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4,ミカエラの恋
救世主
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赤い砂岩の城壁に囲まれたガルシア城の、中庭を見下ろすテラスで、ミカエラは刺繍にも手がつかず、物思いに耽っていた。
灼熱の季節を涼しく過ごすために、また外敵に備えて、ガルシア城は外側の窓は極力小さくして分厚い壁で外気を遮り、代わりにロの字型の建物を連ねて、多くの中庭を作り、開口部は中庭に向いていた。中庭には蓮池や噴水を配し、たくさんの緑の木々を植えて涼を生み出す工夫がなされている。ミカエラの部屋から見下ろす中庭は、辺境伯の家族の過ごす棟に付随する、もっとも広く贅を尽くしたもので、中央には噴水のある四角い池があって、チロチロと涼し気な水音を立て、大理石の花台には庭師が丹精した薔薇や夏の花々の鉢が置かれ、神話の人物を模した大理石の彫像が迷路状に刈り込まれた緑の生垣のそこかしこに立っている。その生垣の迷路を縫うように、黒い髪を靡かせた背の高い青年がゆったりと散策していた。彼の周囲には金色の光が取り巻き、時に龍の姿をとってひらりと躍動した。
ミカエラがそのテラスで刺繍しているのは、今朝から青年が、その庭にいることに気づいたからだ。
一昨日、魔物狩りから戻った後、彼は城中の者の注目を浴びてしまい、それまでいた厨房に近い、井戸のある中庭――洗濯女たちや下級の騎士がたむろする場所――には居づらくなったせいらしい。ただでさえ目を引く美貌に均整の取れた体つき、どこか世慣れぬ雰囲気を漂わせていたシウリンは、魔物に追われて城内に閉じこめられて娯楽もなく、日々不安に苛まれていた女たちの、好奇心の的だったのだ。魔物を一瞬で消せる天の御使いのような騎士であると知れて、女たちが彼を放っておくわけがない。女たちのあからさまな秋波に辟易したシウリンが、いくつかの中庭をうろついて、辺境伯の家族の棟の中庭が、最も人が少ないと気づいた、というわけだ。
彼が女たちの積極果敢な攻勢を迷惑に思い、一日も早くこの城を出ていきたがっているのはミカエラにもわかるが、ミカエラとしても体面上、あからさまなことができないだけで、何とか彼の気を引きたいと思っているのは同じである。さらにミカエラには、もっとのっぴきならない、追い詰められた事情があった。
どうしても、彼にはこの地に留まって欲しい。
もし永久にというのが無理だとしても、せめて秋分を過ぎて魔物の力が大幅に失われるまで、この地にいてもらいたい。
それはミカエラだけではなく、城の重鎮たちすべてが一致団結して願うことであった。
いとも簡単に魔物の群れを消し去ったシウリンに、城中の人間で頭を下げた。――この城に滞在し、地に潜む魔物を消滅させて欲しい。
だが、シウリンはあっさりと首を振った。
彼はソリスティアに妻がいて、その元に一日も早く帰らなければならないから、無駄な時間は使いたくない、と言い切った。
その冷淡とも言える言葉に、ガルシア領の古老が激昂し、目の前で魔物に苦しむ人々を見捨てるのか、と詰め寄ったが、シウリンは迷惑そうに端麗な眉を顰めただけだ。
『あんたは目の前で魔物に怯える民を見て、何とも思わんのか! 人の心はないのか!』
『……魔物に襲われているのはこの領だけではないでしょう。ここに長く留まれば、ここ以外の人を見殺しにすることにもなります。どのみち、僕一人ですべてを救うことは無理です。僕は、救世主でも何でもないので』
気の毒だとは思うけれど、もともと魔物の害に遭うことを承知の上で、辺境に住んでいるのでしょう、と言い切ったシウリンに、ミカエラも古老も言葉を失う。
『少なくともこの城の中にいれば、命を失うことはない。ここにはそれだけの備えがあるのでしょうから。僕はむしろ、ここよりも北に住む、魔物への備えが万全でない地域の人々が心配です。彼らは魔物への心構えも情報も十分でなく、恐慌(パニック)に陥っているかもしれない。ここに長居をするくらいなら、そういう人たちを一人でも救いたい』
襟首をつかみかからんばかりに言う老人に、シウリンはあっさりと言ってのけた。
『――数日、旅の支度が整うまでは留まりましょう。その間の魔物は僕が攘います。鎮守の森の中に取り残された人もいるかもしれない。でも、それが済んだら北に向かいます。――魔物も秋分を過ぎれば落ち着くはずです』
きっぱりと断言するシウリンの言葉を思い出し、ミカエラはそっと溜息をついた。
彼の言うことは正論ではある。
でも、現実に魔物の侵入に怯え、城の中に閉じこめられているガルシア領の人々にとっては、遠く見たこともない人々よりも、何よりも自分たちが可愛い。一日も早く魔物を追い払い、この冬に備えて生活を立て直したい。そのためには彼が――金の龍騎士の存在が必要だった。
灼熱の季節を涼しく過ごすために、また外敵に備えて、ガルシア城は外側の窓は極力小さくして分厚い壁で外気を遮り、代わりにロの字型の建物を連ねて、多くの中庭を作り、開口部は中庭に向いていた。中庭には蓮池や噴水を配し、たくさんの緑の木々を植えて涼を生み出す工夫がなされている。ミカエラの部屋から見下ろす中庭は、辺境伯の家族の過ごす棟に付随する、もっとも広く贅を尽くしたもので、中央には噴水のある四角い池があって、チロチロと涼し気な水音を立て、大理石の花台には庭師が丹精した薔薇や夏の花々の鉢が置かれ、神話の人物を模した大理石の彫像が迷路状に刈り込まれた緑の生垣のそこかしこに立っている。その生垣の迷路を縫うように、黒い髪を靡かせた背の高い青年がゆったりと散策していた。彼の周囲には金色の光が取り巻き、時に龍の姿をとってひらりと躍動した。
ミカエラがそのテラスで刺繍しているのは、今朝から青年が、その庭にいることに気づいたからだ。
一昨日、魔物狩りから戻った後、彼は城中の者の注目を浴びてしまい、それまでいた厨房に近い、井戸のある中庭――洗濯女たちや下級の騎士がたむろする場所――には居づらくなったせいらしい。ただでさえ目を引く美貌に均整の取れた体つき、どこか世慣れぬ雰囲気を漂わせていたシウリンは、魔物に追われて城内に閉じこめられて娯楽もなく、日々不安に苛まれていた女たちの、好奇心の的だったのだ。魔物を一瞬で消せる天の御使いのような騎士であると知れて、女たちが彼を放っておくわけがない。女たちのあからさまな秋波に辟易したシウリンが、いくつかの中庭をうろついて、辺境伯の家族の棟の中庭が、最も人が少ないと気づいた、というわけだ。
彼が女たちの積極果敢な攻勢を迷惑に思い、一日も早くこの城を出ていきたがっているのはミカエラにもわかるが、ミカエラとしても体面上、あからさまなことができないだけで、何とか彼の気を引きたいと思っているのは同じである。さらにミカエラには、もっとのっぴきならない、追い詰められた事情があった。
どうしても、彼にはこの地に留まって欲しい。
もし永久にというのが無理だとしても、せめて秋分を過ぎて魔物の力が大幅に失われるまで、この地にいてもらいたい。
それはミカエラだけではなく、城の重鎮たちすべてが一致団結して願うことであった。
いとも簡単に魔物の群れを消し去ったシウリンに、城中の人間で頭を下げた。――この城に滞在し、地に潜む魔物を消滅させて欲しい。
だが、シウリンはあっさりと首を振った。
彼はソリスティアに妻がいて、その元に一日も早く帰らなければならないから、無駄な時間は使いたくない、と言い切った。
その冷淡とも言える言葉に、ガルシア領の古老が激昂し、目の前で魔物に苦しむ人々を見捨てるのか、と詰め寄ったが、シウリンは迷惑そうに端麗な眉を顰めただけだ。
『あんたは目の前で魔物に怯える民を見て、何とも思わんのか! 人の心はないのか!』
『……魔物に襲われているのはこの領だけではないでしょう。ここに長く留まれば、ここ以外の人を見殺しにすることにもなります。どのみち、僕一人ですべてを救うことは無理です。僕は、救世主でも何でもないので』
気の毒だとは思うけれど、もともと魔物の害に遭うことを承知の上で、辺境に住んでいるのでしょう、と言い切ったシウリンに、ミカエラも古老も言葉を失う。
『少なくともこの城の中にいれば、命を失うことはない。ここにはそれだけの備えがあるのでしょうから。僕はむしろ、ここよりも北に住む、魔物への備えが万全でない地域の人々が心配です。彼らは魔物への心構えも情報も十分でなく、恐慌(パニック)に陥っているかもしれない。ここに長居をするくらいなら、そういう人たちを一人でも救いたい』
襟首をつかみかからんばかりに言う老人に、シウリンはあっさりと言ってのけた。
『――数日、旅の支度が整うまでは留まりましょう。その間の魔物は僕が攘います。鎮守の森の中に取り残された人もいるかもしれない。でも、それが済んだら北に向かいます。――魔物も秋分を過ぎれば落ち着くはずです』
きっぱりと断言するシウリンの言葉を思い出し、ミカエラはそっと溜息をついた。
彼の言うことは正論ではある。
でも、現実に魔物の侵入に怯え、城の中に閉じこめられているガルシア領の人々にとっては、遠く見たこともない人々よりも、何よりも自分たちが可愛い。一日も早く魔物を追い払い、この冬に備えて生活を立て直したい。そのためには彼が――金の龍騎士の存在が必要だった。
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