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二十六、羈鳥恋旧林
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羈鳥恋旧林 :羈鳥は旧林を恋う。籠の鳥は昔住んでいた林を恋しがる。陶淵明の「帰園田居」の一節。
◆◆◆◆◆◆◆
園林に鳥籠を持ち出し、わたしは鷽の唄を聞いていた。
チチチチ、ピピピピ、ピーピー……
「お前……外に出たくない? お前なら羽があるから、もう自由に飛んでいけるのよ?」
高昭容の懐妊の噂と間を置かず、わたしに月の障りが訪れた。
――また、だめだった。
以前なら、子供なんて特に欲しいと思わなかったのに、後宮では子供の有無が母親の地位を決める。
「母は子を以て貴し」という経典の言葉が、そのまま重要な意味を持ってくる。
皇后だから子はいなくてもいいはずなのに、「あれだけご寵愛を独占して懐妊しないなんて」などという声が、どこからか耳に入ってくる。
以前の、「お飾りの皇后」だったら、たぶん、気にならなかったのに――
高昭容からは、「たった一度のお渡りでも天の佑けで授かりまして」なんて、嫌味たっぷりの手紙が来て、挨拶に来るというのを体調が悪いからと断ったばかりだ。――迂闊に対面した後で昭容に何かあって、わたしが呪ったせい、なんて言われても堪らない。
狭い鳥籠の中で、呑気にピーピー啼いている鳥を見ていると、後宮に閉じ込められて逃げられない自分の姿と重なってきて、わたしは衝動的に鳥籠の戸を開けて、小鳥を外に逃がしてしまった。
チチチ……と青空に飛んでいく小鳥を見送って、逃がしてしまったと申し上げたら、陛下はお叱りになられるかしら――そんな風に思っていたら。
小鳥は逃げなくて、陛下のご使者である廉公公の手に乗って戻ってきてしまった。
豪華で美しい鳥籠からは、小鳥でさえ逃げることはできないのだ。
ならばわたしは飼われる者として、ただ陛下の愛を天からの慈雨と思って過ごしていくしかない。
自らは求めまい。愛を乞うまい。
何も願わなければ、陛下を愛さなければ、愛が失われた時にも傷つかなくて済む――
うっかり真情を吐露してしまって、廉公公が困惑げに俯いている。わたしは気を取り直すように言った。
「そろそろ戻ります。鳥籠、運んでくださる?」
「はい! 奴才がお運びいたします」
廉公公が淹れてくれたお茶はとても美味しかった。また、頼んだら淹れてくれるかしら? 陛下のお手紙にお返事も書かなければいけないし、ちょっと待ってもらう間なら――
そんなことを考えながら堂に戻ってくると、妙にざわついていた。馬婆が息せき切って駆けこんでくる。
「娘娘! 大変です! 皇上が!」
なんと、高昭容の元に向かうはずだった陛下が、突然、こちらにお立ちよりになったのだ。
「詩阿! 体調がすぐれぬと聞いて、どうしても気になって」
人目もはばからずに陛下に抱きしめられ、唇まで奪われて、わたしは硬直する。――陛下は、後宮に仕える宮女や宦官を、同じ人間と思っていないフシがある。人語を解する家畜か、自動で動く家具か何かだと思っていらっしゃるのだ。だから、見られても恥ずかしいという感覚がそもそもないらしい。
でも、わたしはそうじゃないから、人前ではやめて……
「……顔色は、悪くはないようだが……」
「え、ええ……その……園林で新鮮な空気を吸ったらだいぶ、よくなりました」
「そうか、なら――」
もともと、月の障りだから、病気というわけではない。わたしは軽い方だし。
ただ、高昭容の訪問を断る口実に使ったので、陛下の方にも申し送っただけなのだが、裏目に出てしまった。
背後から太監が陛下を咎めた。
「皇上! 今宵は光華殿にお渡りの予定で――」
わたしも、その尻馬に乗って陛下をやんわりと拒むことにした。
「皇上、あちら様もお待ちでございましょう」
でも陛下はわたしが拒絶したのが気に入らなかったのか、端麗な眉を顰め、物憂げにおっしゃった。
「朕はそなたのことが心配で……」
「昭容も体調がすぐれぬと聞いております。せっかくの皇上のお渡りを、わたしが横取りしたように言われましては困ります」
「あれはどうせ仮病だ。朕の気を引こうと以前からうるさい」
「陛下――」
困ったな……と思うわたしの背後で、廉公公が抱えた竹細工の鳥籠の、鷽がチイチイと騒いでいた。
「その鳥はよく啼くな。鳥籠によう馴染んでおる」
「……はい、おかげさまで」
陛下は満足そうに鳥籠を覗き込み、馬婆に茶菓を所望して、二人並んで長椅子に座った。
「光華殿にはあとで参ると伝えておけ」
「……承知いたしました」
太監が呆れたように請け負い、配下の宦官を走らせる。廉公公が御座近くに置かれた支柱に鳥籠を引っ掛ければ、陛下は鳥籠に一瞥した後、わたしの手をギュッと握る。
「光華殿のこと、聞き及ぶか?」
「……はい。めでたいことで――」
「別にめでたくもない。誰が孕もうが、朕の最愛はそなた一人」
「陛下――」
陛下がわたしを両腕で抱きしめ、耳元で囁く。
「不安なのだ。他の女を孕ませた朕を厭うて、そなたが小鳥のように逃げてしまうのではと、心配でならぬ。――いっそ、あの鳥のようにそなたを鳥籠に閉じ込めてしまいたい」
「陛下……わたしは逃げたりはいたしません」
「詩阿……」
陛下がもう一度わたしの唇を塞いだちょうどその時、馬婆がお茶の盆を持って入ってきた。――この人たちも、わたしと陛下がどれだけいちゃつこうが、まったく動じることがない。困惑しているのはわたし一人だ。
「陛下、お茶が冷めてしまいます」
「お茶よりも詩阿の唇を味わいたい」
「は、恥ずかしいですから!」
わたしは顔が熱くて周囲も見られないと言うのに、陛下は平気で甘い言葉を囁いてくる。
「詩阿は恥ずかしがり屋だな」
違います、陛下がどちらかというと恥知らずなだけで――
「詩阿、夏になったら離宮に参ろうと思うのだ」
「離宮?」
わたしがきょとんと陛下を見上げると、陛下が端麗な顔の笑みを深くする。
「離宮と言っても、そこの、大明宮だ。――数代前の上皇の隠居所だったが、しばらく使っていなくて、昨年からずっと工事させていた。太極宮と違い、大きな池があって舟遊びもできる」
「まあ……」
離宮と言うと大げさだけれど、ここ太極宮の道を挟んだ北のはす向かいくらいの場所だ。
「池の中に、島があって東方の神仙の山にちなんで蓬莱山と言うんだが、そこにも離宮を作った。舟でしか行けない隠れ家みたいな」
陛下が悪戯っぽい笑みを浮かべ、言った。
「そこに、詩阿を閉じ込める鳥籠を作ろうと思って」
「え?」
思わず、まじまじと陛下のお顔を見てしまう。陛下がハハハ、と笑ってから、微笑む。
「もちろん、詩阿一人を閉じ込めたりはしない。俺も一緒に閉じこもるつもりで」
「……そんなことして、よろしいの?」
「五月、六月は暑くて仕事にならん。俺も少しは休暇をもらわないと、過労死してしまう」
もっと遠い、涼しい離宮で過ごす皇帝もいたが、移動に時間と金がかかるから嫌なのだと陛下がお笑いになる。
「宰相に言わせると俺は吝嗇家らしいから。上があまりにも倹約しすぎると、金が天下を回らず、景気が悪くなる。少しは金を使えと言われたので、離宮は少しばかり奮発したんだ」
もう一度唇を塞がれて貪られているその最中に、太監が呆れたように声をかけた。
「皇上! そろそろお時間でございます!」
陛下が興ざめしたように、わざとらしくため息をついた。
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チチチチ、ピピピピ、ピーピー……
「お前……外に出たくない? お前なら羽があるから、もう自由に飛んでいけるのよ?」
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皇后だから子はいなくてもいいはずなのに、「あれだけご寵愛を独占して懐妊しないなんて」などという声が、どこからか耳に入ってくる。
以前の、「お飾りの皇后」だったら、たぶん、気にならなかったのに――
高昭容からは、「たった一度のお渡りでも天の佑けで授かりまして」なんて、嫌味たっぷりの手紙が来て、挨拶に来るというのを体調が悪いからと断ったばかりだ。――迂闊に対面した後で昭容に何かあって、わたしが呪ったせい、なんて言われても堪らない。
狭い鳥籠の中で、呑気にピーピー啼いている鳥を見ていると、後宮に閉じ込められて逃げられない自分の姿と重なってきて、わたしは衝動的に鳥籠の戸を開けて、小鳥を外に逃がしてしまった。
チチチ……と青空に飛んでいく小鳥を見送って、逃がしてしまったと申し上げたら、陛下はお叱りになられるかしら――そんな風に思っていたら。
小鳥は逃げなくて、陛下のご使者である廉公公の手に乗って戻ってきてしまった。
豪華で美しい鳥籠からは、小鳥でさえ逃げることはできないのだ。
ならばわたしは飼われる者として、ただ陛下の愛を天からの慈雨と思って過ごしていくしかない。
自らは求めまい。愛を乞うまい。
何も願わなければ、陛下を愛さなければ、愛が失われた時にも傷つかなくて済む――
うっかり真情を吐露してしまって、廉公公が困惑げに俯いている。わたしは気を取り直すように言った。
「そろそろ戻ります。鳥籠、運んでくださる?」
「はい! 奴才がお運びいたします」
廉公公が淹れてくれたお茶はとても美味しかった。また、頼んだら淹れてくれるかしら? 陛下のお手紙にお返事も書かなければいけないし、ちょっと待ってもらう間なら――
そんなことを考えながら堂に戻ってくると、妙にざわついていた。馬婆が息せき切って駆けこんでくる。
「娘娘! 大変です! 皇上が!」
なんと、高昭容の元に向かうはずだった陛下が、突然、こちらにお立ちよりになったのだ。
「詩阿! 体調がすぐれぬと聞いて、どうしても気になって」
人目もはばからずに陛下に抱きしめられ、唇まで奪われて、わたしは硬直する。――陛下は、後宮に仕える宮女や宦官を、同じ人間と思っていないフシがある。人語を解する家畜か、自動で動く家具か何かだと思っていらっしゃるのだ。だから、見られても恥ずかしいという感覚がそもそもないらしい。
でも、わたしはそうじゃないから、人前ではやめて……
「……顔色は、悪くはないようだが……」
「え、ええ……その……園林で新鮮な空気を吸ったらだいぶ、よくなりました」
「そうか、なら――」
もともと、月の障りだから、病気というわけではない。わたしは軽い方だし。
ただ、高昭容の訪問を断る口実に使ったので、陛下の方にも申し送っただけなのだが、裏目に出てしまった。
背後から太監が陛下を咎めた。
「皇上! 今宵は光華殿にお渡りの予定で――」
わたしも、その尻馬に乗って陛下をやんわりと拒むことにした。
「皇上、あちら様もお待ちでございましょう」
でも陛下はわたしが拒絶したのが気に入らなかったのか、端麗な眉を顰め、物憂げにおっしゃった。
「朕はそなたのことが心配で……」
「昭容も体調がすぐれぬと聞いております。せっかくの皇上のお渡りを、わたしが横取りしたように言われましては困ります」
「あれはどうせ仮病だ。朕の気を引こうと以前からうるさい」
「陛下――」
困ったな……と思うわたしの背後で、廉公公が抱えた竹細工の鳥籠の、鷽がチイチイと騒いでいた。
「その鳥はよく啼くな。鳥籠によう馴染んでおる」
「……はい、おかげさまで」
陛下は満足そうに鳥籠を覗き込み、馬婆に茶菓を所望して、二人並んで長椅子に座った。
「光華殿にはあとで参ると伝えておけ」
「……承知いたしました」
太監が呆れたように請け負い、配下の宦官を走らせる。廉公公が御座近くに置かれた支柱に鳥籠を引っ掛ければ、陛下は鳥籠に一瞥した後、わたしの手をギュッと握る。
「光華殿のこと、聞き及ぶか?」
「……はい。めでたいことで――」
「別にめでたくもない。誰が孕もうが、朕の最愛はそなた一人」
「陛下――」
陛下がわたしを両腕で抱きしめ、耳元で囁く。
「不安なのだ。他の女を孕ませた朕を厭うて、そなたが小鳥のように逃げてしまうのではと、心配でならぬ。――いっそ、あの鳥のようにそなたを鳥籠に閉じ込めてしまいたい」
「陛下……わたしは逃げたりはいたしません」
「詩阿……」
陛下がもう一度わたしの唇を塞いだちょうどその時、馬婆がお茶の盆を持って入ってきた。――この人たちも、わたしと陛下がどれだけいちゃつこうが、まったく動じることがない。困惑しているのはわたし一人だ。
「陛下、お茶が冷めてしまいます」
「お茶よりも詩阿の唇を味わいたい」
「は、恥ずかしいですから!」
わたしは顔が熱くて周囲も見られないと言うのに、陛下は平気で甘い言葉を囁いてくる。
「詩阿は恥ずかしがり屋だな」
違います、陛下がどちらかというと恥知らずなだけで――
「詩阿、夏になったら離宮に参ろうと思うのだ」
「離宮?」
わたしがきょとんと陛下を見上げると、陛下が端麗な顔の笑みを深くする。
「離宮と言っても、そこの、大明宮だ。――数代前の上皇の隠居所だったが、しばらく使っていなくて、昨年からずっと工事させていた。太極宮と違い、大きな池があって舟遊びもできる」
「まあ……」
離宮と言うと大げさだけれど、ここ太極宮の道を挟んだ北のはす向かいくらいの場所だ。
「池の中に、島があって東方の神仙の山にちなんで蓬莱山と言うんだが、そこにも離宮を作った。舟でしか行けない隠れ家みたいな」
陛下が悪戯っぽい笑みを浮かべ、言った。
「そこに、詩阿を閉じ込める鳥籠を作ろうと思って」
「え?」
思わず、まじまじと陛下のお顔を見てしまう。陛下がハハハ、と笑ってから、微笑む。
「もちろん、詩阿一人を閉じ込めたりはしない。俺も一緒に閉じこもるつもりで」
「……そんなことして、よろしいの?」
「五月、六月は暑くて仕事にならん。俺も少しは休暇をもらわないと、過労死してしまう」
もっと遠い、涼しい離宮で過ごす皇帝もいたが、移動に時間と金がかかるから嫌なのだと陛下がお笑いになる。
「宰相に言わせると俺は吝嗇家らしいから。上があまりにも倹約しすぎると、金が天下を回らず、景気が悪くなる。少しは金を使えと言われたので、離宮は少しばかり奮発したんだ」
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