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第一章
待ち伏せ
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その日、バーナード・ハドソン商会の三階にある特設サロンにお邪魔して、殿下が真珠養殖への投資話をする間、東洋から取り寄せたさまざまな美しい品を見せてもらった。
その特設サロンはまるで、小さな東洋、だった。
壁の絵は大胆な人物画で、画面から飛び出るような迫力があるもの、それから雨に降られた大きなアーチの橋を、珍しい風俗の人々が傘を差しながら渡っていく風景画。衣桁に掛けられたのは、金襴緞子の豪華なガウン――わたしのキモノ・ガウンと同じ形だが、豪華さが段違いだった。その隣には旧ワーズワース邸でも見た、恐ろし気な武具。穏やかな表情の金色の像は、かの国で尊崇を集める神の像だと言う。
わたしは優雅な彫刻の施された大きな木の長椅子に座り、やはり木の、優雅に湾曲した脚を持つ四角い小さなテーブルに、驚くほど薄い、染付の磁器に注がれた紅茶を供された。
見たこともない意匠の、精緻な透かし彫りの衝立に、黒地に虹色の光る装飾を埋め込んだ飾り棚。
「螺鈿、と言いましてね、貝でできているんですよ」
説明してくれるのは、ミス・リーンの店にいた小柄な中年男性だった。彼は大きな地球儀を回し、海の中に長細く連なる島国を指差して言った。
「ヤパーネと言います。私の故郷です。東の果ての、太陽が一番早く上る、日出ずる国です。……隣の大きな国が、カタイ」
我々の今いる王都がここで……と、彼がくるくると地球儀を回す。
「だいたい、船で三か月くらいかかります。……海の状態や風向きにも因りますが」
「三か月!……どうしてこの国で仕事を?」
「船が難破して、旦那様に助けられたんです。西の国にも興味があったので、そのまま通訳をしたり」
わたしはふと、隣室で話し合っている殿下たちが気になった。
「あなたのお国の方が来ていらっしゃるのでしょう? 通訳はいらないの?」
「あの人はこちらの国の言葉が喋れますし、旦那様もそこそこ私の国の言葉が喋れるようになったので。変に通訳が入らない方が、いいこともあるんです」
男性は穏やかに笑う。
「……お名前を伺っても?」
「ミツゴローです」
「……ミチュゴロー? 変わったお名前ね」
「私の国では普通の名前です。今、来ている人はコーキチと言います」
「コーチチュ?」
微妙に発音が違うので、何度か練習したが、結局、彼らの名前を正しく発音することはできなかった。
わたしは諦めて、彼がいろいろと薦める、東洋の美しい品々を眺める。絵画やキモノも素敵だけれど、わたしが美しいと思ったのは、金の蒔絵を施した漆塗りの品々。見たこともない不思議な車に、扇や草花、岩に飛び散る波――。
わたしが螺鈿の手鏡を手に取って眺めていると、商談を終えた殿下たちがサロンに戻ってきた。
「何か気に入った品はあったか?」
「殿下――」
わたしの上にかがみ込むようにして頬に口づける殿下を見て、後ろからやってきた小柄な青年がギョッとして立ち止まる気配を感じる。
「ああ、エルシー、この人がコーキチ……ミッチーだったかな。真珠の養殖技術を確立した人だ。彼の技術に投資しることにしたんだ」
わたしが挨拶すると、青年はわたしが手にする手鏡を見て、言った。
「これは千年ほど前の、我が国の王室の秘宝の鏡の意匠を、復刻したものですね」
「千年前の模様なの――?」
何でもその国の王室は二千年以上続いているらしい。殿下は、わたしが手に取って見ていた手鏡を、すぐさま買い上げた。
バーナード・ハドソン商会を出て、少しだけ時間があったので、殿下はわたしを植物園に誘った。
「大丈夫なんですか? そんなところに出かけて、人に見られたら――」
「俺とステファニーは婚約者でも何でもない。なぜ、俺が他の女と出掛けるのに、コソコソしなきゃならん?」
殿下は言う。
「オペラのボックス席とか、ディナーなら勘繰られるけど、昼間の植物園での健全なデートに、何の文句がある」
「でも――」
でも、人に見咎められて非難されるのは、殿下じゃなくてきっとわたしだ。
「ちょうど、楓がいい色に色づく季節だ。俺だって恋人と並木道を一緒に歩くくらいしたい! 今日は平日だから、よっぽどの暇人しかいない、大丈夫だ!……たぶん」
殿下はそう言って、半ば強引に、わたしを馬車から連れ出した。
植物園の楓並木は黄色く色づいて、見事だった。わたしは殿下の腕を取って歩いたけれど、それは通常のエスコートの域を出ない接触で――幸いにもわたしの今日のドレスの紺色の地味なものだったし、すれ違うのも老婦人や乳母車を押した乳母らしき女性などで、殿下の姿を認めて話しかけるような人もおらず、少しだけ、普通の恋人同士のような散歩を楽しむことができた。
「ここは、よく一人になりたい時に来た」
高い梢を見上げて殿下が呟く。
「リンドホルムの城にも楓並木がありました」
「知ってる。……いや、その……マックスが言っていたから」
殿下が微笑んで、わたしの手をそっと握った。でも、わたしはいつも、黄色く色づいた楓並木を見ると、なんだか悲しい気持ちになる。……何故だかわからないけれど。
「ここには一度、二人で来たいと思っていたんだ。並木はいつでもあるけど、紅葉の時期は一瞬だからな」
一通り並木道を歩いたところで、ロベルトさんが迎えに来て、わたしと殿下はここで別れた。殿下はロベルトさんの乗ってきた馬車で王宮に向かい、わたしは元から乗ってきた馬車でアパートメントに戻る。
――はずが、アパートメントの入口で背後から呼び止められる。
「ミス・アシュバートン!」
女性の声に驚いて振り返れば、立っていたのはツイードのスーツを着た女性。……歌劇場の化粧室で会った、レコンフィールド公爵令嬢の付き添い婦人だった。
「突然申し訳ありません。レディ・ステファニーとそのご友人が、あなたにお話があるとおっしゃっています。すぐそこの、カフェーまでご足労いただきたいの」
慇懃だけど有無を言わさぬ調子で言われて、わたしは少しばかりカチンときた。
「申し訳ないけど……事前の約束のないお誘いは、お断りしなさいと祖母からきつく言われておりますの。日を改めてくださいな」
断られると思っていなかったのだろう、ご婦人はカッと顔を赤らめるが、わたしの言っていることは間違っていないと思う。
「わたくしの顔を立てて、お越しいただきたいの。……あなたを連れて来るように言われていて……」
付き添い婦人が目を伏せる。この人も立場が弱いのだろう。
「……レディ・ステファニーの、ご友人とはどなた? 」
「シュタイナー伯爵令嬢と、ご婚約者のアイザック・グレンジャー卿です。アイザック卿はギルフォード侯爵の嫡男で……」
「知らない男性と同席するのは困るわ。お断りしてくださる?」
事前の約束もなく、家の前で待ち伏せしてカフェーに連れ込むなんて、非常識極まる。……たぶん、わたしのことをその辺りの売春婦か何かと同じように考えているんだろう。でも、たとえわたしが街角の売春婦だったとしても、礼儀を無視した扱いをしていいわけじゃない。
「お願いです、一緒に来ていただかないとわたくしがお嬢様に叱られます!」
ご婦人がわたしの手を取らんばかりだが、わたしはその手をすいと引いた。
「あなたはレコンフィールド公爵家からお給料をいただいているんでしょ? だったら諦めて叱られるしかないわ。わたしがあなたの犠牲になる義理はなくってよ?」
「そんな……っ」
なおも取り縋ろうと彼女が手を伸ばした時、すっと大きな体がわたしの前に立った。――殿下の護衛の、ラルフ・シモンズ大尉と仰る方だ。そしてもう一人、ジョナサン・カーティス大尉が背後に立っていた。
「この女性に何か御用ですか」
「えっと……その……」
シモンズ大尉は大柄な、いかにも武闘派という風貌の人で、カーティス大尉もそれよりは背が低いけれど、戦場で鍛えた立派な体格をしている。二人の軍人に睨まれて、ご婦人はすっかり委縮してしまった。
「御用がないようでしたら――」
貴族出のカーティス大尉が穏やかに声をかけたところに、少し離れた場所から声がかかる。
「待ちたまえ君、彼女に用があるのは僕たちだ――ジョナサン、君が護衛についているってことは、つまり――」
フロックコートの長い裾を翻しながら、足早に近寄ってくる青年が、カーティス大尉に話かけ、儀礼的に山高帽を一瞬だけ持ち上げた。しかしカーティス大尉は警戒を緩めずに言う。
「――彼女は殿下に仕える秘書官です。若い女性の安全に気を配るのは当然と思いますが」
「彼女に――ミス・アシュバートンに話があるんだ」
「事前の約束もなく?」
「連絡の取りようがなかったんだから、しょうがないだろう!」
「だからって、殿下の所有するアパートメントの前で待ち伏せとは……このことは上に報告させていただきますよ?」
ジョナサン・カーティス大尉が冷静に言えば、フロックコートを着た青年が、気まずそうに言った。
「それは……たしかに紳士にあるまじき振る舞いかもしれないが、しかし、殿下のなさりようだって……!」
言い争いを始めた二人に、わたしが言った。
「……わたし、そろそろ戻らせていただくわ。実は今日は体調が優れなくて。わたしにお話しがあるなら、殿下を通してください。街角で声をかけて、どこでも連れ込める女だと思っておられたようですけど」
「違うのかい? ……ずいぶんいろいろ、殿下に買わせているみたいだけど」
「アイザック! 失礼だぞ!」
いかにも馬鹿にしたような青年――つまり、これがアイザック・グレンジャーなのだろう――の物言いに、ジョナサン・カーティス大尉が口調を荒げる。
「……あら、あなたは婚約者のご令嬢に何も買って差し上げないの?」
わたしの問いかけに、アイザック・グレンジャーがムッとしたような表情で言い返した。
「な! 僕の婚約者は仮にも伯爵家のご令嬢だ。君のような女と一緒には――」
「わたしの父も伯爵でしたわ。……もう故人で、爵位は遠縁の者に移りましたけれど」
アイザック・グレンジャーはわたしの名は知っていたが、わたしの父が故リンドホルム伯爵とまでは聞いていなかったらしい。ハッとして目を見開いた様子を、間抜けだなと思いながら、なおも言った。
「きみが貴族出身だって?! 貴族ならなおさら、ステファニー嬢と殿下のことを知っていたはずだ! 彼女の気持ちを考えたら、こんなやり方――」
「アイザック、いい加減にしないか!」
ジョナサン・カーティス大尉が厳しい調子で咎め、ラルフ・シモンズ大尉はわたしを庇うように前に出る。激昂するアイザック・グレンジャーの姿を、シモンズ大尉の大きな背中の影から見て、わたしは肩を竦めた。
「もしかして、わたしに選択権があってのことだと思っていらっしゃるの? あなたこそ、わたしの立場に立って考えてみたことがおありにあって? ……ないわよね? わたしの父が何者で、何故、殿下がわたしを秘書官に登用したのか、調べてすらいないんだもの」
「父親……?」
茫然と立ちつくすアイザック・グレンジャーを後目に、ジョナサン・カーティス大尉が囁く。
「エレベーターを待たせています。中に入りましょう」
「ええ」
「待ってくれ君は――」
わたしが踵を返した後ろ姿に、なおも食い下がろうとするアイザック・グレンジャーに対し、わたしは肩越しに振り返って言った。
「約束の無い方とはお会いいたしません。……祖母の教えですの。ごめんくださいませ」
わたしがカーティス大尉に守られるようにアパートメントの正面玄関に入ると、背後でラルフ・シモンズ大尉のドスの効いた声が聞こえた。
「今日のこのことについて、殿下から厳重に抗議が行くと思いますよ。……もちろん、レコンフィールド公爵家にもね」
その特設サロンはまるで、小さな東洋、だった。
壁の絵は大胆な人物画で、画面から飛び出るような迫力があるもの、それから雨に降られた大きなアーチの橋を、珍しい風俗の人々が傘を差しながら渡っていく風景画。衣桁に掛けられたのは、金襴緞子の豪華なガウン――わたしのキモノ・ガウンと同じ形だが、豪華さが段違いだった。その隣には旧ワーズワース邸でも見た、恐ろし気な武具。穏やかな表情の金色の像は、かの国で尊崇を集める神の像だと言う。
わたしは優雅な彫刻の施された大きな木の長椅子に座り、やはり木の、優雅に湾曲した脚を持つ四角い小さなテーブルに、驚くほど薄い、染付の磁器に注がれた紅茶を供された。
見たこともない意匠の、精緻な透かし彫りの衝立に、黒地に虹色の光る装飾を埋め込んだ飾り棚。
「螺鈿、と言いましてね、貝でできているんですよ」
説明してくれるのは、ミス・リーンの店にいた小柄な中年男性だった。彼は大きな地球儀を回し、海の中に長細く連なる島国を指差して言った。
「ヤパーネと言います。私の故郷です。東の果ての、太陽が一番早く上る、日出ずる国です。……隣の大きな国が、カタイ」
我々の今いる王都がここで……と、彼がくるくると地球儀を回す。
「だいたい、船で三か月くらいかかります。……海の状態や風向きにも因りますが」
「三か月!……どうしてこの国で仕事を?」
「船が難破して、旦那様に助けられたんです。西の国にも興味があったので、そのまま通訳をしたり」
わたしはふと、隣室で話し合っている殿下たちが気になった。
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男性は穏やかに笑う。
「……お名前を伺っても?」
「ミツゴローです」
「……ミチュゴロー? 変わったお名前ね」
「私の国では普通の名前です。今、来ている人はコーキチと言います」
「コーチチュ?」
微妙に発音が違うので、何度か練習したが、結局、彼らの名前を正しく発音することはできなかった。
わたしは諦めて、彼がいろいろと薦める、東洋の美しい品々を眺める。絵画やキモノも素敵だけれど、わたしが美しいと思ったのは、金の蒔絵を施した漆塗りの品々。見たこともない不思議な車に、扇や草花、岩に飛び散る波――。
わたしが螺鈿の手鏡を手に取って眺めていると、商談を終えた殿下たちがサロンに戻ってきた。
「何か気に入った品はあったか?」
「殿下――」
わたしの上にかがみ込むようにして頬に口づける殿下を見て、後ろからやってきた小柄な青年がギョッとして立ち止まる気配を感じる。
「ああ、エルシー、この人がコーキチ……ミッチーだったかな。真珠の養殖技術を確立した人だ。彼の技術に投資しることにしたんだ」
わたしが挨拶すると、青年はわたしが手にする手鏡を見て、言った。
「これは千年ほど前の、我が国の王室の秘宝の鏡の意匠を、復刻したものですね」
「千年前の模様なの――?」
何でもその国の王室は二千年以上続いているらしい。殿下は、わたしが手に取って見ていた手鏡を、すぐさま買い上げた。
バーナード・ハドソン商会を出て、少しだけ時間があったので、殿下はわたしを植物園に誘った。
「大丈夫なんですか? そんなところに出かけて、人に見られたら――」
「俺とステファニーは婚約者でも何でもない。なぜ、俺が他の女と出掛けるのに、コソコソしなきゃならん?」
殿下は言う。
「オペラのボックス席とか、ディナーなら勘繰られるけど、昼間の植物園での健全なデートに、何の文句がある」
「でも――」
でも、人に見咎められて非難されるのは、殿下じゃなくてきっとわたしだ。
「ちょうど、楓がいい色に色づく季節だ。俺だって恋人と並木道を一緒に歩くくらいしたい! 今日は平日だから、よっぽどの暇人しかいない、大丈夫だ!……たぶん」
殿下はそう言って、半ば強引に、わたしを馬車から連れ出した。
植物園の楓並木は黄色く色づいて、見事だった。わたしは殿下の腕を取って歩いたけれど、それは通常のエスコートの域を出ない接触で――幸いにもわたしの今日のドレスの紺色の地味なものだったし、すれ違うのも老婦人や乳母車を押した乳母らしき女性などで、殿下の姿を認めて話しかけるような人もおらず、少しだけ、普通の恋人同士のような散歩を楽しむことができた。
「ここは、よく一人になりたい時に来た」
高い梢を見上げて殿下が呟く。
「リンドホルムの城にも楓並木がありました」
「知ってる。……いや、その……マックスが言っていたから」
殿下が微笑んで、わたしの手をそっと握った。でも、わたしはいつも、黄色く色づいた楓並木を見ると、なんだか悲しい気持ちになる。……何故だかわからないけれど。
「ここには一度、二人で来たいと思っていたんだ。並木はいつでもあるけど、紅葉の時期は一瞬だからな」
一通り並木道を歩いたところで、ロベルトさんが迎えに来て、わたしと殿下はここで別れた。殿下はロベルトさんの乗ってきた馬車で王宮に向かい、わたしは元から乗ってきた馬車でアパートメントに戻る。
――はずが、アパートメントの入口で背後から呼び止められる。
「ミス・アシュバートン!」
女性の声に驚いて振り返れば、立っていたのはツイードのスーツを着た女性。……歌劇場の化粧室で会った、レコンフィールド公爵令嬢の付き添い婦人だった。
「突然申し訳ありません。レディ・ステファニーとそのご友人が、あなたにお話があるとおっしゃっています。すぐそこの、カフェーまでご足労いただきたいの」
慇懃だけど有無を言わさぬ調子で言われて、わたしは少しばかりカチンときた。
「申し訳ないけど……事前の約束のないお誘いは、お断りしなさいと祖母からきつく言われておりますの。日を改めてくださいな」
断られると思っていなかったのだろう、ご婦人はカッと顔を赤らめるが、わたしの言っていることは間違っていないと思う。
「わたくしの顔を立てて、お越しいただきたいの。……あなたを連れて来るように言われていて……」
付き添い婦人が目を伏せる。この人も立場が弱いのだろう。
「……レディ・ステファニーの、ご友人とはどなた? 」
「シュタイナー伯爵令嬢と、ご婚約者のアイザック・グレンジャー卿です。アイザック卿はギルフォード侯爵の嫡男で……」
「知らない男性と同席するのは困るわ。お断りしてくださる?」
事前の約束もなく、家の前で待ち伏せしてカフェーに連れ込むなんて、非常識極まる。……たぶん、わたしのことをその辺りの売春婦か何かと同じように考えているんだろう。でも、たとえわたしが街角の売春婦だったとしても、礼儀を無視した扱いをしていいわけじゃない。
「お願いです、一緒に来ていただかないとわたくしがお嬢様に叱られます!」
ご婦人がわたしの手を取らんばかりだが、わたしはその手をすいと引いた。
「あなたはレコンフィールド公爵家からお給料をいただいているんでしょ? だったら諦めて叱られるしかないわ。わたしがあなたの犠牲になる義理はなくってよ?」
「そんな……っ」
なおも取り縋ろうと彼女が手を伸ばした時、すっと大きな体がわたしの前に立った。――殿下の護衛の、ラルフ・シモンズ大尉と仰る方だ。そしてもう一人、ジョナサン・カーティス大尉が背後に立っていた。
「この女性に何か御用ですか」
「えっと……その……」
シモンズ大尉は大柄な、いかにも武闘派という風貌の人で、カーティス大尉もそれよりは背が低いけれど、戦場で鍛えた立派な体格をしている。二人の軍人に睨まれて、ご婦人はすっかり委縮してしまった。
「御用がないようでしたら――」
貴族出のカーティス大尉が穏やかに声をかけたところに、少し離れた場所から声がかかる。
「待ちたまえ君、彼女に用があるのは僕たちだ――ジョナサン、君が護衛についているってことは、つまり――」
フロックコートの長い裾を翻しながら、足早に近寄ってくる青年が、カーティス大尉に話かけ、儀礼的に山高帽を一瞬だけ持ち上げた。しかしカーティス大尉は警戒を緩めずに言う。
「――彼女は殿下に仕える秘書官です。若い女性の安全に気を配るのは当然と思いますが」
「彼女に――ミス・アシュバートンに話があるんだ」
「事前の約束もなく?」
「連絡の取りようがなかったんだから、しょうがないだろう!」
「だからって、殿下の所有するアパートメントの前で待ち伏せとは……このことは上に報告させていただきますよ?」
ジョナサン・カーティス大尉が冷静に言えば、フロックコートを着た青年が、気まずそうに言った。
「それは……たしかに紳士にあるまじき振る舞いかもしれないが、しかし、殿下のなさりようだって……!」
言い争いを始めた二人に、わたしが言った。
「……わたし、そろそろ戻らせていただくわ。実は今日は体調が優れなくて。わたしにお話しがあるなら、殿下を通してください。街角で声をかけて、どこでも連れ込める女だと思っておられたようですけど」
「違うのかい? ……ずいぶんいろいろ、殿下に買わせているみたいだけど」
「アイザック! 失礼だぞ!」
いかにも馬鹿にしたような青年――つまり、これがアイザック・グレンジャーなのだろう――の物言いに、ジョナサン・カーティス大尉が口調を荒げる。
「……あら、あなたは婚約者のご令嬢に何も買って差し上げないの?」
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「な! 僕の婚約者は仮にも伯爵家のご令嬢だ。君のような女と一緒には――」
「わたしの父も伯爵でしたわ。……もう故人で、爵位は遠縁の者に移りましたけれど」
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「きみが貴族出身だって?! 貴族ならなおさら、ステファニー嬢と殿下のことを知っていたはずだ! 彼女の気持ちを考えたら、こんなやり方――」
「アイザック、いい加減にしないか!」
ジョナサン・カーティス大尉が厳しい調子で咎め、ラルフ・シモンズ大尉はわたしを庇うように前に出る。激昂するアイザック・グレンジャーの姿を、シモンズ大尉の大きな背中の影から見て、わたしは肩を竦めた。
「もしかして、わたしに選択権があってのことだと思っていらっしゃるの? あなたこそ、わたしの立場に立って考えてみたことがおありにあって? ……ないわよね? わたしの父が何者で、何故、殿下がわたしを秘書官に登用したのか、調べてすらいないんだもの」
「父親……?」
茫然と立ちつくすアイザック・グレンジャーを後目に、ジョナサン・カーティス大尉が囁く。
「エレベーターを待たせています。中に入りましょう」
「ええ」
「待ってくれ君は――」
わたしが踵を返した後ろ姿に、なおも食い下がろうとするアイザック・グレンジャーに対し、わたしは肩越しに振り返って言った。
「約束の無い方とはお会いいたしません。……祖母の教えですの。ごめんくださいませ」
わたしがカーティス大尉に守られるようにアパートメントの正面玄関に入ると、背後でラルフ・シモンズ大尉のドスの効いた声が聞こえた。
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