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ルイーズ
バークリー公爵家の事情
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国王からの薔薇十字勲章の授与。
戦争で挙げた功績も、なにもかもすべて忘れ去った夫にとって、叙勲のために王都に行き、社交活動をしなければならないのは、苦痛の極みであるらしい。
彼は正式には認められない国王の庶子。すべての記憶をなくした彼にとって、そんなやっかいな身分は対処に困るだけのものだ。
「バークリーに行く前に一度、王宮にも行ったけどさ……礼儀作法もだけど、どうしていいのかわからないんだ。目の前の人は国王で、そして僕の父親だけど、息子とは認められてない。そんな人にどういう態度を取るべきか。……もう本当に困ってしまって」
王都に向かう列車の中で、夫はこんなことを言う。
「会いに来る友人も、全員憶えていないからさ……まあ、大概は断るんだけど、どうしても会いたいって言い張るやつはいる。記憶のないことを悟られるなって注意されてるから、会話には気を使うし。たいてい、僕の目と火傷を見て震えあがって帰っていくけどな。本当にウンザリだった」
夫の顔の怪我と失明については公表されていた。だが、記憶喪失の件は公には伏せられた。
国王の庶子で寵姫の息子である彼の、記憶のないことにつけ込む者が出ないとも限らない。
一部の信頼できる人間には事情を話し、記憶が戻る手助けにならないかと面会もさせたが、まったく効果はなかった。いずれは社会復帰するのだからと、事情を知らない人とも面会させられたようだが、夫は記憶喪失を誤魔化すこと自体に疲れてしまったらしい。
幸いと言うべきか否か、火傷と失われた左目のインパクトが大きかったせいで、以前と違う不自然な態度も何もかも、戦争と怪我の後遺症で片付けられて、記憶喪失の件は噂になっていない。――だから妻のわたしですら、父からの手紙が来るまでは知らなかったのだ。
でも、王都に彼が戻ったことは皆が知っている。だったら当然、彼女は会いに行ったのでは――
「……マデリーンとはお会いにならなかったの?」
勇気を出して聞いてみれば、夫は首を振った。
「いや。そんな女性は訪ねてこなかったよ。来ても憶えてないから微妙な会見になったと思うけど」
それからわたしを見て尋ねる。
「マデリーン……という人は君の従姉なんだよね?」
「ええ。二歳上の従姉です」
「僕が出征後にその、余計なことを言いに来た……」
わたしは周囲を見回し、メイドのジュリーも従僕のケネスも近くにいないことを確認し、言った。
「ええ。彼女はもともと、ノーザンアーツ城に住んでいましたから」
「わざわざねえ……もともと、君たちは仲はよかったの?」
わたしは返答に窮してしまい、窓の外の風景を眺める。
「……よくはなかったんだ……」
「マデリーンとその母親にしてみれば、わたしたち父娘は泥棒なのです」
窓にもたれて寛いでいた夫が、思わず身を起こす。
「……泥棒? 穏やかじゃないな」
「先代のバークリー公爵ラッセル卿は体が弱くて、弟のオスカー……つまり、わたしの父ですわね……を正式な継承者に決めました。わたしが八歳の時です。で、二年後に現在の公爵であるオスカーに家督を譲って引退し、余生はノーザンアーツ城で過ごして、家督を譲って三年後に亡くなりました」
「なるほど、君が十三歳で、マデリーンが十五歳の時だね」
夫が即座に言う。……この人は妙に数字に強く、帳簿の間違いもすぐに発見する。頭が痛くなるので長時間は見られないのだけど。
「ええ。でもマデリーンの母親のカロライン伯母様は不満を抱いていらっしゃった」
「不満……」
「カロライン伯母様とマデリーンは、伯父様の死後もずっと、バークリー公爵夫人とその令嬢を名乗って、王都の邸とノーザンアーツ城に住み続けました。追い出すわけにもいかず、わたしはずっと、領地のゴルボーン・ハウスに住んでいたのです」
「じゃあ、王都の邸に行ったのは、その……例の、僕がやらかしたデビューの時だけ?」
「父がバークリー公爵を襲爵したとき、しばらく家族で滞在いたしました」
わたしは嫌な記憶を思い出し、目を伏せた。
「えーと、君が十歳の時だね」
「ええ。その頃はまだ母も存命でしたが……」
わたしはじっと夫の、眼帯を嵌めていない方の、秀麗な横顔を見つめる。
そもそも、この人は憶えていなかった。……すべての記憶をなくす、それより以前に。わたしが幼い時、王都のバークリー邸の庭で、この人に出会っていることも、彼は何もかも忘れてしまった――
忘れられた記憶は、その人の中では失われてしまう。……なかったことと、同じになる。
でも、忘れていない者にとっては――その記憶はずっと残り続ける。
優しい記憶も、辛い記憶も。……すべて、薔薇の棘のようにわたしの胸を刺して、ちくちくと痛み続ける――
戦争で挙げた功績も、なにもかもすべて忘れ去った夫にとって、叙勲のために王都に行き、社交活動をしなければならないのは、苦痛の極みであるらしい。
彼は正式には認められない国王の庶子。すべての記憶をなくした彼にとって、そんなやっかいな身分は対処に困るだけのものだ。
「バークリーに行く前に一度、王宮にも行ったけどさ……礼儀作法もだけど、どうしていいのかわからないんだ。目の前の人は国王で、そして僕の父親だけど、息子とは認められてない。そんな人にどういう態度を取るべきか。……もう本当に困ってしまって」
王都に向かう列車の中で、夫はこんなことを言う。
「会いに来る友人も、全員憶えていないからさ……まあ、大概は断るんだけど、どうしても会いたいって言い張るやつはいる。記憶のないことを悟られるなって注意されてるから、会話には気を使うし。たいてい、僕の目と火傷を見て震えあがって帰っていくけどな。本当にウンザリだった」
夫の顔の怪我と失明については公表されていた。だが、記憶喪失の件は公には伏せられた。
国王の庶子で寵姫の息子である彼の、記憶のないことにつけ込む者が出ないとも限らない。
一部の信頼できる人間には事情を話し、記憶が戻る手助けにならないかと面会もさせたが、まったく効果はなかった。いずれは社会復帰するのだからと、事情を知らない人とも面会させられたようだが、夫は記憶喪失を誤魔化すこと自体に疲れてしまったらしい。
幸いと言うべきか否か、火傷と失われた左目のインパクトが大きかったせいで、以前と違う不自然な態度も何もかも、戦争と怪我の後遺症で片付けられて、記憶喪失の件は噂になっていない。――だから妻のわたしですら、父からの手紙が来るまでは知らなかったのだ。
でも、王都に彼が戻ったことは皆が知っている。だったら当然、彼女は会いに行ったのでは――
「……マデリーンとはお会いにならなかったの?」
勇気を出して聞いてみれば、夫は首を振った。
「いや。そんな女性は訪ねてこなかったよ。来ても憶えてないから微妙な会見になったと思うけど」
それからわたしを見て尋ねる。
「マデリーン……という人は君の従姉なんだよね?」
「ええ。二歳上の従姉です」
「僕が出征後にその、余計なことを言いに来た……」
わたしは周囲を見回し、メイドのジュリーも従僕のケネスも近くにいないことを確認し、言った。
「ええ。彼女はもともと、ノーザンアーツ城に住んでいましたから」
「わざわざねえ……もともと、君たちは仲はよかったの?」
わたしは返答に窮してしまい、窓の外の風景を眺める。
「……よくはなかったんだ……」
「マデリーンとその母親にしてみれば、わたしたち父娘は泥棒なのです」
窓にもたれて寛いでいた夫が、思わず身を起こす。
「……泥棒? 穏やかじゃないな」
「先代のバークリー公爵ラッセル卿は体が弱くて、弟のオスカー……つまり、わたしの父ですわね……を正式な継承者に決めました。わたしが八歳の時です。で、二年後に現在の公爵であるオスカーに家督を譲って引退し、余生はノーザンアーツ城で過ごして、家督を譲って三年後に亡くなりました」
「なるほど、君が十三歳で、マデリーンが十五歳の時だね」
夫が即座に言う。……この人は妙に数字に強く、帳簿の間違いもすぐに発見する。頭が痛くなるので長時間は見られないのだけど。
「ええ。でもマデリーンの母親のカロライン伯母様は不満を抱いていらっしゃった」
「不満……」
「カロライン伯母様とマデリーンは、伯父様の死後もずっと、バークリー公爵夫人とその令嬢を名乗って、王都の邸とノーザンアーツ城に住み続けました。追い出すわけにもいかず、わたしはずっと、領地のゴルボーン・ハウスに住んでいたのです」
「じゃあ、王都の邸に行ったのは、その……例の、僕がやらかしたデビューの時だけ?」
「父がバークリー公爵を襲爵したとき、しばらく家族で滞在いたしました」
わたしは嫌な記憶を思い出し、目を伏せた。
「えーと、君が十歳の時だね」
「ええ。その頃はまだ母も存命でしたが……」
わたしはじっと夫の、眼帯を嵌めていない方の、秀麗な横顔を見つめる。
そもそも、この人は憶えていなかった。……すべての記憶をなくす、それより以前に。わたしが幼い時、王都のバークリー邸の庭で、この人に出会っていることも、彼は何もかも忘れてしまった――
忘れられた記憶は、その人の中では失われてしまう。……なかったことと、同じになる。
でも、忘れていない者にとっては――その記憶はずっと残り続ける。
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