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三十二、断罪

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 数日の後、薛脩媛せつしゅうえんは無事に謹慎が解かれ、疑いは晴れたと司馬宮正が告げにきた。

「少なくとも、呪いの人形ひとがたを所持していたのは、薛脩媛ではないと証明されましたので」

 司馬宮正が相変わらずの厳しい表情で言い、わたしは思わず聞き返した。

「どうしてわかったの?」

 宮正が唇を端を少しだけ上げた。

「脩媛の元の住居も、現在の住居も、我々の手のもので徹底的に捜索し、脩媛や側仕えたちも完全な監視下に置いておりました。中宮様のご下問がありました二日後でございますね、以前になかった呪いの人形が発見されたのです。――つまり、脩媛以外の何者かが、さらに証拠を追加したのですよ」
「新しい……証拠……」

 宮正の笑みが、いかにも晴れ晴れしたものに変わる。

「策士策に溺れると申しますか。知恵自慢の者ほど、どうしても余計なことをしたくなってしまうのです。自由に動けない脩媛が、新たな証拠など落とせるはずもないのに。……そうして、本当の犯人が脩媛ではないと、証明してしまう結果になりました」

 わたしはハッとした。前回、司馬宮正が数日待てと言ったのはこのことだったのか!

「では本当の犯人は……」
「それはまだ。でも、遠からず明らかになるのではと思っております」

 司馬宮正のもとには、宰相の意を受けた内侍より、内侍伯の介入を許せとの圧力がかかっていたという。だが、

「陛下の詔がございましたので、無事に退けました。中宮様よりの働きかけ、ありがとうございます」

 司馬宮正は、人柄を表すような厳格なお辞儀をして、帰っていった。
 入れ替わりのように、薛脩媛がやってきた。

「中宮様! 中宮様が陛下に働きかけてくださったのですね! ありがとうございます!」

 涙目で縋りつかんばかりに言われ、わたしはギョッとする。

「いえ、働きかけっていうか……」
「もう、本当に! わたくしの前の部屋から呪いの人形が出たと聞いた時は、どうなることかと……」
「大変だったわね……恐ろしいわ、人を陥れるなんて……」

 陛下にもらった最高級のお茶を淹れるように王婆ワンさんに頼み、馬婆マーさんはこれまた、珍しい南方の干した果物を塗りの皿に出して持ってきてくれた。

「わたくし、以前から後宮ではいじめられいて……上の方はもちろん、同輩以下に嫌われて、やっかまれていて……」
「はあ……そうなのね……」

 とりわけ美人なわけでもないのに、陛下から四度もお召があったせいで、後宮じゅうの嫉妬を買ってしまったわけだ。それにしても、呪詛の犯人にでっちあげられるなんて、災難にもほどがある。

「司馬宮正が言うには、犯人はじきにわかるだろうと。……とにかく濡れ衣は晴れてよかったわ」

 薛脩媛がうんうんと頷く。

「本当です!……ところで、離宮行幸の話、お聞きになりまして?」
「え? ええ……五月に十日ほど、大明宮に行幸すると……」
  
 太極宮から北東にある大明宮の改修が終わり、そちらに十日ほど避暑に行くので、準備をするようにと、数日前陛下から言われていた。

「では中宮様はもう、お伴ないになると決めていらっしゃるのですね? 他にはどなたが?」
「さあ……陛下が帰り際に軽く仰っただけなので、特には聞いてないわ」
「誰がお伴に加わるか、後宮中大騒ぎですわよ!」
「……へええ」

 ほかに誰が行くかなんて、気にもしなかったわたしは、改めて妃嬪の顔を思い浮かべる。
 十日とはいえ、趙淑妃や高賢妃と過ごすのは面倒くさそうだが、それくらいは我慢しないと……

「そう言えば、内部に大きな池があって、船にも乗れるようにしたとかなんとか、以前、仰っていたわ」
「なるほど、舟遊びもできるのですね! 素敵!」

 薛脩媛がうっとりと言う。

「楽人の選定などももう、行われているようでございますね」
「じゃあ、音楽の催しなども予定していらっしゃるのね」

 馬婆が頷いた。

「ええ、一日は外朝の官僚たちも招いて宴会を催すとか。そちらの方はかなり大がかりになりそうです」

 もしかしたら、その機会に父や兄にも会えるかもしれない、陛下にお願いしてみようかしら、とわたしはそちらに期待を膨らませていた。


 

 五月朔日の、皇后宮での朝請。
 毎月二度の妃嬪の朝礼は正直気が重いのだけれど、皇后になった以上はこれくらいはこなさないと、……とわたいしはしぶしぶ正殿の方に出た。

 すでに妃嬪たちは整列していた。――でも、趙淑妃の席も、高賢妃の席も空席になっている。

「二人はどうしたの?」

 わたしが尋ねれば、進行役の宦官が困ったように言う。

「高賢妃様は体調不良で欠席の連絡がございました。趙淑妃様はわかりません」

 わたしは整列する妃嬪の列を眺める。……なんとなく人も少ない気がする。
 鄭才人と劉宝林もいない。淑妃派が皇后であるわたしに含むところあって、朝請を怠業サボっているのかしら? でもそんなのいちいち気にしていられないと思い、わたしは宦官に言った。

「……そうなの。淑妃も何か都合があるのかもしれないわね。先に始めてしまいましょう」
 
 変わり映えのしないの所定の行事だから、別に淑妃がいなくても困らない。
 一通り終わって解散を宣言し、やれやれと自室に戻ろうとしたところで、入り口が妙に騒がしくなった。

「何事かしら」
「あれ、趙淑妃ですよ」

 馬婆が目ざとく気づき、わたしに耳打ちする。目を向ければ、退出しようとする妃嬪たちの人混みを押しのけるようにして、趙淑妃がやってくる。普段の取り澄ました様子が嘘のように、血相を変え、鬼気迫る雰囲気すらあった。

「中宮様!」

 礼儀も何も振り捨てて、いきなり呼びかけられ、わたしはパチパチと瞬きする。
 二人の傅母とお付きの内侍が、わたしを庇うように前に立ちふさがる。

「このあたくしが、高賢妃の呪詛を企んだなど、濡れ衣です!」
「なんのことです?」
「不敬ですよ! 娘娘にゃんにゃんに対して!」

 わたしは大きく息を吸ってから、言った。

「何のことです?」
「今、陛下からの使者が来て、あたくしが賢妃の呪詛の黒幕だとの証言が出たから、謹慎を命ずるって!……あんたが、陛下に讒言ざんげんしたんでしょ、そうに決まってるわ!」
「……わたしは何も申し上げていませんが……」

 いきり立っている淑妃を抑えるように、静かな迫力のある声が堂に響き割った。

「見苦しいですよ、淑妃!」

 振り返れば司馬宮正が副官二人を従えてやってきた。

「淑妃への疑惑は、宮正より正式に陛下に上奏いたしております。遠からず正式なお沙汰が降るでしょう」

 司馬宮正に咎められて、趙淑妃がますますいきり立った。

「わたくしが呪詛の黒幕などと、何を証拠に!」
劉宝林りゅうほうりんの証言が出ました」
「劉宝林?」

 その場の一堂が顔を見合わせる中、司馬宮正がさすがの貫禄で、堂々と言い切った。

「以前、劉宝林は、薛淑媛せつしゅくえんが呪詛を行っているとの証言を行いました。ですが、我々の調べにより、薛淑媛は呪詛を行い得ないことが明かになった。それ故、我々が追及したところ、淑妃のお名前が出たのです」
「濡れ衣だわ!」

 半狂乱になって叫ぶ淑妃を、駆け付けた宮正の女官や、宦官たちが抑え込む。

「淑妃はそもそも、陛下に謹慎を命じられているのでございましょう。こんな場に出てきていいわけはございませんよ?」

 司馬宮正が言い、わたしは淑妃が気の毒になったので、尋ねた。

「その……劉宝林の証言を詳しく聞いても?」
「中宮様の仰せとありますれば。……劉宝林は、以前より高賢妃に含むところがありましたが、最近では薛脩媛にも怨みを募らせておりました。そんな時に、淑妃の手の者より耳打ちされたと。呪いの証拠を薛脩媛の宮に置き、高賢妃を呪ったと冤罪をかけよと。そこからは内侍伯をけしかけ、脩媛に中宮様の命令だと証言させる。事がが上手くいった暁には、陛下へのお目通りを約束し、品階も上げようと約束された、と」
「嘘よ! あたくしはやってないわ!」
「そうでございますか? 筋は通っておりますよね。……少なくとも、以前の薛脩媛が中宮様の命令で呪った、と言う話よりは数倍も」

 わたしはその口調から、司馬宮正の以前の言葉と、陛下の言葉を思い出した。

 後宮では、本当に罪を犯したか否かではなくて、皇帝の意向が優先される、と。
 陛下は罪のあるなしに関わらず、趙淑妃の排除に動いたのだ。

「あた、あたくしはやってないわ! あたくしが薛脩媛ごときをハメようなんて、考えるわけがないでしょう! 劉宝林の言うことなんて嘘よ!」
「……淑妃が直接指示せずとも、誰かがその意を汲んだのかもしれませんね。ああ、劉宝林は、直接ではなく、鄭才人を介して命じられたと」

 司馬宮正の言葉に、わたしの背後で成り行きを見守っていた、薛脩媛が「ひっ」と悲鳴を上げた。

「趙淑妃にしてみれば、薛脩媛は取るに足らぬ存在かもしれませんが、鄭才人はずっと脩媛を恨んでおりましたからね。ありえない話ではございません」

 わたしは周囲をさりげなく見回し、そう言えば淑妃の腰巾着の鄭才人も来ていないと思い出す。

「鄭才人も、今は……」
「はい。監視の上で話を聞いております。実行犯だとすれば、冷宮送りは免れないかと存じますが、そのあたり、陛下の思し召し次第でございますね」

 司馬宮正が言い、宦官らに指図して、淑妃を宮に戻させる。
 宦官に両腕を掴まれて、淑妃がわたしを振り返った。

「……どうして! あたくしは陛下が太子の時代からお仕えして……本来なら、あたくしが皇后になるはずだったのよ! こんな小娘にどうして……!」
  
 わたしはゴクリと唾を飲み込み、言った。

「陛下は、淑妃には厳しい処置を下さないと思います。……温情の深い方でございますから。わたくしからもそのようにお願いを……」 
 
 がっくりと項垂れ、半ば引きずられるように連れ出されていく淑妃の後ろ姿を、わたしは見送ることしかできなかった。
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