上 下
37 / 37

終 

しおりを挟む
 先年から続いた大明宮の改修が成り、陛下が避暑を兼ねて行幸するという話が出たときは、よもや、陛下が居宮を移すつもりでいるなどと、誰一人予想する者はいなかった。それは私、章礼文も同じである。

 もともと、大明宮は初代皇帝の父親の隠居所として作られた。皇帝の居所として作られた太極宮より高く乾いた場所にあり、居住性は高い。北に広く園林を確保し、大きな池を穿って風光明媚に設計されている。

 皇家の離宮としては、もっと西の驪山にある華清宮が有名だが、後宮まるごと避暑に移動すれば費えはかかる。今上は倹約にこれ務めるというよりかは、どちらかという吝嗇ケチな性質であるから、その費用を惜しまれたのだ。

 行幸に先立ち、陛下は皇后である我が妹、詩阿一人だけを伴うと私に告げた。
 昨年秋に入宮して以来、妹が陛下の類まれな恩寵を受けているのは、ありがたいことと思う反面、後宮の嫉妬の矢面に立たされているであろう、詩阿の心痛を想うと不安でならない。
 行幸に一人だけ伴われることが、果たして吉と出るか凶と出るか、私には予想もつかぬことであった。

 もともと、我が章家への恩儀に報いるために、妹を皇后に冊立し、章家に后族に連なる恩典を与えてくださった。さらに加えて、寵愛を専らにすれば、後宮外からの批判も集まるのではないか――

 だが、陛下の特別の思し召しを拒むことなどできるわけもなく、私はただ、ありがたいことと承ったのみであった。
 
 当日、私は皇后の兄として離宮に付き従う栄誉を得た。遠くから陛下の車駕を見れば、なんと、陛下は妹と同乗するばかりでなく、常に妹を抱き上げて移動していた。

 周囲の官僚たちも首を傾げ、意味ありげな目で私を見てくる。

「皇后さまは体調でも悪いのですか?」
「いえ、そのようなことは聞き及んでおりません」
「……そうですか。ではなぜあのような……」

 まさか詩阿から強請ったとも思われず、私は夜にでも詩阿の元に伺候できないかと聞き合わせたが、なんと、陛下は詩阿を伴い、太液池の中の島に籠ってしまったと言うではないか。

「島……」

 何とも不安で胸がドキドキするが、大っぴらにしていいことではないので、ひとまず妹には伝言だけを頼み、その夜は引き下がった。
 陛下は翌日遅くに島から戻ってこられて、私は翰林院かんりんいんの詰め所に近い、清思殿で陛下にお目通りすることができた。

「ちょうどよかった。礼文に、起草を頼みたい詔勅がある」
「なんでございましょう」
「もともと十日の予定の行幸だったが、ここが気に入った故、太極宮ではなく、こちら常居宮に定めたいと思う」
「……は?」

 ぽかんとして見上げるが、陛下は全く動じずに微笑まれている。
 ――最初から、陛下はそのおつもりだったのだ。

 しがらみに絡み取られた太極宮ではなく、大明宮で新しく、自由な政治へと踏み出すために。

「朕はもともと、太極宮の構造は複雑すぎて不便だと思っていた。……何より、後宮が遠い。まだ、朕に後嗣のおらぬこと、多くの高官にとってもまた懸案とされてきた。だが、何分にも政務繁多の中を後宮に足を延ばしにくい」
「はあ……」

 私が頭を下げると、陛下がお命じになる。

撃毬ポロの後に紫宸殿で宴を催すが、その席で群臣に告げたいと思う」
「はあ……ですが、劉平章他の元老がたはご存知なのですか?」
「まさか! あいつが知っていたらウンと言うわけがあるまい」
「ええ! まさかだまし討ち?」

 ギョッとして顔を上げれば、陛下が端麗な唇の端を少しだけ上げた。

「ずっと大明宮に留まると知っていたら、詩阿一人だけを連れて行幸などできぬではないか。……うるさい女どもがついてきたら、引っ越しする意味がない」
「……そんな!」

 まさか陛下は、詩阿以外の妃嬪を太極宮に振り捨ててくるために――? 
 それはいくら何でも――
 
 私は事実を知って怒り狂う宰相の劉平章を想像し、思わず身を震わせる。
 
「わ、わ、私は無関係だと証言してくださいよ! 共犯にされてはたまりません!」
「詩阿の兄であるそちが逃げられると思うてか。だからそちを巻き込んでおると申すに」

 私は内心頭を抱えた。
 
「別にたいしたことはあるまい。宮殿を引っ越すだけのこと。それも前からあるのを改修して再利用しておるのに、何の文句がある。……昔、戦争すると言って軍隊を動かして、突然遷都した皇帝がおっただろう。それよりはうんと常識的だと思わんか?」
「そんな極端な事例を例に出されましても……!」

 今回の場合、引っ越しが詩阿がらみだと受け取られると、陛下ではなく、詩阿に批判が向いてしまう。

「大丈夫だ。そちが案ずるようなことにはならぬ」

 陛下はそう仰って、朗らかに笑って見せた。
 

 
 

 陛下が太極宮に戻らないと告げれば、案の定、劉平章らをはじめとする百官は大恐慌に陥ったが、所詮、隣に移動しただけのことなので、群臣もすぐに慣れた。
 陛下のお側に皇后である詩阿しか侍っていないことは、時に非難を浴びることもあったが、三か月後に詩阿の懐妊が明らかにされると、批判は止んだ。


 翌年、詩阿が健康な皇子を生み、後継者の問題も解決を見た。
 陛下は時々、太液池の島に数日、詩阿を連れてお籠りになる以外は、今のところ真面目に政務に励まれておられる。
 あるいは陛下はかつて我が家で見た一夫一婦の暮らしに憧れておられるのかもしれない。それは帝王の身においては寵姫の愛に惑溺しているとの謗りをうけるであろうが、人倫においては聖賢も認めておられることではある。




 後宮佳麗三千人
 三千寵愛在一身
 金屋粧成嬌侍夜
 玉楼宴罷酔和春


 
 完

◆◆◆◆◆

白居易『長恨歌ちょうごんか

後宮佳麗三千人  
三千の寵愛 一身に在り
金屋よそおい成りて嬌として夜に侍し
玉楼宴みて酔い春に和す

後宮には美女が三千人いるが、三千人分の寵愛が一人に集中している
奢侈を極めた宮殿が装い新たに出来上がれば、寵姫は皇帝の寝所に夜毎侍り、
玉でできた楼閣での宴もはけ、酔い心地で春の盛りを謳歌する
 
しおりを挟む
感想 41

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(41件)

茶太郎
2023.10.29 茶太郎

ソロモンは、高齢になるにつれ、神から離れたが、1000人の妻によって心を変えた。妻は一人でいいよね?w一途な弘毅君は偉い!!!


無憂
2023.10.29 無憂

感想ありがとうございます!

心は一途なクズ(*´∀`*)

解除
sum8
2023.10.28 sum8

こコラ( "ºДº")ノ `-' ) ペシッやあやなにてなやし

無憂
2023.10.28 無憂

ありがとうございます!
?????

解除
音符
2023.02.26 音符
ネタバレ含む
無憂
2023.02.26 無憂

ありがとうございます!

お風呂は書きたいと思いつつ、どうしようかなと。
華清池に行くのは大変だしなーと、悩んで、大明宮に温泉を湧かせてしまいました😆
異世界イマジナリー大明宮だしいっか!😆

お付き合いいただきありがとうございます!

解除

あなたにおすすめの小説

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~

雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」 夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。 そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。 全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる

奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。 だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。 「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」  どう尋ねる兄の真意は……

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

婚約者が巨乳好きだと知ったので、お義兄様に胸を大きくしてもらいます。

恋愛
可憐な見た目とは裏腹に、突っ走りがちな令嬢のパトリシア。婚約者のフィリップが、巨乳じゃないと女として見れない、と話しているのを聞いてしまう。 パトリシアは、小さい頃に両親を亡くし、母の弟である伯爵家で、本当の娘の様に育てられた。お世話になった家族の為にも、幸せな結婚生活を送らねばならないと、兄の様に慕っているアレックスに、あるお願いをしに行く。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。