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ルイーズ
悔悛
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「ルイーズ? 戻ってきてくれた!」
夫の声が飛んで、わたしがハッとすると、取り囲むご婦人がたを強引にかき分けて、彼がわたしに駆け寄ってきた。夫に身体をすり寄せていた一人のご婦人に至っては、突き飛ばされて無様に尻もちをついている。
え、ちょっとそれはダメでしょ、とわたしが目を白黒させる隙に、ぴょんぴょん跳ねる子供のように駆け寄り、縋り付かんばかりにわたしの手を取った。
「ああ、よかった、置いていかれてしまったかと思った。ルイーズ、君がいないと僕は不安で不安で……」
夫はわたしの手を握り、ブンブン振りながらホッとため息をつく。
「ルイーズ、帰ろう。頭も痛いし僕は疲れたよ。陛下にはオズワルドが申し上げてくれるそうだから」
「え、ええ……」
押しのけられたご婦人がたが、呆然とわたしたちを――というか、子供じみた夫の様子を呆れたように見つめていて、さっきとは違う恥ずかしさでわたしの頭が沸騰しそうになる。
「えっ……ユージーン卿?」
「ちょっと、いったい何ですの? 失礼だわ!」
尻もちをついたご婦人が、オズワルド卿に扶け起こされながら、プリプリ怒っている。……当たり前だ。
「ルイーズって、例の、従姉との仲を無理に引き裂いて結婚した、田舎の奥方?」
「夫からまったく見向きもされない惨めな――」
ざわざわと、周囲の人々を巻き込んで、取り巻きのご婦人たちが言い合うのに、なんと夫が反論した。
「黙れブス!」
もうやめて! こんな騒ぎを起こして、次からどうやって貴族社会で生きていけばいいの! 夫の不規則発言に気が遠くなる。
「ユージーン! 王宮で言葉が過ぎるぞ」
オズワルド卿がすかさず窘めてくれて、少しだけわたしも正気に戻る。
「でも、このブスが――」
「しい! お願いだがら黙って!」
わたしは夫の腕を引っ張り、涙目で発言を制止すれば、夫はようやく失言に気づいて、気まずく黙り込む。夫に代って、オズワルド卿がご婦人たちに言った。
「ユージーンは見ての通り、片目の視力を失い、精神的にも奥方に頼りきりだ。半仮面は飾りじゃない」
ご婦人たちは「化け物の顔」と揶揄された噂を思い出し、顔を見合わせて肘をつつきあっている。夫が昔通りの男ではないと、やっと理解したようだ。
わたしは夫を促して会場を出ようと向きを変え、寄り添って歩き始める。その背中に聞こえよがしに嘲りが投げかけられる。
「要するに、片目の化け物と、そのお守り係じゃない。英雄だ公爵だなんて言ったって、内実は惨めなものね、つまんない夫婦だわ」
きっとさっき、尻もちをつかされたご婦人の意趣返しなのだろうが、クスクスと広がる嘲笑に夫が足を止めようとするのを、わたしが首を振って引っ張る。
「無視すればいいわ、あんなの。もう行きましょう」
「でも、ルイーズ……」
だがオズワルド卿の窘める言葉に、彼女たちの嘲笑は止まる。
「王宮で夫以外の男にすり寄る妻と、妻を放り出したままの夫。そういう夫婦より全然、マシじゃないかね? 王宮の風紀紊乱を陛下は厳しく戒められた。彼に言い寄っていたご婦人がたについては、僕がすべて把握している。いずれ注意が下るかもね」
クロークでコートと帽子を受け取り、車寄せで馬車を呼ぶまでオズワルド卿が付き添ってくださった。
「ありがとうございます」
わたしがお礼を申し上げれば、オズワルド卿は微笑んで言った。
「三日後の夜会にもうかがいます。またその時に」
「ありがとうオズワルド」
「よい夜を」
公爵家の馬車がやってきたので夫と二人で乗り込み、王宮を出る。
夫は疲れ切ったようにぐったりと座席に身を預け、黒い半仮面を外して、ハンカチで汗をぬぐう。
「王宮はシャンデリアと鏡が多過ぎて、目がチカチカする……」
「一度、王都の専門のお医者様に、見ていただいた方がいいかもしれませんわ」
「そうだな……あのヤブ医者よりは信用できそうだ」
夫は両手で顔を覆い、深いため息をつく。
「……僕は、前回いったい何をやらかしたんだ? あいつら、君の悪口ばかり……」
「『従姉の恋人を奪って、爵位と領地を餌に無理矢理結婚したのに、顧みられない惨めな田舎女』ってのかしら?」
夫は少しだけ顔を上げ、わたしの方を向いた。
「君と僕の結婚は王命で、君は別に僕との結婚を望んでいなかった。……たしかに僕は君の従姉に求婚したらしいけど、向こうから断られていたんだろう?」
「理由や事情は、わたしは知りません。あなたはマデリーンに求婚したけど、婚約はしなかった。……マデリーンの方から断ったとしか考えられないわ」
「つまり、君が公爵家の権力を使って、僕とマデリーンを引き裂いた、というのは正しくない」
「昔のあなたは、マデリーンの言葉を鵜呑みにしたのではなくて? わたしたち父娘からの圧力があったとか、何とか言うウソを」
わたしが少しばかり辛辣に言えば、夫はもう一度両手に顔を埋める。
「……そこまで馬鹿だったのかな、僕は……そもそも、最初に求婚を断ったのはマデリーンなのに、時系列の判断さえ狂っていたのか」
「マデリーンを愛していたなら、彼女の言葉を信じるでしょう」
「それでも事実を調べることもせず、僕はマデリーンに同調して君の悪口を言いふらし、君の名誉を傷つけていた……」
夫は両手で頭を抱え込むように膝に突っ伏してしまう。
「僕は……君の貶める言葉を聞いて、猛烈に腹が立った。そんな根も葉もないことを言いふらしたやつを殴ってやりたいって。……でも、それは昔の僕なんだな……」
夫の声が飛んで、わたしがハッとすると、取り囲むご婦人がたを強引にかき分けて、彼がわたしに駆け寄ってきた。夫に身体をすり寄せていた一人のご婦人に至っては、突き飛ばされて無様に尻もちをついている。
え、ちょっとそれはダメでしょ、とわたしが目を白黒させる隙に、ぴょんぴょん跳ねる子供のように駆け寄り、縋り付かんばかりにわたしの手を取った。
「ああ、よかった、置いていかれてしまったかと思った。ルイーズ、君がいないと僕は不安で不安で……」
夫はわたしの手を握り、ブンブン振りながらホッとため息をつく。
「ルイーズ、帰ろう。頭も痛いし僕は疲れたよ。陛下にはオズワルドが申し上げてくれるそうだから」
「え、ええ……」
押しのけられたご婦人がたが、呆然とわたしたちを――というか、子供じみた夫の様子を呆れたように見つめていて、さっきとは違う恥ずかしさでわたしの頭が沸騰しそうになる。
「えっ……ユージーン卿?」
「ちょっと、いったい何ですの? 失礼だわ!」
尻もちをついたご婦人が、オズワルド卿に扶け起こされながら、プリプリ怒っている。……当たり前だ。
「ルイーズって、例の、従姉との仲を無理に引き裂いて結婚した、田舎の奥方?」
「夫からまったく見向きもされない惨めな――」
ざわざわと、周囲の人々を巻き込んで、取り巻きのご婦人たちが言い合うのに、なんと夫が反論した。
「黙れブス!」
もうやめて! こんな騒ぎを起こして、次からどうやって貴族社会で生きていけばいいの! 夫の不規則発言に気が遠くなる。
「ユージーン! 王宮で言葉が過ぎるぞ」
オズワルド卿がすかさず窘めてくれて、少しだけわたしも正気に戻る。
「でも、このブスが――」
「しい! お願いだがら黙って!」
わたしは夫の腕を引っ張り、涙目で発言を制止すれば、夫はようやく失言に気づいて、気まずく黙り込む。夫に代って、オズワルド卿がご婦人たちに言った。
「ユージーンは見ての通り、片目の視力を失い、精神的にも奥方に頼りきりだ。半仮面は飾りじゃない」
ご婦人たちは「化け物の顔」と揶揄された噂を思い出し、顔を見合わせて肘をつつきあっている。夫が昔通りの男ではないと、やっと理解したようだ。
わたしは夫を促して会場を出ようと向きを変え、寄り添って歩き始める。その背中に聞こえよがしに嘲りが投げかけられる。
「要するに、片目の化け物と、そのお守り係じゃない。英雄だ公爵だなんて言ったって、内実は惨めなものね、つまんない夫婦だわ」
きっとさっき、尻もちをつかされたご婦人の意趣返しなのだろうが、クスクスと広がる嘲笑に夫が足を止めようとするのを、わたしが首を振って引っ張る。
「無視すればいいわ、あんなの。もう行きましょう」
「でも、ルイーズ……」
だがオズワルド卿の窘める言葉に、彼女たちの嘲笑は止まる。
「王宮で夫以外の男にすり寄る妻と、妻を放り出したままの夫。そういう夫婦より全然、マシじゃないかね? 王宮の風紀紊乱を陛下は厳しく戒められた。彼に言い寄っていたご婦人がたについては、僕がすべて把握している。いずれ注意が下るかもね」
クロークでコートと帽子を受け取り、車寄せで馬車を呼ぶまでオズワルド卿が付き添ってくださった。
「ありがとうございます」
わたしがお礼を申し上げれば、オズワルド卿は微笑んで言った。
「三日後の夜会にもうかがいます。またその時に」
「ありがとうオズワルド」
「よい夜を」
公爵家の馬車がやってきたので夫と二人で乗り込み、王宮を出る。
夫は疲れ切ったようにぐったりと座席に身を預け、黒い半仮面を外して、ハンカチで汗をぬぐう。
「王宮はシャンデリアと鏡が多過ぎて、目がチカチカする……」
「一度、王都の専門のお医者様に、見ていただいた方がいいかもしれませんわ」
「そうだな……あのヤブ医者よりは信用できそうだ」
夫は両手で顔を覆い、深いため息をつく。
「……僕は、前回いったい何をやらかしたんだ? あいつら、君の悪口ばかり……」
「『従姉の恋人を奪って、爵位と領地を餌に無理矢理結婚したのに、顧みられない惨めな田舎女』ってのかしら?」
夫は少しだけ顔を上げ、わたしの方を向いた。
「君と僕の結婚は王命で、君は別に僕との結婚を望んでいなかった。……たしかに僕は君の従姉に求婚したらしいけど、向こうから断られていたんだろう?」
「理由や事情は、わたしは知りません。あなたはマデリーンに求婚したけど、婚約はしなかった。……マデリーンの方から断ったとしか考えられないわ」
「つまり、君が公爵家の権力を使って、僕とマデリーンを引き裂いた、というのは正しくない」
「昔のあなたは、マデリーンの言葉を鵜呑みにしたのではなくて? わたしたち父娘からの圧力があったとか、何とか言うウソを」
わたしが少しばかり辛辣に言えば、夫はもう一度両手に顔を埋める。
「……そこまで馬鹿だったのかな、僕は……そもそも、最初に求婚を断ったのはマデリーンなのに、時系列の判断さえ狂っていたのか」
「マデリーンを愛していたなら、彼女の言葉を信じるでしょう」
「それでも事実を調べることもせず、僕はマデリーンに同調して君の悪口を言いふらし、君の名誉を傷つけていた……」
夫は両手で頭を抱え込むように膝に突っ伏してしまう。
「僕は……君の貶める言葉を聞いて、猛烈に腹が立った。そんな根も葉もないことを言いふらしたやつを殴ってやりたいって。……でも、それは昔の僕なんだな……」
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