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ルイーズ

接吻

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 わたしは夫の言葉を聞いて、どう答えていいかわからなくて、息を飲んで見つめていた。ガラガラと馬車の車輪の音がやけに響く。

「僕は、知り合いもほとんどいないあの場に残されて、本当に不安だった。でも、四年前、王都に友人もいない君を、僕は一人で放り出していたんだな……最悪な男じゃないか……」
「……もう、すんだことですわ」

 わたしが気休めのような言葉を口にすれば、夫は首を振った。

「すんでないだろう。あんな……侮蔑的な言葉。僕が君を捨てて靡くと信じて疑ってすらいない。なんだよ、あのブス!」
「言葉が過ぎるわ。……よくは知らないけれど、マデリーンの取り巻きなのかしらね? 以前、王都ではあの手のの家を渡り歩いて、バークリー邸には全く寄り付かなかったわ。彼女たちも突然、あなたが豹変してびっくりしたでしょうね」

 夫が身を起こし、わたしを正面から見る。眼帯を外しているので、カンテラの灯りに照らされて、醜く潰れた左目とケロイドのある額が、暗がりに浮かび上がった。――わたしはもう慣れたけれど、初めて目にする人なら恐ろしいと思うだろう。

「……僕は今まで、自分の過去の悪行を聞かされても、憶えていないし、どうしようもないと思っていた。でも、今回のことでようやく、過去の自分の仕出かしたことの酷さが理解できた。これが、別の人間の仕出かしたことなら、僕はそいつを殺してやりたいくらい憎い。だって僕は今……」

 夫はわたしの腕を掴み、強引にわたしを抱き寄せて耳元で言った。

「今の僕は君を愛してる。君に頼りきりで、君がいないと生きていけないくらい依存している。君の容姿も、君の優しさもすべてが愛しいし、僕の唯一の人だと切実に思う。妻が君でよかったし、君と結婚していることに感謝している」

 一息に紡がれるまっすぐな愛の言葉に、わたしの息が止まる。抱きしめられた体に熱が点り、耳まで熱くなる。心臓がバクバクと脈打ち、彼に聞かれるのではと恥ずかしくてたまらない。

「そんな……今さら……」
「君にそう言われるたびに、なぜわかってくれないと、僕は内心、いら立っていた。昔のことを言われても、もうすんだことだし、僕にはどうにもならないって……でも……」

 彼はわたしの肩口に顔を埋め、後悔の言葉を口にする。……その声は震えて、もしかしたら泣いているのでは、とわたしは驚いた。

「謝っても済むものじゃない。どうしてあんなにも君を傷つけることができたのか。その男がよりによって自分だなんて、僕は……」
「あなた……」
「ジーンって呼んで。……お願い。許してくれなくても……愛してる」

 その言葉は真摯で、本心から出たものなのだろう。……もし演技でも、騙されたままの方がわたしも楽になれる。
 
 五年前のデビューの日、不必要な妻だとはっきり突きつけられ、そして社交界の嘲笑を浴びて、わたしの心は大きく傷つけられた。少なくとも今の彼は、傷つけられたわたしを癒そうとしてくれている。

 自身が憶えていない、取り返しのつかない過ち。それを責めずに生きていければ、どれほどいいか――

「……ジーン……もういいの……」
「ルイーズ……」
「たとえ、あの時のあなたに詫びてもらっても、許せるかどうかわからないし、それよりももっとひどいこともあったし……」
「それは……そうだけど」

 夫はわたしから体を起こすと、正面からわたしを見た。

「僕は、どうしたらいい?……どうしたら……」
「そんなの、わからないわ。ただ……」

 わたしは目を伏せる。
 
「次に裏切られたら、もう、無理だと思うの。……不安なの。今のあなたがいくら愛していると言っても、やっぱりあなたはマデリーンに恋をしてしまうのではって……」
「ルイーズ……」
「だから……もし、彼女が好きになったら、正直に話して、離婚して。あるいは、昔のことを思い出して、わたしのことが好きではないと気づいたら――」
「ルイーズ!」

 夫が叫んだ。

「……君を愛してる。マデリーンのことは、きっと好きにならないよ……」
「でも、マデリーンは本当に美しくて、魅力的なのよ。……前の、亡くなった王太子殿下のお妃候補にも挙がったことがあるらしいの。本人が自慢していたから、間違いないわ」
「僕は君の容姿だけじゃなくて、中身を愛してるんだよ。……中身って言っても、服の中身って意味じゃないよ。いや、裸も好きだけど……」
「ばっ……!」

 わたしは思わず夫の肩をバシンと叩いた。

「真面目な話だと思ったら、すぐに茶化して! そういうところも最低なのよ!」
「ごめん……そうだね、茶化すべきじゃななかった」

 夫はすぐに謝ってくれて、それからもう一度わたしをはっきりと見て、言った。

「僕は取り返しのつかない過ちを犯して、君を傷つけてきた。でも……今の僕は、君を本当に愛しているんだ。……もしかしたら、身を引くべきなのかもしれないけれど、僕は君がいなければ生きていけない。……僕は……」

 夫はわたしを抱きしめて、耳元で小さな声で尋ねる。

「ルイーズ……キスをしても?」

 今までそんなこと尋ねもせず、強引に好き放題してきた彼の、しおらしい言葉にわたしは絶句してしまう。

「お願い、ルイーズ……」

 どうしていいかわからず、わたしが無言で頷くと、夫の唇がそっと重ねられた。

 本当に触れるだけの微かなキス。次いでもう一度。夫の大きな両手が、まるで壊れ物のようにわたしの頬を包み、幾度も唇が合わせられる。
 
 ずっと耳に響いていた馬車の車輪の音が消え、ただ無音の時が流れる。

 儚くて淡くて……掌に降り落ちては溶ける初雪のような、キス。
 もどかしくて、もっと触れて欲しいと思って、わたしは彼の背中に腕を回す。と、それを合図のように口づけが深くなる。

 彼の手がわたしのうなじを支え、もう一つの手がゆっくりと背中を辿る。口づけの角度が変わるとき、空気を求めて唇を開いたわたしの咥内に、彼の舌が差し入れられる。

 舌先と舌先を合わせて、絡ませ合う。体の奥が疼いて、胸の鼓動が高まる。

「んんっ……」
 
 普段の、征服されるようなキスではなくて、ただ甘くて、胸が苦しくなる。ずっと塞がれていた唇が、ようやく解放される。

「ルイーズ……」

 馬車の揺れを感じながら、夫の腕の中で目を閉じた。
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