41 / 106
ルイーズ
迷宮
しおりを挟む
「お茶まで時間があるから、散歩しない?」
夫に誘われ、わたしは編みかけのレースを袋に戻す。夫の腕に手をかけ、日傘を手に階段を下りながら、つぶやく。
「アンはどうしているかしら……」
まだ三歳前で、さらにわたしの実子でもなく、要するにバークリー公爵家とは血のつながらない娘だ。父は養女にすることは認めたけれど、王家から押し付けられた不肖の婿の、裏切りの証であるアンを可愛く思うことはできないと言う。それももっともだと思うので、わたしはこの屋敷に連れてくるのは断念した。――王都でも、あの事件の噂は流れているかもしれない。不用意に人の悪意にさらしたくはなかった。
母と信じているわたしと離れるのをアンは嫌がったけれど、普段から養育は乳母に任せているし、この機会に実母のリンダを子守りの手伝いにも雇ったから、問題はないはず。もともとお屋敷仕えだったリンダは、職人の夫と結婚後もお屋敷仕えを続けるつもりだった。あの事件で職を失い、いろいろ苦労していると言っていたから、給金を出して暮らしの足しになればとも思う。
――ただ、そうなるとお屋敷内でリンダと夫が顔を合わせる可能性も増える。夫にはリンダを子守りに雇ったことは告げていない――
あの日の悪夢のような光景が脳裏に甦って、わたしは軽く眩暈を感じ、ふらついた。
「ルイーズ、大丈夫?」
夫がわたしの腕をギュッと掴み、わたしを支え、覗き込んでくる。眼帯に覆われた片目と、心配そうな金色の瞳。
「いえ……」
「アンが心配? ……もう少しアンが大きくなったら、外国の保養地へでも旅行に行こう。できればその頃には、下の子も一緒に」
下の子、と言われてわたしがつい、夫を見上げる。
「……いろいろ無茶を言ったようだけど、アンを養育してくれて感謝している。僕はアンがわが子だという感覚は薄いけれど、君が可愛がっているなら可愛がれると思う。……ただ、いずれは事情を話さないといけないだろうね」
階段ですれ違う、使用人たちがわたしたちを見て、ハッとして頭を下げる。夫はわたしを気遣い、わたしは彼の視界を気遣う。――事情を知らなければ、仲睦まじい夫婦と思うだろう。そう言ったら、夫は笑った。
「仲いいだろう?……ここ数日はお預けだったけど」
「もう! そればっかり!」
「大事なことじゃないか。……五年もほったらかした、僕の言うセリフじゃないかもしれないけど」
一階に降りると、サロンと、庭に向けてガラス張りになった温室があり、芝生の庭が見えた。
領地屋敷と違ってこじんまりしているが、噴水のある庭園もある。
「……ロックフォード邸にはこんな庭はなかった! テラスハウス共通の、庭があったけど。ここは専用なんだ!」
狭い庭を広く見せるように、わざと木々を植え、森の小道のようにしつらえてある。その小さな森を通り過ぎると、ぱっと開けた幾何学庭園に出る。噴水の周囲を、生垣の迷宮が作られている。
「王都でも一、二位を争う迷宮なんですって」
「へえ……!」
周囲を見回していた夫が、急にわたしを振り向いてニヤッと笑った。
「競争しよう、ルイーズ!」
「ええ?」
「今から僕が十数えるから、君は先に迷路に入るんだ。僕に捕まらないで、あちらの四阿にたどり着けたら、君の勝ち。もし捕まったら、僕の勝ち」
「ええ、そんな……」
戸惑うわたしを無視して彼は勝手に決め、わたしの手から日傘を奪い取ると迷路に押し込む。
「数えるよ! いーち! にーい! ホラ、早くいかないと捕まるぞ?」
わたしはどうしようもなくなって、緑の生垣の中を走りだした。生垣はわたしの目の高さを越えているから、周囲は全く見えない。ちょっと踏み込んだだけで、もう、どこがどこやらわからなくなってしまった。
幼い日も、こうして迷い込んだことがある。意地悪なマデリーンとその友人たちに、置き去りにされたのだ。迷って出口がわからず、不安で泣きだした。あの時は――
わたしは視界を覆う緑色の生垣に戸惑いながら走る。四阿の方角はあちらだから――
いくつも角を曲がり、とにかく夫から離れようとして、そこがさっきも通ったベンチだと気づく。すっかり迷ってしまった。……わたしは方向音痴で迷路が苦手だから、ゴルボーン・ハウスでも立ち入らないようにしていたのに。
ええっと、さっきはこちらの道を行ったから、じゃあこっちを……
ところが、緑の垣根は行き止まりになっていた。わたしは引き返そうと向きを変え、ハッと息を飲む。
――夫が行く手を塞ぐように立っていたからだ。
夫に誘われ、わたしは編みかけのレースを袋に戻す。夫の腕に手をかけ、日傘を手に階段を下りながら、つぶやく。
「アンはどうしているかしら……」
まだ三歳前で、さらにわたしの実子でもなく、要するにバークリー公爵家とは血のつながらない娘だ。父は養女にすることは認めたけれど、王家から押し付けられた不肖の婿の、裏切りの証であるアンを可愛く思うことはできないと言う。それももっともだと思うので、わたしはこの屋敷に連れてくるのは断念した。――王都でも、あの事件の噂は流れているかもしれない。不用意に人の悪意にさらしたくはなかった。
母と信じているわたしと離れるのをアンは嫌がったけれど、普段から養育は乳母に任せているし、この機会に実母のリンダを子守りの手伝いにも雇ったから、問題はないはず。もともとお屋敷仕えだったリンダは、職人の夫と結婚後もお屋敷仕えを続けるつもりだった。あの事件で職を失い、いろいろ苦労していると言っていたから、給金を出して暮らしの足しになればとも思う。
――ただ、そうなるとお屋敷内でリンダと夫が顔を合わせる可能性も増える。夫にはリンダを子守りに雇ったことは告げていない――
あの日の悪夢のような光景が脳裏に甦って、わたしは軽く眩暈を感じ、ふらついた。
「ルイーズ、大丈夫?」
夫がわたしの腕をギュッと掴み、わたしを支え、覗き込んでくる。眼帯に覆われた片目と、心配そうな金色の瞳。
「いえ……」
「アンが心配? ……もう少しアンが大きくなったら、外国の保養地へでも旅行に行こう。できればその頃には、下の子も一緒に」
下の子、と言われてわたしがつい、夫を見上げる。
「……いろいろ無茶を言ったようだけど、アンを養育してくれて感謝している。僕はアンがわが子だという感覚は薄いけれど、君が可愛がっているなら可愛がれると思う。……ただ、いずれは事情を話さないといけないだろうね」
階段ですれ違う、使用人たちがわたしたちを見て、ハッとして頭を下げる。夫はわたしを気遣い、わたしは彼の視界を気遣う。――事情を知らなければ、仲睦まじい夫婦と思うだろう。そう言ったら、夫は笑った。
「仲いいだろう?……ここ数日はお預けだったけど」
「もう! そればっかり!」
「大事なことじゃないか。……五年もほったらかした、僕の言うセリフじゃないかもしれないけど」
一階に降りると、サロンと、庭に向けてガラス張りになった温室があり、芝生の庭が見えた。
領地屋敷と違ってこじんまりしているが、噴水のある庭園もある。
「……ロックフォード邸にはこんな庭はなかった! テラスハウス共通の、庭があったけど。ここは専用なんだ!」
狭い庭を広く見せるように、わざと木々を植え、森の小道のようにしつらえてある。その小さな森を通り過ぎると、ぱっと開けた幾何学庭園に出る。噴水の周囲を、生垣の迷宮が作られている。
「王都でも一、二位を争う迷宮なんですって」
「へえ……!」
周囲を見回していた夫が、急にわたしを振り向いてニヤッと笑った。
「競争しよう、ルイーズ!」
「ええ?」
「今から僕が十数えるから、君は先に迷路に入るんだ。僕に捕まらないで、あちらの四阿にたどり着けたら、君の勝ち。もし捕まったら、僕の勝ち」
「ええ、そんな……」
戸惑うわたしを無視して彼は勝手に決め、わたしの手から日傘を奪い取ると迷路に押し込む。
「数えるよ! いーち! にーい! ホラ、早くいかないと捕まるぞ?」
わたしはどうしようもなくなって、緑の生垣の中を走りだした。生垣はわたしの目の高さを越えているから、周囲は全く見えない。ちょっと踏み込んだだけで、もう、どこがどこやらわからなくなってしまった。
幼い日も、こうして迷い込んだことがある。意地悪なマデリーンとその友人たちに、置き去りにされたのだ。迷って出口がわからず、不安で泣きだした。あの時は――
わたしは視界を覆う緑色の生垣に戸惑いながら走る。四阿の方角はあちらだから――
いくつも角を曲がり、とにかく夫から離れようとして、そこがさっきも通ったベンチだと気づく。すっかり迷ってしまった。……わたしは方向音痴で迷路が苦手だから、ゴルボーン・ハウスでも立ち入らないようにしていたのに。
ええっと、さっきはこちらの道を行ったから、じゃあこっちを……
ところが、緑の垣根は行き止まりになっていた。わたしは引き返そうと向きを変え、ハッと息を飲む。
――夫が行く手を塞ぐように立っていたからだ。
32
お気に入りに追加
703
あなたにおすすめの小説
一年で死ぬなら
朝山みどり
恋愛
一族のお食事会の主な話題はクレアをばかにする事と同じ年のいとこを褒めることだった。
理不尽と思いながらもクレアはじっと下を向いていた。
そんなある日、体の不調が続いたクレアは医者に行った。
そこでクレアは心臓が弱っていて、余命一年とわかった。
一年、我慢しても一年。好きにしても一年。吹っ切れたクレアは・・・・・
婚約者に毒を飲まされた私から【毒を分解しました】と聞こえてきました。え?
こん
恋愛
成人パーティーに参加した私は言われのない罪で婚約者に問い詰められ、遂には毒殺をしようとしたと疑われる。
「あくまでシラを切るつもりだな。だが、これもお前がこれを飲めばわかる話だ。これを飲め!」
そう言って婚約者は毒の入ったグラスを渡す。渡された私は躊躇なくグラスを一気に煽る。味は普通だ。しかし、飲んでから30秒経ったあたりで苦しくなり初め、もう無理かも知れないと思った時だった。
【毒を検知しました】
「え?」
私から感情のない声がし、しまいには毒を分解してしまった。私が驚いている所に友達の魔法使いが駆けつける。
※なろう様で掲載した作品を少し変えたものです
【書籍化・取り下げ予定】あなたたちのことなんて知らない
gacchi
恋愛
母親と旅をしていたニナは精霊の愛し子だということが知られ、精霊教会に捕まってしまった。母親を人質にされ、この国にとどまることを国王に強要される。仕方なく侯爵家の養女ニネットとなったが、精霊の愛し子だとは知らない義母と義妹、そして婚約者の第三王子カミーユには愛人の子だと思われて嫌われていた。だが、ニネットに虐げられたと嘘をついた義妹のおかげで婚約は解消される。それでも精霊の愛し子を利用したい国王はニネットに新しい婚約者候補を用意した。そこで出会ったのは、ニネットの本当の姿が見える公爵令息ルシアンだった。書籍化予定です。取り下げになります。詳しい情報は決まり次第お知らせいたします。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
私があなたを好きだったころ
豆狸
恋愛
「……エヴァンジェリン。僕には好きな女性がいる。初恋の人なんだ。学園の三年間だけでいいから、聖花祭は彼女と過ごさせてくれ」
※1/10タグの『婚約解消』を『婚約→白紙撤回』に訂正しました。
婚約破棄されたショックですっ転び記憶喪失になったので、第二の人生を歩みたいと思います
ととせ
恋愛
「本日この時をもってアリシア・レンホルムとの婚約を解消する」
公爵令嬢アリシアは反論する気力もなくその場を立ち去ろうとするが…見事にすっ転び、記憶喪失になってしまう。
本当に思い出せないのよね。貴方たち、誰ですか? 元婚約者の王子? 私、婚約してたんですか?
義理の妹に取られた? 別にいいです。知ったこっちゃないので。
不遇な立場も過去も忘れてしまったので、心機一転新しい人生を歩みます!
この作品は小説家になろうでも掲載しています
愛される日は来ないので
豆狸
恋愛
だけど体調を崩して寝込んだ途端、女主人の部屋から物置部屋へ移され、満足に食事ももらえずに死んでいったとき、私は悟ったのです。
──なにをどんなに頑張ろうと、私がラミレス様に愛される日は来ないのだと。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる