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終
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先年から続いた大明宮の改修が成り、陛下が避暑を兼ねて行幸するという話が出たときは、よもや、陛下が居宮を移すつもりでいるなどと、誰一人予想する者はいなかった。それは私、章礼文も同じである。
もともと、大明宮は初代皇帝の父親の隠居所として作られた。皇帝の居所として作られた太極宮より高く乾いた場所にあり、居住性は高い。北に広く園林を確保し、大きな池を穿って風光明媚に設計されている。
皇家の離宮としては、もっと西の驪山にある華清宮が有名だが、後宮まるごと避暑に移動すれば費えはかかる。今上は倹約にこれ務めるというよりかは、どちらかという吝嗇な性質であるから、その費用を惜しまれたのだ。
行幸に先立ち、陛下は皇后である我が妹、詩阿一人だけを伴うと私に告げた。
昨年秋に入宮して以来、妹が陛下の類まれな恩寵を受けているのは、ありがたいことと思う反面、後宮の嫉妬の矢面に立たされているであろう、詩阿の心痛を想うと不安でならない。
行幸に一人だけ伴われることが、果たして吉と出るか凶と出るか、私には予想もつかぬことであった。
もともと、我が章家への恩儀に報いるために、妹を皇后に冊立し、章家に后族に連なる恩典を与えてくださった。さらに加えて、寵愛を専らにすれば、後宮外からの批判も集まるのではないか――
だが、陛下の特別の思し召しを拒むことなどできるわけもなく、私はただ、ありがたいことと承ったのみであった。
当日、私は皇后の兄として離宮に付き従う栄誉を得た。遠くから陛下の車駕を見れば、なんと、陛下は妹と同乗するばかりでなく、常に妹を抱き上げて移動していた。
周囲の官僚たちも首を傾げ、意味ありげな目で私を見てくる。
「皇后さまは体調でも悪いのですか?」
「いえ、そのようなことは聞き及んでおりません」
「……そうですか。ではなぜあのような……」
まさか詩阿から強請ったとも思われず、私は夜にでも詩阿の元に伺候できないかと聞き合わせたが、なんと、陛下は詩阿を伴い、太液池の中の島に籠ってしまったと言うではないか。
「島……」
何とも不安で胸がドキドキするが、大っぴらにしていいことではないので、ひとまず妹には伝言だけを頼み、その夜は引き下がった。
陛下は翌日遅くに島から戻ってこられて、私は翰林院の詰め所に近い、清思殿で陛下にお目通りすることができた。
「ちょうどよかった。礼文に、起草を頼みたい詔勅がある」
「なんでございましょう」
「もともと十日の予定の行幸だったが、ここが気に入った故、太極宮ではなく、こちら常居宮に定めたいと思う」
「……は?」
ぽかんとして見上げるが、陛下は全く動じずに微笑まれている。
――最初から、陛下はそのおつもりだったのだ。
しがらみに絡み取られた太極宮ではなく、大明宮で新しく、自由な政治へと踏み出すために。
「朕はもともと、太極宮の構造は複雑すぎて不便だと思っていた。……何より、後宮が遠い。まだ、朕に後嗣のおらぬこと、多くの高官にとってもまた懸案とされてきた。だが、何分にも政務繁多の中を後宮に足を延ばしにくい」
「はあ……」
私が頭を下げると、陛下がお命じになる。
「撃毬の後に紫宸殿で宴を催すが、その席で群臣に告げたいと思う」
「はあ……ですが、劉平章他の元老がたはご存知なのですか?」
「まさか! あいつが知っていたらウンと言うわけがあるまい」
「ええ! まさかだまし討ち?」
ギョッとして顔を上げれば、陛下が端麗な唇の端を少しだけ上げた。
「ずっと大明宮に留まると知っていたら、詩阿一人だけを連れて行幸などできぬではないか。……うるさい女どもがついてきたら、引っ越しする意味がない」
「……そんな!」
まさか陛下は、詩阿以外の妃嬪を太極宮に振り捨ててくるために――?
それはいくら何でも――
私は事実を知って怒り狂う宰相の劉平章を想像し、思わず身を震わせる。
「わ、わ、私は無関係だと証言してくださいよ! 共犯にされてはたまりません!」
「詩阿の兄であるそちが逃げられると思うてか。だからそちを巻き込んでおると申すに」
私は内心頭を抱えた。
「別にたいしたことはあるまい。宮殿を引っ越すだけのこと。それも前からあるのを改修して再利用しておるのに、何の文句がある。……昔、戦争すると言って軍隊を動かして、突然遷都した皇帝がおっただろう。それよりはうんと常識的だと思わんか?」
「そんな極端な事例を例に出されましても……!」
今回の場合、引っ越しが詩阿がらみだと受け取られると、陛下ではなく、詩阿に批判が向いてしまう。
「大丈夫だ。そちが案ずるようなことにはならぬ」
陛下はそう仰って、朗らかに笑って見せた。
陛下が太極宮に戻らないと告げれば、案の定、劉平章らをはじめとする百官は大恐慌に陥ったが、所詮、隣に移動しただけのことなので、群臣もすぐに慣れた。
陛下のお側に皇后である詩阿しか侍っていないことは、時に非難を浴びることもあったが、三か月後に詩阿の懐妊が明らかにされると、批判は止んだ。
翌年、詩阿が健康な皇子を生み、後継者の問題も解決を見た。
陛下は時々、太液池の島に数日、詩阿を連れてお籠りになる以外は、今のところ真面目に政務に励まれておられる。
あるいは陛下はかつて我が家で見た一夫一婦の暮らしに憧れておられるのかもしれない。それは帝王の身においては寵姫の愛に惑溺しているとの謗りをうけるであろうが、人倫においては聖賢も認めておられることではある。
後宮佳麗三千人
三千寵愛在一身
金屋粧成嬌侍夜
玉楼宴罷酔和春
完
◆◆◆◆◆
白居易『長恨歌』
後宮佳麗三千人
三千の寵愛 一身に在り
金屋粧い成りて嬌として夜に侍し
玉楼宴罷みて酔い春に和す
後宮には美女が三千人いるが、三千人分の寵愛が一人に集中している
奢侈を極めた宮殿が装い新たに出来上がれば、寵姫は皇帝の寝所に夜毎侍り、
玉でできた楼閣での宴もはけ、酔い心地で春の盛りを謳歌する
もともと、大明宮は初代皇帝の父親の隠居所として作られた。皇帝の居所として作られた太極宮より高く乾いた場所にあり、居住性は高い。北に広く園林を確保し、大きな池を穿って風光明媚に設計されている。
皇家の離宮としては、もっと西の驪山にある華清宮が有名だが、後宮まるごと避暑に移動すれば費えはかかる。今上は倹約にこれ務めるというよりかは、どちらかという吝嗇な性質であるから、その費用を惜しまれたのだ。
行幸に先立ち、陛下は皇后である我が妹、詩阿一人だけを伴うと私に告げた。
昨年秋に入宮して以来、妹が陛下の類まれな恩寵を受けているのは、ありがたいことと思う反面、後宮の嫉妬の矢面に立たされているであろう、詩阿の心痛を想うと不安でならない。
行幸に一人だけ伴われることが、果たして吉と出るか凶と出るか、私には予想もつかぬことであった。
もともと、我が章家への恩儀に報いるために、妹を皇后に冊立し、章家に后族に連なる恩典を与えてくださった。さらに加えて、寵愛を専らにすれば、後宮外からの批判も集まるのではないか――
だが、陛下の特別の思し召しを拒むことなどできるわけもなく、私はただ、ありがたいことと承ったのみであった。
当日、私は皇后の兄として離宮に付き従う栄誉を得た。遠くから陛下の車駕を見れば、なんと、陛下は妹と同乗するばかりでなく、常に妹を抱き上げて移動していた。
周囲の官僚たちも首を傾げ、意味ありげな目で私を見てくる。
「皇后さまは体調でも悪いのですか?」
「いえ、そのようなことは聞き及んでおりません」
「……そうですか。ではなぜあのような……」
まさか詩阿から強請ったとも思われず、私は夜にでも詩阿の元に伺候できないかと聞き合わせたが、なんと、陛下は詩阿を伴い、太液池の中の島に籠ってしまったと言うではないか。
「島……」
何とも不安で胸がドキドキするが、大っぴらにしていいことではないので、ひとまず妹には伝言だけを頼み、その夜は引き下がった。
陛下は翌日遅くに島から戻ってこられて、私は翰林院の詰め所に近い、清思殿で陛下にお目通りすることができた。
「ちょうどよかった。礼文に、起草を頼みたい詔勅がある」
「なんでございましょう」
「もともと十日の予定の行幸だったが、ここが気に入った故、太極宮ではなく、こちら常居宮に定めたいと思う」
「……は?」
ぽかんとして見上げるが、陛下は全く動じずに微笑まれている。
――最初から、陛下はそのおつもりだったのだ。
しがらみに絡み取られた太極宮ではなく、大明宮で新しく、自由な政治へと踏み出すために。
「朕はもともと、太極宮の構造は複雑すぎて不便だと思っていた。……何より、後宮が遠い。まだ、朕に後嗣のおらぬこと、多くの高官にとってもまた懸案とされてきた。だが、何分にも政務繁多の中を後宮に足を延ばしにくい」
「はあ……」
私が頭を下げると、陛下がお命じになる。
「撃毬の後に紫宸殿で宴を催すが、その席で群臣に告げたいと思う」
「はあ……ですが、劉平章他の元老がたはご存知なのですか?」
「まさか! あいつが知っていたらウンと言うわけがあるまい」
「ええ! まさかだまし討ち?」
ギョッとして顔を上げれば、陛下が端麗な唇の端を少しだけ上げた。
「ずっと大明宮に留まると知っていたら、詩阿一人だけを連れて行幸などできぬではないか。……うるさい女どもがついてきたら、引っ越しする意味がない」
「……そんな!」
まさか陛下は、詩阿以外の妃嬪を太極宮に振り捨ててくるために――?
それはいくら何でも――
私は事実を知って怒り狂う宰相の劉平章を想像し、思わず身を震わせる。
「わ、わ、私は無関係だと証言してくださいよ! 共犯にされてはたまりません!」
「詩阿の兄であるそちが逃げられると思うてか。だからそちを巻き込んでおると申すに」
私は内心頭を抱えた。
「別にたいしたことはあるまい。宮殿を引っ越すだけのこと。それも前からあるのを改修して再利用しておるのに、何の文句がある。……昔、戦争すると言って軍隊を動かして、突然遷都した皇帝がおっただろう。それよりはうんと常識的だと思わんか?」
「そんな極端な事例を例に出されましても……!」
今回の場合、引っ越しが詩阿がらみだと受け取られると、陛下ではなく、詩阿に批判が向いてしまう。
「大丈夫だ。そちが案ずるようなことにはならぬ」
陛下はそう仰って、朗らかに笑って見せた。
陛下が太極宮に戻らないと告げれば、案の定、劉平章らをはじめとする百官は大恐慌に陥ったが、所詮、隣に移動しただけのことなので、群臣もすぐに慣れた。
陛下のお側に皇后である詩阿しか侍っていないことは、時に非難を浴びることもあったが、三か月後に詩阿の懐妊が明らかにされると、批判は止んだ。
翌年、詩阿が健康な皇子を生み、後継者の問題も解決を見た。
陛下は時々、太液池の島に数日、詩阿を連れてお籠りになる以外は、今のところ真面目に政務に励まれておられる。
あるいは陛下はかつて我が家で見た一夫一婦の暮らしに憧れておられるのかもしれない。それは帝王の身においては寵姫の愛に惑溺しているとの謗りをうけるであろうが、人倫においては聖賢も認めておられることではある。
後宮佳麗三千人
三千寵愛在一身
金屋粧成嬌侍夜
玉楼宴罷酔和春
完
◆◆◆◆◆
白居易『長恨歌』
後宮佳麗三千人
三千の寵愛 一身に在り
金屋粧い成りて嬌として夜に侍し
玉楼宴罷みて酔い春に和す
後宮には美女が三千人いるが、三千人分の寵愛が一人に集中している
奢侈を極めた宮殿が装い新たに出来上がれば、寵姫は皇帝の寝所に夜毎侍り、
玉でできた楼閣での宴もはけ、酔い心地で春の盛りを謳歌する
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