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ユージーン0
別れのハンカチ
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バーティの言葉に僕は背筋がゾクッとした。
「やっぱりさ、本物の箱入り娘っていいよね? バークリー公爵の掌中の珠。あんなに若いのに、もう人妻だなんて、残念だな」
ペロリと舌なめずりされて、僕は顔が引き攣るのを懸命に押さえる。
バーティは要するに、僕から奪いたいだけなのだ。
ツグミのヒナも、子猫も、仔犬も……そして、メイドのベッキーも。
だから、僕との結婚を断ったマデリーンには興味を無くした。
だがルイーズは? 実質的に夫婦でなくとも、ルイーズは僕の妻で、離婚なんて簡単にできない。
僕は、母の部屋で何も知らずに僕を待っているであろう、ルイーズの姿を思い浮かべる。
まだ十六歳の彼女は細身で華奢で、大きな瞳のせいで年齢よりも幼く見える。そしてずっと王都には来なくて、田舎の素朴な人々と暮らしていた。
小さな教会と、山に囲まれた村。王都の空気さえ耐えられなさそうな彼女が、王宮でバーティの毒に中てられたら! 世慣れない彼女は逃げることもできないに違いない。
僕は咄嗟に、薄笑いを浮かべてバーティに言った。
「……田舎の、野暮ったくて子供っぽい娘だよ。……マデリーンほど洗練されてないし、会話もつまらない」
「へえ……そうなんだ」
バーティは興を削がれたように言うと、肩をそびやかして去っていった。
僕の心臓はバクバクと波うち、息は切れそうだった。
僕は怖い。バーティが怖い。彼の内部に潜む闇が怖い。いずれその闇が僕を捕え、飲み込んでしまうのでは――
母の部屋で待っていたルイーズは、不安そうに悄然としていた。
そりゃそうだ。結婚後、数か月放置され、他人同然の夫と慣れない王都で国王に謁見するのだ。
娘のいない母はルイーズがお気に入りなのか、あれこれ世話を焼いているらしい。もちろん、ほったらかして遊び歩いていることにクドクドと説教されたけれど、マデリーンとの件で後ろめたい上に、さっきのバーティとの邂逅で、僕はすっかり疲れ切っていた。
「ルイーズは王都は慣れないし、何しろデビューなのよ。お前がちゃんと世話して、エスコートして――」
だがそんなことをしたら、バーティはルイーズに目をつけるだろう。無垢で儚げで、王都に友人もいないルイーズは、マデリーンよりもむしろ、嗜虐欲を煽る。たとえば王太子に呼び出されて、ルイーズに逆らえるだろうか? 何も知らない彼女には上手く対処するなんてできっこない。
そして人妻であり、さらにバークリーの正式な継承者であるルイーズは、王太子との醜聞に巻き込まれた場合のダメージがマデリーンの比ではない。
――バーティにとっては獲物の傷が大きければ大きいほどいい。
僕は、舞踏会当日はルイーズに近づくまいと決めた。
僕がルイーズに興味を持たないと知れば、バーティはきっと、ルイーズへの関心を無くす。僕がマデリーンの近くにいれば、バーティは相変わらず、僕がマデリーンに執着していると勘違いするだろう。
世慣れないルイーズを王都で守るには、それ以外に方法はない――
愚かで、そしてルイーズを傷つけるだけの決断。
真っ白なデビュタントのドレスを着たルイーズは、やはりあの日の少女にとてもよく似ていた。
本当は、あの少女はルイーズなのではないか。そんな疑いを僕は飲み込んで――
舞踏会当日、完全に僕に放置されたルイーズは、「従姉の恋人を奪った上に、爵位と領地以外の取り柄のない、顧みられない妻」だと噂され、ひどく傷つけられて王宮を後にしたという。
バーティの毒牙からは守れたかもしれないが、これではとても、彼女を守ったとは言い難いと、僕が気づいたときには後の祭りで――
バークリー公爵からもさすがに苦言を呈され、また母からも、そして陛下からも呼び出されてこっぴどく叱責された。この結婚が僕の、将来を保証するためのものだとは、僕だってわかっている。
でもきっと、バーティはそのすべてが気に入らないのだ。
陛下と同じ髪と瞳の色を持ち、陛下に愛された母を持ち、王子としての責任も求められず、由緒ある大領を継承する、若く愛らしい妻を得た僕が。僕から奪えるものならば、バーティは何でも奪いたいと考えている。だからルイーズがバークリーに戻るまでは――
「本当はね、今日この場にルイーズも呼んだのよ。でも、丁重に断りの手紙が来たわ。……どういうことかわかる? 彼女もう、バークリーに帰るって」
僕はその話を聞いて、明らかにホッと安堵の表情を浮かべてしまい、母の扇がバシッと飛んできた。
「いい加減になさい! 自分が何をしたかわかっているの?!」
「それは……その……」
しどろもどろになる僕に、母は諦めたように、封筒を渡す。
「あなたへの手紙が同封されていたわ。……封はされていなかったら、中も見せてもらったけど」
扇の陰で心底、疲れたようにため息をつく母の様子から、相当のことが書いてあると察して、僕は恐る恐る封筒を開く。
中は短い手紙と、そして――
『わたくしとの結婚は望まれていないようですので、これ以上の結婚はお互いに時間の無駄です。バークリーの継承者として、わたくしはあなたとの離婚を望みます。そのハンカチは以前にあなたに貸していただいたものですが、お返しする機会もありませんでしたので、同封します』
白い、絹のハンカチ。僕が普段使うものよりも一回り小さく、でも、ユージーンの刺繍と王家の紋章を縫い込まれた、僕のハンカチ。……これは、おそらく昔使っていたもので――
そう、すっかり忘れていたけれど、あの日、迷路で会った少女に、僕はハンカチを貸した。つまりこれは――
あの時迷路で会ったのは、マデリーンではなく、やはりルイーズだった?
でも、彼女はずっと領地にいて王都には出てきていないと――
僕が顔を上げると、母と、陛下が黙って僕を見つめていた。陛下が重々しく言われた。
「ユージーン。そなたのバークリーへの婿入りは、政治的な意味合いもある。そう簡単に覆すこともできぬ。オスカーよりも離婚の申し出があったが、余は退けた。離婚はならぬと心得よ。バークリーの後継者の責任は何か、ようよう考えて行動せよ」
僕は無言で頭を下げ、その日の内にバークリーに向かった。
「やっぱりさ、本物の箱入り娘っていいよね? バークリー公爵の掌中の珠。あんなに若いのに、もう人妻だなんて、残念だな」
ペロリと舌なめずりされて、僕は顔が引き攣るのを懸命に押さえる。
バーティは要するに、僕から奪いたいだけなのだ。
ツグミのヒナも、子猫も、仔犬も……そして、メイドのベッキーも。
だから、僕との結婚を断ったマデリーンには興味を無くした。
だがルイーズは? 実質的に夫婦でなくとも、ルイーズは僕の妻で、離婚なんて簡単にできない。
僕は、母の部屋で何も知らずに僕を待っているであろう、ルイーズの姿を思い浮かべる。
まだ十六歳の彼女は細身で華奢で、大きな瞳のせいで年齢よりも幼く見える。そしてずっと王都には来なくて、田舎の素朴な人々と暮らしていた。
小さな教会と、山に囲まれた村。王都の空気さえ耐えられなさそうな彼女が、王宮でバーティの毒に中てられたら! 世慣れない彼女は逃げることもできないに違いない。
僕は咄嗟に、薄笑いを浮かべてバーティに言った。
「……田舎の、野暮ったくて子供っぽい娘だよ。……マデリーンほど洗練されてないし、会話もつまらない」
「へえ……そうなんだ」
バーティは興を削がれたように言うと、肩をそびやかして去っていった。
僕の心臓はバクバクと波うち、息は切れそうだった。
僕は怖い。バーティが怖い。彼の内部に潜む闇が怖い。いずれその闇が僕を捕え、飲み込んでしまうのでは――
母の部屋で待っていたルイーズは、不安そうに悄然としていた。
そりゃそうだ。結婚後、数か月放置され、他人同然の夫と慣れない王都で国王に謁見するのだ。
娘のいない母はルイーズがお気に入りなのか、あれこれ世話を焼いているらしい。もちろん、ほったらかして遊び歩いていることにクドクドと説教されたけれど、マデリーンとの件で後ろめたい上に、さっきのバーティとの邂逅で、僕はすっかり疲れ切っていた。
「ルイーズは王都は慣れないし、何しろデビューなのよ。お前がちゃんと世話して、エスコートして――」
だがそんなことをしたら、バーティはルイーズに目をつけるだろう。無垢で儚げで、王都に友人もいないルイーズは、マデリーンよりもむしろ、嗜虐欲を煽る。たとえば王太子に呼び出されて、ルイーズに逆らえるだろうか? 何も知らない彼女には上手く対処するなんてできっこない。
そして人妻であり、さらにバークリーの正式な継承者であるルイーズは、王太子との醜聞に巻き込まれた場合のダメージがマデリーンの比ではない。
――バーティにとっては獲物の傷が大きければ大きいほどいい。
僕は、舞踏会当日はルイーズに近づくまいと決めた。
僕がルイーズに興味を持たないと知れば、バーティはきっと、ルイーズへの関心を無くす。僕がマデリーンの近くにいれば、バーティは相変わらず、僕がマデリーンに執着していると勘違いするだろう。
世慣れないルイーズを王都で守るには、それ以外に方法はない――
愚かで、そしてルイーズを傷つけるだけの決断。
真っ白なデビュタントのドレスを着たルイーズは、やはりあの日の少女にとてもよく似ていた。
本当は、あの少女はルイーズなのではないか。そんな疑いを僕は飲み込んで――
舞踏会当日、完全に僕に放置されたルイーズは、「従姉の恋人を奪った上に、爵位と領地以外の取り柄のない、顧みられない妻」だと噂され、ひどく傷つけられて王宮を後にしたという。
バーティの毒牙からは守れたかもしれないが、これではとても、彼女を守ったとは言い難いと、僕が気づいたときには後の祭りで――
バークリー公爵からもさすがに苦言を呈され、また母からも、そして陛下からも呼び出されてこっぴどく叱責された。この結婚が僕の、将来を保証するためのものだとは、僕だってわかっている。
でもきっと、バーティはそのすべてが気に入らないのだ。
陛下と同じ髪と瞳の色を持ち、陛下に愛された母を持ち、王子としての責任も求められず、由緒ある大領を継承する、若く愛らしい妻を得た僕が。僕から奪えるものならば、バーティは何でも奪いたいと考えている。だからルイーズがバークリーに戻るまでは――
「本当はね、今日この場にルイーズも呼んだのよ。でも、丁重に断りの手紙が来たわ。……どういうことかわかる? 彼女もう、バークリーに帰るって」
僕はその話を聞いて、明らかにホッと安堵の表情を浮かべてしまい、母の扇がバシッと飛んできた。
「いい加減になさい! 自分が何をしたかわかっているの?!」
「それは……その……」
しどろもどろになる僕に、母は諦めたように、封筒を渡す。
「あなたへの手紙が同封されていたわ。……封はされていなかったら、中も見せてもらったけど」
扇の陰で心底、疲れたようにため息をつく母の様子から、相当のことが書いてあると察して、僕は恐る恐る封筒を開く。
中は短い手紙と、そして――
『わたくしとの結婚は望まれていないようですので、これ以上の結婚はお互いに時間の無駄です。バークリーの継承者として、わたくしはあなたとの離婚を望みます。そのハンカチは以前にあなたに貸していただいたものですが、お返しする機会もありませんでしたので、同封します』
白い、絹のハンカチ。僕が普段使うものよりも一回り小さく、でも、ユージーンの刺繍と王家の紋章を縫い込まれた、僕のハンカチ。……これは、おそらく昔使っていたもので――
そう、すっかり忘れていたけれど、あの日、迷路で会った少女に、僕はハンカチを貸した。つまりこれは――
あの時迷路で会ったのは、マデリーンではなく、やはりルイーズだった?
でも、彼女はずっと領地にいて王都には出てきていないと――
僕が顔を上げると、母と、陛下が黙って僕を見つめていた。陛下が重々しく言われた。
「ユージーン。そなたのバークリーへの婿入りは、政治的な意味合いもある。そう簡単に覆すこともできぬ。オスカーよりも離婚の申し出があったが、余は退けた。離婚はならぬと心得よ。バークリーの後継者の責任は何か、ようよう考えて行動せよ」
僕は無言で頭を下げ、その日の内にバークリーに向かった。
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