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6、〈混沌〉
空白の十年
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「森の向こうの尼僧院に手伝いに行っているとかで、ずいぶん、待たされました。門限を過ぎても帰らず……ようやく帰ってきた殿下を見たときは驚きました。初雪が降るような日に薄い木綿の僧衣とボロボロの毛織の布を羽織るだけで、足元は素足に藁草履で……どうして皇子がこんなことにと……俺は……」
ゲルが耐えきれなくなったように顔を手で覆う。横で立っていたメイローズも、その日のことを思い出したのか、辛そうに眉を歪めている。
アデライードが膝の上で、両手で長衣を握りしめる。
間違いない。あの日、アデライードが森の中でシウリンと出会ったその日。
門限を過ぎて漸く戻ってきた〈シウリン〉を、デュクトとゲルは有無を言わさず馬車に乗せ、事情も説明せずに太陽神殿から再び転移門で帝都に移動した。
「デュクトは厳格でした。〈シウリン〉は友人にも、誰にも別れの挨拶さえできず、また彼が持っていたわずかな私物も全て焼き捨ててしまった。剃りあげた頭は帽子で隠し、ユエリン皇子は目を覚ましたが、記憶を失っていると言って誤魔化した」
「でも――〈シウリン〉は神器を……あの日、シウリンの帰りが遅くなったのは、森の中で迷子の女の子を拾って、尼僧院に送り届けていたからです。――それが、わたしです。エイダに追われて森の中で道に迷い、雪まで降ってきて……もし、彼に会わなければわたしは死んでいました」
ゲルが、黒い瞳を最大限に見開く。
「本当ですか――!」
「その時、わたしは彼に、母から預かった神器の指輪を渡したのです。――エイダがあれだけ捜して、見つからないはずです。神器は、帝都にあったのですから」」
「信じられない――」
茫然とアデライードを見上げているゲルに、メイローズが言った。
「わが主は、何か小さなものをずっと、握りしめて守っておられました。デュクトに見つかれば取り上げられると恐れたのでしょうね。私が小さな巾着袋をお渡ししたら、それに入れて、下着の下に隠しておられた。……後に、小さな箱が欲しいとおっしゃって、ずっと懐に忍ばせて」
ゲルが驚いてメイローズを見る。
「あの、箱か。俺もずっと、中身が気になってはいたのだが……」
「いつも、あの箱を握りしめて、守っておられた。――いえ、あれは、わが主の〈杖〉でした。常にあれに縋り、どんな理不尽な時も膝を屈しなかった。あの中身は、女王国の神器の指輪だったのです」
ゲルはふっと力を抜いて、目を閉じた。
「そう、だったのですか……」
しばらく目を閉じていたゲルは、再びアデライードを見て、言った。
「だからなのですね。〈聖婚〉のお相手が、聖地で出会った姫君だったから、だから、あんなにもあっさりと今度の結婚を受け入れた。――不思議だと思っていたのです。いえ、その――以前の結婚とは、あまりに態度が違っていて――単なる面食いだったのかと思うくらい」
だがアデライードは、金色の眉を少し顰め、俯いた。
「殿下は、わたしが指輪の持ち主だと、すぐに気づいたようなのです。でも――それなのに、殿下はシウリンは死んだと言い張った。自分は、シウリンの双子の兄弟だと――」
彼に再会し、神器を見せられた日のことを、アデライードは思い出す。それを手にできる者はシウリンただ一人のはずなのに、彼は自分はシウリンではないと言い続けた。なぜ、指輪が彼を弾かないのか、あなたはシウリンではないのか、幾度も問いかけたのに、彼は否定し続けた。
なぜ――。彼の金の〈王気〉はアデライードにあからさまに執着し、しつこいほどに愛の言葉を繰り返しておきながら。どうして、シウリンとしての過去をあくまでも否定したのか。
ゲルが、そんなアデライードを眩しいものを見るかのように、黒い瞳を眇めて言った。
「……殿下は、我儘を言うようなこともない方でしたが、一つだけ、以前のご正室との結婚だけは絶対に嫌だと、結婚するくらいなら、死ぬと言って拒否なさった」
ゲルの言葉に、アデライードは弾かれたように顔を上げ、ゲルを見つめる。
「女遊びに狂ったのも、相手から婚約を破棄させたいというのが、最初のきっかけでした。何故、そこまで結婚を厭うのか、俺には理解できなかったのですが――十年前に聖地で姫君と出会っていた、そのせいだったのですね」
ずっと抱いていた疑問が氷解したのであろう。ゲルはどこか晴れ晴れした表情で、アデライードに視線を戻す。納得いかないまま、アデライードは目を伏せる。
アデライードの知らない、アデライードが封じた彼の十年。
シウリンである自分を封印し、ユエリンとして生きた彼は、再びアデライードに出会って、何を思ったのだろうか。
十年間の記憶を取り戻した時、彼はどちらを選ぶのだろう。シウリンか、ユエリンか――。
ゲルが耐えきれなくなったように顔を手で覆う。横で立っていたメイローズも、その日のことを思い出したのか、辛そうに眉を歪めている。
アデライードが膝の上で、両手で長衣を握りしめる。
間違いない。あの日、アデライードが森の中でシウリンと出会ったその日。
門限を過ぎて漸く戻ってきた〈シウリン〉を、デュクトとゲルは有無を言わさず馬車に乗せ、事情も説明せずに太陽神殿から再び転移門で帝都に移動した。
「デュクトは厳格でした。〈シウリン〉は友人にも、誰にも別れの挨拶さえできず、また彼が持っていたわずかな私物も全て焼き捨ててしまった。剃りあげた頭は帽子で隠し、ユエリン皇子は目を覚ましたが、記憶を失っていると言って誤魔化した」
「でも――〈シウリン〉は神器を……あの日、シウリンの帰りが遅くなったのは、森の中で迷子の女の子を拾って、尼僧院に送り届けていたからです。――それが、わたしです。エイダに追われて森の中で道に迷い、雪まで降ってきて……もし、彼に会わなければわたしは死んでいました」
ゲルが、黒い瞳を最大限に見開く。
「本当ですか――!」
「その時、わたしは彼に、母から預かった神器の指輪を渡したのです。――エイダがあれだけ捜して、見つからないはずです。神器は、帝都にあったのですから」」
「信じられない――」
茫然とアデライードを見上げているゲルに、メイローズが言った。
「わが主は、何か小さなものをずっと、握りしめて守っておられました。デュクトに見つかれば取り上げられると恐れたのでしょうね。私が小さな巾着袋をお渡ししたら、それに入れて、下着の下に隠しておられた。……後に、小さな箱が欲しいとおっしゃって、ずっと懐に忍ばせて」
ゲルが驚いてメイローズを見る。
「あの、箱か。俺もずっと、中身が気になってはいたのだが……」
「いつも、あの箱を握りしめて、守っておられた。――いえ、あれは、わが主の〈杖〉でした。常にあれに縋り、どんな理不尽な時も膝を屈しなかった。あの中身は、女王国の神器の指輪だったのです」
ゲルはふっと力を抜いて、目を閉じた。
「そう、だったのですか……」
しばらく目を閉じていたゲルは、再びアデライードを見て、言った。
「だからなのですね。〈聖婚〉のお相手が、聖地で出会った姫君だったから、だから、あんなにもあっさりと今度の結婚を受け入れた。――不思議だと思っていたのです。いえ、その――以前の結婚とは、あまりに態度が違っていて――単なる面食いだったのかと思うくらい」
だがアデライードは、金色の眉を少し顰め、俯いた。
「殿下は、わたしが指輪の持ち主だと、すぐに気づいたようなのです。でも――それなのに、殿下はシウリンは死んだと言い張った。自分は、シウリンの双子の兄弟だと――」
彼に再会し、神器を見せられた日のことを、アデライードは思い出す。それを手にできる者はシウリンただ一人のはずなのに、彼は自分はシウリンではないと言い続けた。なぜ、指輪が彼を弾かないのか、あなたはシウリンではないのか、幾度も問いかけたのに、彼は否定し続けた。
なぜ――。彼の金の〈王気〉はアデライードにあからさまに執着し、しつこいほどに愛の言葉を繰り返しておきながら。どうして、シウリンとしての過去をあくまでも否定したのか。
ゲルが、そんなアデライードを眩しいものを見るかのように、黒い瞳を眇めて言った。
「……殿下は、我儘を言うようなこともない方でしたが、一つだけ、以前のご正室との結婚だけは絶対に嫌だと、結婚するくらいなら、死ぬと言って拒否なさった」
ゲルの言葉に、アデライードは弾かれたように顔を上げ、ゲルを見つめる。
「女遊びに狂ったのも、相手から婚約を破棄させたいというのが、最初のきっかけでした。何故、そこまで結婚を厭うのか、俺には理解できなかったのですが――十年前に聖地で姫君と出会っていた、そのせいだったのですね」
ずっと抱いていた疑問が氷解したのであろう。ゲルはどこか晴れ晴れした表情で、アデライードに視線を戻す。納得いかないまま、アデライードは目を伏せる。
アデライードの知らない、アデライードが封じた彼の十年。
シウリンである自分を封印し、ユエリンとして生きた彼は、再びアデライードに出会って、何を思ったのだろうか。
十年間の記憶を取り戻した時、彼はどちらを選ぶのだろう。シウリンか、ユエリンか――。
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