えふえむ三人娘の物語

えふえむ

文字の大きさ
8 / 16
第1章

第1章 第4話

しおりを挟む
   1

 桑咲駅前の商店街は、いつものように静かだった。平日の昼間とあって、人通りはまばらだが、洋服店の店先には冬物のワゴンセールが並び、どこかのんびりとした雰囲気が漂っている。

 三人の住む若葉住宅の商店街に比べると、桑咲駅前は人が多い。と言っても綾宮駅に比べると雲泥の差である。

「ほら、こっちのお店の方が安いって言ったじゃん」

 アンナが意気揚々と袋を掲げる。特売の牛乳と卵が入っているのを見て、チエが苦笑した。

「た、確かに安かったね……。で、でも、わざわざ駅前まで来なくても……」

「いいじゃん、ついでにいろいろ見られるしさ」

 そんな二人のやりとりをよそに、サキはふと足を止めた。視線の先には、古めかしい呉服屋の店構え。軒先には「アルバイト募集」の紙が貼られていた。

「サキ、呉服屋でバイトするの?」

 サキが張り紙を見ていると、耳元でアンナの声が聞こえた。チエも足を止めて紙を覗き込む。

「き、着付けとかやるのかな……? な、なんか難しそう……」

 チエが戸惑いがちに言うと、アンナも腕を組んだ。

「着物のこと知らなくてもできるのかな? ていうか、地味な店だね」

 サキはじっと店の入り口を見つめる。古びた木の看板、ショーウィンドウには美しく畳まれた反物が並んでいる。通りがかりに何度も目にしていたはずなのに、今まで気に留めたことはなかった。

「……私、働いてみようかな」

「は?」

「え、えっ……?」

 二人が同時に声を上げる。サキは口元に小さく笑みを浮かべ、アンナに自分の買い物袋を押し付けた。

「ごめん、ちょっと行ってくる。先に帰ってて――」

「え、待っ──」

 アンナたちの制止も聞かず、荷物をアンナに預けると、サキは呉服屋の引き戸に手をかけた。ギィ、と控えめな音を立てて戸が開く。

 ほんのりとお香の香りが漂う店内に、一歩踏み込む。

「いらっしゃいませ」

 低く落ち着いた声が響いた。カウンターの奥から、着物姿の老婦人がゆっくりとこちらを見上げる。

 サキはまっすぐに彼女の目を見て、静かに口を開いた。

「あの、ここで働きたいです」

   2

 サキが足を踏み入れた店内は、外の喧騒とは別世界のように静かだった。薄暗い店内には、畳まれた反物が整然と並び、ほんのりとお香の香りが鼻をくすぐる。

 呉服屋の店主――柿崎志乃の目がわずかに細められた。

「アルバイト募集の貼り紙を見て?」

「はい」

「経験は?」

「ありません。でも、やる気はあります」

 志乃はサキをじっと見つめる。厳しい視線に、少し緊張が走る。しかし、サキは視線をそらさなかった。

「着物を着たことは?」

「七五三くらいです」

「着物に興味は?」

「……今までは特になかったです」

正直に答えると、志乃は少し眉をひそめた。

「では、なぜここで働きたいと?」

 サキは一瞬、言葉に詰まる。なぜだろう。さっき、店の前を通りかかったとき、まるで何かに引き寄せられるように扉を開けた。その理由を、まだ自分でも説明しきれていなかった。

 けれど――

「着物のことは、よくわかりません。でも、ここで働いたら何か変わる気がするんです」

「何か?」

「……うまく言えません。でも、なんとなく、運命みたいなものを感じて」

 志乃の眉がわずかに上がる。そして、短く息をついてから、ゆっくりと口を開いた。

「うちの仕事は、ただ服を売るだけじゃない」

「はい」

「着物を扱うというのは、その人の人生に関わるということ。礼装、晴れ着、日常着……どんな着物でも、それを身につける人の覚悟がある」

「……」

「本当にやる気があるのなら、明日からおいで」

 サキの目がわずかに見開く。

「働かせてもらえるんですか?」

「働けるかどうかは、私が決めることだ。お前さんが、着物を知ろうとする気があるかどうか、見極めさせてもらう」

 厳しい言葉だったが、そこに拒絶の色はなかった。

 サキは口元に笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。

「ありがとうございます。……よろしくお願いします」

 こうして、サキの呉服屋でのアルバイトが始まった。

   3

 翌日、サキは朝から呉服屋「柿崎」を訪れた。開店前の店内はひんやりとしていて、畳の上に並ぶ反物の香りが静かに漂っている。

 カウンターの奥に立つ柿崎志乃は、昨日と変わらない厳しい表情でサキを見やった。

「よく来たね」

「おはようございます」

「じゃあ、早速だけど、まずは掃除からだ」

 サキは少し驚いたが、すぐに頷いた。

「わかりました」

 志乃は箒と雑巾を渡しながら言う。

「着物を扱う店では、まず清潔さが何より大事だよ。ホコリがつけば台無しになる」

 サキは素直に受け取り、店内の掃除を始めた。畳の上を丁寧に掃き、ショーケースを拭き、棚の上の埃もきちんと落とす。普段の掃除とは違う、細かい作業だった。

 ふと、志乃が棚の着物を整えながら言った。

「昨日、なぜここで働こうと思ったのかと聞いたね」

「はい」

「もう少し、ちゃんと考えてみたかい?」

 サキは手を止め、少し考えてから答えた。

「まだ、はっきりとはわかりません。でも、ただの思いつきではないです。ここで働けば、何かわかる気がするんです」

 志乃はしばらくサキを見つめ、それから小さく頷いた。

「なら、しばらくは様子を見てみよう」

 サキは心の中で安堵し、再び手を動かし始めた。昔ながらの木造の店は、手入れを怠るとすぐにほこりが溜まる。けれど、丁寧に拭いていくと木の温もりがよみがえり、店が少しずつ輝いて見えるような気がした。

 しばらくすると、志乃が店内に戻ってきて、ふと呟いた。

「随分ときれいになったね」

 サキは驚いた。志乃に褒められるとは思っていなかった。

「ありがとうございます」

「掃除ひとつにしても、やり方ひとつで店の雰囲気は変わる。着物も同じ。ちょっと着方を変えるだけで、人の印象が変わるんだから」

 志乃はサキを見て、少し考えるように頷いた。

「実際に着物を着てみるかい?」

 サキの胸が高鳴った。

「良いんですか?」

「呉服屋の店員が洋服ってわけにはいかないだろう」

   4

「さあ、腕を広げて」

 志乃が選んだのは、淡い藤色の小紋だった。普段着ている洋服とはまるで違う感触に、サキは少し緊張する。

「息を吸って、ゆっくり吐いて」

 帯が締められると、背筋がすっと伸びるような感覚があった。姿見の前に立つと、そこにはいつもの自分とは違う、自分がいた。

「……なんか、不思議」

「どう?」

「背筋が伸びるというか……気が引き締まる感じです」

 志乃は満足そうに頷いた。

「着物にはそういう力があるの。服はただの布じゃない。着る人の心持ちまで変えるものなのよ」

 サキはじっと鏡を見つめた。

――幼い頃の記憶にある、祖母の着物姿。彼女が纏っていた気品や美しさは、こういうものだったのかもしれない。

「よし、せっかくだから、このまま働きなさい」

「えっ!」

 突然の提案に驚くサキ。しかし、志乃は穏やかながらも真剣な表情で言った。

「実際に着てみないと、お客様に説明なんてできないでしょう?」

 サキは息を整え、小さく頷いた。

「……はい」

 新しい扉が開いた気がした。サキは着物姿のまま、店番をすることになった。

 いつもなら「働いている」という実感が湧くはずなのに、今日はなぜかそわそわする。

 店内は静かで、時計の秒針の音さえ聞こえそうなほどだった。

(意外と……お客さん、来ないんだな)

 少しでもお店の役に立ちたいのに、ただじっとしているだけでは落ち着かない。

「志乃さん、店番をしながら、お手伝いできることは?」

 奥にいる志乃に尋ねると「店番も仕事。座っていなさい」と言われた。

 志乃の厳しく静かな声に、サキは口をつぐむ。

 とはいえ、椅子に座っていても落ち着かない。

(アンナじゃないけど、じっとしてるの、向いてないんだよなあ)

 サキはそっと立ち上がった。

「……少し、店の中を見てもいいですか?」

 志乃はちらりと視線を向けたが、何も言わずに頷いた。

 サキはゆっくりと歩き出す。

 先ほど着せてもらった着物は、体にぴったりと馴染んでいる。裾がするりと足元を流れ、帯が背筋をしゃんと伸ばしてくれる。

(歩きやすい……こんなに動きやすいなんて思わなかった)

 最初は少し窮屈だと思っていた帯の締め付けも、今ではすっかり心地よく感じる。

(なるほど、着物って動きにくいんじゃなくて、動き方を整えてくれるんだ)

 ふわりと袖を揺らしながら、サキは店の隅々を見て回った。

 反物がきれいに並んでいる。

 帯や小物が、ひとつひとつ丁寧に箱に収められている。

 それらを見ていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。

(なんか……いいな)

 自然と背筋が伸び、指先の動きまで慎重になる。

「サキ」

 不意に、志乃が名前を呼んだ。

 サキが振り向くと、志乃はじっとこちらを見つめていた。

「やっと、呉服屋の顔になったわね」

「え?」

「さっきまでのあんたはアルバイトの子だった。でも今は、ちゃんと着物を着る人になってる」

 サキは少し考え、それから納得する。

(そうか、ただ服を着るんじゃなくて、着物は自分の動きや気持ちまで変えてくれるんだ)

「……ありがとうございます」

 思わず頭を下げると、帯が背中を支えてくれた気がした。

   5

 サキが呉服屋で働くようになって数日が過ぎたある日の昼下がり、呉服屋の引き戸が静かに開いた。入ってきたのは三人連れの女性たちだった。

 一番年配の女性は髪をきっちりまとめ、品のある和装をしている。その隣には、洋服姿の中年女性と、そのさらに娘らしき若い女性。一番若い和装の女性の孫娘はサキと同じような年齢である。孫娘は少し退屈そうに店内を見回していた。

「いらっしゃいませ」

 サキは背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。

「孫に着物を買ってやりたいんですよ」

 和装の女性がにこやかに言う。

「えぇ……でもお母さん、買っても着る機会がないでしょ? レンタルで十分だって」

 中年の女性は気乗りしない様子で腕を組んだ。

「そうだよ、おばあちゃん。成人式の振袖はみんなレンタルするって……」

 孫娘も続く。

 祖母は苦笑しながら、「やっぱり今の子は着物に馴染みがないわねぇ」とつぶやいた。

 サキはそのやり取りを聞きながら、自分も最初は同じように思っていたことを思い出す。けれど、着てみて初めてわかったことがある。

「確かに、着物は着るのが大変だと思うかもしれません」

 サキは静かに言葉を挟んだ。

「でも、実際に着てみると気持ちが変わるんです。姿勢が自然と正されて、ちょっと特別な気分になれるというか……」

 サキのまっすぐな言葉に、孫娘は興味を持ったのか、少しだけ表情を和らげた。

「……そんなもの?」

「ええ。私は働き始めたばかりで、まだまだ勉強中ですけど……最初は『面倒くさい』って思ってたんです。でも、実際に着物を着てみて、その感覚が変わりました」

 孫娘はちらりと祖母を見た。

「おばあちゃんは、どうしてそんなに私に着物を着てほしいの?」

 祖母は優しく微笑んだ。

「きれいな着物を着たあなたを見たいのよ。それに、着物はね、着てみると、案外良いものよ」

 孫娘は少し考え込み、サキの着物姿をじっと見つめた。

「……そういうものなのかな」

 孫娘の母親はまだ迷っているようだったが、孫娘がそっと祖母の方へ歩み寄った。

「……じゃあ、おばあちゃんが選んでくれるなら、着てみようかな」

 祖母の顔がぱっと明るくなった。

「本当に? それじゃあ、店員さん、この子に似合いそうな着物を見せてもらえる?」

「はい!」

 サキは嬉しくなり、店主の方を振り返る。

 志乃はじっとその様子を見ていたが、目を細めると静かにうなずいた。

「サキ、あなたが選んであげなさい」

「えっ?」

「さっきの言葉、なかなかよかったよ。だったら、どれがいいか考えて、お客さんにおすすめしなさい」

 サキは驚いたが、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。

(私が、選ぶ……?)

 けれど、このお店に来てから学んできたことが、少しずつ形になっている気がした。

「……かしこまりました」

 サキは微笑み、店の奥に並んだ着物へと歩み寄った。

   6

 サキは慎重に着物を選んだ。

――この人が初めて着物を着るなら、あまり派手すぎず、それでいて若々しさを引き立てるものがいい。

 何枚か手に取りながら悩んだ末に、淡い桜色の小紋を選ぶ。

「こちらはいかがでしょうか?」

 サキが差し出すと、祖母は嬉しそうに目を細めた。

「まぁ、かわいらしいわねぇ」

 孫娘もまじまじと着物を見つめる。

「意外と悪くないかも……」

「試着してみますか?」

 サキの言葉に、娘は少し躊躇ったが、祖母に背中を押されるように試着室へ向かった。

 しばらくして、娘が着物姿で姿を現す。

 鏡の前に立った彼女は、驚いたように自分の姿を見つめていた。

「……思ったよりいいかも」

 母親も娘の姿を見て、少し感心したようだった。

「確かに……姿勢が良くなっていつもより凛として見えますね」

 祖母は嬉しそうに孫の手を握る。

「似合うわよ、すごく」

 サキはその様子を見ながら、内心わくわくしていた。

(もしかしたら、買ってくれるのかな?)

 だが、その期待は次の母親の一言で揺らぐ。

「でも、やっぱり高いわよね……」

 母親は値札を見て、少しためらうように祖母へ視線を送った。

「そうねぇ……確かに、すぐに決められる金額じゃないわね」

 祖母は考え込むように頷く。

 孫娘も、「うーん……」と口ごもった。

「今日はちょっと考えます」

 祖母が申し訳なさそうに言い、娘も着物を脱ぐために試着室に向かった。

 サキは心のどこかで「決まる」と思っていた分、肩を落としてしまう。

(ダメだった……)

 着物をたたみながら、サキは少しがっかりした気持ちを隠せなかった。

「ありがとうございました」

 三人が店を出るのを見送り、静かになった店内。

 ため息をつこうとしたそのとき、志乃が声をかけた。

「買ってくれなくて残念だって思ってる?」

「……はい」

 サキは悔しそうに答える。

「でも、あの娘さん、最後には自分から、悪くないかもって言ってたわね」

 志乃の言葉に、サキははっとする。そうだ。最初は「レンタルで十分」と言っていたのに、試着をして気持ちが変わっていた。

「それは、あなたの言葉が届いたからだと思うわ」

 志乃は微笑み、静かに続ける。

「商売はね、一回で決まるものじゃないの。呉服屋は特にお直しがあるから、お客さまとは長い付き合いになるの。今日のことがきっかけになって、また来てくれるかもしれない。彼女が将来、着物を買うときに思い出してくれるかもしれない」

「……そう、なんですね」

「だから、落ち込むことはないわ。あなたの接客、悪くなかったわよ」

 志乃にそう言われて、サキの胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。

(私、ちゃんとこの店の店員になれてるのかも……)

 そう思ったら、さっきの悔しさが、少しだけ誇らしさに変わった。

「……ありがとうございます」

 サキは志乃に向かって深く頭を下げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

せんせいとおばさん

悠生ゆう
恋愛
創作百合 樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。 ※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

春に狂(くる)う

転生新語
恋愛
 先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。  小説家になろう、カクヨムに投稿しています。  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...