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二十七、却羨落花春不管
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三月も末になれば、春も終わり。時に汗ばむほどの日もあり、後宮の園林の花も散っていく。
鳥籠の鷽の囀りを聞きながら、わたしはふと、窓の外に目をやった。
――早く帰ってくれないかしら。
せつせつと語り続ける客人には申し訳ないのだが、同じ話を何度も繰り返されてさすがに飽きてきた。
「後宮に入りまして五年、一度も陛下のお情けを賜ることができず――わたくし……」
「そうですの。めぐり合わせが悪かったのかしら?」
わたしはため息を噛み殺してなんとか話を合わせる。目の前の劉宝林は白絹の手巾を目じりに当てた。
「もう、年齢も上がりました。他の方にも嘲笑され、わたくし、これ以上は――」
「そう、辛いわね」
「ですから、中宮さまには是非、陛下に――」
「それは無理よ」
わたしがはっきりと言えば、劉宝林がウソ泣きの表情を一変させる。
「でも、薛美人さまは中宮さまもご推薦でご寵愛を賜ったと! どうしてわたくしはダメなんですの!」
「だって、わたしが陛下に何か申し上げたせいではないから」
本当のことだから、どうしようもない。
「陛下はどなたの元に通うかどうか、口を出されるのをとてもお嫌いになるの。お怒りが恐ろしいから、滅多なことは言えません」
「でも噂では――」
劉宝林は正六品。後宮の位階では下から三番目くらいだ。
このあたりになってくると、位階にはついているが一度もお召のない人もいるし、殿舎を独り占めすることもない。器量自慢で出世を夢見て後宮に入ったのに、生涯、陛下にお目見えすることなく、いたずらに年を重ねていく。――劉宝林のように。
陛下の即位直後から後宮にいるのに、一度もお召がない。以前は趙淑妃に擦り寄っていたが、最近、皇后のわたしに鞍替えして、陛下に口利きしてもらおうと狙っていらしい。
「本当に、わたしは何も申し上げていないの。他の方のお名前を出すだけで、陛下は不機嫌になってしまわれるので」
それは本当のことなので、わたしは何度でも言う。期待されても困るのだ。
「薛美人は、以前から陛下のご愛顧がありましたから、娘娘が何もおっしゃらずともご寵愛を賜ったのでしょう。――もうすぐ、九嬪に昇格なさいますし」
そう、助け舟を出してくれたのは傅母の王婆で、劉宝林もそれ以上は言えず、推薦は諦めてくれたらしい。
「せめて……陛下のお好みはどんな女性でしょう? 化粧法とか……」
わたしは首を傾げ、なんとなく劉宝林を上から下まで眺める。すらっと背が高くて痩せ型。しっとりと大人っぽい雰囲気の女性で、美女の多い後宮でも一、二に挙げられる美貌だ。たぶん、十人の男性が見たら、九人までがわたしより劉宝林の方を選ぶんじゃないかしら。でも――
その例外の一人が、皇帝陛下なんだから、世の中、不思議なものだ。
どちらかと言うと、陛下は小柄で童顔の、幼い雰囲気の女性がお好きらしい。つまり、劉宝林とは真逆。
たぶん、劉宝林が陛下の御寝に侍る機会がないのは、陛下の周囲の宦官たちが、早くに劉宝林は陛下のお好みと合わないと見切ってしまったせいなのだ。
「さあ……特に、こういうのが好みだ、などと陛下が仰ることはありませんので……」
「中宮さまみたいな感じではなくて?」
劉宝林に聞かれ、わたしは返答のしようがなく、首を傾げる。
「さあ……そう、言われましても」
陛下のお好みで思い当たるのは、異様なまでにわたしの胸が好きすぎるくらいか。胸に顔を埋めて、「ここに住みたい」などと意味不明なことを仰っていたけれど、そんなことを漏らすわけにいかないので、わたしは黙って首を振った。
そこへ、廉公公が陛下の先触れに来た。もう、すぐそこまで来ているのだと聞き、わたしは困ったなと思う。
最近はこんな風に、陛下は暇を見つけてふらりと立ち寄るようなことも増えて、中宮の来客とすれ違うようなこともままある。
――邪推をすれば、そういう折りに陛下のお目に留まるわずかな可能性に賭けて、わたしの宮に足しげく通っているのだと思う。でもそんな涙ぐましい努力も、たいていは無駄に終わる。
「皇上駕到!」
宦官が独特な抑揚で陛下の輿が到着したのを告げるのを聞いて、劉宝林はその場で膝をついて頭を下げている。
長い脚で階を一段飛ばしで上ってこられた陛下は、控える劉宝林には目もくれず、まっすぐにわたしの方に駆け寄ってくる。
黄色い龍袍の裾を翻し、大股に近づいてくるお姿はいつ見ても神々しいほどの威厳に溢れ、美貌は眩しいほど輝いて見える。
視線を落とし、腰を屈めるわたしを抱きしめ、囁いた。
「詩阿、会いたかった!」
「陛下……」
そのまま顎に手をかけて自然に口づけようとするのを、わたしは陛下の口に手を当てて防ぐ。
「詩阿?」
「今、客人がおりますので……」
客と言われて陛下は初めて、堂内に跪く人物の存在に気づく。
「客?」
「劉宝林でございます」
わたしが紹介すれば、おそらくこの瞬間を待っていたのであろう、劉宝林が渾身の媚びを込めた笑みで挨拶をするが、陛下は一瞥しただけで不快そうに眉を寄せた。
「用は済んだのだろう? 疾く帰るがよい」
そうして、後はもう、ちらともそちらを見ることもなく、わたしを長椅子に連れ込んで、押し倒さんばかりの勢いで顔中に口づけの雨を降らし始めるので、普通の神経の持ち主であれば耐えられずに退散する。
「ちょっと待って……陛下、お待ちを……こんなところで……」
「三日も詩阿に会えなかったのだ。詩阿不足で干上がりそうだ。補給させてくれ」
完全に無視された劉宝林は、馬婆と王婆に促されて退出していく。
一瞬、恨めしそうな目でわたしを見た、その嫉妬に燃えた視線と目が合って、わたしは思わず息を飲んだ。
「詩阿?」
「い、いえ……なんでも……」
陛下が不思議そうにわたしを見るが、すでに劉宝林の存在自体を忘れている人に何も申し上げることはない。
劉宝林は気の毒と思うが、わたしにはどうすることもできないのだ。
それに――
一度得た愛を失うくらいなら、最初から愛されない方がましなのかもしれない。
陛下の愛が深ければ深いほど、わたしはいつか、それを失う日が来るのではとおそろしくてたまらない――
却って羨む 落花 春管せず
御溝 流れ得て 人間に到る
散りゆく花は行く春に構わず、水の流れによって後宮を出て、人間世界に戻ることができる。――後宮で朽ち果てていくよりはうんといい。
こんな詩がどこからか聞こえてきたが、劉宝林のような寵愛を得られない妃嬪のこととも、あるいは寵愛を失った趙淑妃を詠んだものとも噂された。
そして夏に入り――
陛下は懐妊中だった高昭容を賢妃に、薛美人を脩媛に昇格させた。その直後。
高昭容が流産し、呪詛されたせいだと騒いでいるという――
鳥籠の鷽の囀りを聞きながら、わたしはふと、窓の外に目をやった。
――早く帰ってくれないかしら。
せつせつと語り続ける客人には申し訳ないのだが、同じ話を何度も繰り返されてさすがに飽きてきた。
「後宮に入りまして五年、一度も陛下のお情けを賜ることができず――わたくし……」
「そうですの。めぐり合わせが悪かったのかしら?」
わたしはため息を噛み殺してなんとか話を合わせる。目の前の劉宝林は白絹の手巾を目じりに当てた。
「もう、年齢も上がりました。他の方にも嘲笑され、わたくし、これ以上は――」
「そう、辛いわね」
「ですから、中宮さまには是非、陛下に――」
「それは無理よ」
わたしがはっきりと言えば、劉宝林がウソ泣きの表情を一変させる。
「でも、薛美人さまは中宮さまもご推薦でご寵愛を賜ったと! どうしてわたくしはダメなんですの!」
「だって、わたしが陛下に何か申し上げたせいではないから」
本当のことだから、どうしようもない。
「陛下はどなたの元に通うかどうか、口を出されるのをとてもお嫌いになるの。お怒りが恐ろしいから、滅多なことは言えません」
「でも噂では――」
劉宝林は正六品。後宮の位階では下から三番目くらいだ。
このあたりになってくると、位階にはついているが一度もお召のない人もいるし、殿舎を独り占めすることもない。器量自慢で出世を夢見て後宮に入ったのに、生涯、陛下にお目見えすることなく、いたずらに年を重ねていく。――劉宝林のように。
陛下の即位直後から後宮にいるのに、一度もお召がない。以前は趙淑妃に擦り寄っていたが、最近、皇后のわたしに鞍替えして、陛下に口利きしてもらおうと狙っていらしい。
「本当に、わたしは何も申し上げていないの。他の方のお名前を出すだけで、陛下は不機嫌になってしまわれるので」
それは本当のことなので、わたしは何度でも言う。期待されても困るのだ。
「薛美人は、以前から陛下のご愛顧がありましたから、娘娘が何もおっしゃらずともご寵愛を賜ったのでしょう。――もうすぐ、九嬪に昇格なさいますし」
そう、助け舟を出してくれたのは傅母の王婆で、劉宝林もそれ以上は言えず、推薦は諦めてくれたらしい。
「せめて……陛下のお好みはどんな女性でしょう? 化粧法とか……」
わたしは首を傾げ、なんとなく劉宝林を上から下まで眺める。すらっと背が高くて痩せ型。しっとりと大人っぽい雰囲気の女性で、美女の多い後宮でも一、二に挙げられる美貌だ。たぶん、十人の男性が見たら、九人までがわたしより劉宝林の方を選ぶんじゃないかしら。でも――
その例外の一人が、皇帝陛下なんだから、世の中、不思議なものだ。
どちらかと言うと、陛下は小柄で童顔の、幼い雰囲気の女性がお好きらしい。つまり、劉宝林とは真逆。
たぶん、劉宝林が陛下の御寝に侍る機会がないのは、陛下の周囲の宦官たちが、早くに劉宝林は陛下のお好みと合わないと見切ってしまったせいなのだ。
「さあ……特に、こういうのが好みだ、などと陛下が仰ることはありませんので……」
「中宮さまみたいな感じではなくて?」
劉宝林に聞かれ、わたしは返答のしようがなく、首を傾げる。
「さあ……そう、言われましても」
陛下のお好みで思い当たるのは、異様なまでにわたしの胸が好きすぎるくらいか。胸に顔を埋めて、「ここに住みたい」などと意味不明なことを仰っていたけれど、そんなことを漏らすわけにいかないので、わたしは黙って首を振った。
そこへ、廉公公が陛下の先触れに来た。もう、すぐそこまで来ているのだと聞き、わたしは困ったなと思う。
最近はこんな風に、陛下は暇を見つけてふらりと立ち寄るようなことも増えて、中宮の来客とすれ違うようなこともままある。
――邪推をすれば、そういう折りに陛下のお目に留まるわずかな可能性に賭けて、わたしの宮に足しげく通っているのだと思う。でもそんな涙ぐましい努力も、たいていは無駄に終わる。
「皇上駕到!」
宦官が独特な抑揚で陛下の輿が到着したのを告げるのを聞いて、劉宝林はその場で膝をついて頭を下げている。
長い脚で階を一段飛ばしで上ってこられた陛下は、控える劉宝林には目もくれず、まっすぐにわたしの方に駆け寄ってくる。
黄色い龍袍の裾を翻し、大股に近づいてくるお姿はいつ見ても神々しいほどの威厳に溢れ、美貌は眩しいほど輝いて見える。
視線を落とし、腰を屈めるわたしを抱きしめ、囁いた。
「詩阿、会いたかった!」
「陛下……」
そのまま顎に手をかけて自然に口づけようとするのを、わたしは陛下の口に手を当てて防ぐ。
「詩阿?」
「今、客人がおりますので……」
客と言われて陛下は初めて、堂内に跪く人物の存在に気づく。
「客?」
「劉宝林でございます」
わたしが紹介すれば、おそらくこの瞬間を待っていたのであろう、劉宝林が渾身の媚びを込めた笑みで挨拶をするが、陛下は一瞥しただけで不快そうに眉を寄せた。
「用は済んだのだろう? 疾く帰るがよい」
そうして、後はもう、ちらともそちらを見ることもなく、わたしを長椅子に連れ込んで、押し倒さんばかりの勢いで顔中に口づけの雨を降らし始めるので、普通の神経の持ち主であれば耐えられずに退散する。
「ちょっと待って……陛下、お待ちを……こんなところで……」
「三日も詩阿に会えなかったのだ。詩阿不足で干上がりそうだ。補給させてくれ」
完全に無視された劉宝林は、馬婆と王婆に促されて退出していく。
一瞬、恨めしそうな目でわたしを見た、その嫉妬に燃えた視線と目が合って、わたしは思わず息を飲んだ。
「詩阿?」
「い、いえ……なんでも……」
陛下が不思議そうにわたしを見るが、すでに劉宝林の存在自体を忘れている人に何も申し上げることはない。
劉宝林は気の毒と思うが、わたしにはどうすることもできないのだ。
それに――
一度得た愛を失うくらいなら、最初から愛されない方がましなのかもしれない。
陛下の愛が深ければ深いほど、わたしはいつか、それを失う日が来るのではとおそろしくてたまらない――
却って羨む 落花 春管せず
御溝 流れ得て 人間に到る
散りゆく花は行く春に構わず、水の流れによって後宮を出て、人間世界に戻ることができる。――後宮で朽ち果てていくよりはうんといい。
こんな詩がどこからか聞こえてきたが、劉宝林のような寵愛を得られない妃嬪のこととも、あるいは寵愛を失った趙淑妃を詠んだものとも噂された。
そして夏に入り――
陛下は懐妊中だった高昭容を賢妃に、薛美人を脩媛に昇格させた。その直後。
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