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ルイーズ
ハンカチと、捨て犬みたいな夫
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生垣で夫に抱かれて意識を失い、目を覚ましたわたしの目の前には、心配そうにのぞき込む、夫の顔があった。
右目の金に近い琥珀色の瞳と、黒い眼帯に覆われた左目と。咄嗟に頬を張ってやろうとしたのに、ヒョイと躱されてしまう。
空を切るわたしの右手を、額の火傷の痕を隠すために下ろした前髪が掠る。
「ルイーズ、ごめん、大丈夫?」
「や、やめ……やめてって言ったのに! どうして!」
わたしが本気で怒っているのにやっと気づいたらしく、慌てて弁解する。
「いやその、ごめん、君が可愛くてつい……」
白昼の野外で犯された屈辱と、大事な思い出を踏みにじられたことで、わたしはもう、耐えられないくらい惨めな気持ちになり、ボロボロと涙があふれて、とめどなく零れ落ちる。
「わっルイーズ、ごめん、そんな、本気で泣くなんて……ちょっといつもと河岸を変えてみたくらいのつもりだった! ごめん、謝るから! ルイーズごめん!」
夫は慌ててポケットからハンカチを取り出し、わたしの顔の前に差し出す。
――綺麗にアイロンのかかった白い絹の、刺繍の入ったハンカチ。
「……これ……」
わたしはハンカチを広げて、目を瞠る。――だいぶ前に、わたしが刺繍したものだったからだ。
「ああそれ? クローゼットにたくさん入ってる、ってケネスが見つけて、僕のイニシャルだし僕のだよね?」
結婚した直後、わたしは彼のために何枚もハンカチを刺繍したけれど、使っているのを一度も見たことがなかった。
「わたしが縫ったものですわ。……結婚直後に」
夫は目を瞠り、言った。
「そうなの? てっきり、プロの刺繍かと思ったよ。すごく綺麗だから……」
「こんなの使えない、って言われたわ。……昔」
「それはもったいないからだよ。知らなかったからガンガン使ってたけど、ルイーズの刺繍と知ってたら、もっと大事にしたのに。少なくとも鼻はかまなかった」
わたしはとりあえずそのハンカチで涙を拭い、自分の身支度がおかしくないか改める。――わたしたちは緑の生垣の迷路内に置かれた、白いベンチに並んで座っていた。
「……その、ごめん、本当に」
「最低。大っ嫌い」
「ルイーズごめん、僕が君を好き過ぎるせいだ」
歯の浮くセリフにカッとなって、わたしは夫をギッと睨んだ。
「嘘ばっかり! もう、嘘はこりごり! 本当に好きだったら、こんな辱め……」
「辱めたつもりはないよ、つい興奮して歯止めがきかなかった。でも、次からは君が本気で嫌がったらやめるから。いつもと同じ程度の、イヤだと思っちゃったから……」
「いつも本気で嫌がっています!」
わたしが叫ぶと、夫は困ったように眉尻を下げた。
「ルイーズ、その……僕は……」
「だいたい、あなたがどれほど身勝手なことをしているか、考えてみて! 五年よ! 結婚して五年間も、一度として妻として扱われなかったの! あなたはマデリーンに夢中で、わたしとの結婚は不本意だった! だからって、わたしだって、断れない筋だから、あなたと結婚しただけなのに。わたしがバークリーの血筋を継ぐ子供が必要なのもわかってて、なのにわたしの部屋には一度も来なかった! その上……」
「ルイーズ待って、落ち着いて……」
「落ち着けるわけないわ、こんな――あんなことがあって、まるで騒いだわたしが悪いかのように、王都に逃げて、子供も知らないって言い張って! 突然戦争に行って大怪我して、帰ってきたら左目が見えないし記憶まで無くして、わたしがいないとダメだからってべったり凭れ掛かってきて、本当に最悪! 国王陛下の命令じゃなかったら、絶対に離婚して叩きだしてやるのに!」
一息に不満をぶちまけ、荒い息を吐いていると、夫は困ったようにわたしを見て、ベンチから降りてわたしの正面に膝をついた。
そうしてまっすぐにわたしを見る。
「ごめん、その――どうして謝っていいかわからないけど……」
「憶えてないんでしょ、勝手だわ。……わたしの方こそ、辛くて辛くて、忘れてしまいたいことばっかり……」
「ルイーズ……ごめん……」
夫がわたしの目の前で項垂れ、わたしの手を取り、それに唇を寄せてキスをした。
「ごめん、僕はその……君が奥さんって知って舞い上がってしまって……」
「意味がわからないわ。昔の態度と全然違う!」
「その……昔の話は本当にわからないからさ。正直信じられないんだよ」
夫は睫毛を伏せる。それから、目を上げてわたしの顔を正面から見つめる。
「でも今の僕は君が好きだ。その……君への愛を伝えたくて、それでつい――」
「愛? ……あれが?」
白昼の野外で無理矢理抱くことが、愛だとでも言うつもり?
「だってさ、君は僕の奥さんなんだよ。奥さんとはその……するべきだろう?」
「場所も時間も、わたしの意志も無視していいとでも?!」
「それは謝ってるよ! ごめん、勝手に盛り上がって我慢できなくなったんだよ!」
夫はそう言って、下から上目遣いに私を見上げる。
「その……僕は君に一目ぼれで……普通は一目ぼれしたら、頑張ってだんだん仲良くなって、口説いて、そうして結婚するんだろ? でも僕は、最初から結婚しているんだよ。僕は憶えてないけど、当然、夫婦としてそれなりの関係があったと思い込んでいた」
夫は目を伏せて、しおらしく項垂れてみせた。
「ごめん、その……君を傷つけるつもりなかった」
その様子が捨て犬めいて、むしろわたしがひどいことを言っているような気持ちになる。
「もう……今さらだわ。ベンチに座ってください」
「ありがとう」
「……その、以前のあなたのままでしたら、到底、一生を共にするなんて無理だと思っていましたが、今のあなたなら、まあ、我慢できなくはありません」
「ありがとう」
「でも、不安なの。……記憶を取り戻したら、もとのあなたに戻るんじゃないかって」
「それは前も話したじゃないか。客観的に、僕が君を邪険にする理由はないのだから、元のような態度は取らないよ。……もし、記憶を取り戻し、引き換えに現在の記憶をなくして僕が無茶をしたら、オズワルドに間に入ってもらえばいい。彼は記憶を失っている間の僕の状態も見ているから、君の訴えを公正に判断するだろう。……以前は、そういう存在がいなかった。今は違う」
夫はそう言って、微笑んだ。
「さっきのことは謝るよ。……たしかに、いくら夫婦でも、野外でのプレイを強要するのはよくなかった」
それから、彼はポケットから金時計出して時刻を見る。
「そろそろ、お茶の時刻だね。戻って着替えないと」
わたしは自分のスカートの中がドロドロになっているのを思い出し、真っ赤になった。
右目の金に近い琥珀色の瞳と、黒い眼帯に覆われた左目と。咄嗟に頬を張ってやろうとしたのに、ヒョイと躱されてしまう。
空を切るわたしの右手を、額の火傷の痕を隠すために下ろした前髪が掠る。
「ルイーズ、ごめん、大丈夫?」
「や、やめ……やめてって言ったのに! どうして!」
わたしが本気で怒っているのにやっと気づいたらしく、慌てて弁解する。
「いやその、ごめん、君が可愛くてつい……」
白昼の野外で犯された屈辱と、大事な思い出を踏みにじられたことで、わたしはもう、耐えられないくらい惨めな気持ちになり、ボロボロと涙があふれて、とめどなく零れ落ちる。
「わっルイーズ、ごめん、そんな、本気で泣くなんて……ちょっといつもと河岸を変えてみたくらいのつもりだった! ごめん、謝るから! ルイーズごめん!」
夫は慌ててポケットからハンカチを取り出し、わたしの顔の前に差し出す。
――綺麗にアイロンのかかった白い絹の、刺繍の入ったハンカチ。
「……これ……」
わたしはハンカチを広げて、目を瞠る。――だいぶ前に、わたしが刺繍したものだったからだ。
「ああそれ? クローゼットにたくさん入ってる、ってケネスが見つけて、僕のイニシャルだし僕のだよね?」
結婚した直後、わたしは彼のために何枚もハンカチを刺繍したけれど、使っているのを一度も見たことがなかった。
「わたしが縫ったものですわ。……結婚直後に」
夫は目を瞠り、言った。
「そうなの? てっきり、プロの刺繍かと思ったよ。すごく綺麗だから……」
「こんなの使えない、って言われたわ。……昔」
「それはもったいないからだよ。知らなかったからガンガン使ってたけど、ルイーズの刺繍と知ってたら、もっと大事にしたのに。少なくとも鼻はかまなかった」
わたしはとりあえずそのハンカチで涙を拭い、自分の身支度がおかしくないか改める。――わたしたちは緑の生垣の迷路内に置かれた、白いベンチに並んで座っていた。
「……その、ごめん、本当に」
「最低。大っ嫌い」
「ルイーズごめん、僕が君を好き過ぎるせいだ」
歯の浮くセリフにカッとなって、わたしは夫をギッと睨んだ。
「嘘ばっかり! もう、嘘はこりごり! 本当に好きだったら、こんな辱め……」
「辱めたつもりはないよ、つい興奮して歯止めがきかなかった。でも、次からは君が本気で嫌がったらやめるから。いつもと同じ程度の、イヤだと思っちゃったから……」
「いつも本気で嫌がっています!」
わたしが叫ぶと、夫は困ったように眉尻を下げた。
「ルイーズ、その……僕は……」
「だいたい、あなたがどれほど身勝手なことをしているか、考えてみて! 五年よ! 結婚して五年間も、一度として妻として扱われなかったの! あなたはマデリーンに夢中で、わたしとの結婚は不本意だった! だからって、わたしだって、断れない筋だから、あなたと結婚しただけなのに。わたしがバークリーの血筋を継ぐ子供が必要なのもわかってて、なのにわたしの部屋には一度も来なかった! その上……」
「ルイーズ待って、落ち着いて……」
「落ち着けるわけないわ、こんな――あんなことがあって、まるで騒いだわたしが悪いかのように、王都に逃げて、子供も知らないって言い張って! 突然戦争に行って大怪我して、帰ってきたら左目が見えないし記憶まで無くして、わたしがいないとダメだからってべったり凭れ掛かってきて、本当に最悪! 国王陛下の命令じゃなかったら、絶対に離婚して叩きだしてやるのに!」
一息に不満をぶちまけ、荒い息を吐いていると、夫は困ったようにわたしを見て、ベンチから降りてわたしの正面に膝をついた。
そうしてまっすぐにわたしを見る。
「ごめん、その――どうして謝っていいかわからないけど……」
「憶えてないんでしょ、勝手だわ。……わたしの方こそ、辛くて辛くて、忘れてしまいたいことばっかり……」
「ルイーズ……ごめん……」
夫がわたしの目の前で項垂れ、わたしの手を取り、それに唇を寄せてキスをした。
「ごめん、僕はその……君が奥さんって知って舞い上がってしまって……」
「意味がわからないわ。昔の態度と全然違う!」
「その……昔の話は本当にわからないからさ。正直信じられないんだよ」
夫は睫毛を伏せる。それから、目を上げてわたしの顔を正面から見つめる。
「でも今の僕は君が好きだ。その……君への愛を伝えたくて、それでつい――」
「愛? ……あれが?」
白昼の野外で無理矢理抱くことが、愛だとでも言うつもり?
「だってさ、君は僕の奥さんなんだよ。奥さんとはその……するべきだろう?」
「場所も時間も、わたしの意志も無視していいとでも?!」
「それは謝ってるよ! ごめん、勝手に盛り上がって我慢できなくなったんだよ!」
夫はそう言って、下から上目遣いに私を見上げる。
「その……僕は君に一目ぼれで……普通は一目ぼれしたら、頑張ってだんだん仲良くなって、口説いて、そうして結婚するんだろ? でも僕は、最初から結婚しているんだよ。僕は憶えてないけど、当然、夫婦としてそれなりの関係があったと思い込んでいた」
夫は目を伏せて、しおらしく項垂れてみせた。
「ごめん、その……君を傷つけるつもりなかった」
その様子が捨て犬めいて、むしろわたしがひどいことを言っているような気持ちになる。
「もう……今さらだわ。ベンチに座ってください」
「ありがとう」
「……その、以前のあなたのままでしたら、到底、一生を共にするなんて無理だと思っていましたが、今のあなたなら、まあ、我慢できなくはありません」
「ありがとう」
「でも、不安なの。……記憶を取り戻したら、もとのあなたに戻るんじゃないかって」
「それは前も話したじゃないか。客観的に、僕が君を邪険にする理由はないのだから、元のような態度は取らないよ。……もし、記憶を取り戻し、引き換えに現在の記憶をなくして僕が無茶をしたら、オズワルドに間に入ってもらえばいい。彼は記憶を失っている間の僕の状態も見ているから、君の訴えを公正に判断するだろう。……以前は、そういう存在がいなかった。今は違う」
夫はそう言って、微笑んだ。
「さっきのことは謝るよ。……たしかに、いくら夫婦でも、野外でのプレイを強要するのはよくなかった」
それから、彼はポケットから金時計出して時刻を見る。
「そろそろ、お茶の時刻だね。戻って着替えないと」
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