【R18】没落令嬢の秘密の花園――秘書官エルスペス・アシュバートンの特別業務

無憂

文字の大きさ
上 下
76 / 190
第二章

愛だけでは

しおりを挟む
 わたしは殿下を好きなのか。

 ズバリ聞かれて、わたしは答えられずに俯く。
 ずっと、考えないようにしていた。いやむしろ、好きになってはいけないと、思ってきた。
 
 殿下がわたしを抱いたのは、わたしが処女で金に困っていて、都合がいいから。
 いずれ、レコンフィールド公爵令嬢か、あるいは別の、とにかく殿下の身分に相応しいご令嬢と婚約されるまでの、つなぎの女だと。……いずれ捨てられる女が、本気になっても辛いだけだと。

 なのに、殿下はわたしと結婚したいと言いはり、そして、彼はかつて、リンドホルム城にいたリジーだと知った。

 ずっと、わたしのことが好きだったと。 



 殿下には何度も、愛を告げられているのに、わたしは一度も答えを返したことがない。
 いつもいつも、「おばあ様のお許しが」「おばあ様に相談しないと」。

 だって――何かを自分で決めたことなんてない。司令部で働くと決めた時くらいだ。あの時もおばあ様は大反対なさったけれど、本当にお金がなくて、「背に腹は代えらえません」とジョンソンとメアリーまでもが説得して、ようやく認めてくださった。でもおばあ様が反対なさるんだから、女のくせに働くなんて、本当は好ましくないんだろうと、わたしだってどこかで思っていた。結局、その仕事のせいで殿下に会って、こんなことに――。

「ミス・アシュバートン? どうかなさったの?」

 ミセス・リーガルに心配そうに問いかけられ、わたしはハッとして顔を上げる。

「いえ、何でもありません。その……」 
「エミリー、あなたが不躾なことを聞くからよ」
「何よ、アナベル、あなただって知りたいって言ってたじゃない」

 お互いに言い争う老姉妹の様子からして、どうやら、二人の間ではわたしと殿下の関係をあれこれ詮索していたらしい。

「その……殿下からは何度か、その……結婚したいとは言われているのですけれど、わたしのようなものが、軽々しくお返事していいかどうか、その――」
「そりゃあ、気後れして当然よ。その辺の普通の男にプロポーズされても迷うものよ。まして、ねぇ?」

 ミセス・アナベルが姉に向かって同意を求め、ミス・アランも頷く。

「ええ、そうよ。当たり前よ。王子の上に、他の女と婚約してるんですからね。でも、そちらの方はどうするつもりでいらっしゃるの?」

 ミス・アランは穏やかな口調でぐいぐいと詰めてくる。

「え、その……結婚したいのは、わたしだとの一点張りで……」
「あら、それは――」
「あらまあ――」

 老姉妹は顔を見合わせる。

「それはダメね。具体的な道筋を示してもらわないと」
「ええ、そうよ。愛だけでなんとかなるんだったら、この世に悲恋はないわ」

 ミセス・リーガルが首を振る。

「殿下は意外と、詰めが甘いようね。脇が甘いって言うのかしら」
「あっさり議会を通されてしまうしねぇ……」

 ミス・アランもうんうんと頷いて、わたしに言った。

「愛は大切よ? 愛がなければ、すべてが虚しいわ。でもね、愛だけではダメなのよ」
「まあ、お金も大切よね。でも、愛は必要よ。そして何より自分よ」

 ミセス・リーガルが改めて言う。

「頼りない男とやっていけるかどうか、やっぱりあなたの気持ち次第よ。愛していれば我慢できるし、愛がなければ我慢できない。結局はそこに帰るのよ」

 わたしは殿下を愛しているのか、それとも――。





 
 わたしが答えに逡巡しているうちに、特別車両からロベルトさんと外交部の二人が戻ってきて、ロベルトさんが言う。

「エルスペス嬢、殿下がお呼びだよ? タイプして欲しい書類があるってさ。それから手紙の口述筆記」
「は、はい、わかりました。今すぐに」

 わたしが老姉妹に断りを言って立ち上がると、二人も立ちあがってわたしを優しく抱きしめてくれた。

「あなたは悪くないわ、ミス・アシュバートン。選択に自信を持ってね」

 ミス・アランが言い、ミセス・リーガルは、

「しいて言えば、あなたが魅力的過ぎるのがいけないのね。大丈夫よ、きっと幸せになれるわ」

と言って、わたしの頬に軽くキスをしてくれた。祖母に抱きしめられたのなんて、弟が死んだ時以来で、わたしは昔のことを思い出し、目の奥が熱くなるけれど、それを堪えて微笑んで礼を言った。

「ありがとうございます。また、夜にでも――」
「ええ、もちろん」

 ジョナサン・カーティス大尉とともに、特別車両に戻ると、殿下は車窓に凭れるようにして、シュルフト語の辞書を片手に、書類を読んでいた。
 流れていく晩秋の田園を背景に、殿下は上着は脱ぎ、ノリのきいた白いドレスシャツの上に背中側が黒く、前面が薄いグレイのウエストコートを着て、濃いグレイのトラウザーズを穿いた長い脚を組んでいる。その姿は、見慣れたわたしでもドキッとするほど格好がいい。

 殿下は入ってきたわたしに気づくと、持っていた辞書を小テーブルに置き、隣に席に座るように手招きした。

「ああ、エルシーはこちらに……ジョナサンは下がって、ジェラルドとロベルトから、さっきの話を聞いておいてくれ。些か厄介な件が持ち上がっている」
「それは……ハーケン二等にとう書記官が言っていた、グリージャの件ですか?」
「そうだ。俺は関わるつもりは全くないし、ハーケンにもそう、言った。だが、向こうの出方が読めない。気をつけておいてくれ」
「承知しました。詳しくはまた、後ほど」

 ジョナサン・カーティス大尉が一礼して下がると、殿下が言う。

「お節介なばあさん二人組に捕まっていたらしいな」
「ご親切な方がたですわ。人生に有益なアドヴァイスを……」

 殿下は、隣に座ったわたしの顔をじっと見つめる。

「どうせ余計なことを吹き込まれたんだろ? 俺みたいな男はやめておけ、とか」
「……具体的なプランのない男はやめておけとは言われました」

 殿下が凛々しい眉根を寄せ、言い訳がましくまくしたてる。

「プランはあった。二人で国外に逃げる。ハンプトンの港から新大陸行きの客船のチケットも押えたんだ。……でも、マクガーニにしこたま叱られ、代わりにビルツホルン行きを押し付けられた」
「……新大陸に駆け落ちなんてしたら、わたしは王子を誑かした稀代の悪女って言われ続けるでしょうね」

 新大陸に逃げればいいってものじゃない。その後どうするつもりだったのか。わたしが溜息をつけば、殿下も肩を竦める。

「俺だって、女に入れあげて国を捨てた馬鹿王子って言われ続けるだろうけど、俺は評判よりもエルシーの方が大事だったから……」
「ご自分の評判は殿下の勝手ですけど、わたしの評判も少しくらい気にしてください」
 
 殿下は両掌を上に向け、おおげさに困惑を表現する。

「本当は、お前の爵位を取り戻して、その上で父上の許しを得るつもりだった。それで、ビリーの死の不審さに気づいて……調査に手間取ってる隙に、まさか議会に手を回されるなんて、想像もしてなかった。新聞の件は、俺の不注意だ。俺は新聞社みたいなものに注意を向けなさ過ぎた。ロベルトとも相談して、新聞社を一つ買おうかとも考えているけど、俺が社主ってのもあからさまな気がするから、少し迷ってる。投資先としては利益はイマイチだし、手を広げ過ぎはよくないとも思って。……全部、後手後手に回っているのは、認める」
「殿下のせいだけではないから、そのことはもう……。それはともかく、タイプする書類はどれです?」

 無駄話を切り上げ、事務モードに入ろうとわたしが話を変えれば、殿下は腕を伸ばしてわたしを抱き寄せる。

「二人っきりの時はリジーと呼んでくれ」
「でも、これはお仕事ですから。ケジメはつけたいの」

 殿下は、息を呑んで、恐る恐るわたしの顔を覗き込むようにして、言った。

「……つまり……食事や、その、ベッドの上はもう、じゃないと……」

 わたしは目を伏せ、顔を逸らして小さな声で言った。

「……愛して、くださっているのでしょう? わたしを……」
「もちろんだ! 最初から俺は――ただその、余計なことを言ったせいで、お前にいらぬ誤解をさせてしまった。……本当にずっと、昔から愛しているのは、エルシーだけだったのに……」

 殿下が感極まったようにわたしを抱き締めて、顔中にキスの雨を降らせるのを、わたしは身を捩って避ける。

「朝っぱらからやめてください。仕事があるのでしょう? 指示していただければ、タイプでも口述筆記でもしますから――」
「今はキスがしたい」
「リジーって呼ぶのやめますよ?」

 わたしが少しばかり凄んでみせれば、殿下は慌てて両手を引っ込めてわたしを解放した。

「すまない。タイプして欲しい書類はこれだが、別に急がない。ビルツホルンに着くまでは、差し当たって特にすることはないんだ。現在、すでに海軍の協議の結果によっては、こちらの要求も変わってくるかもしれないし」

 殿下は少し躊躇うように、視線を車窓に移し、それから意を決したようにわたしを見た。

「それより、外野から余計なことを言われる前に、俺の口からきちんと説明しておいた方がいいと思って呼んだんだ。……さっきの、ジョナサンに言ったグリージャの厄介事について――」
「わたしが聞いてもいいことなのですか?」

 国の機密に関わることなら、特には聞きたくはないのだけれど。
 殿下が形のよい眉を顰めて、わたしをじっと見つめた。

「お前とも関係ないわけじゃないから。……外交部の若い方、ハーケン二等書記官と言うんだが、あいつには注意しろ」
「ええ?……あの、若い方がどうかなさったの?」
「あいつは外交部でもグリージャ寄りの派閥らしい。あろうことか、俺とグリージャの王女との結婚を画策している一派の野郎だった。……レコンフィールド公爵が議会を抱き込んでまで、強引にステファニーと婚約させた理由が、やっとわかったよ」
 
しおりを挟む
感想 289

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...