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14、薤露

逡巡

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「シリル、メイローズが呼んでるぜ。一度戻って、ジブリールの世話をしないとって」

 顔を覗かせたゾラに声をかけられ、眠るアルベラを食い入るように見つめていたシリルが、はっとする。シリルはゾラの素行の悪さも知っているから、当然、その場を離れるのを渋った。だが、ゾラが耳元で囁く。

「ジブリールの世話もちゃんとしないと、追い出されるぞ?」
「……わかったよ。アルベラにひどいことしないでよね?」
「メイローズが扉の外にいる。大丈夫だ」

 シリルはその言葉に観念して、立ち上がる。

「ちょっとだけ抜けるけど、すぐ、戻るから」
「ああ、わかった。あと、ついでにメシも食っとけよ」

 シリルが去ると、ゾラはアルベラの寝台に腰を下ろす。さて――どうしたものか。
 あるじからはとんでもない命令が下されてしまった。確かに、自分でも適材適所だとは思う。そういや、主が西の貴族の令嬢と結婚したくないからって、処女を奪っておけとか、滅茶苦茶な命令も受けたことがあった。結局実行はしないで済んだけれど、あの時は別に何とも思わなかったのに、今回はどうにも心がざわついている。

 嬢ちゃんを抱きたくないわけじゃ、ないんだけどよ――。

 やや赤味がかった金色の睫毛を伏せて眠るアルベラは、男装の名残で髪が短い以外は、文句のない美少女だ。旅の間に日に焼けてしまった肌もすっかり元の白さを取り戻し、小ぶりの唇はわずかに開いて、花の蕾のように初々しい。旅の途中はゾーイの目が光っていて、不埒な眼差しなど向けられなかったけれど、ほっそりした華奢な体つきながら、実は出るとこはしっかり出ているのも、ゾラは持ち前の鑑識眼でちゃんと確認済みだった。

 二十歳という年齢からすれば、少々、子供っぽい。でも大事に大事に育てられて、純情で素直でまっすぐで――。清い水の中を泳ぐ魚のような清廉さと気高さと。世界の半ばを担ってきた女王家の、正統な血筋を継いでいるという、高い矜持。折れない誇り。
 
 ――まあ、一言で言っちまうと、俺にみたいなクズには、勿体ないお化けが出るくらいの上玉だな。
 
 もともと、ゾラは「お姫様」と呼ばれる女たちは、好きではない。上品すぎて疲れるし、ゾラの汚い言葉遣いに眉を顰められたりして、「けっ」と思うことも多い。高価で綺麗な衣装を着ても、脱がせば身体は娼婦と同じ、男に組み敷かれてアンアン言うだけの、ただの女だ。多少は金をかけて磨き上げられているかもしれないが、肌一枚の下は醜い内臓が詰まってる、肉塊に過ぎない。先祖代々の家柄と金のおかげで威張っている女たちよりも、自分の身体を張って、男を喜ばせて金を稼いている娼婦たちの方が、ゾラは立派だと思っていた。少なくとも自分の足でたち、自分の金で生きているじゃねぇか――。

 その血筋故に、否応なく、とんでもない大きなものを背負わされている「お姫様」もいると、アデライードに仕えて初めて知った。目を瞠るほど美しいが、大きな人形のような中身のない女だと、初めは思った。なんでこんな女にあの主が夢中になるのか、正直言って、ゾラはさっぱりわからなかった。だが、身近に接するうちにゾラは気づいた。アデライードの空虚さは、偽装フェイクだと。

 中身のないうつろさを装わねば、彼女は生き抜くことが出来なかった。年端のゆかぬ少女が人形のような空虚さの鎧を纏うまでに、どれほどの孤独があったのか。ゾラはアデライードをそこまで追い込んだイフリート家をもちろん憎んだし、アデライードの本質に気づいていたらしい主の慧眼にも、痺れた。……憧れはしないが。

 それ故に、ナキアで潜り込んだ仮面舞踏会で、初めて会ったアルベラらしき少女の天真爛漫さは、ある種の衝撃を受けた。
 素直で物知らずで、怖い者知らずで。愛されて守られて生きてきたのだと、一目見てわかった。誰一人守ってくれる者もなかったアデライードの孤独な十年と引き比べ、あまりの落差にやりきれない気持ちになった。アデライードの幸福を、アルベラが盗んだわけではない。だが、本来ならばどちらも幸福であるべき従姉妹どうしの二人の十年、明暗がここまで分かれていたなんて。

 だが〈聖婚〉をきっかけに、コインの裏と表のように、二人の幸不幸は逆転する。

 真実の女王となるべく夫に守られたアデライードと、偽りの女王として父親に利用されるアルベラと。その中で、女王家の生まれに高い矜持を持つアルベラは、父の傀儡かいらいに甘んずるのを潔しとせず、絶望的な逃避行に打って出た。テセウスとともに――。

 ゾラはアルベラとテセウスがどの程度の仲だったのか、実のところは知らない。テセウスはアルベラを愛していただろうが、さて、アルベラの気持ちはどうだったのか。

 貴種でないテセウスが、王女の婿に収まるのは絶望的だ。結ばれるはずもない王女に恋した護衛官が、その気持ちを軽々しく口にしたとは思えない。ゾラは秘めた恋なんていう、高尚な経験はないが、好きな女を常に身近に守りながら、いずれその女が別の男の者になるのを、指を咥えて見ているしかできないなんて、地獄だろうと思う。抑圧され続けた恋心が、テセウスを無謀な逃避行へと駆り立てたのか。

 「嬢ちゃんは、テセウスのことを、男として好きだったのか――?」

 眠るアルベラを上から覗き込んで、ゾラはぽつりと呟く。
 西の森でこと切れた、自分にそっくりな男。家宝を持ち出して砂金に換え、軍隊から逃亡するという禁忌を犯し、生涯の何もかもを擲って王女を守ろうとし、力及ばずたおれた。文字通りの命懸けの恋だった。自らの命が消える間際に、藁をも掴むように、行きずりの男に恋人を託すしかなかったテセウスの絶望は、いかばかりだったろうか。

 おそらく、あの男はアルベラに指一本触れていないだろう。死の直前に、気持ちを打ち明けられたらしいのが、せめてもの救いか。

 ゾラはアルベラの白い頬を指で撫で、柔らかな唇に指先で触れる。

(……せめて、キスぐらいはしてんだろうな、テセウスさんよ……)

 なぜアルベラを抱くことに逡巡しゅんじゅんしているのか、ゾラは理解した。
 自分に瓜二つだったテセウスが、命懸けで愛し、そしておそらく触れることもできなかった女を、ただそっくりだと言うだけで、テセウスでもない彼が抱いていいのか。

 アルベラを、愛していないわけじゃない。でも、自らのすべてを捧げ尽くしたテセウスの想いには、絶対に敵わないと言い切れる。
 
 テセウスが、彼と同じ顔でなければ、ここまで迷わなかったかもしれない。滅多にない美眉かわいこちゃんを美味しくいただける絶好の機会くらいに、思っていただろう。

 ――所詮俺は、クズだからな。

 シルルッサの手前でアルベラと別れてから、アルベラの身に何が起きたのか。淫祀の犠牲にされてしまったかもしれない。そうでなくとも、イフリート家の血を引くアルベラの扱いは難しい。ここでアルベラの精脈を絶つのは、魔族に対しては厳しい処断を以って臨むとの、表明でもある。避けて通ることはできないのだ。

 ならせめて、顔だけでもテセウスに似た俺が、というのは言い訳に過ぎないけれど――。

 ゾラは大きな手でアルベラの額を撫で、眠る彼女に覆いかぶさるようにして、唇を塞いだ。少し開いていた唇をこじ開けるようにして、舌を差し込む。

「ん……」

 アルベラが、微かに身じろぎした。掌で髪を撫でながら、角度を変えてさらに深く口づけ、舌で口腔を貪る。

「んんん……」

 息苦しさにアルベラが首を振り、口づけから逃れようとし、薄眼を開けた。

「なに……あ……テセウス?」

 まだ完全に醒め切らず、ぼんやりとした口調で呼ばれた名に、失望する。――やっぱり、そっちかよ。

「……テセウスの方がいいなら、テセウスのフリしてやるけど、どうする?」
「え……ええっと……ゾラ?!」
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