【R18】没落令嬢の秘密の花園――秘書官エルスペス・アシュバートンの特別業務

無憂

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第三章

買い物

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 聖誕節まであと四日。
 アルバート殿下のアパートメント、広い居間には飾り付けられた大きなモミの木が置かれ、すっかり冬支度が出来上がっていた。

「ミス・エルスペスがお戻りになって、本当によかったですよ。ほんっと、エルスペス嬢がいなくなった数日の殿下ときたら、この居間中が空の酒瓶で埋まる勢いで飲んだくれていらっしゃって……」

 聖誕節の飾りつけはしたものの、わたしが不在であったらどれだけ寂しいことになったか、とノーラが笑った。

 留守にしている間、リンドホルムに残ったメアリー夫妻からの手紙も、こちらに届いていた。

 ――何もかも、お言いつけ通り、滞りなくなく進んでいる――

 わたしは何も言いつけていないので、意味はわからない。――殿下は彼らにいったい、何をさせるつもりなのか。

 数日どころか、一か月ぶりに触れるピアノは指が動かなくて無様なものだったけれど、それでもわたしの心を慰めてくれる。ピアノを弾きながら、わたしは突然、大変なことに気づいた。

「――まずいわ、どうしよう……」

 ピアノを途中でやめて凍り付くわたしを見て、通りかかったジュリアンが尋ねる。

「どうかなさいました?」
「大変なことに気づいたの、わたし。――どうしましょう!」
「……できることはいたしますから、なんなりとお申し付けください」

 おそらく、真っ青な顔をしているであろうわたしを、ジュリアンが覗き込む。

「……殿下の、プレゼントを何も用意してなかったわ! どうしましょう! 今から間に合うかしら? でも、買い物に行ける? 第一お金もないわ……あ、でも、聖誕節の夜に会えるとは限らないなら、用意しなくてもいいのかしら」

 オロオロと考え込むわたしに、なんだそんなこと、とばかりに、ジュリアンが露骨にホッとした声を出した。

「新聞記者がうろついているから、不要な外出は控えるようには聞いておりますが、ちょっとした外出くらいなら、問題ないでしょう。俺がついて行ってもいいですが……」

 そこへ玄関の呼び鈴が鳴り、ジュリアンが慌てて走っていく。

 顔を出したのはジョナサン・カーティス大尉だった。

「殿下は本日は一日司令部にカンヅメですよ、書類が溜まりすぎていて。いくつか、ミス・エルスペス宛の荷物を預かってきました」
「わたしに?」

 まず殿下からは新しい楽譜。

「……ミスター・ハリアビンのだわ。……わたしのために作曲させていた練習曲エチュードが出来たって……」

 インクの香りも生々しい手書きの楽譜。綺麗に清書されてはいるけれど、手書きの楽譜なんて初めてで、ドキドキする。……例によって、楽譜を見ただけでは全く、曲想が想像もできない。とんでもなく前衛的な曲の予感しかしない。

 ひとまず楽譜はピアノの上に置いて、他の荷物を確認する。

 ロベルトさんからは、にタイピングするように言われた書類。――そう、わたしは現在、前倒しで聖誕節の休暇に入ったことになっている。司令部周辺の新聞記者たちがもう少し、はけるまで。

 意外な、小さな封筒が一つ。

「……マリアン・ブレイズ……」

 慌てて封を切れば、丸っこい癖のある彼女の文字で、《そんな大変なことになってるなんて、どうして教えてくれなかったの! でもあたしたち友達だから! 困ったことがあったら相談にのるわよ!》 と書いてあった。

 ……相談したら最後、司令部中に話が広まるに違いない。

 でも、悪気はないんだろう……彼女には、聖誕節のカードくらいは送った方がいいのかも。

 そんなことを考えていると、ジュリアンとカーティス大尉の間で、何やら打ち合わせが行われていた。

「買い物に行かれるなら、僕が付き合いましょう。何を買われます?」

 カーティス大尉に言われ、わたしは首を傾げる。陸軍士官に護衛をしてもらうなんて、申し訳なくて。

「別に、気にされることはありません。僕の仕事です。ついて行かなければ、かえって殿下に叱られます」
「なら――そうね、文房具とかかしら。あまりお金ないし……」

 男性に差し上げるとしたら、カフリンクスとか、最近なら腕時計なんかがいいのかもしれないが、何しろ高額すぎて買えない。後四日あるから、ハンカチに刺繍くらいなら入れられる。

「あとは、ハンカチに刺繍を入れるくらいなら――」
「なら手芸店ですね」

 カーティス大尉は素早く、王都の高級百貨店で紳士物のハンカチを買い、文房具売り場に立ち寄るという計画を立てた。

「手芸店は百貨店の同じ通りにありますから、帰りに寄ればいい」

 善は急げでわたしはノーラに手伝ってもらって素早く身支度を整える。年内は喪服で通すつもりにしていて、黒いブラウスの上に、黒ニットのカーディガンを羽織り、分厚い黒い、毛織のロングスカートを穿き、上品なショートブーツを合わせる。黒い毛織の帽子には黒いヴェールがついている。黒のコートを羽織って、ハンドバッグを抱えて玄関に向かえば、待っていたカーティス大尉が立ちあがる。

「じゃあ、行きましょう。護衛は僕の外にも、離れて二人、着きますから、安心してください」
「行ってらっしゃいませ」

 ジュリアンに見送られ、わたしとカーティス大尉は専用のエレベータを降りた。






 聖誕節を前に、王都の中心街は華やいでいた。街の一角に馬車を停め、雑踏の中をカーティス大尉のエスコートで百貨店に向かう。

「ハーシーズとブルッキンス、どちらがお好みでした? 僕は普段、ハーシーズしか使わないので……もし、ブルッキンスが行きつけなら――」

 王都にはいくつか、老舗の高級百貨店があるけれど、わたしは別に行きつけというほどは使用していない。王都の家からは、ごくわずかにブルッキンスが近かったので、祖母はそちらを行きつけにしていたらしいけれど。

「いいえ、どちらでも。特にたいした顧客でもないの」
「なら、ハーシーズの紳士売り場なら、顔見知りの店員がおりますので」

 百貨店の前の道は混雑していて、カーティス大尉はわたしを守るようにして店に入る。金釦のついた赤い制服のドアボーイが、回転扉を開けてくれた。

「――これは、カーティス様。お久しぶりですね」

 初老の、売り場主任らしき男性がカーティス大尉に歩み寄る。

「久しぶり、ベネット。……実はたいした買い物ではないのだが、聖誕節の贈り物にする、ハンカチを買いにきたんだ。刺繍の土台? になるものを。……もちろん、僕じゃなくて、こちらのレディが――」

 ベネット、と呼ばれた男性はああ、と頷き、「でしたらこちらに――」と、わたしたちをハンカチ売り場に案内する。こんな大層な店でわざわざハンカチを買うなんて、と一瞬思ったけれど、ハンカチ一枚でもけっこうなお値段がするのだろう。――ちなみに、故郷にはこんな大層なお店はないから、ハンカチなどの日用品は全部外商で、店で現物を見て選んだことなんてない。

 いくつか出されたハンカチを手に取り、刺繍が映えるのはどれだろうと考える。

「どのような刺繍を? イニシャルでございますか?」
「ええっと、そうですわね……」

 わたしはちらりとカーティス大尉を見た。……紋章を入れる時間はあるだろうか。でもそもそも、殿下の紋章をわたしは詳しく知らない。

「あの方の紋章は確か――」

 すると、何も言わないのに、ベネット氏はすっと、紋章図鑑のようなものをわたしたちの前に広げて見せた。

「盾に十字架、それから薔薇でございますね。……かのお方でございますれば」

 わたしはギョッとして、思わずベネット氏を見た。しかしベネット氏は一切、顔色を変えない。カーティス大尉が得意先ということは、彼がアルバート殿下に仕えているのも承知しているのだろう。――つまり、彼が連れてきた女が何者かも、もうわかっているということだ。

「大丈夫です、ベネットは信用できます」

 カーティス大尉が耳元で囁く。

「時間もないし、あまり凝った文様は……イニシャルだけの方がいいかしら?」
「でしたら、こんな感じに、イニシャルに薔薇をあしらわれましたては。このタイプの薔薇でしたら、男性のハンカチでも十分使えます。イニシャルは〈A〉(アルバート)・〈A〉(アーネスト)・〈V〉(ヴィクター)?」
「……そうですわね。いえ、イニシャルは最後は〈R〉で。……昔からそちらで呼んでいるので」
「でしたらこんな感じで如何でしょう」

 ベネット氏はさらさらと、イニシャルを飾り文字にした図案を描き、薔薇の紋章を添える。

「……すごいわ、デザイナーでいらっしゃるの?」

 ベネット氏は柔らかく微笑んで言った。

「母が刺繍職人で。手伝いで図案を描いていたのですよ。小物に刺繍を入れたいと仰るお客様には、自分で描いて見せるのが一番で。これを発注の時に職人に見せれば、間違いはございません」
「でもわたしは、自分で図案化しないとだめね。上手くできるかしら」
「二軒隣の手芸店で、糸を買う時にこれを見せれば、図案化してくれます。……実は、私の妹の店でして」

 ベネット氏が片目をつぶってみせ、わたしは失敗に備えてハンカチを三枚購入した。





 カーティス大尉の案内で、階上の文具コーナーで万年筆ファウンテンペンを購入し、綺麗に包装してもらう。紙袋はカーティス大尉が持ち、わたしたちはベネット氏に言われた通り、二軒隣のバーンズ手芸店で、刺繍糸を選ぶ。図案を見せるとわざわざ奥から女主人らしきが出てきて、ニコニコと方眼紙に図案を描いてくれた。

 店を出ると、隣は高級石鹸の店だった。ふと思いついて、カーティス大尉を誘う。

「ここは祖母が好きだった石鹸の店で……寄ってもよろしくて?」
「ええ、もちろん」

 店内には祖母が愛した石鹸の香りが漂う。綺麗に積んであるさまざまな石鹸の香りをいろいろ試してから、ほんのり薔薇の香りのする石鹸を数個選び、個別に包装してもらった。

 そうして店を出て、馬車を停めた場所まで二人で歩きだした時、突然、背後から呼び止められた。

「お兄様! その女はなんなの?!」

 振り向くと、ツイードのコートを着、帽子を被った若い女性が二人、わたしとカーティス大尉を睨みつけている。

「……ドロシー? それに、シャーロット? どうしてここに……?」

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