地へ
シウリンの子
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始祖女王の結界を修復した日以来、アデライードの心にはどこか、ぽっかりと穴が開いてしまったようだった。ナキアに入城した頃には、腹部を見下ろせば銀色の〈王気〉を視認できたし、体内で別の魔力が蠢く感覚もあった。この胎内に新たな命が育っているのだと、アデライードは日々、感じ取ることができた。
シウリンの子――。
死んだと思っていた、シウリン。シウリンとの約束を破り、彼以外の男と結婚し、その人を愛してしまった。ずっと心のどこかで裏切りを恐れていた。約束を破った自分を、天と陰陽は許さないのではないかと――。
でもそれは杞憂だった。アデライードが愛したのは、やはりただ一人、シウリンだけ。
あの、へパルトスの神殿の跡地。あの泉の中で抱き合って、初めて、目の前の人が正真正銘のシウリンだと、アデライードの心に落ちた。
あの黄金色に輝く巨樹の下で、これ以上はないほど激しく愛されて。
《アデライード、いや、メルーシナ。僕はもう一度誓うよ。愛してる。君だけだ。もう絶対に、他の人に触れたりはしない。永遠に、君一人だけだ》
頭上に広がる金色の天蓋を、今でもアデライードは憶えている。
あの樹の下で、シウリンはアデライードに永遠の愛を誓った。
あの子は、その愛の証。何の証拠もないけれど、あの時にできた子だと、アデライードは確信していた。
もともと、銀の〈王気〉を纏って生まれ落ちるであろう我が娘に対して、アデライードは同情以上の気持ちなど抱くことはできないと思っていた。先祖代々連綿と続く、天と陰陽から負わされた重荷を、否応なく背負わされる可哀想な子。もし許されるのであれば、この身を清いままに保って、命を繋げることなく朽ち果ててしまいたいとさえ、思っていた。――あの日、彼に会うまでは。
妊娠を告げられて、銀の龍種の跡取りだからだとか、そんなことは関係なく、ただ、シウリンの子を宿したことが嬉しかった。悪阻が始まり、淡い〈王気〉も視認して、ようやく妊娠の実感を得てきたところだったのに――。
それは、失われてしまった。
メイローズによれば、西南の結界の柱を修復するために、どうしても足りない分の魔力を、小さな銀の龍が自ら補い消えたのだと――。
もっと自分に力があれば。あるいは、やり方によっては、失わずにすんだのではないか。そもそも、自分が女王でさえなければ――。
後悔が常に心を廻る。
仕方なかった、また戻ってきてくれると、シウリンは言うけれど、アデライードの心の穴は塞がらない。
無事に出産したアリナが、時々、申し訳なさそうな表情でアデライードを見る。その気遣いがわかるだけに、アデライードは早く、立ち直らなければならないと思う。
小さな赤子を目にするたびに、アデライードは自身を叱咤する。
しっかりしなければ。自分は女王で、魔物の害に遭ったこの国を立て直していかなければならないのだ。
形式とはいえ、即位後の謁見は重要な行事だ。
十五分刻みで入れ替わる諸侯たち。アデライードに好意的な者たちばかりではない。イフリート公爵の思想に共鳴していたり、〈禁苑〉に反発を抱いていたり。あるいは東の皇帝を夫に持つことを、女王に相応しくないと思う者もいる。何より、アデライード自身の儚くか弱い雰囲気に、こんな女に女王が務まるのか、と露骨な視線が突き刺さる。
如何にも頭の悪そうな雰囲気は、修道院で十年間、エイダの殺意を韜晦するために身に着けたものだ。賢くしっかりした外見だったら、今頃はもう、生きてこの世にいなかったかもしれない。だが女王として立つに当たっては、この〈白痴美〉と呼ばれる外見は、全くもって不向きだ。
女王とは名ばかりで、女性としての尊厳すら踏みにじられた母を、ナキアの貴族たちは見殺しにした。イフリート家の強大な力を恐れ、女王など傀儡であればいいのだろう。アデライードはいまだに、彼らを許すことができていない。アデライードとナキア貴族たちの間に横たわる溝はまだ、深い。
長い謁見にアデライードは疲労が溜まり、つい、溜息をつく。横から夫が言った。
「最後の組だ。あと少しだけ、頑張ってくれ」
足元に座る白い子獅子のジブリールが、甘えたようにアデライードの膝に擦り付けてくる、その頭をそっと撫でてやって、アデライードは姿勢を正す。
名を呼ばれた領主たち大広間に入場してくる。ルルド子爵、カルメオ伯爵、そして、ガルシア辺境伯――。
ガルシア辺境伯は、あのへパルトスの隣。女王の結界が最も大きく破れた場所だ。大きな被害を受けたはずなのに、領主がナキアまで出て来られるほどは回復したのだろうか。辺境伯の館には、シウリンがしばらく滞在していたはずだが――。
アデライードはそんなことを思いながら、何気なく、彼らを観察する。最後に入ってきた若い女性に、アデライードは違和感を覚える。太っているわけではないのに、お腹が……?
アデライードの翡翠色の瞳が見開かれ、心臓がドクンと大きく脈打つ。シウリンの肩に止まるエールライヒの、バサバサと落ち着きない羽ばたきの音が、妙に耳に入ってくる。
彼女の腰回り周辺をとりまく、うっすらと輝く金色の光。あり得ないものが、そこにあった。
亜麻色の髪をネットに入れ、残りは編んで垂らした、二十歳前と思われる女性。ワイン色の天鵞絨のマントの下から黒い長衣を覗かせ、胸高に締めた帯が緩やかに丸い腹部を強調していて、彼女が妊娠しているとはっきり示していた。アデライードの背後に控えていたメイローズが、息を飲んだ。
女はずっと、シウリンを見つめてまっすぐ歩いてくる。それから視線をずらし、アデライードを見た。
その青い目が、勝ち誇ったように輝き、唇がうっすらと弧を描いた。
シウリンの子――。
死んだと思っていた、シウリン。シウリンとの約束を破り、彼以外の男と結婚し、その人を愛してしまった。ずっと心のどこかで裏切りを恐れていた。約束を破った自分を、天と陰陽は許さないのではないかと――。
でもそれは杞憂だった。アデライードが愛したのは、やはりただ一人、シウリンだけ。
あの、へパルトスの神殿の跡地。あの泉の中で抱き合って、初めて、目の前の人が正真正銘のシウリンだと、アデライードの心に落ちた。
あの黄金色に輝く巨樹の下で、これ以上はないほど激しく愛されて。
《アデライード、いや、メルーシナ。僕はもう一度誓うよ。愛してる。君だけだ。もう絶対に、他の人に触れたりはしない。永遠に、君一人だけだ》
頭上に広がる金色の天蓋を、今でもアデライードは憶えている。
あの樹の下で、シウリンはアデライードに永遠の愛を誓った。
あの子は、その愛の証。何の証拠もないけれど、あの時にできた子だと、アデライードは確信していた。
もともと、銀の〈王気〉を纏って生まれ落ちるであろう我が娘に対して、アデライードは同情以上の気持ちなど抱くことはできないと思っていた。先祖代々連綿と続く、天と陰陽から負わされた重荷を、否応なく背負わされる可哀想な子。もし許されるのであれば、この身を清いままに保って、命を繋げることなく朽ち果ててしまいたいとさえ、思っていた。――あの日、彼に会うまでは。
妊娠を告げられて、銀の龍種の跡取りだからだとか、そんなことは関係なく、ただ、シウリンの子を宿したことが嬉しかった。悪阻が始まり、淡い〈王気〉も視認して、ようやく妊娠の実感を得てきたところだったのに――。
それは、失われてしまった。
メイローズによれば、西南の結界の柱を修復するために、どうしても足りない分の魔力を、小さな銀の龍が自ら補い消えたのだと――。
もっと自分に力があれば。あるいは、やり方によっては、失わずにすんだのではないか。そもそも、自分が女王でさえなければ――。
後悔が常に心を廻る。
仕方なかった、また戻ってきてくれると、シウリンは言うけれど、アデライードの心の穴は塞がらない。
無事に出産したアリナが、時々、申し訳なさそうな表情でアデライードを見る。その気遣いがわかるだけに、アデライードは早く、立ち直らなければならないと思う。
小さな赤子を目にするたびに、アデライードは自身を叱咤する。
しっかりしなければ。自分は女王で、魔物の害に遭ったこの国を立て直していかなければならないのだ。
形式とはいえ、即位後の謁見は重要な行事だ。
十五分刻みで入れ替わる諸侯たち。アデライードに好意的な者たちばかりではない。イフリート公爵の思想に共鳴していたり、〈禁苑〉に反発を抱いていたり。あるいは東の皇帝を夫に持つことを、女王に相応しくないと思う者もいる。何より、アデライード自身の儚くか弱い雰囲気に、こんな女に女王が務まるのか、と露骨な視線が突き刺さる。
如何にも頭の悪そうな雰囲気は、修道院で十年間、エイダの殺意を韜晦するために身に着けたものだ。賢くしっかりした外見だったら、今頃はもう、生きてこの世にいなかったかもしれない。だが女王として立つに当たっては、この〈白痴美〉と呼ばれる外見は、全くもって不向きだ。
女王とは名ばかりで、女性としての尊厳すら踏みにじられた母を、ナキアの貴族たちは見殺しにした。イフリート家の強大な力を恐れ、女王など傀儡であればいいのだろう。アデライードはいまだに、彼らを許すことができていない。アデライードとナキア貴族たちの間に横たわる溝はまだ、深い。
長い謁見にアデライードは疲労が溜まり、つい、溜息をつく。横から夫が言った。
「最後の組だ。あと少しだけ、頑張ってくれ」
足元に座る白い子獅子のジブリールが、甘えたようにアデライードの膝に擦り付けてくる、その頭をそっと撫でてやって、アデライードは姿勢を正す。
名を呼ばれた領主たち大広間に入場してくる。ルルド子爵、カルメオ伯爵、そして、ガルシア辺境伯――。
ガルシア辺境伯は、あのへパルトスの隣。女王の結界が最も大きく破れた場所だ。大きな被害を受けたはずなのに、領主がナキアまで出て来られるほどは回復したのだろうか。辺境伯の館には、シウリンがしばらく滞在していたはずだが――。
アデライードはそんなことを思いながら、何気なく、彼らを観察する。最後に入ってきた若い女性に、アデライードは違和感を覚える。太っているわけではないのに、お腹が……?
アデライードの翡翠色の瞳が見開かれ、心臓がドクンと大きく脈打つ。シウリンの肩に止まるエールライヒの、バサバサと落ち着きない羽ばたきの音が、妙に耳に入ってくる。
彼女の腰回り周辺をとりまく、うっすらと輝く金色の光。あり得ないものが、そこにあった。
亜麻色の髪をネットに入れ、残りは編んで垂らした、二十歳前と思われる女性。ワイン色の天鵞絨のマントの下から黒い長衣を覗かせ、胸高に締めた帯が緩やかに丸い腹部を強調していて、彼女が妊娠しているとはっきり示していた。アデライードの背後に控えていたメイローズが、息を飲んだ。
女はずっと、シウリンを見つめてまっすぐ歩いてくる。それから視線をずらし、アデライードを見た。
その青い目が、勝ち誇ったように輝き、唇がうっすらと弧を描いた。
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