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十、金屋蔵嬌(皇帝視点)

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*金屋蔵嬌:幼馴染の女性を妻にすること。前漢武帝がまだ幼い時、従姉の陳嬌を妻にできたら黄金の御殿を作って住まわせる、と約束し、後に皇后にした故事にちなむ。

◆◆◆◆◆



「詩阿ねぇ、弘毅兄さんのお嫁さんになるの!」
「本当に? 約束だぞ?」

 長安の街の東側、高級官僚の邸宅が立ち並ぶ光福坊の一角、章欣亮しょうきんりょうやしきでは、まだ幼い欣亮の孫娘、詩阿が干した杏を抱え、俺の膝に乗ってくる。

「はい、やくそくのしるしの、干杏ほしあんず、あーん」

 そう言って、無邪気に俺の口元に干杏を差し出してくる、小さな白い手が可愛らしい。

「ずるいぞー! 詩阿ねえばっかり!」

 末っ子の章楽文が、姉の詩阿を押しのけて自分も膝に乗ろうとするのを、横で見ていた次男の章祝文が呆れたように咎める。

「やめろよ、弘毅の膝は一個しかないんだから!」
「二つあるよ~!」
「だーめ、弘毅兄さんのお膝は詩阿の!」

 俺は六歳と四歳の幼児二人を同時に両膝に乗せ、抱えるようにして笑った。

「ほらほら、喧嘩するな!」
「ダメー! 楽文は祝文兄さんのとこ行きなさいよお! 詩阿は弘毅兄さんのお嫁さんになるから、弘毅兄さんは、詩阿の!」
「なんでーずるいー!」

 後宮で命を狙われていた俺は、章欣亮の自邸に匿われた。三人の孫息子がいるから、一人ぐらい増えたところでわからない。「木は森に隠せ」というやつだ。

 俺の母親は後宮でも最底辺の官婢の出だったが、父の寵愛を一身に集めた。気の弱い父は正妻の皇后に頭が上がらず、俺の母に癒しを求めたのだ。だが、その結果、母は皇后の猛烈な嫉妬を買った。
 俺と母は皇后の攻撃の的となり、後宮内で立場が弱かった。俺が十歳の時、皇太子が病死すると状況はさらに悪化した。

 皇后は兄の、生まれて間もない赤子を皇太孫に立てろと父に要求し、順当に俺を推す群臣と対立した。
 母と俺の食事に毒物が混入され、母は俺を庇って毒を口にし、死んだ。父は、後宮では俺の命を守り切れないと考え、学問の師匠だった章欣亮に命じ、俺を後宮の外に匿わせた。
 
 長男の章礼文は俺より三歳上の十四歳、二男の祝文は同い年の十一歳、一人娘の詩阿が六歳、三男の楽文が四歳。彼らの父親である章岳は正妻のかん夫人一筋で、絵に描いたような平和な家族だった。俺の素性について、章岳はもちろん聞いているのだろうが、甘夫人や子供たちは知らない。それでも、家族同様に接してくれて、俺は初めて、普通の当たり前の家族の幸せを知った。

 夫婦とは、兄弟とは、こういうものであるべきだと思った。
 後宮は歪んでいる。
 一人の男の寵愛を、百人を超える女が競い合うなんて、なぜ、賢聖はそんな制度を考えたのか。
 一夫一婦を重視する教えでありながら、皇帝にはそれを許さないのは、大いなる矛盾ではないか。

 嫉妬に狂い、母を殺した皇后を俺は憎んでいたが、こうしてただ一人の妻として愛されて過ごす甘夫人を見れば、皇后の置かれた理不尽な立場に同情すら覚える。
 身分のある妃嬪たちならばまだしも、最底辺でろくな教養もない俺の母に寵愛を奪われて、自尊心をいたく傷つけられたことだろう。その恨みが積もり積もって闇となり、後宮を取り巻いている。

 俺は、後宮の闇を心の底から厭うた。
 
 


 章家では、兄弟中の唯一の女の子、詩阿は家族の公主おひめさまだった。
 色白の整った容貌、大きな黒い瞳がくるくるとよく動き、時に我が侭を言うが甘え上手で、おませで可愛らしかった。小さな身体は、抱きしめれば折れそうに華奢で、そして甘い匂いがした。

「お嫁さんにして」

 なんて言われて、二つ返事で承諾した。周囲は幼い詩阿の我が侭に付き合っていると思っていたようだが、俺はかなり本気だった。それに、詩阿と結婚すれば、俺は彼ら章家と本当の家族になれる。
 ギスギスした伏魔殿のような後宮を離れ、市井で愛する家族と穏やかな愛をはぐくみたい。
 できれば、詩阿のような可愛らしい女を妻にして、生涯一人を大切にしたい。
 
 ――まだ子供だった俺は、いつかそんな日を夢見ていた。




 しかし、皇后は俺の居場所を突き止め、章家に刺客を送りこんだ。

 襲撃があった時、章欣亮と息子の章岳は外出し、家に残るのは年老いた家宰と下男、女性の使用人ばかりだった。刺客は俺の顔を知らず、また物取り目当ての賊に見せかけるため、章家の家族や使用人にも手当たり次第に襲い掛かった。

 長男の章礼文は異常を察知し、助けを求めて外に走り、おかげで助かった。次男の祝文はおそらく、俺と間違えられて殺害された。章岳の妻・甘夫人は三男の楽文を抱きしめ、必死に命乞いをしたが無駄だった。

 俺は小さな詩阿を抱え、無我夢中で納戸に隠れた。

 響き渡る悲鳴と怒号。物の壊れる音。
 ちょうど、俺たちが隠れている目の前で、甘夫人と楽文が殺されるのが見えた。
 
 目の前で繰り広げられる、無限とも思える殺戮の時。血の臭いが漂う凄惨な現場を、止めることも助けることもできず、俺は詩阿が声を出さないようにその口を手で塞ぎ、じっと物陰で身を潜めて見ていた。恐怖で血が凍り、自分の心臓の音が頭に響く。

 詩阿の、体温だけが温かかった。

 あの時、俺は詩阿の目を塞がなかったことを、今でも悔いている。
 幼い心にあの光景はあまりに惨かったのか、詩阿は数日高熱に魘され、目覚めた時には事件と家族に対する記憶が抜け落ちていたという。



 事件の後、俺は後宮に戻った。
 捕らえられた刺客から事件の黒幕はあっさりと暴かれたが、皇后の罪はおおやけにはされず、ただ幽閉されて毒を賜り、急な病で崩じたと布告された。

 章欣亮の邸を襲った賊は、物取りとして処理された。
 高齢の章欣亮は事件の衝撃で体調を崩し、一年ほどで亡くなった。妻を失った章岳もまた、父の死を理由に職を辞し、邸に引きこもった。

 俺は皇太子になり、自由を失い、詩阿にも会うことはできないまま、年月が過ぎる。
 十五歳で皇太子妃をれる段になり、俺は章家の詩阿以外は嫌だと我が侭を言った。
 子供同士の口約束とはいえ、俺は詩阿以外の花嫁など想像したくもなかったし、それが俺が巻き添えにした章家の家族たちへの、罪滅ぼしだと考えていた。
 ――いや、それはただの理由づけで、本当はあの日、ずっと抱きしめていた詩阿の小さな体の、ぬくもりだけが俺の生きている証のような気がしていたから。

 あの日、恩人たちが殺されるのを見ていることしかできなかった俺が、唯一救えた命が詩阿だった。
 胸の中に抱きこんでいた詩阿の命こそ、俺の命そのもの。

 だから俺には、詩阿以外の花嫁などあり得ないのだ――

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