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8、暁闇
シルルッサ
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シルルッサの領主カリストの夫人であるミリアムは、生後半年ほどになる娘ルイーズを抱いてアデライードを出迎えた。ユリウスと同じ、ダークブロンドにやや濃い目の翠色の瞳を輝かせ、アデライードに近づいて軽く頬に口づけする。アデライードも口づけを返し、姉の腕の中で眠るルイーズの頬にそっと触れた。
ミリアムがアデライードの耳元で、小声で囁く。
「よく来てくれたわ、アデライード!……体調がよくないって、もしかして、おめでたなの?」
「お姉さま……お久しぶりです。……その、まだ、公表できる時期ではなくて。突然にご迷惑をおかけして心苦しいのですが」
アデライードが金色の睫毛を伏せると、ミリアムが心得たように頷く。
「わかったわ。……ただの療養ってことにしておくわ」
帝都の叛乱は収束したとはいえ、情勢はまだ不安だ。恭親王が不在の今、アデライードの懐妊を公(おおやけ)にすべきではないと、ミリアムも納得する。
アデライードの疲労を考慮して、まっすぐ、滞在用に整えられた居間に向かう。そこには領主カリストの他の夫人二人と、カリストの妹たち、主だった家臣の妻などが待っていた。以前、恭親王と数日訪れた時は、アデライードは港に近い別邸に泊まったので、彼女たちとは挨拶を交わしていなかった。こうした社交はアデライードには最も苦手とするところだが、ここでまとめて挨拶さえ済ませておけば、あとは療養ということで、来客をシャットアウトできるから、と姉には言い含められる。
アデライードの居間は噴水のある中庭に直接つながる、半ばテラスのようになっていた。赤茶色の素焼きタイル張りの上に、精緻な模様を織り込んだ絨毯を敷きつめ、クッションや円座を配して床に座り、低いテーブルや小さな脚付きの盆などを用いる。
だいたい西方は、もともとは絨毯を敷いて床に直接座る文化であった。そこへ東方の椅子に座る文化が入ってきて、ソリスティアやナキアといった都会はすっかり椅子が定着しているのだが、田舎は家長や上位のものだけが椅子に座り、他は床に座るという、折衷式の方式になっている。――一つには、椅子が高価であること、そして、床に座る方が人数に制限がなくて、女や子供が大勢入り乱れる、西の文化には適していることがある。ゆえにその部屋も、アデライードとマニ僧都の分は椅子が用意されているが、他の女たちは皆、床に座るという、東方人のアリナには些か面妖な状況になっていた。
女たちはお腹の目だってきたアリナに気づいて、慌ててもう一つ、布張りの椅子を準備させる。こちらでも、妊婦は椅子の方が便利であった。
席についたところで、カリストの妻二人が立ち上がってアデライードに拝礼する。それを鷹揚に制して、アデライードが歓迎に対して礼を述べる。
「お聞き及びでしょうが、現在、ソリスティアには聖地に向かう巡礼者が殺到していて、大変、落ち着かない状態なのです。それで、お姉さまのところにご厄介になることにいたしました。ご迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
巡礼者たちはシルルッサの港も通過しているから、彼女たちも当然、事情は知っている。
「総督閣下は帝都で療養中とのことですが、……ご心配でございますね?」
少し年嵩の、近隣の村の領主の妻だという女の問いかけは、心配していると見せかけて、実際は探るような雰囲気があった。アデライードは困ったように少しだけ、眉尻を下げる。
「殿下の現状については、政治的な理由で申し上げることができないのです」
「その……イフリート公爵が言ったような、贋物だとかの件は――」
「それは全く根拠のないことです。殿下は陰陽宮から聖剣を授けられています。贋の皇子に天と陰陽が聖剣を授けるわけがありません」
ピシャリと断言するアデライードに、周囲の女たちはザワザワと顔を見合わせる。マニ僧都が手を上げて言った。
「有り体に言えば、殿下は帝都の叛乱の際に手傷を負われたのだ。その叛乱はイフリート家が引き起こしたもの。叛乱によって皇帝は弑殺され、陰陽の和が乱れ、結界が弾けた。イフリート公爵は、自身の罪を殿下になすりつけているだけだ。殿下がソリスティアに帰還なさった暁には、これまでの事情を明らかにし、イフリート公爵の罪を糾弾することができようが、現在まだ殿下は万全ではない。それ故に、しばらく身を隠しておられるのだ」
女たちを代表するように、先ほどの領主夫人がなおも尋ねる。
「では、今回の辺境の魔物の発生が、〈聖婚〉の失敗によるものだとの噂は……」
その発言に対し、滅多に表情を動かすことのないアデライードが、微かに眉を不愉快げに顰めた。ビリリと周囲を電流のような〈気〉が走り、その場の空気が緊張を孕む――〈王気〉の視える者には、アデライードを取り巻く銀色の光が、赤く怒りの感情を含むのが、はっきりと視えた。
「わたしと殿下の結婚は、天と陰陽の祝福を受け、聖なるプルミンテルンの御許にて誓われた神聖なもの。それを愚弄するなど、天と陰陽に対する冒瀆です。――そもそも、イフリート公爵は自身、泉神を信奉するなどと公言しているそうではありませんか。そんな人の言葉に惑わされ、天と陰陽を疑うなど、愚かなことです」
「申し訳ございません。お耳汚しでございました」
叱責された年嵩の女は、アデライードの怒りの〈気〉に直接当てられて立っていることもできず、床に頽れるように両手をつき、震えながら頭を下げた。アデライードは女を見下ろしてさらに言う。
「ナキアの元老院は、どうした理由なのか、女王の結界の存在について隠していました。代々の女王は即位の度に始祖女王の結界に〈王気〉を注いで認証し、女王の魔力と同期して結界を守ってきたのです。イフリート公爵は当然、その事実を知っていたはずなのに、〈王気〉を持たないアルベラ姫の即位にこだわり、わたしの即位を認めなかった。結果として、女王の結界は二年も放置されてきた。結界の破壊の原因はそれ以外にない。にもかかわらず殿下に濡れ衣を被せて。……浅ましいこと」
アデライードの言葉を受けて、マニ僧都も梔子色の袈裟を翻して力説した。
「〈聖婚〉は陰陽調和の根源。それを愚弄することは〈禁苑〉及び天と陰陽に対する最大の冒瀆と心得よ。天と陰陽の怒りを買い、〈混沌の闇〉に堕ちたくなければ、今後、迂闊なことは口にせぬことだ」
女たちは、ただ美しく儚いだけと思っていた王女が、ただ人ならぬ力を持つことを、改めて認識し、口を噤むしかなかった。
ミリアムがアデライードの耳元で、小声で囁く。
「よく来てくれたわ、アデライード!……体調がよくないって、もしかして、おめでたなの?」
「お姉さま……お久しぶりです。……その、まだ、公表できる時期ではなくて。突然にご迷惑をおかけして心苦しいのですが」
アデライードが金色の睫毛を伏せると、ミリアムが心得たように頷く。
「わかったわ。……ただの療養ってことにしておくわ」
帝都の叛乱は収束したとはいえ、情勢はまだ不安だ。恭親王が不在の今、アデライードの懐妊を公(おおやけ)にすべきではないと、ミリアムも納得する。
アデライードの疲労を考慮して、まっすぐ、滞在用に整えられた居間に向かう。そこには領主カリストの他の夫人二人と、カリストの妹たち、主だった家臣の妻などが待っていた。以前、恭親王と数日訪れた時は、アデライードは港に近い別邸に泊まったので、彼女たちとは挨拶を交わしていなかった。こうした社交はアデライードには最も苦手とするところだが、ここでまとめて挨拶さえ済ませておけば、あとは療養ということで、来客をシャットアウトできるから、と姉には言い含められる。
アデライードの居間は噴水のある中庭に直接つながる、半ばテラスのようになっていた。赤茶色の素焼きタイル張りの上に、精緻な模様を織り込んだ絨毯を敷きつめ、クッションや円座を配して床に座り、低いテーブルや小さな脚付きの盆などを用いる。
だいたい西方は、もともとは絨毯を敷いて床に直接座る文化であった。そこへ東方の椅子に座る文化が入ってきて、ソリスティアやナキアといった都会はすっかり椅子が定着しているのだが、田舎は家長や上位のものだけが椅子に座り、他は床に座るという、折衷式の方式になっている。――一つには、椅子が高価であること、そして、床に座る方が人数に制限がなくて、女や子供が大勢入り乱れる、西の文化には適していることがある。ゆえにその部屋も、アデライードとマニ僧都の分は椅子が用意されているが、他の女たちは皆、床に座るという、東方人のアリナには些か面妖な状況になっていた。
女たちはお腹の目だってきたアリナに気づいて、慌ててもう一つ、布張りの椅子を準備させる。こちらでも、妊婦は椅子の方が便利であった。
席についたところで、カリストの妻二人が立ち上がってアデライードに拝礼する。それを鷹揚に制して、アデライードが歓迎に対して礼を述べる。
「お聞き及びでしょうが、現在、ソリスティアには聖地に向かう巡礼者が殺到していて、大変、落ち着かない状態なのです。それで、お姉さまのところにご厄介になることにいたしました。ご迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
巡礼者たちはシルルッサの港も通過しているから、彼女たちも当然、事情は知っている。
「総督閣下は帝都で療養中とのことですが、……ご心配でございますね?」
少し年嵩の、近隣の村の領主の妻だという女の問いかけは、心配していると見せかけて、実際は探るような雰囲気があった。アデライードは困ったように少しだけ、眉尻を下げる。
「殿下の現状については、政治的な理由で申し上げることができないのです」
「その……イフリート公爵が言ったような、贋物だとかの件は――」
「それは全く根拠のないことです。殿下は陰陽宮から聖剣を授けられています。贋の皇子に天と陰陽が聖剣を授けるわけがありません」
ピシャリと断言するアデライードに、周囲の女たちはザワザワと顔を見合わせる。マニ僧都が手を上げて言った。
「有り体に言えば、殿下は帝都の叛乱の際に手傷を負われたのだ。その叛乱はイフリート家が引き起こしたもの。叛乱によって皇帝は弑殺され、陰陽の和が乱れ、結界が弾けた。イフリート公爵は、自身の罪を殿下になすりつけているだけだ。殿下がソリスティアに帰還なさった暁には、これまでの事情を明らかにし、イフリート公爵の罪を糾弾することができようが、現在まだ殿下は万全ではない。それ故に、しばらく身を隠しておられるのだ」
女たちを代表するように、先ほどの領主夫人がなおも尋ねる。
「では、今回の辺境の魔物の発生が、〈聖婚〉の失敗によるものだとの噂は……」
その発言に対し、滅多に表情を動かすことのないアデライードが、微かに眉を不愉快げに顰めた。ビリリと周囲を電流のような〈気〉が走り、その場の空気が緊張を孕む――〈王気〉の視える者には、アデライードを取り巻く銀色の光が、赤く怒りの感情を含むのが、はっきりと視えた。
「わたしと殿下の結婚は、天と陰陽の祝福を受け、聖なるプルミンテルンの御許にて誓われた神聖なもの。それを愚弄するなど、天と陰陽に対する冒瀆です。――そもそも、イフリート公爵は自身、泉神を信奉するなどと公言しているそうではありませんか。そんな人の言葉に惑わされ、天と陰陽を疑うなど、愚かなことです」
「申し訳ございません。お耳汚しでございました」
叱責された年嵩の女は、アデライードの怒りの〈気〉に直接当てられて立っていることもできず、床に頽れるように両手をつき、震えながら頭を下げた。アデライードは女を見下ろしてさらに言う。
「ナキアの元老院は、どうした理由なのか、女王の結界の存在について隠していました。代々の女王は即位の度に始祖女王の結界に〈王気〉を注いで認証し、女王の魔力と同期して結界を守ってきたのです。イフリート公爵は当然、その事実を知っていたはずなのに、〈王気〉を持たないアルベラ姫の即位にこだわり、わたしの即位を認めなかった。結果として、女王の結界は二年も放置されてきた。結界の破壊の原因はそれ以外にない。にもかかわらず殿下に濡れ衣を被せて。……浅ましいこと」
アデライードの言葉を受けて、マニ僧都も梔子色の袈裟を翻して力説した。
「〈聖婚〉は陰陽調和の根源。それを愚弄することは〈禁苑〉及び天と陰陽に対する最大の冒瀆と心得よ。天と陰陽の怒りを買い、〈混沌の闇〉に堕ちたくなければ、今後、迂闊なことは口にせぬことだ」
女たちは、ただ美しく儚いだけと思っていた王女が、ただ人ならぬ力を持つことを、改めて認識し、口を噤むしかなかった。
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