上 下
27 / 37

二十六、羈鳥恋旧林

しおりを挟む
羈鳥恋旧林 :羈鳥きちょうは旧林を恋う。籠の鳥は昔住んでいた林を恋しがる。陶淵明の「帰園田居」の一節。
 
◆◆◆◆◆◆◆


園林にわに鳥籠を持ち出し、わたしはウソの唄を聞いていた。

 チチチチ、ピピピピ、ピーピー……

「お前……外に出たくない? お前なら羽があるから、もう自由に飛んでいけるのよ?」

 高昭容の懐妊の噂と間を置かず、わたしに月の障りが訪れた。

 ――また、だめだった。

 以前なら、子供なんて特に欲しいと思わなかったのに、後宮では子供の有無が母親の地位を決める。
 「母は子を以てとうとし」という経典の言葉が、そのまま重要な意味を持ってくる。

 皇后だから子はいなくてもいいはずなのに、「あれだけご寵愛を独占して懐妊しないなんて」などという声が、どこからか耳に入ってくる。

 以前の、「お飾りの皇后」だったら、たぶん、気にならなかったのに――

 高昭容からは、「たった一度のお渡りでも天のたすけで授かりまして」なんて、嫌味たっぷりの手紙が来て、挨拶に来るというのを体調が悪いからと断ったばかりだ。――迂闊に対面した後で昭容に何かあって、わたしが呪ったせい、なんて言われても堪らない。
 
 狭い鳥籠の中で、呑気にピーピー啼いている鳥を見ていると、後宮に閉じ込められて逃げられない自分の姿と重なってきて、わたしは衝動的に鳥籠の戸を開けて、小鳥を外に逃がしてしまった。

 チチチ……と青空に飛んでいく小鳥を見送って、逃がしてしまったと申し上げたら、陛下はお叱りになられるかしら――そんな風に思っていたら。

 小鳥は逃げなくて、陛下のご使者である廉公公レンさんの手に乗って戻ってきてしまった。

 豪華で美しい鳥籠からは、小鳥でさえ逃げることはできないのだ。
 ならばわたしは飼われる者として、ただ陛下の愛を天からの慈雨と思って過ごしていくしかない。

 自らは求めまい。愛を乞うまい。

 何も願わなければ、陛下を愛さなければ、愛が失われた時にも傷つかなくて済む――


 
 
 うっかり真情を吐露してしまって、廉公公レンさんが困惑げに俯いている。わたしは気を取り直すように言った。

「そろそろ戻ります。鳥籠、運んでくださる?」 
「はい! 奴才わかくしめがお運びいたします」
 
 廉公公が淹れてくれたお茶はとても美味しかった。また、頼んだら淹れてくれるかしら? 陛下のお手紙にお返事も書かなければいけないし、ちょっと待ってもらう間なら――

 そんなことを考えながら堂に戻ってくると、妙にざわついていた。馬婆マーさんが息せき切って駆けこんでくる。

「娘娘! 大変です! 皇上が!」

 なんと、高昭容の元に向かうはずだった陛下が、突然、こちらにお立ちよりになったのだ。

「詩阿! 体調がすぐれぬと聞いて、どうしても気になって」  

 人目もはばからずに陛下に抱きしめられ、唇まで奪われて、わたしは硬直する。――陛下は、後宮に仕える宮女や宦官を、同じ人間と思っていないフシがある。人語を解する家畜か、自動で動く家具か何かだと思っていらっしゃるのだ。だから、見られても恥ずかしいという感覚がそもそもないらしい。
 でも、わたしはそうじゃないから、人前ではやめて……

「……顔色は、悪くはないようだが……」
「え、ええ……その……園林で新鮮な空気を吸ったらだいぶ、よくなりました」
「そうか、なら――」

 もともと、月の障りだから、病気というわけではない。わたしは軽い方だし。
 ただ、高昭容の訪問を断る口実に使ったので、陛下の方にも申し送っただけなのだが、裏目に出てしまった。

 背後から太監が陛下を咎めた。

「皇上! 今宵は光華殿にお渡りの予定で――」

 わたしも、その尻馬に乗って陛下をやんわりと拒むことにした。

「皇上、あちら様もお待ちでございましょう」

 でも陛下はわたしが拒絶したのが気に入らなかったのか、端麗な眉を顰め、物憂げにおっしゃった。

「朕はそなたのことが心配で……」
「昭容も体調がすぐれぬと聞いております。せっかくの皇上のお渡りを、わたしが横取りしたように言われましては困ります」
「あれはどうせ仮病だ。朕の気を引こうと以前からうるさい」
「陛下――」

 困ったな……と思うわたしの背後で、廉公公が抱えた竹細工の鳥籠の、ウソがチイチイと騒いでいた。

「その鳥はよく啼くな。鳥籠によう馴染んでおる」
「……はい、おかげさまで」

 陛下は満足そうに鳥籠を覗き込み、馬婆に茶菓を所望して、二人並んで長椅子に座った。

「光華殿にはあとで参ると伝えておけ」
「……承知いたしました」

 太監が呆れたように請け負い、配下の宦官を走らせる。廉公公が御座近くに置かれた支柱に鳥籠を引っ掛ければ、陛下は鳥籠に一瞥した後、わたしの手をギュッと握る。

「光華殿のこと、聞き及ぶか?」
「……はい。めでたいことで――」
「別にめでたくもない。誰が孕もうが、朕の最愛はそなた一人」
「陛下――」

 陛下がわたしを両腕で抱きしめ、耳元で囁く。

「不安なのだ。他の女を孕ませた朕を厭うて、そなたが小鳥のように逃げてしまうのではと、心配でならぬ。――いっそ、あの鳥のようにそなたを鳥籠に閉じ込めてしまいたい」
「陛下……わたしは逃げたりはいたしません」
「詩阿……」

 陛下がもう一度わたしの唇を塞いだちょうどその時、馬婆がお茶の盆を持って入ってきた。――この人たちも、わたしと陛下がどれだけいちゃつこうが、まったく動じることがない。困惑しているのはわたし一人だ。

「陛下、お茶が冷めてしまいます」
「お茶よりも詩阿の唇を味わいたい」
「は、恥ずかしいですから!」

 わたしは顔が熱くて周囲も見られないと言うのに、陛下は平気で甘い言葉を囁いてくる。
 
「詩阿は恥ずかしがり屋だな」

 違います、陛下がどちらかというと恥知らずなだけで――

「詩阿、夏になったら離宮に参ろうと思うのだ」
「離宮?」

 わたしがきょとんと陛下を見上げると、陛下が端麗な顔の笑みを深くする。

「離宮と言っても、そこの、大明宮だ。――数代前の上皇の隠居所だったが、しばらく使っていなくて、昨年からずっと工事させていた。太極宮と違い、大きな池があって舟遊びもできる」
「まあ……」

 離宮と言うと大げさだけれど、ここ太極宮の道を挟んだ北のはす向かいくらいの場所だ。
 
「池の中に、島があって東方の神仙の山にちなんで蓬莱山ほうらいさんと言うんだが、そこにも離宮を作った。舟でしか行けない隠れ家みたいな」

 陛下が悪戯っぽい笑みを浮かべ、言った。

「そこに、詩阿を閉じ込める鳥籠を作ろうと思って」
「え?」

 思わず、まじまじと陛下のお顔を見てしまう。陛下がハハハ、と笑ってから、微笑む。

「もちろん、詩阿一人を閉じ込めたりはしない。俺も一緒に閉じこもるつもりで」
「……そんなことして、よろしいの?」
「五月、六月は暑くて仕事にならん。俺も少しは休暇をもらわないと、過労死してしまう」

 もっと遠い、涼しい離宮で過ごす皇帝もいたが、移動に時間と金がかかるから嫌なのだと陛下がお笑いになる。

「宰相に言わせると俺は吝嗇家ケチらしいから。上があまりにも倹約しすぎると、金が天下を回らず、景気が悪くなる。少しは金を使えと言われたので、離宮は少しばかり奮発したんだ」 

 もう一度唇を塞がれて貪られているその最中に、太監が呆れたように声をかけた。

「皇上! そろそろお時間でございます!」

 陛下が興ざめしたように、わざとらしくため息をついた。

しおりを挟む
感想 41

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

【完結】私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね

江崎美彩
恋愛
 王太子殿下の婚約者候補を探すために開かれていると噂されるお茶会に招待された、伯爵令嬢のミンディ・ハーミング。  幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。 「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」  ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう…… 〜登場人物〜 ミンディ・ハーミング 元気が取り柄の伯爵令嬢。 幼馴染のブライアンに揶揄われてばかりだが、ブライアンが自分にだけ向けるクシャクシャな笑顔が大好き。 ブライアン・ケイリー ミンディの幼馴染の伯爵家嫡男。 天邪鬼な性格で、ミンディの事を揶揄ってばかりいる。 ベリンダ・ケイリー ブライアンの年子の妹。 ミンディとブライアンの良き理解者。 王太子殿下 婚約者が決まらない事に対して色々な噂を立てられている。 『小説家になろう』にも投稿しています

【完結】返してください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと我慢をしてきた。 私が愛されていない事は感じていた。 だけど、信じたくなかった。 いつかは私を見てくれると思っていた。 妹は私から全てを奪って行った。 なにもかも、、、、信じていたあの人まで、、、 母から信じられない事実を告げられ、遂に私は家から追い出された。 もういい。 もう諦めた。 貴方達は私の家族じゃない。 私が相応しくないとしても、大事な物を取り返したい。 だから、、、、 私に全てを、、、 返してください。

処理中です...