【R18】没落令嬢の秘密の花園――秘書官エルスペス・アシュバートンの特別業務

無憂

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第一章

アルバート王子

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 数日内には、マグガーニ中将の退任と陸軍大臣昇進、そして第三王子アルバート殿下の司令就任はすっかり広まっていた。

 昼休み、わたしが食堂カフェテリアでランチを受け取って、窓際の席で一人食べていると、同僚のマリアン・ブレイズがやってきて、許可も取らずにわたしの隣の席に座った。

「エルシー、あんたクビになるんですって?」

 いかにも面白そうに言われ、わたしは一瞬、眉がピクリと上がってしまったけれど、平静を装って答える。

「別に悪いことをしてクビになるわけじゃないし、どのみち、戦争が終わって順次、解雇されていくだろうから、それが少し早まっただけよ」
「そうね、あたしもそろそろ潮時かなとは思ってる。……でも、後任が王子殿下じゃなかったら、頼み込めたのにね」
「いつまでも働いてはいられないわ。おばあ様ももともと仕事をするのは反対だったし」

 わたしはキドニー・ビーンズと燻製肉べーコンとキャベツを、トマトで煮込んだスープを、スプーンで掬いながら言う。

「でも王子様が司令部に通うのかー。まだお若いのよね。末の王子様。二十五? 四? ずっと前線にいて、講和を導く決定的な勝利ももぎ取ったらしいわよ?」
「そうですってね。お若いのにごりっぱね」

 うっとりと夢見るようなマリアンに対し、わたしは気のない返事をしながらライ麦のパンをちぎる。

「まだ独身なんて素敵! まあでも、レコンフィールド公爵のご令嬢とはほとんど婚約同然だったし、帰国したらすぐにも正式に婚約してご結婚されるんでしょうね」
「ああそう、おめでたいわね。平和になったし、王室の方々も肩の荷が下りるでしょうね」

 若い女性は王室の恋愛に興味津々らしいが、わたしは見たこともない王子様が誰と結婚しようがどうでもよかった。なぜそんなことで騒げるのか不思議だ。

「でもエルシーだって、伯爵令嬢だったんでしょう?」
「……元、よ。もう爵位はないわ」

 故リンドホルム伯爵の娘、という肩書が、何かの訳に立つとは思えなかった。こうしてマリアンらの好奇心とやっかみの的になるだけで、鬱陶しいことこの上ない。わたしはスープを飲み干し、皿をライ麦のパンで拭ってすべてを食べてしまうと、ナプキンで口元を拭って立ち上がった。

「お先に失礼するわ。閣下の退任の片づけで、とても忙しくて」

 マリアンに一言告げ、わたしはランチのトレーを持ってその場を後にした。






 中将閣下の執務室に戻ると、なんだか常になくざわついていた。

「何かあるのですか?」

 わたしが上役のクルツ主任事務官に尋ねれば、意外な答えが返ってきた。

「後任の司令に内定しているアルバート殿下が、今日、これからこちらにいらっしゃると」
「ええ? これから?」

 アルバート殿下は、前線からご帰還なさるのではないのか。

 私の問いに、クルツ事務官が眉を顰める。

「それがだな、一般には知らせずに、こっそり王都に帰還されたそうなんだ。大騒ぎになるのが嫌だとかで。で、軍司令の就任を知って、こちらにに来られるそうだ」
「いきなり、そんな迷惑な……」

 半ば無意識のわたしの呟きを耳をして、クルツ事務官が「しーッ」と唇に人差し指を当てる。

「ずっと前線におられたから、周囲に合わせるということをしない方らしい。――周知のように、現在、王太子殿下には男児がおられない。第二王子のジョージ殿下は療養中で、こちらも跡継ぎは期待薄だ。陛下としては三男のアルバート殿下に早く身を固めさせ、王家の継承を安定させたいところだろう。まあ、正式な婚約はまだだが、戦前からほぼ決まりかけのお相手がおられるから、時間の問題とは思うが」
「ああ、えっと、レコンフィールド公爵令嬢、でしたっけ?」
「そうそう、ステファニー嬢。戦争に行く前に婚約、という話もあったそうだが、殿下がお断りになったそうだ。戦況次第で、もしかしたら無事に帰れないかもしれない。若い女性の将来を縛りたくないと言って。……だが、ご令嬢は結婚もせず、けなげに殿下をお待ちになり、ようやくご帰還なさった」

 幼馴染の公爵令嬢と、第三王子殿下の純愛物語は、王都では有名だ。殿下は美男で、公爵令嬢は美女だと、もっぱらの噂だが、新聞などに時々載るアルバート殿下のお写真はボケている上に印刷で潰れていて、お顔は判別しがたい。要するに、王子様とお姫様の恋物語に、王都の若い女性はすっかり夢中になっているわけだ。……生活の苦労のない人は、頭の中がお花畑で羨ましい。

 で、新聞社などは王都にご帰還になるアルバート殿下と、出迎えたレコンフィールド公爵令嬢の感動の再会シーンを特ダネとして狙っていたが、騒がれるのを迷惑に思った殿下は、こっそり王都に戻ってきてしまった、ということらしい。
 しかも戦場が長いだけあって、即断・即決・即実行を地で行くタイプで、ロクな根回しもせずに下見に来ると言って寄越した――突然、来ないだけマシ、だったのかもしれない。

 そんなやり取りをしているうちに、やがてアルバート殿下がご到着になり、わたしはお茶の用意を整えて応接室に向かった。 





「失礼します」

 ノックをして扉を開け、入口で深く一礼し、銀の盆を奉げて応接室に入る。応接室にいるのは部屋の主であるマクガーニ中将閣下とその主席事務官であるクルツ事務官、そして若い男性が数人。クルツ事務官以外は皆、陸軍の制服を着用しているが、どの人も背が高く、精悍な雰囲気だ。中央の黒髪の人の肩章が一番階級が高く、この方が殿下らしい。――たしかにちょっと見ないほどの美形だ。黒髪はきれいに後ろに撫でつけて固め、ソファに長い脚を組んで座っている。やや面長の整った顔立ちに、軍服が憎らしいほどよく似合っている。

 わたしは女性文官の制服、白いブラウスに紺色の小さなタイを締め、父の形見のサファイアのピンで留めている。下は紺の、脹脛ふくらはぎを覆うロングスカートに、革の編み上げブーツ。ここ数年の流行で、背後の不自然なバッスルが消え、身体を締め上げるコルセットも必要なくなり、ずいぶんと楽になった。……この流行がずっと続いてくれることを祈るばかりだ。髪は、最近の流行はボブヘアーだけれど、髪を切ることは祖母が許してくれそうもないので、わたしは長いままの亜麻色の髪を、うなじの後ろで簡素にまとめている。わたしは視線を落として進み、中央のテーブルにお茶のセットを並べると、姿勢を正して一礼し、下がろうとした。

 と、突然、低い声で呼び止められた。

「お前、マックス・アシュバートンの娘か?」

 父の名前を言われて、わたしがぎょっとして顔を上げると、まっすぐ、王子殿下と目が合った。黒髪に、どこか野性味のある金色の瞳。

「はい。……父をご存知なのですか?」

 聞いてしまってから、直接尋ねてしまって拙かったかと思ったけれど、後の祭りだ。だが殿下は気にする風もなく、頷く。

「ああ。……マックスは、リンドホルム伯爵で、ストラスシャーに領地があったはずだ。なぜ、王都に?」
「はあ……父が死んで、弟も三年前に亡くなったので、爵位は父の従兄が継承しました。それで……」
「……それで、王都に出てきたのか……」

 殿下が凛々しい眉を寄せている。

「マックスの娘がマクガーニの下で働いていると聞いて、伯爵令嬢がそんな馬鹿なと思ったが、そんなことに――」

 わたしはチラリとマクガーニ中将閣下を見る。殿下と父が知り合いだなんて、中将閣下は一言も仰っていなかった。

「そのことなのですが……」

 マクガーニ中将閣下が言う。

「わしはこの後は王宮に出仕することになり、さすがに臨時採用の事務職員を連れていくわけにはまいりません」
「ならば俺がそのまま雇おう」

 殿下の言葉に、わたしは驚いて目を上げた。

「ええ? でも、わたしは正規の文官試験に合格しておりません。王族に仕えるには不適格では……」
「俺はずっと前線にいたから、司令部の仕事ってのが初めてで、想像がつかん。聞けば、山のように書類仕事があるというではないか。俺の副官どもも、言わば体力重視で書類仕事は苦手な奴らばかりだから、きっと仕事が滞る。そちらの主席事務官に留任してもらうにしろ、手が足りないし、どうせなら慣れた人間の方がいい」 
「ですが――」

 仕事を辞めなくてもいいのは家計的に助かるけれど、留任してしまっていいのだろうか?
 わたしはマクガーニ中将閣下と、クルツ主任をちらりと見る。マクガーニ中将がごま塩の口ひげをしごきながら言う。

「エルスペス嬢はマックスの娘ですから、身許は確かです。勤勉で仕事もよくこなしますし、特に彼女の淹れる紅茶は絶品でしてな」

 そう言ってことさらに紅茶のカップを取り上げ、美味そうに飲んで見せる。王子殿下も紅茶のカップに手を伸ばし、一口啜る。

「俺は紅茶の味はよくわからんが、ロベルトが淹れるクソみたいな味のよりはうんとマシだな」
「うるさいですよ、俺は紅茶なんて戦場に行くまで淹れたことはなかったんですから、不味くて当たりまえでしょう。だいたい、クソみたいな味って、クソなんか食ったことないでしょうに」

 殿下の隣に座る若い、茶色い髪の男が不満そうに言う。その下品な会話にクルツ主任が頬をひきつらせ、しかしとりなすように言った。

「ミス・アシュバートンは書類の処理も優秀ですよ。タイピスト顔負けの技術もあり、ここでの事務処理に通暁していますし。ただ――」
「ただ?」

 お茶のカップに口をつけた状態で、殿下がクルツ主任にを見た。

「戦後は復員兵が増えるため、事務職員は退職を勧め、新たな雇用を行う方針でいます。殿下の事務官もいずれは正規の文官を登用なさるべきでは――」
「いずれはな。だが、差し当たっては慣れた人間が欲しい」

 殿下はカップをソーサーに戻すとわたしに視線を当てる。

「どうだ? ええっと……」
「エルスペス・アシュバートンです」

 わたしは勇気を振り絞って言った。

「その……殿下の事務官に就任したがる者は山のようにおります。このまま、なし崩しにわたしが就任すると、いろいろ反発があるのでは……」
「俺はこの仕事に慣れた人間にいてもらいたいのだ」
 
 少し考えこんでいいたクルツ主任が言う。

「確かに、王族の直属に臨時雇いは慣例に合いません。ですが、ひとまず殿下とその配下が、司令部の事務に慣れるまで、ではいかがですか。そちらの副官の方々に事務を引き継ぐという名目であれば、臨時雇いの事務職員を留任しても反発は出にくいでしょう」
「俺はずっと仕えてもらっても構わないのだが」
「ミス・アシュバートンも年頃ですから、いずれは結婚で退職するでしょう。ずっと、というわけにはいきません」

 クルツ主任の言葉に、殿下がわたしをまじまじと見た。

「……結婚、する予定があるのか?」
 
 わたしはぶんぶんと首を振る。

「差し当って、予定はありません」
「ならば、このまま働いてもかまわないのだな」
「わたしの方は問題はありません。でも――」

 わたしはちらりとマクガーニ中将閣下を見た。縁談を心づけておくとは仰っていたが、そう右から左にあるわけでもないが。

「わしもマックスの家族の件は気に留めておりました。……マックスの母親もあまり体調がよくないようですし。退任するからと言って、エルスペス嬢を放り出すのは気が咎めていたのです。殿下の下で引き続き雇っていただけるなら、わしが結婚相手を探す猶予もできますな」

 むしろわたしの意志ではなくて、殿下と中将閣下の都合によって、わたしの留任が決まったのだった。 
 マリアンや他の同僚がきっと騒ぐに違いないが、男たちの話し合いに異を唱えることなど、わたしにはできなかった。
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