【R18】没落令嬢の秘密の花園――秘書官エルスペス・アシュバートンの特別業務

無憂

文字の大きさ
上 下
98 / 190
第二章

キャロライン嬢

しおりを挟む
 食事が終わり、殿下が再び打ち合わせに向かう。

「ああ、そうだ、ロベルトがタイプして欲しい書類があると言っていた。隣の部屋にテーブルとタイプライターを準備するから」
「わかりました」

 殿下が部屋を出てから、わたしはハンナに尋ねる。

「マニキュアを塗りなおしてくれるサロンに行きたいのだけど、近くにあるかしら」

 ハンナはわたしの手をじっと見て、しばらく考えていたが、頷いた。

「大使の奥様とお嬢様が行きつけていらっしゃる、ヘアーサロンが近くにございます。マニキュアも承っているはずです」
「申し訳ないけど、予約をお願いできる? ……せっかくだから、髪のカットもお願いしようかしら。午後の早い時間がいいわ」
「畏まりました」

 わたしが隣の部屋――殿下の居間兼執務室――に行くと、ロベルトさんが書類を辞書で首っ引きしながら、シュルフト語に訳していた。

「おはようございます」
「ああ、おはよう。昨日はよく眠れた?――わけないかー、あははー!」

 下品な揶揄いは軽く無視して、わたしはタイプライターの前に座る。

「で、タイプする書類はどちらです?」
「エルシーたんって、時々、視線だけで氷漬けできそうに、冷たいよね?」
「くだらないことを仰るからですわ」

 わたしは手書きの書類を受け取り、タイプを打ち始める。――実は、わたしはタイプ打ちがとても得意だ。天性のタイピストだと自負している。ピアノを弾いている時もそうなのだが、一心不乱に打ち込んでいると、周囲の物音も何もかも、すべて消えてしまう。もちろん、さっきから一人でブツブツ言っている、ロベルトさんのくだらないお喋りも、全てシャットアウトだ。

 カタカタカタカタ、カタン、カタタタン、カタカタ、チーン!

 数日、ピアノが弾けない欝憤を晴らすように、ひたすらタイプ打ちに没頭する。
 きれいにタイプした書類を眺め、わたしは満足の溜息を漏らす。

「あー、これもお願いできる?……タイプ打ってる時のエルシーたんって、ほんと、機械人形みたいだよね」

 ロベルトさんのくだらない発言はもちろん無視し、差し出す書類だけを受け取り、再びタイプライターに向かう。

 カタカタカタカタ、カタン、カタカタ、チーン! 

 タイプライタ―はピアノに似ている。無心に指を動かし、音楽を奏でるように文字を打ち込んでいく。この瞬間がたまらなく好きで、わたしは職業婦人に向いていると思う。貴族にさえ生まれなければ、きっとタイピストとして独り立ちできたのに。

 そんなことを考えながら、タイプした書類をチェックし、ロベルトさんに渡す。殿下が軍縮会議の会場に向かう時間も近づいて、軽食を取るために殿下と護衛の方たちが戻っていらっしゃった。
 ジュリアンとハンナ、それから数人のメイドが昼食のサンドイッチとお茶を運んできた。殿下も配下の方たちも凛々しく軍服に身を包み、厳めしい雰囲気だ。

「ロベルトは明日の会議の準備に残ってくれ」
「わかってます。俺のシュルフト語じゃあ、会議の雰囲気ぶち壊しだし」

 一人、普段と同じ、くだけたラウンジ・スーツ姿のロベルトさんが肩を竦める。

「前日までの会議の抄録をランデル語訳し、タイプしたものがこれっす。こっちが今さっき届いたばっかりの、本日の午前中に行われた次官級の会議の、シュルフト語の抄録。これを今から大至急で翻訳して、タイプに打っておくっす」
「頼んだ。――結局、毒ガスの禁止条項を盛り込むか否かがで揉めているようだな」
「以前も言いましたけど、小国の賛成をもぎ取るのは結構、大変でしょうね」
「わかっている」

 殿下はロースト・チキンのサンドイッチを食べながら、書類をチェックしている。ジュリアンが殿下のカップに熱い紅茶を注ぐ。

「……エルシーは午後はどうする? ロベルトの手伝いばかりでもウンザリだろう?」

 急に尋ねられて、わたしは食べかけのサンドイッチを急いで飲み込み、殿下に向き直る。

「お手伝いに関しては、ウンザリはしていません。仕事ですから、それはいいんですけどね。……午後はマニキュアのために、サロンを予約してもらいました」
「……いったい何にウンザリしているんだ、エルシー」
「エルシーたん、もしかして、俺のことウザいって思ってる?!」 

 ロベルトさんの一言だけで、殿下も配下の方々も、わたしが何にウンザリしているか、きっとわかって下さったと思う。

「サロンはここから近いのか? 誰か護衛を――」

 殿下が周囲を見回せば、ハンナが進み出て頭を下げた。

「サロンまではわたしがお伴いたします。ここから歩いてもすぐの場所で――」 
「念のため、ジュリアンも連れていけ」
「畏まりました」

 ジュリアンがお茶を注いでいた手を止め、頭を下げる。

「六時までには戻る」

 殿下はそう言って、配下の方を引き連れ、軍縮会議に向かわれた。
 





 サロンは一時半の予約だと言うので、わたしは少し考えて、プルオーバーを脱いでツイードの上着を着、さらにウールのケープを羽織り、ジュリアンとハンナとともに大使館を出た。

「馬車を呼ぶまでもない距離で……」
「ええ、構わないわ」

 久しぶりに外を歩くと、それだけで気が晴れるようだ。石畳の街路はさすが、伝統ある古都の風情がある。

『予約をしていた、ランデル大使館のものです』

 ハンナさんが声をかければ、サロンのオーナーらしい、中年の女性が出迎えてくれた。

『ランデルからいらした方ですね。通訳は必要かしら』
『いえ、だいたいわかります』

 わたしがシュルフト語で答えれば、マダム・ヒューラーと名乗った女性が頷き、すぐに奥の個室に案内され、鏡の前の椅子を勧められる。

『ネイルケアと……髪はどうされます?』
『一週間、長距離列車に乗り続けて、ボサボサになってしまって……今夜は大切な夜会があるんです』

 わたしが有り体に言えば、マダムは大きく合点した。

『なるほど、承知いたしました。明日からもまとめやすいように考えましょう』

 わたしは爪を磨いてマニキュアを塗りなおしてもらい、髪の毛も綺麗に整え、夜会に相応しくまとめ上げてもらった。





 施術を終えると、殿下から現金を預かっていたジュリアンが支払いを済ませ、わたしたちは大使館へと戻る。運の悪いことに、玄関のところでバッタリ、大使の令嬢であるキャロライン嬢に出くわした。

「あら、いやだわ。早速、愛人がちゃらちゃら着飾って」

 聞えよがしに言うキャロライン嬢に、ジュリアンが咄嗟にわたしを庇おうと前に出る。わたしはそれを軽く制止し、じっとキャロライン嬢を見つめた。

「……な、何よ、何か文句あるの? 愛人のクセに」
「もちろん、あるわ。なぜ、ないと思うの。わたしがあなたの発言を殿下に告げ口しないと、どうして思えるのか疑問だわ。……殿下はわたしへの攻撃はすべて排除すると誓ってくださったわ。あなた、昨夜の晩餐会から追い出されたのに、まだ、懲りないの?」
「……フン、どうせ後、数日で国に帰るクセに!」
「あなたがここで威張っていられるのは、あなたが大使のご令嬢だから、あなたが偉いわけじゃない。わかっていらっしゃる?」

 キャロライン嬢が眉を顰め、じっとわたしを睨みつける。

「何が言いたいの?」
「……つまり、あなたのお父様が大使じゃなくなったら、あなたはここにいられない。あなたの軽はずみのせいで、お父様が職を失うことがないといいわね?」
 
 キャロライン嬢が青い目を見開く。

「な……わたくしを脅すの? この性悪が!」
「脅すなんて人聞きの悪い。忠告して差し上げているだけよ。言っておくけど、わたしはいちいち、あなたの発言を殿下に告げ口するつもりはないわ。でも、ジュリアンは何かあれば、殿下に全て報告するように命じられているの。わたしが止めても、あなたがわたしを『愛人』呼ばわりしたと、殿下に報告するでしょうね。昨日のことがあるから、きっと殿下はすぐに、あなたのお父様に苦情を申し立てると思うわ」

 キャロライン嬢はキュッと唇を噛んで、わたしを睨みつけ、忌々しそうに吐き捨てた。

「なんて女なの! ステファニー様の婚約者を奪っておきながら……!」
「わたしから殿下に近づいたわけでもないのに、殿下はわたしと結婚すると言い張っていらっしゃるの。昨夜だって、わたしはあなたを追い出せなんて、一言も言っていないけど、殿下はあなたを追い払ってしまった。これ以上殿下を怒らせて、何をするか、わたしにも予想はつかないの。わたしを卑猥な言葉で罵って殿下を怒らせて、顔が変形するほど殴られた方をこの目で見たわ。どうせ数日と思うなら、その数日の間だけでも、大人しくしていらっしゃった方がいいわ。……これは親切心からの忠告よ?」

 キャロライン嬢は真っ青になって反論もできず、そのまま乱暴に踵を返してどこかに行ってしまった。

「いやだわ、まるでわたしが脅したみたいじゃない」

 わたしが肩を竦めて言えば、ジュリアンがポツリと言った。

「……脅したつもりがなくてその発言とは、恐れ入ります」


しおりを挟む
感想 289

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...