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第一章
大戦の終結
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数か月前、大陸全土を巻き込んだ大戦が終結し、休戦協定が結ばれた。わが国は戦勝国の一員として、講和会議では多くの賠償金といくばくかの領土を要求しているという。でもそんなものより、終戦の報が一番の喜びだ。ようやく戦争が終わり、長い耐乏の日々が開け、戦地に赴いた親しい人たちが戻ってくる。
五年に及ぶこの度の大戦は国を挙げての総力戦となり、男たちの多くが出征し、野戦や塹壕戦に斃れ、戻らなかった。銃後を守る者は老人と子供と、そして女ばかりとなり、労働力の不足が深刻化した。そこで、政府が打ち出したのが、労働力としての女性の活用だった。
日用品や武器の工場、農業、鉄道業務、教師……さまざまな現場に女性が駆り出された。戦争の前だったら信じられないことだ。
わたし、エルスペス・アシュバートンも、三年前に陸軍中佐だった父が戦死し、遺族年金だけでは生活が立ち行かず、父の友人だった陸軍司令、マクガーニ中将のコネで事務員の職を得ていた。本来、下級といえども文官登用試験を受け、数倍の倍率を突破しなければならないが、戦時の人手不足に加え、戦死将校の遺族ということで、特別に臨時採用されたのだ。しかも、中将のコネで司令直属の事務職員に採用されたのは、はっきり言えば依怙贔屓人事である。昔堅気の祖母はわたしが働くことにいい顔をしないが、食べていくためには働くしかない。
父、マクシミリアン・アシュバートンはリンドホルム伯爵だった。かつては広大な領地を有し、わたしは伯爵令嬢として贅沢に育った。平和な世の中だったら、そのまま父の選んだどこかの貴族と結婚し、働くこともなく暮らしたに違いない。――わたしの母や、祖母のように。
しかし、父が戦死した数か月後、爵位を継いだばかりの弟が急死したことで、わたしの人生は暗転する。この国の法は女子の爵位継承を認めていない。ただ、国王の勅許があれば例外的に、直系の女子が生んだ(将来産む予定の)男子に継承させることができる。父は戦死であったため、わたしと祖母は王室に勅許を求めたが、認められなかった。リンドホルム伯爵の爵位も領地も、すべて父の従兄が継承し、わたしに残されたのは、母が実家から相続した王都の小さな家と、わずかな現金と証券、母が嫁入りで持参した宝飾品程度。現金や証券は戦争の余波のインフレーションで、紙きれ同然になっていた。
新たにリンドホルム城の主人として乗り込んできた父の従兄やその家族と、プライド高い祖母がやっていけるはずもなくて、祖母はわたしを連れて王都に出てきた。ただ、祖母に昔から仕える召使のメアリーとその夫のジョンソンだけが、わたしたちに付いて来てくれた。彼らにはまともな給金すら、支払うことができないのに。父の遺族年金でなんとかやっていけたのは初めの二月だけ。慣れない生活に祖母が身体を壊し、薬代が家計を圧迫して、あっと言う間に生活は立ちいかなくなった。――戦争中のご時世に、母の宝飾品など二束三文だったが、それを消費し尽くしてしまうのに、数か月もかからなかった。
もう、街角に立って春を売るしかないのかと思い詰めた時、たまたま、陸軍司令に就任した父の友人のマクガーニ中将が、我が家の窮状を知り、わたしを司令部の事務職に採用してくれた。それが、二年前、わたしは十七歳だった。
――そして、終戦を迎えた今、わたしは十九歳になる。
「この度、陸軍司令の職を退き、陸軍大臣の大任を預かることになった」
講和条約が無事に締結されたとのニュースが王都を廻った六月のある日、マクガーニ中将閣下がそう、言った。
「ついては、前線から帰還される第三王子のアルバート殿下が、新たに中将に昇進の上、陸軍司令に就任することに内定した」
マクガーニ中将閣下はごま塩になった髭を撫でながら、満足そうに言う。
「アルバート殿下ですか? ずいぶん、お若い司令ですね」
アルバート殿下は国王エドワード陛下の末の王子で、わが国の主力を率いてずっと、前線に立っていたが、まだ二十代の半ばのはずだ。
「国王陛下におかれては、体調の優れぬこともあり、そろそろ王太子のフィリップ殿下に実権を移譲していきたいと考えておられる。殿下はお若いが、ゆくゆくは王室の軍事の要となっていただかねばならぬ。そのための司令就任だ」
「そうでしたか」
わたしはポットから紅茶をカップに注いで、ソーサーに銀のスプーンを乗せ、中将閣下の前に置く。銀の盆から銀の砂糖壺と、クリームを添える。
「ふむ、いい香りだ、エルスペス嬢の紅茶は絶品だな」
「これだけが取り柄ですから」
貴族的な教養に煩かった祖母から、お茶の淹れ方や立ち居振る舞いなどは厳しく躾けられた。生きていくのにあまり役に立つとは思えなかったが、閣下には喜ばれているからよしとしよう。
「それでなのだが……」
角砂糖を二つ、カップに落とし、銀のスプーンで混ぜながら、閣下が気まずそうにわたしを見る。わたしが司令部でマクガーニ中将の直属の事務官をやっているのは、完全なコネ人事だ。陸軍大臣に就任する閣下は、今後は王宮に執務室を持ち、そちらには王宮仕えの事務官が――当然、わたしよりはるかに有能な――いる。新たに就任するのが閣下のような生粋の軍人ならば、運動して引き続き雇ってもらうことも可能かもしれないが、王子の直属官となるとそうはいかない。
「それは承知しております。王子殿下の事務官には、わたしのような臨時雇いは相応しくありません。閣下の退任と同時に、お暇を頂戴することになるでしょうね」
司令部の他の職を、というのは少々厳しい。なぜなら、わたしたち女性の臨時雇いの事務官は、要するに大戦中の労働力不足を補うための非常処置だ。戦争は終わり、戦地からは続々と兵士たちが帰還しつつある。今度は彼ら、復員した元兵士たちが国内に溢れるだろう。彼らの職場を確保するためにも、我々女たちは職を辞し、家庭に入ることが期待されている。――とりわけ、わたしのような結婚適齢期の女は。
「よい結婚相手を探しておこう」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
わたしも一生、働き続けられるとは思っていなかったし、ある程度覚悟はしていた。だが、実際問題、この職から得られる収入がなくなるのは痛かった。
わたしは、内心の溜息を飲み込んで、閣下に向かって頭を下げた。
五年に及ぶこの度の大戦は国を挙げての総力戦となり、男たちの多くが出征し、野戦や塹壕戦に斃れ、戻らなかった。銃後を守る者は老人と子供と、そして女ばかりとなり、労働力の不足が深刻化した。そこで、政府が打ち出したのが、労働力としての女性の活用だった。
日用品や武器の工場、農業、鉄道業務、教師……さまざまな現場に女性が駆り出された。戦争の前だったら信じられないことだ。
わたし、エルスペス・アシュバートンも、三年前に陸軍中佐だった父が戦死し、遺族年金だけでは生活が立ち行かず、父の友人だった陸軍司令、マクガーニ中将のコネで事務員の職を得ていた。本来、下級といえども文官登用試験を受け、数倍の倍率を突破しなければならないが、戦時の人手不足に加え、戦死将校の遺族ということで、特別に臨時採用されたのだ。しかも、中将のコネで司令直属の事務職員に採用されたのは、はっきり言えば依怙贔屓人事である。昔堅気の祖母はわたしが働くことにいい顔をしないが、食べていくためには働くしかない。
父、マクシミリアン・アシュバートンはリンドホルム伯爵だった。かつては広大な領地を有し、わたしは伯爵令嬢として贅沢に育った。平和な世の中だったら、そのまま父の選んだどこかの貴族と結婚し、働くこともなく暮らしたに違いない。――わたしの母や、祖母のように。
しかし、父が戦死した数か月後、爵位を継いだばかりの弟が急死したことで、わたしの人生は暗転する。この国の法は女子の爵位継承を認めていない。ただ、国王の勅許があれば例外的に、直系の女子が生んだ(将来産む予定の)男子に継承させることができる。父は戦死であったため、わたしと祖母は王室に勅許を求めたが、認められなかった。リンドホルム伯爵の爵位も領地も、すべて父の従兄が継承し、わたしに残されたのは、母が実家から相続した王都の小さな家と、わずかな現金と証券、母が嫁入りで持参した宝飾品程度。現金や証券は戦争の余波のインフレーションで、紙きれ同然になっていた。
新たにリンドホルム城の主人として乗り込んできた父の従兄やその家族と、プライド高い祖母がやっていけるはずもなくて、祖母はわたしを連れて王都に出てきた。ただ、祖母に昔から仕える召使のメアリーとその夫のジョンソンだけが、わたしたちに付いて来てくれた。彼らにはまともな給金すら、支払うことができないのに。父の遺族年金でなんとかやっていけたのは初めの二月だけ。慣れない生活に祖母が身体を壊し、薬代が家計を圧迫して、あっと言う間に生活は立ちいかなくなった。――戦争中のご時世に、母の宝飾品など二束三文だったが、それを消費し尽くしてしまうのに、数か月もかからなかった。
もう、街角に立って春を売るしかないのかと思い詰めた時、たまたま、陸軍司令に就任した父の友人のマクガーニ中将が、我が家の窮状を知り、わたしを司令部の事務職に採用してくれた。それが、二年前、わたしは十七歳だった。
――そして、終戦を迎えた今、わたしは十九歳になる。
「この度、陸軍司令の職を退き、陸軍大臣の大任を預かることになった」
講和条約が無事に締結されたとのニュースが王都を廻った六月のある日、マクガーニ中将閣下がそう、言った。
「ついては、前線から帰還される第三王子のアルバート殿下が、新たに中将に昇進の上、陸軍司令に就任することに内定した」
マクガーニ中将閣下はごま塩になった髭を撫でながら、満足そうに言う。
「アルバート殿下ですか? ずいぶん、お若い司令ですね」
アルバート殿下は国王エドワード陛下の末の王子で、わが国の主力を率いてずっと、前線に立っていたが、まだ二十代の半ばのはずだ。
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「そうでしたか」
わたしはポットから紅茶をカップに注いで、ソーサーに銀のスプーンを乗せ、中将閣下の前に置く。銀の盆から銀の砂糖壺と、クリームを添える。
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