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14、薤露
薤露
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ゾーイとゾラが率いる東の騎士たちは、ナキアの西の森に直行し、泉神殿を包囲した。その頃にはもう陽は落ちて、西の地平近くだけが残照で薄明るい。空は夜の訪れを告げるように深い深い青が広がり、石造りの神殿を覆い尽くしていく。
〈生死に関わらず、アルベラを確保せよ――〉
それが皇帝の命。アルベラはイフリート家と、前々女王アライアの血を引く王女。たとえ〈王気〉がなくとも、東の支配を嫌う者たちの、旗頭に担ぎ出される恐れがある。
死んだなら死んだ、という確たる証拠だけは手に入れなければならない。
ゾラはふと、腰に挿しているテセウスの短剣に手を触れ、深い青色の空に輝く痩せた月を見上げた。
これを、返す機会があるのだろうか。もし返したとしたら――。
《死ぬなよ! テセウスとの約束だぜ!》
あの約束が、アルベラを縛る枷になっているかもしれない。ゾラが闇の中に黒々と聳える神殿を見上げた時、伝令が走り込んできた。
「神殿から、火が――内部で、火を放ったようです!」
立てこもる者たちが火を放ったのをきっかけに、東の包囲軍は突入を決めた。堅牢な鉄の門を破城槌で破壊し、一斉に乱入する。それでも術者や〈黒影〉の残党の存在を警戒しつつ、神殿の強固な鉄の鋲が打たれた扉を壊し、内部に踏み込む。
「歯向かう者は斬れ!女子供と雖も容赦はするな!」
月神殿で魔物憑きの戦士との死闘を経験し、魔を宿す一族の危険性を思い知らされたゾーイは、魔族の血脈は断たねばならないと決意を新たにしていた。ゾーイは周囲の者たちに向け、声を張り上げる。
「油断するな!集団で行動しろ!――踏み込むぞ!」
「「「応!」」」
奥から漂ってくる煙臭さを堪え、廊下の扉を蹴破る。――地下に続く階段から、もうもうと煙が這い上がってきていた。
アルベラを探してやみくもに走り回っていたゾラが、絶望に囚われそうになって、もう一度三日月を見上げる。
どこに行っても死体ばかりだった。毒を呷り、折り重なるように倒れた女たち。祈りの姿勢のまま眠るように死んでいる、年老いた神官たち。つましい暮らしを示す、織りかけの絨毯、紡ぎ車、菜園――。
たとえ異なる神であっても、それを崇め、祈り、清貧の暮らしを貫くことに、何の違いがあるのか。
なぜその一方で、魔に魅入られ、邪悪を引き入れ、調和を乱そうとしたのか。いったい、神のために何を捧げて生きてきたのか。
――不信心が服を着たようなゾラには、理解のできないことばかりだった。
神を奪われたら生きていけないなら、もはや死ぬしか道は残されてはいないだろう。
でも、アルベラはそんなタイプじゃない。何より彼女は、天と陰陽の徒だ。泉神に殉じて死を選ぶ理由がない。絶対に、生きようとしているはずだ――。
小さな、さびれた門に来た時、ゾラはある気配に神経を尖らせる。――これは。
腰の剣に手をかけて、注意深く振り返る。そこにいたのは、赤い髪をした若い男。黒いフードつきの外套に包まれた、小柄な人物を横抱きにしている。
ゆっくりと、露の下りた草を踏みしめて、男がゾラの方に近づいてくる。その足取りには、全く、迷いがなかった。
振り返ったゾラと目が合い、男が嬉しそうに微笑んだ。細身の身体に端正な顔だち。どちらかというとひ弱な印象すらある若い男。男が弾んだ声で言った。
「テセウス!来てくれたんだね!」
テセウス、と呼ばれるのは、この国に来て何度目か。いい加減うんざりする。だが男は構わずに、ゾラのほうにズカズカと歩いてくる。少し息が荒いのは、おそらく、小柄とはいえ人間一人を運ぶのは、この男にしては重労働だからだろう。
ゾラが何も言えずに立って見つめていると、男は至近距離まできて、腕の中の人物をゾラに託そうとしてくる。反射的に受け取って、その時、黒い外套のフードが外れた。月明りの下で、見覚えのある髪色が露わになる。――明るいところで見れば、金髪のような、ピンク色のような、東の人間には上手く形容できない、不思議な色。
「――アルベラ」
思わず口走るゾラに腕の中の重荷を預けて、赤い髪の男がホッと息をついて、言った。
「君なら、必ず来てくれると思っていたよ、テセウス。――あの時と、二度目だね? 妹を――アルベラを、頼む、テセウス。アルベラを幸せにしてやれるのは、やっぱり君だけだよ」
俺はテセウスじゃねぇ――喉元まで出かかる声を飲み込む。
妹。――アルベラの、異母兄。ギュスターブじゃなくて、何と言ったか。ええっとええっと――。
ああもう!肝心な時に思い出せねぇ!
「僕はもう無理だ。僕の魔力では、火蜥蜴の神体を飼うには足りなくて、そろそろ限界なんだ。だから――」
松明の薄灯りの下で、ゾラは見た。男の薄青の瞳が揺らめくのを。端麗な顔のすぐ下、マントの下から覗く首筋が、爛れていた。
「じゃあ、頼んだよ……テセウス」
男はそう言うとくるりと踵を返して、神殿の方に戻って行こうとする。
「アンタ……じゃなくて、あなたは、どうされるのです?」
注意深く、テセウスっぽいとゾラが勝手に想像した喋り方で問いかければ、男は足を止め、振り向いた。質問には答えず、まっすぐにゾラを見て、言った。
「ねえ――アルベラを、愛してる?」
「え?……あ……ええ」
その答えに、男がホッとしたように微笑んだのがわかる。
「そう……僕も、愛してた。幸せにしてあげて。……さようなら、テセウス。そしてアルベラ」
男は、しばらくの間、万感の思いを込めるようにアルベラを見つめ、それから、踵を返した。
足元の草が男の靴によって踏まれて、草の露が飛び散った。
薤上の露、何ぞ晞き易き。
露 晞けば明朝還た復た落つ。
人死して一たび去らば、何れの時にか帰らん。
――ニラの葉に落ちる露は、どうして儚く乾いてしまうのか。
露は消えても翌朝にはまた降りる。
しかし人は一度死んでしまえば、もう二度と戻らない。
〈生死に関わらず、アルベラを確保せよ――〉
それが皇帝の命。アルベラはイフリート家と、前々女王アライアの血を引く王女。たとえ〈王気〉がなくとも、東の支配を嫌う者たちの、旗頭に担ぎ出される恐れがある。
死んだなら死んだ、という確たる証拠だけは手に入れなければならない。
ゾラはふと、腰に挿しているテセウスの短剣に手を触れ、深い青色の空に輝く痩せた月を見上げた。
これを、返す機会があるのだろうか。もし返したとしたら――。
《死ぬなよ! テセウスとの約束だぜ!》
あの約束が、アルベラを縛る枷になっているかもしれない。ゾラが闇の中に黒々と聳える神殿を見上げた時、伝令が走り込んできた。
「神殿から、火が――内部で、火を放ったようです!」
立てこもる者たちが火を放ったのをきっかけに、東の包囲軍は突入を決めた。堅牢な鉄の門を破城槌で破壊し、一斉に乱入する。それでも術者や〈黒影〉の残党の存在を警戒しつつ、神殿の強固な鉄の鋲が打たれた扉を壊し、内部に踏み込む。
「歯向かう者は斬れ!女子供と雖も容赦はするな!」
月神殿で魔物憑きの戦士との死闘を経験し、魔を宿す一族の危険性を思い知らされたゾーイは、魔族の血脈は断たねばならないと決意を新たにしていた。ゾーイは周囲の者たちに向け、声を張り上げる。
「油断するな!集団で行動しろ!――踏み込むぞ!」
「「「応!」」」
奥から漂ってくる煙臭さを堪え、廊下の扉を蹴破る。――地下に続く階段から、もうもうと煙が這い上がってきていた。
アルベラを探してやみくもに走り回っていたゾラが、絶望に囚われそうになって、もう一度三日月を見上げる。
どこに行っても死体ばかりだった。毒を呷り、折り重なるように倒れた女たち。祈りの姿勢のまま眠るように死んでいる、年老いた神官たち。つましい暮らしを示す、織りかけの絨毯、紡ぎ車、菜園――。
たとえ異なる神であっても、それを崇め、祈り、清貧の暮らしを貫くことに、何の違いがあるのか。
なぜその一方で、魔に魅入られ、邪悪を引き入れ、調和を乱そうとしたのか。いったい、神のために何を捧げて生きてきたのか。
――不信心が服を着たようなゾラには、理解のできないことばかりだった。
神を奪われたら生きていけないなら、もはや死ぬしか道は残されてはいないだろう。
でも、アルベラはそんなタイプじゃない。何より彼女は、天と陰陽の徒だ。泉神に殉じて死を選ぶ理由がない。絶対に、生きようとしているはずだ――。
小さな、さびれた門に来た時、ゾラはある気配に神経を尖らせる。――これは。
腰の剣に手をかけて、注意深く振り返る。そこにいたのは、赤い髪をした若い男。黒いフードつきの外套に包まれた、小柄な人物を横抱きにしている。
ゆっくりと、露の下りた草を踏みしめて、男がゾラの方に近づいてくる。その足取りには、全く、迷いがなかった。
振り返ったゾラと目が合い、男が嬉しそうに微笑んだ。細身の身体に端正な顔だち。どちらかというとひ弱な印象すらある若い男。男が弾んだ声で言った。
「テセウス!来てくれたんだね!」
テセウス、と呼ばれるのは、この国に来て何度目か。いい加減うんざりする。だが男は構わずに、ゾラのほうにズカズカと歩いてくる。少し息が荒いのは、おそらく、小柄とはいえ人間一人を運ぶのは、この男にしては重労働だからだろう。
ゾラが何も言えずに立って見つめていると、男は至近距離まできて、腕の中の人物をゾラに託そうとしてくる。反射的に受け取って、その時、黒い外套のフードが外れた。月明りの下で、見覚えのある髪色が露わになる。――明るいところで見れば、金髪のような、ピンク色のような、東の人間には上手く形容できない、不思議な色。
「――アルベラ」
思わず口走るゾラに腕の中の重荷を預けて、赤い髪の男がホッと息をついて、言った。
「君なら、必ず来てくれると思っていたよ、テセウス。――あの時と、二度目だね? 妹を――アルベラを、頼む、テセウス。アルベラを幸せにしてやれるのは、やっぱり君だけだよ」
俺はテセウスじゃねぇ――喉元まで出かかる声を飲み込む。
妹。――アルベラの、異母兄。ギュスターブじゃなくて、何と言ったか。ええっとええっと――。
ああもう!肝心な時に思い出せねぇ!
「僕はもう無理だ。僕の魔力では、火蜥蜴の神体を飼うには足りなくて、そろそろ限界なんだ。だから――」
松明の薄灯りの下で、ゾラは見た。男の薄青の瞳が揺らめくのを。端麗な顔のすぐ下、マントの下から覗く首筋が、爛れていた。
「じゃあ、頼んだよ……テセウス」
男はそう言うとくるりと踵を返して、神殿の方に戻って行こうとする。
「アンタ……じゃなくて、あなたは、どうされるのです?」
注意深く、テセウスっぽいとゾラが勝手に想像した喋り方で問いかければ、男は足を止め、振り向いた。質問には答えず、まっすぐにゾラを見て、言った。
「ねえ――アルベラを、愛してる?」
「え?……あ……ええ」
その答えに、男がホッとしたように微笑んだのがわかる。
「そう……僕も、愛してた。幸せにしてあげて。……さようなら、テセウス。そしてアルベラ」
男は、しばらくの間、万感の思いを込めるようにアルベラを見つめ、それから、踵を返した。
足元の草が男の靴によって踏まれて、草の露が飛び散った。
薤上の露、何ぞ晞き易き。
露 晞けば明朝還た復た落つ。
人死して一たび去らば、何れの時にか帰らん。
――ニラの葉に落ちる露は、どうして儚く乾いてしまうのか。
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