【R18】没落令嬢の秘密の花園――秘書官エルスペス・アシュバートンの特別業務

無憂

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第二章

グリージャからの乗客

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 夕方の五時に発車した列車は、ゆっくりと東へと向かう。クレヴァネス山脈の南側を縫うように走り、一部は山塊を突っ切ることになる、一番の難所だ。冬は雪が深く、豪雪で列車が閉じ込められることもある。

「ここから先は山道で、トンネルばかりだ。……相当の難工事だったろうけどな」
「山を迂回することはできなかったのですか?」
「山を迂回するとアルティニア帝国の版図を出てしまう。権利の関係で鉄道を敷設ふせつするのは難しい」

 リーデンを少し超えた小さな町では、国境の検問があるはずと、アルバート殿下が左腕にはめた腕時計と、地図を見比べながら言う。ルーセン共和国に入国する時にももちろん、検問はあったけれど、殿下も我々も軍縮会議に参加するための外交使節であるから、外交特権で検査はほぼパスだった。……もちろん、旅券パスポートは提示するけれど。

 殿下が胸ポケットからシガレット・ケースを取り出し、一本抜き出して口に咥える。

「部屋が煙くなるから、窓を開けて吸ってください」
「わかってるよ……本当に煙草が嫌いなんだな」

 殿下は窓を薄く開けて、煙草に火を点ける。山は日の入りも早く、もう、周囲は薄暗い。

「……もうすぐトンネルに入って、窓を開けていられなくなる。これ一本吸ったら、しばらくお預けだな」

 殿下はそう言って、美味そうに煙草をくゆらせた。




 

 アルティニア帝国に入国する検問は何事もなく終わり、七時の夕食に間に合うように身支度を整え、殿下のエスコートで食堂車に向かう。食堂車の給仕はリーデンで交代していたが、きちんと申し送りがされていて、いつもの席に案内された。

 食堂車はそこそこ埋まっていて、客は他にはリーデンから乗った老夫婦のテーブル、中年の太った男性とその秘書らしい、青年のテーブル。中年女性二人組のテーブルは早速べちゃくちゃと、お喋りに花が咲いている。

「そうそう、若い女性だったんですよ、グリージャからの旅客」
「女?……こんな時期に? まさか一人旅じゃ……」

 ロベルトさんが通路越しに殿下に話かけ、メインのステーキにナイフを入れていた殿下が、驚いたように目を瞠る。

「付き添いらしき中年女性も一緒です。初め母子かと思いましたが、違うみたいですね」

 ジェラルドさんもワイングラスを手に頷く。

「……それに、他にも護衛がいるようです」
「護衛……?」

 殿下が眉を顰める。メイドや従者、付き添い婦人ならばともかく、護衛を連れての旅は相当の身分の者に限られる。

「侯爵家にゆかりの者、と言っていたが、俺の存在をやり過ごしてくれればいいのだがな」
「この列車に、アルバート殿下がご乗車になっていることは、皆、知っているのですか?」

 殿下は付け合わせのマッシュポテトをフォークで掬いながら首を傾げる。

「公表はしていないが、薄々気づくだろうな。寝台チケットを購入できるならそこそこの金持ち層だろうから、誰が乗っているかくらい、車掌にチップをはずんで聞き出すんじゃないか?」
「それで、さっきから、ジロジロ見られているのね。……王子が愛人連れだから、みんな気にしているわ」
 
 殿下はアルティニア風ソースのかかった仔牛のステーキをフォークに刺して、わたしを見た。

「……愛人じゃなくて恋人だ」
「ロベルトさんも言ったように、傍からどう見えるかでしょう」
「いっそ俺たちもリーデンで乗り換えて、シクラサにでも駆け落ちすればよかったかな。軍縮会議も何もかもほっぽり出して。――確かにいい生活はさせてもらっているけれど、戦争中の悲惨な生活で全部帳消しだし、王族の義務ばかり押し付けられて、本当にうんざりする」

 今ここで、殿下が王族の義務を放り出して逃げ出せば、軍縮会議を含めて、きっと大変なことになる。人は平等だという人権思想の高まりから、王制への逆風は強い。

「自由民権を声高に叫ぶ奴らは、そのくせ、俺たち王族の人権も自由も認めてくれないからな」

 アルティニア産の赤ワインを片手にそんな会話を交わして――。

 食事を終え、自分たちの車両に戻るために、テーブルの間の狭い通路を殿下に腰を抱かれながら通り過ぎていくと、ふと視線を感じた。

 二十歳くらいの若い女性と、四十くらいの中年の女性の二人組。どちらも仕立てのいいツイードのスーツに、小さなトーク帽を斜めに被っている。その後ろの席には、少しいかつい、男性二人組。……グリージャからの乗客だ。
 
 その若い女性が、燃えるような瞳でわたしたちを見ていた。栗色の髪に、やや暗い碧色の瞳。意志の強そうな瞳に刺すような視線で射抜かれて、わたしは内心ぎょっとした。

 ――何か、気に障ったのかしら。

「どうした?」
「い、いえ、なんでもありません……」

 わたしは睨まれている理由がわからず、釈然としない気持ちで、食堂車を後にした。





 翌朝、わたしが白いブラウスにツイードのスカート、グレーのニット・カーディガンにチャコール・グレーのウールのベレー帽を斜めに被り、薄く化粧をして準備を整える横で、ジュリアンはわたしたちのガウンと寝間着を片付け、宝飾品をテーブルに並べる。殿下は洗面台で素早く髭を剃って、カフリンクスを嵌めてタイを結ぶ。今日はグレイの縞柄の三つ揃いディトースだ。ノックの音がして、ジョナサン・カーティス大尉が迎えに来た。
 ジュリアンに見送られて食堂車に向かう。

 朝食時の食堂車は、そこそこ混雑していた。我々が席に案内されていくと、朝食を終えたコーキチが、勘定をを済ませて出ていくところだった。軽く帽子を上げて頭を下げ、出て行く彼を見送って、わたしたちも席につく。

 朝食もアルティニア風に、ずばり、パンが変わった。クロワッサンではなく、ずっしりとしたライ麦の黒パンの薄切りや、ケシや胡麻の種子をまぶして焼いた小麦のパン。数種類の腸詰、ハム、チーズ、果物。クランベリーのジュースがグラスに注がれ、ヨーグルトに蜂蜜を添えたものがついた。

「……パンはルーセンの方が美味かったな」

 殿下が黒パンにバターを塗り、ハムを乗っけて齧りながら言えば、わたしは肩を竦める。

「これはこれで美味しいわ。わたしは割と好きよ?」
「おばあ様は黒パンが嫌いだっただろう?」

 殿下の言葉にわたしが目を丸くする。

「ええ、どうしてご存知なの?」
「リンドホルムでは、夕食はおばあ様と摂っていたからな。黒パンが出るたびに文句を言っていたから」

 まだ幼かったわたしとビリーは、食事は子供部屋で摂っていたし、何しろ十歳までは七時に寝かされていたから、大人たちと夕食を囲むことはできない。乳母ナニーからある程度の食事のマナーを習い、八歳ごろから昼食を、十歳を過ぎてやっと、夕食のテーブルを囲むことが許された。リンドホルムでの半年ほど、殿下は毎晩、おばあ様と食卓を共にし、時には厳しくマナーを直されたりしたらしい。

「初めて食事を一緒にした時、お前のマナーがおばあ様にそっくりだから、ちょと感心したんだ」

 それからは、窓の外の風景を見ながら、幼い時の想い出などを語り合って、穏やかに朝食を終えた。食後のコーヒーを飲み終え、殿下が煙草を一服すると、ロベルトさんが呼びに来て、耳打ちした。

「悪い、打ち合わせだ。すぐに済む。ジョナサンを置いていくから」
「わかってます、大丈夫ですから」

 特別車両に向かう殿下を見送り、わたしはホッと溜息をつく。何となく、後ろの座席に残ったジョナサン・カーティス大尉に申し訳なくて、わたしが謝る。

「申し訳ありません。わたしがいるせいで……」
「いえ、そんなことはありません。僕にとっては大事な仕事です。……それに、僕はアシュバートン中佐を尊敬していましたから」

 カーティス大尉は穏やかに微笑んで、給仕にコーヒーのお替りを頼む。

「汽車の旅もあと、二日ほどです。この後、クレヴァネス山脈を突っ切る、一番の難所にさしかかります。雪が心配ですけどね」

 わたしは進行方向の遠くに聳える、冠雪した山塊を見やる。しばらく無言で車窓の風景を眺めていると、ふと、人の気配を感じた。振り向くとグリージャの令嬢が立っていた。いつのまに?

「……フロイライン、何か?」

 カーティス大尉が少しばかり硬い声で問いかければ、令嬢は全く訛りのないランデル語で言った。

「歳の近い女性がいらっしゃったので、旅の間、お近づきになれればと思って。ご一緒してもよろしいかしら?」

 わたしは人見知りするタイプだから、通常なら知らない女性と同席なんてお断りするところだけれど、こういった長距離列車では旅の道連れは当たり前なこと。断るのは無粋だ。だから目を伏せて、言った。

「どうぞ、お座りになって」
「ありがとう」

 彼女はわたしの正面の椅子に座り、付き添い婦人らしい中年女性はその後ろ、少し離れたテーブルに座り、給仕に紅茶を申し付けた。もう朝食の時間は終わったが、昼食時間までは食堂車は解放されている。個室コンパートメントは狭いし、二人部屋だったりすると落ち着かないから、食堂車で過している人もいる。ただ、この朝に限って、わたしとカーティス大尉、そしてグリージャからの女性たちしかいなかった。……護衛の男性は危険はないと判断して、客室に戻っているようだ。

「わたくし、エヴァ・ディーゼルと申します。お名前を伺っても」
「エルスペス・アシュバートンです」

 わたしが名乗ると、フロイライン・エヴァは首を傾げている。……少し、珍しい名前だからだろうか。ちょうど、給仕が二人分の紅茶のカップとポットを運んできて、カップに紅茶を注ぎ分けると下がっていった。エヴァ嬢は卓上の砂糖を二匙入れ、銀のスプーンで混ぜてから、一口飲む。

「ランデルの第三王子のアルバート殿下がご乗車になっていると伺って……正直、驚きました。堂々と、女性を伴っていらっしゃったので」

 わたしの背後で、カーティス大尉が警戒している雰囲気を感じるが、わたしは何食わぬ顔で微笑んだ。

「ええ……わたしは殿下の秘書官ですから」

 エヴァ嬢はふっと溜息をついて、わたしを暗い碧色の瞳で見つめながら尋ねる。

「その……ランデル語では直接的な言い方になってしまって、失礼な表現になってしまったらごめんなさい。その……アルバート殿下には婚約者がいらっしゃると聞いておりましたけれど……その……」

 ギシリ、と背後でカーティス大尉が身じろきして、何か言いかけるのを、わたしが軽く手を挙げて制する。

「傍からどう見えようが、わたしは秘書官ですわ。その資格で随行しておりますし。殿下のプライヴェートに関わることは、業務上の守秘義務がありますので、お答えしかねます」
「いえ、そうですの……なんだかすごく、その、親しいように見えましたので……」
「……大変、ご親切にはしていただいていますわ」

 わたしのややぶっきらぼうな答えに、エヴァ嬢は鼻白んだようだった。

「ごめんなさい、母国語じゃないから、不躾になってしまったわ。そうではなくてただ……わたくしが知りたいのは……その……」

 エヴァ嬢は周囲を見回すと、わたしの方に身を乗り出し、耳元で小声で言った。

「アルバート王子は、グリージャの王女と結婚したがってるのでしょう? なのに、女連れだなんて――」
「はあ?」

 わたしが思わず目を瞠る。エヴァ嬢は気まずそうに周囲を見回しながら、ギリギリ聞き取れるくらいの声で囁くように言った。

「ランデルは戦勝国で、グリージャは敗戦国だから、要求を突っぱねることはできないって。だからわたくし、国を出てきたんです。このまま無理矢理、結婚させられるのは嫌で。でも――」

 わたしはしばらく目を見開いていたが、咄嗟に、グリージャの王女の名前がエヴァンジェリアであったことを思い出した。つまり――。


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