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十一、寤寐思服(皇帝視点)
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俺が皇太子になった時、詩阿はまだ十歳。皇太子妃として迎えるにはあまりに幼く、父の章岳も首を縦に振らなかった。
俺は、結局、正妻となる皇太子妃を迎えず、ただ良娣以下の側室はしぶしぶ受け入れざるを得なかった。
その時に良娣として納れたのが趙氏で、俺より二歳年上だった。――本来なら正妻の「妃」となるべき名家の出身だが、俺が我が侭を言ったので格下げされたわけだ。
気位の高い女で、俺の生母の出身が低いことを理由に内心では俺を見下していたのが、端々に感じ取れる。
この女を正妻にしなくて本当によかったと、今でも思う。
だが、嫌いだからといって、追い出すわけにもいかない。当てつけのように、韓氏や蔡氏などを侍らせてみたが、どの女も好きにはなれなかった。
十八歳の時、父が崩御し、俺は皇帝位に即く。
皇太子宮の後宮でも大概、煩わしかったが、皇帝となるとその比ではない。
皇后以下、四妃、九嬪、二十七世婦、八十一女御。百二十二人全部を埋める必要はないにしろ、ある程度の人員は補充しておかねばならない。なぜならば、後宮の妃嬪は男性官僚の対をなし、国家を支える官僚でもある。好きな女しか抱かない、なんてことは皇帝には許されない。
――歴史上、一人の女に入れあげたり、あるいは女に興味を持てない皇帝が存在しなかったわけではないが、たいてい、政権運営には失敗している。跡継ぎがいなければ政治的混乱は避けられないし、後宮を敵に回して上手くやれるはずがないからだ。
仕方なく趙氏を淑妃に、韓氏を充儀に昇格させ、周りの言うままに、新たな妃嬪も迎えた。相変わらず、どの女にも愛情などみじんも湧いてこない。
この時、詩阿は十三歳で、後宮に迎えることも不可能ではない年齢に達していた。
俺は内々に、章家に詩阿の後宮入りを申し入れたが、章岳は承諾しなかった。
「娘は、陛下のことを覚えてはおりません。権門でもない我が家の、まだ十三の娘が、後宮でやっていけるとは思えません」
将来の立后を踏まえ、大切に扱うからと言っても、章岳はけんもほろろだった。
「後宮のことは君王にも思うに任せぬこと。陛下の母君の二の舞になるのを恐れております」
母の最期のことを引き合いに出されてしまえば、それ以上は押せなかった。
皇帝の寵愛がなければ軽んじられ、寵愛が深ければ嫉妬される。即位後間もない俺には、詩阿を守り切れる自信がない。
それから間もなく、詩阿の兄、章礼文が優秀な成績で科挙に及第し、秘書省正字に任じられた。俺は差遣(本官以外の位階に関わらない職務)として翰林学士に任じ、禁中で詔勅の起草などにも関わらせることにした。いわば側近中の側近である。
あの事件の折り、礼文は一人、邸の外に救いを求めて走り、そのおかげで賊を捕らえて皇后の罪を暴くことができた。しかし彼は母と弟二人を失っている。俺は礼文には謝罪したいと考えていて、彼が禁中に宿直する機会を狙い、二人だけで――口の堅い宦官は背後に控えてはいるが――話をする機会を持った。
「家族を巻き込んで申し訳なかった」
頭を下げた俺に、礼文は慌てて首を振り、顔を上げるように言う。
「そのようなこと。陛下をお守りできたことは、我が章家の栄えでございます」
「何とか、そなたの父にも報いたいと思うのだが――」
「臣をここまで取り立てていただいただけでも、やりすぎと批判が出ましょう。父はあれで悠々自適に暮らしておりますので、お気になさらないでください」
俺は、勇気を振り絞って詩阿のことを尋ねた。詩阿を後宮に迎えたいと言えば、だが思った通り、礼文も首を振った。
「妹は陛下のことも、もっと言えばあの日失くした家族のことも、よくは覚えておりません。きっと、幼い心には惨すぎる光景だったのでございましょう。突然、後宮などと言われても戸惑うばかりと存じます。どうか、詩阿の幸せを思うならば、昔のことはお忘れください」
章岳も章礼文も、俺が章家を巻き込んだ罪悪感から、詩阿を後宮に迎えたいと言っているのだと思いこみ、それは不要だと断ってきた。そうではない。俺はあの日、腕の中で詩阿を守ったことだけが生きている支えなのだと、どう説明していいのかわからず、ただ俯いた。
「天子の後宮に侍ることは、確かに女としては栄誉なことでございましょう。陛下は恩義にも篤い方で、けして妹を粗略に扱うこともないと、臣も信じております。ですが――」
章礼文が少しばかり言いにくそうに、俺を見た。
「天子の後宮には古来、数千の美女がひしめくと申します。我が妹は不細工とは申しませんが、後宮の名花を見慣れた陛下のお目に適うとは思いませぬ」
「いや、朕はそのようなつもりではなく、いずれ詩阿を皇后に立てたいと思うておる」
皇后と言われ、礼文がぎょっとして黒い目を見開く。
「それは――いくら何でも過分にございます。それに……我が章家の娘ごときを皇后に立てるのが、果たして可能でしょうか? 後宮には趙淑妃以下、東宮時代からお仕えする妃嬪が幾人もおられると伺っております。幼馴染とは申しましても、本人は覚えておりませんし、やはり普通の、唯一の妻として大切にしてくれる男のもとに嫁がせてやりたいと思います」
礼文からは遠回しに、何人もの女を後宮に侍らせている、俺のような男のもとにやりたくないと言われてしまった。
――貴族の男が複数の妻妾を囲うことは珍しくはない。しかし、唯一の妻を生涯大切にする男も少なからずいる。だが、少なくとも皇帝である俺には、そんなことは許されない。
詩阿をどれほど寵愛したところで、他の妃嬪を後宮から追い出すことなどできるわけもなく、そんなことをすれば皇帝としての資質を疑われるだろう。後宮を適切に御してこその皇帝なのだから。
たとえ皇后にしてもらえるとしても、後宮に嫁ぐことは詩阿の幸せにはならない。――礼文の言葉に、俺は反論できなかった。
俺は、結局、正妻となる皇太子妃を迎えず、ただ良娣以下の側室はしぶしぶ受け入れざるを得なかった。
その時に良娣として納れたのが趙氏で、俺より二歳年上だった。――本来なら正妻の「妃」となるべき名家の出身だが、俺が我が侭を言ったので格下げされたわけだ。
気位の高い女で、俺の生母の出身が低いことを理由に内心では俺を見下していたのが、端々に感じ取れる。
この女を正妻にしなくて本当によかったと、今でも思う。
だが、嫌いだからといって、追い出すわけにもいかない。当てつけのように、韓氏や蔡氏などを侍らせてみたが、どの女も好きにはなれなかった。
十八歳の時、父が崩御し、俺は皇帝位に即く。
皇太子宮の後宮でも大概、煩わしかったが、皇帝となるとその比ではない。
皇后以下、四妃、九嬪、二十七世婦、八十一女御。百二十二人全部を埋める必要はないにしろ、ある程度の人員は補充しておかねばならない。なぜならば、後宮の妃嬪は男性官僚の対をなし、国家を支える官僚でもある。好きな女しか抱かない、なんてことは皇帝には許されない。
――歴史上、一人の女に入れあげたり、あるいは女に興味を持てない皇帝が存在しなかったわけではないが、たいてい、政権運営には失敗している。跡継ぎがいなければ政治的混乱は避けられないし、後宮を敵に回して上手くやれるはずがないからだ。
仕方なく趙氏を淑妃に、韓氏を充儀に昇格させ、周りの言うままに、新たな妃嬪も迎えた。相変わらず、どの女にも愛情などみじんも湧いてこない。
この時、詩阿は十三歳で、後宮に迎えることも不可能ではない年齢に達していた。
俺は内々に、章家に詩阿の後宮入りを申し入れたが、章岳は承諾しなかった。
「娘は、陛下のことを覚えてはおりません。権門でもない我が家の、まだ十三の娘が、後宮でやっていけるとは思えません」
将来の立后を踏まえ、大切に扱うからと言っても、章岳はけんもほろろだった。
「後宮のことは君王にも思うに任せぬこと。陛下の母君の二の舞になるのを恐れております」
母の最期のことを引き合いに出されてしまえば、それ以上は押せなかった。
皇帝の寵愛がなければ軽んじられ、寵愛が深ければ嫉妬される。即位後間もない俺には、詩阿を守り切れる自信がない。
それから間もなく、詩阿の兄、章礼文が優秀な成績で科挙に及第し、秘書省正字に任じられた。俺は差遣(本官以外の位階に関わらない職務)として翰林学士に任じ、禁中で詔勅の起草などにも関わらせることにした。いわば側近中の側近である。
あの事件の折り、礼文は一人、邸の外に救いを求めて走り、そのおかげで賊を捕らえて皇后の罪を暴くことができた。しかし彼は母と弟二人を失っている。俺は礼文には謝罪したいと考えていて、彼が禁中に宿直する機会を狙い、二人だけで――口の堅い宦官は背後に控えてはいるが――話をする機会を持った。
「家族を巻き込んで申し訳なかった」
頭を下げた俺に、礼文は慌てて首を振り、顔を上げるように言う。
「そのようなこと。陛下をお守りできたことは、我が章家の栄えでございます」
「何とか、そなたの父にも報いたいと思うのだが――」
「臣をここまで取り立てていただいただけでも、やりすぎと批判が出ましょう。父はあれで悠々自適に暮らしておりますので、お気になさらないでください」
俺は、勇気を振り絞って詩阿のことを尋ねた。詩阿を後宮に迎えたいと言えば、だが思った通り、礼文も首を振った。
「妹は陛下のことも、もっと言えばあの日失くした家族のことも、よくは覚えておりません。きっと、幼い心には惨すぎる光景だったのでございましょう。突然、後宮などと言われても戸惑うばかりと存じます。どうか、詩阿の幸せを思うならば、昔のことはお忘れください」
章岳も章礼文も、俺が章家を巻き込んだ罪悪感から、詩阿を後宮に迎えたいと言っているのだと思いこみ、それは不要だと断ってきた。そうではない。俺はあの日、腕の中で詩阿を守ったことだけが生きている支えなのだと、どう説明していいのかわからず、ただ俯いた。
「天子の後宮に侍ることは、確かに女としては栄誉なことでございましょう。陛下は恩義にも篤い方で、けして妹を粗略に扱うこともないと、臣も信じております。ですが――」
章礼文が少しばかり言いにくそうに、俺を見た。
「天子の後宮には古来、数千の美女がひしめくと申します。我が妹は不細工とは申しませんが、後宮の名花を見慣れた陛下のお目に適うとは思いませぬ」
「いや、朕はそのようなつもりではなく、いずれ詩阿を皇后に立てたいと思うておる」
皇后と言われ、礼文がぎょっとして黒い目を見開く。
「それは――いくら何でも過分にございます。それに……我が章家の娘ごときを皇后に立てるのが、果たして可能でしょうか? 後宮には趙淑妃以下、東宮時代からお仕えする妃嬪が幾人もおられると伺っております。幼馴染とは申しましても、本人は覚えておりませんし、やはり普通の、唯一の妻として大切にしてくれる男のもとに嫁がせてやりたいと思います」
礼文からは遠回しに、何人もの女を後宮に侍らせている、俺のような男のもとにやりたくないと言われてしまった。
――貴族の男が複数の妻妾を囲うことは珍しくはない。しかし、唯一の妻を生涯大切にする男も少なからずいる。だが、少なくとも皇帝である俺には、そんなことは許されない。
詩阿をどれほど寵愛したところで、他の妃嬪を後宮から追い出すことなどできるわけもなく、そんなことをすれば皇帝としての資質を疑われるだろう。後宮を適切に御してこその皇帝なのだから。
たとえ皇后にしてもらえるとしても、後宮に嫁ぐことは詩阿の幸せにはならない。――礼文の言葉に、俺は反論できなかった。
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