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ルイーズ2
異変
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アンが誘拐された、という話に、わたしも夫も飛びあがった。
「なんでそんな! 誰が! どうして!」
恐慌に陥るわたしを、夫が抱きしめて冷静に尋ねる。
「どこで起きた。……アンは今、子供部屋じゃないのか?」
サンダーズが息を吸って答える。
「この時刻はお昼寝から起きて、乳母と過ごしますが、だいたいはお庭で。いつもは一時間ほどで戻るはずが、今日は戻りが遅いとミス・アダムスとグレイグ夫人が気づいて――」
冬の日は陰るのが早く、すでに夕暮れに近い。風も冷たくなるので、この季節、長時間は外には出られない。
「グレイグ夫人が庭に探しに出て、花壇の横で血を流して倒れている、乳母のモリソン夫人を発見したのです」
モリソン夫人は頭を殴られたのか、額から血を流していて、周囲にアンはいなかったという。
「モリソン夫人がすぐに目を覚まして、男が突然、その生垣の陰から現れて、お嬢様を攫っていったと!」
「男?……見覚えのない奴なのか?」
「わが家の庭師ではなかったと。……今、ミス・アダムスが手当てをしています。庭師や下男に命じて、庭の周囲を探させておりますが……」
夫は靴を履き、わたしを促して立ち上がる。
「もう一度モリソン夫人に事情を聞こう。ルイーズ、一緒に」
「え、ええ……」
「見知らぬ者の侵入を許しまして、お詫びのしようもございません」
頭を下げるサンダースに、夫が頷く。
「悪い奴はどこにでもいる。あれだけ広い庭なら、見つからずに入り込むことも可能だろう」
わたしたちが玄関ホールに降りると、ホールの隅で乳母のモリソン夫人の頭に、ミス・アダムスが包帯を巻いているところだった。
「怪我は大丈夫なの? アンは?」
思わず駆け寄るわたしに、モリソン夫人が立ち上がろうと腰を浮かせ、背後から夫が声をかける。
「いい、そのままで。……事情を説明してくれ」
「はい……いつもの通り、お嬢様がお昼寝から目覚めて、お外に行きたいと仰るので、赤いコートを着せ、お庭に。……もう風も冷たいので、少しだけのつもりで。庭の花壇を回ったところで、生垣の陰から突然、男が飛び出してきて……わたくしは咄嗟にお嬢様を抱き締めて庇ったのですが、頭を殴られまして。そのまま……」
額に巻かれた包帯には、薄っすら血が滲んでいて、顔色も蒼白だった。
「申し訳ございません、本当に――」
「いや、しょうがないだろう。女の身で……男の身なりは? 外部の者なのか?」
夫の問いに、モリソン夫人が首を振る。
「服装は普通の……村の者のようでした。お屋敷のお仕着せではございません。帽子を被って……茶色い上着で……背丈は普通くらいでしょうか。どこかで見たような気もするのですが……」
「アンを攫うなんて、何のために?」
わたしの言葉に、夫が首を傾げる。
「……身代金目当てとか? だが――」
アンがバークリー公爵家の養女だと言うのは、だいたいの者が知っている。わたしの子供じゃないことも。
「それより、あの時刻にアンが庭に出ることを知っていたとしか思えないな。アンのスケジュールを把握している者で、村に知り合いがいる――」
「……リンダ?」
思わず呟くわたしに、モリソン夫人がアッと言った。
「あの男! モーガンですわ、ジェフ・モーガン! リンダの夫です!」
リンダがこの屋敷に手伝いに来ている間、何度か裏口まで来ていたという。
「なんと言うか……リンダとの仲はあまり上手くいっていないような、何やら揉めているようでしたが……」
「リンダの夫なら、アンのスケジュールを把握していても不思議はないな。リンダに頼まれて攫ったのか?」
夫が呟き、それからサンダースと、控えていたケネスに命じた。
「とりあえず村に行く。そのジェフという男が犯人なら、なにか要求があるはずだ。ケネスとジョン、一緒に来てくれ。サンダースは州の警察に届け出を」
「わたしも行くわ!」
思わず言えば、夫は驚いて首を振る。
「危険だ、家にいなさい」
「あなたじゃ、ジェフを説得なんかできっこないわ。本気で恨まれているんだし。……もしかしたら、あなたをおびき寄せるためなのかも」
「そこまでして僕を殺したいような男のもとに、身重の君を行かせるわけがないだろう」
「いやよ、わたしはアンの母親です!」
「ルイーズ……!」
夫はわたしを宥めようとするが、わたしは頑として聞き入れなかった。
「だいたい、あなたもケネスもジョンも、ジェフの顔なんかわからないでしょう! どうやってアンを取り戻すつもりなんです!」
「ジェフの顔なら一度見たことはあるけど……」
それでも躊躇う夫に、ジョンが言う。
「奥様は俺とケネスで守ります。アンお嬢様を見つけても、俺たちじゃあ連れて帰れません」
「下手すれば俺たちが誘拐犯に間違えられます」
「……それは……」
ジョンとケネスに口々に言われ、夫が口ごもる。と、ミス・アダムスが立ち上がった。
「あたくしも一緒に参りましょう! 何かありましても看護婦のあたくしがいれば――」
「そんな無茶な!」
とにかく事は一刻を争うというので、夫も諦めてわたしを連れていくことにした。
一台の馬車にわたしたち夫婦とミス・アダムス、そしてケネスが乗り、ジョンは馭者の隣に座る。
「警察が来たら、モーガンの家に行くと伝えてくれ」
それだけ言いおいて、馬車は村へと向かった。
「なんでそんな! 誰が! どうして!」
恐慌に陥るわたしを、夫が抱きしめて冷静に尋ねる。
「どこで起きた。……アンは今、子供部屋じゃないのか?」
サンダーズが息を吸って答える。
「この時刻はお昼寝から起きて、乳母と過ごしますが、だいたいはお庭で。いつもは一時間ほどで戻るはずが、今日は戻りが遅いとミス・アダムスとグレイグ夫人が気づいて――」
冬の日は陰るのが早く、すでに夕暮れに近い。風も冷たくなるので、この季節、長時間は外には出られない。
「グレイグ夫人が庭に探しに出て、花壇の横で血を流して倒れている、乳母のモリソン夫人を発見したのです」
モリソン夫人は頭を殴られたのか、額から血を流していて、周囲にアンはいなかったという。
「モリソン夫人がすぐに目を覚まして、男が突然、その生垣の陰から現れて、お嬢様を攫っていったと!」
「男?……見覚えのない奴なのか?」
「わが家の庭師ではなかったと。……今、ミス・アダムスが手当てをしています。庭師や下男に命じて、庭の周囲を探させておりますが……」
夫は靴を履き、わたしを促して立ち上がる。
「もう一度モリソン夫人に事情を聞こう。ルイーズ、一緒に」
「え、ええ……」
「見知らぬ者の侵入を許しまして、お詫びのしようもございません」
頭を下げるサンダースに、夫が頷く。
「悪い奴はどこにでもいる。あれだけ広い庭なら、見つからずに入り込むことも可能だろう」
わたしたちが玄関ホールに降りると、ホールの隅で乳母のモリソン夫人の頭に、ミス・アダムスが包帯を巻いているところだった。
「怪我は大丈夫なの? アンは?」
思わず駆け寄るわたしに、モリソン夫人が立ち上がろうと腰を浮かせ、背後から夫が声をかける。
「いい、そのままで。……事情を説明してくれ」
「はい……いつもの通り、お嬢様がお昼寝から目覚めて、お外に行きたいと仰るので、赤いコートを着せ、お庭に。……もう風も冷たいので、少しだけのつもりで。庭の花壇を回ったところで、生垣の陰から突然、男が飛び出してきて……わたくしは咄嗟にお嬢様を抱き締めて庇ったのですが、頭を殴られまして。そのまま……」
額に巻かれた包帯には、薄っすら血が滲んでいて、顔色も蒼白だった。
「申し訳ございません、本当に――」
「いや、しょうがないだろう。女の身で……男の身なりは? 外部の者なのか?」
夫の問いに、モリソン夫人が首を振る。
「服装は普通の……村の者のようでした。お屋敷のお仕着せではございません。帽子を被って……茶色い上着で……背丈は普通くらいでしょうか。どこかで見たような気もするのですが……」
「アンを攫うなんて、何のために?」
わたしの言葉に、夫が首を傾げる。
「……身代金目当てとか? だが――」
アンがバークリー公爵家の養女だと言うのは、だいたいの者が知っている。わたしの子供じゃないことも。
「それより、あの時刻にアンが庭に出ることを知っていたとしか思えないな。アンのスケジュールを把握している者で、村に知り合いがいる――」
「……リンダ?」
思わず呟くわたしに、モリソン夫人がアッと言った。
「あの男! モーガンですわ、ジェフ・モーガン! リンダの夫です!」
リンダがこの屋敷に手伝いに来ている間、何度か裏口まで来ていたという。
「なんと言うか……リンダとの仲はあまり上手くいっていないような、何やら揉めているようでしたが……」
「リンダの夫なら、アンのスケジュールを把握していても不思議はないな。リンダに頼まれて攫ったのか?」
夫が呟き、それからサンダースと、控えていたケネスに命じた。
「とりあえず村に行く。そのジェフという男が犯人なら、なにか要求があるはずだ。ケネスとジョン、一緒に来てくれ。サンダースは州の警察に届け出を」
「わたしも行くわ!」
思わず言えば、夫は驚いて首を振る。
「危険だ、家にいなさい」
「あなたじゃ、ジェフを説得なんかできっこないわ。本気で恨まれているんだし。……もしかしたら、あなたをおびき寄せるためなのかも」
「そこまでして僕を殺したいような男のもとに、身重の君を行かせるわけがないだろう」
「いやよ、わたしはアンの母親です!」
「ルイーズ……!」
夫はわたしを宥めようとするが、わたしは頑として聞き入れなかった。
「だいたい、あなたもケネスもジョンも、ジェフの顔なんかわからないでしょう! どうやってアンを取り戻すつもりなんです!」
「ジェフの顔なら一度見たことはあるけど……」
それでも躊躇う夫に、ジョンが言う。
「奥様は俺とケネスで守ります。アンお嬢様を見つけても、俺たちじゃあ連れて帰れません」
「下手すれば俺たちが誘拐犯に間違えられます」
「……それは……」
ジョンとケネスに口々に言われ、夫が口ごもる。と、ミス・アダムスが立ち上がった。
「あたくしも一緒に参りましょう! 何かありましても看護婦のあたくしがいれば――」
「そんな無茶な!」
とにかく事は一刻を争うというので、夫も諦めてわたしを連れていくことにした。
一台の馬車にわたしたち夫婦とミス・アダムス、そしてケネスが乗り、ジョンは馭者の隣に座る。
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