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六、皇帝来儀

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皇上ホワンシャン駕到ジアタオ!」

 奥の寝所のとばりの中、待っているうちにウトウトしていたわたしは、宦官の甲高い先ぶれの声で、ハッとして飛び起きた。
 
 危ないところだった。今夜まで寝過ごしたら、さすがに皇后失格の烙印らくいんを押されてしまう。
 慌てて居住まいを正し、皇帝陛下の到着を待つ。

 ややあって、ザワザワした人の気配と衣擦れの音とともに、房室に灯篭を下げた女官が、次いで先導の王尚宮おうしょうきゅうが入ってくる。――王尚宮は色白でふくよかな四十がらみの女官で、先々代の皇帝とはいい仲だったとかなんとか、馬婆マーさんが余計な情報を教えてくれたのを思い出す。

 ついで陛下が入ってこられたので、わたしは帳台を降りて礼をしようとしたが、陛下が止めた。

「よい、そのままで。床は冷える故、跪拝きはいの必要はない。帳の中に居れ」

 こういう時にお礼を申しあげるべきか否か、習っていなかったのでちらりと王尚宮を見るが、緩く首を振ったので、黙っていることにした。

 陛下は常服で、複数人の女官と宦官が取り付き、冠と袍を脱がせていく。絹の襦衣だけになったところで、周囲の者に下がるように言う。

「もうよい。下がれ」
「は……」

 女官たちが頭を下げ、脱いだ衣服を抱え、後ろ向きに下がっていく。最後に王尚宮が戸口で深く頭を下げ、

「明朝、刻限になりましたらお迎えに参ります」

と言えば、陛下が告げた。

「朝の小吃けいしょくはこの宮にて食す。尚食に伝えておくように」

 王尚宮がぎょっとしたように身を起こし、しばらく絶句してから、慌てて頭を下げる。

「は、しかとそのように!」
「それから明日は朝議は入っていない故、朕もゆるりと過ごし、内廷には戻らぬつもりでおる。緊急以外は内廷の方で処理するようにすでに命じてある。つまらぬことで朕と皇后を騒がすでないぞ」
「……は! しかと心得ましてございます!」

 そそくさと出て行く王尚宮が最後に扉を閉めると、室内にはあと一人、まだ若い宦官だけが残った。この宦官は不寝番で、絶対に陛下のそばを離れない。陛下も宦官の存在を気にする様子もなく、帳をめくって臥台に腰を下ろすと、宦官がその前に屈みこんで、無言で室内履きを脱がせ、わたしのくつと並べて置く。
 陛下が帳台に上がってしまうと宦官が帳を閉め、内部は二人きりになった。帳のすぐ脇の灯篭だけが赤く灯っていて、内部も薄暗い。
 
 帳の中で、陛下は胡坐をかいてわたしの正面に向き合い、しばらく黙っていた。

「……」
「……」

 お互い無言で、わたしは気まずさのあまり下を向く。――辛い。全然知らない男の人と二人きり(帳の外に宦官がいるけど)なんて。

「……ようやく来れた。しばらく放置するような形になり、申し訳なかった」
「い、いえ、そんな……」

 別に気にしていませんし――は言わない方がいいかもしれないと思い、飲み込む。

「礼文からも聞いておる。そなたは、朕のことなど覚えてはおらぬと。――無理に思い出させることはないと言ったのは朕だが、まったく忘れられているのは悲しいものだな」
「え?」

 わたしが顔を上げると、正面の陛下の、彫りの深い顔の眉に陰りがあった。

「お会いしたことがありましたか……?」
「ああ。……もう、十年……十二年になるな。朕はそなたのやしきに匿われておった。そなたとも毎日のように過ごしていたが――」
「あ――十二年って……」

 わたしがアッと手で口元を覆う。

「思い出したか?」
「いえ……その、忘れた理由に思い至ったというか――」

 わたしの言葉に、陛下は眉尻を下げ、苦笑した。

「……そうだな、その方がよいかもしれぬ。あの場面は幼いそなたにはさぞ、酷であったろうから。忘れているなら、忘れたままの方がよい」

 十二年前、我が章家のやしきに賊が入り、母と兄、そして弟が殺害された。わたしは殺害現場を目にした衝撃で、当時の記憶が抜け落ちていて、父も生き残った兄も、その事件には触れようとはしない。――それに、陛下が関わっている……?

「……陛下もその場にいらっしゃったのですか?」
「いたというか、賊の目的が朕だった。――そなたの家族は言うなれば巻き添えで……」

 陛下が眉間に深い皺を刻み、俯き、両手を褥の上について頭を下げた。

「……すまなかった。そなたの家族を巻き込んだことをずっと、謝りたいと思い――」
「ええええ!」

 わたしはびっくりして陛下の肩に思わず手をかけていた。

「顔をお上げください! そのような……もう忘れておりましたし……」
「だが――」
「まさか、謝るためにわたしを皇后に!?」

 そんな理由で皇后に選ばれていたらさすがにひどいと思って尋ねれば、陛下はびっくりしたように顔を上げ、首を振った。

「まさか! そんなわけはない! ……そうか、朕の存在自体を忘れていたから、憶えているわけはないな。十二年前に約束したのだ。そなたを朕の花嫁にすると」
「……へ? ウソ……」

 ウソと言われて、陛下はさすがに傷ついたように一瞬、顔を歪めたが、すぐに元の苦笑に戻し、緩く首を振った。

「ウソではない。そなたは忘れても、朕は覚えておった」
「……皇帝になる予定の人の、花嫁になると約束したのですか?」

 ちょっと図々しくない? 昔のわたし……。

「そなたはまだほんの子供であったし、朕の身分は伏せられていた。故に、そなたの母や兄弟は賊の狙いもわからず心構えもなく、害に遭った」
「……わたしだけ助かった……」
「そなたを抱えて、朕がとっさに物影に隠れていたせいで、朕とそなたは助かった。だが――」

 そう言って俯いた陛下の表情があまりに沈痛で、わたしは思わず言った。

「では、陛下のおかげでわたしは助かったのですね! わたしこそお礼を……」
「そもそも、朕がそなたの家に匿われなければ、そなたの家族は害に遭わなかったのだぞ」
「……それは……陛下をお匿いしたのは父か、祖父かの決断で、覚悟の上にございましょう。陛下がお気になさることでは――」
「そなたの祖父は朕の師であった……」
 
 陛下は端麗な顔を歪めた。――身近でつくづく見ても、とても美しいお顔をなさっている。十二年前と言えば十歳を越したあたりだろうか、きっと美少年だったに違いない。幼いわたしは甘やかされていたから、美少年だった陛下にずうずうしく擦り寄り、「お嫁さんにして」くらいは言ったかもしれない……。
 
「命を助けていただいた上に、そんな昔の約束を覚えていてくださって、ありがとうございます……」
 
 でもそんな約束を本気で実行して、大がかりな納后儀礼までしたのかと思うと、正直言って少しばかり、いやかなり迷惑というか……。事前に相談してくれたら、もう気にしないでと断ったのに。

 わたしが内心の複雑な思いを押し隠して頭を下げると、突然、陛下の腕が伸びてわたしの肩を掴み、抱き寄せられた。

「きゃあ!」

 思わず悲鳴をあげてしまい、しまったと両手で口を押える。目の前には白い襦衣一枚だけの、陛下の胸があって反射的に避けようとして、頭上から咎める声が落ちる。

詩阿しあ……逃げるな」

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