82 / 90
終章
深淵
しおりを挟む
────ミゼル。
かつての名は、アッシャーノ・ミゼル。
ティナーク王国創設期から王家に仕えてきた名家のひとつ、アッシャーノ伯爵家の令嬢であったミゼルは、はぐれ者たちの誰よりも貴族という人種の恐ろしさについて理解していた。
美を尊ぶこの世界において、最も美を尊重し、美を誇りとする存在。
だからこそ、そうでない者に対してはどこまでも冷酷に、どこまでも残酷になれる存在。
それが貴族だった。
だからこそ、愛すべき少年を攫ったのがアイーシャではないかという推測を立てたとき、ミゼルは血が凍り付くような恐怖を感じた。
アイーシャ自身はまだいい。
絶世の美貌と、それに付随するカリスマを有するアイーシャではあるが、その思想の異端さから、遥かに格下であるクロード子爵家に、半ば放逐のような形で降嫁させられていたからだ。
だが、彼女に流れる血は、三公とまで呼ばれる大貴族の一角、フォワール家のもの。
そのフォワールが…………マイト、キシェールと共に王国を三分する力を持つフォワールが、初代国王ファナカにも等しいと言われる美貌を持つアイーシャを、格下の家に入れてただ放置しているとはとても思えなかった。
必ず、彼女を見張る『目』がどこかにあるはずだ。
そしてその『目』は、自らが見たものを間違いなく主に伝えるだろう。
もしすでに、その『目』に少年が見られていたら。
もしすでに、フォワール公爵家が少年の存在を認識していたら。
────絶対に、はぐれ者たちだけで少年を守り抜くことは出来ない。
不可能だ。
どれだけリディアやアレックスが強かろうと、どれだけルナが万能であろうと、どれだけマリアベルの癒やしが優れていようと、どれだけミゼルが魔術の扱いに長けていようと。
広大なティナーク王国の三分の一に等しい力を持つ相手に、抗えるわけがない。
はぐれ者たちは、それぞれが超人と言っていいほどの力を持つ者たちだが、だからと言って無敵でも、完璧でもない。
現に、すでに少年を奪われているのだ。
それもフォワールですらない、格下の冒険者の手によって。
この先、無事に少年を取り戻せたとして、そこで終わりではない。
むしろ、そこからが始まりなのだ。
守り続けなければならない、だが、その力が自分たちにはない。
どうすればいいのか、どのような手段を講じれば、少年と共に在り続けられるのか。
ミゼルには、最後まで答えは出なかった。
…………
…………
だが…………
…………
…………リディアは、そうではなかった。
彼女の中には、明確な『答え』があった。
フォワールから……いや、フォワールだけではなく、他の二公や天使教からすらも少年を守り抜き、かつ自分たちが少年とともに在り続けることができる、唯一と言ってもいい手段を、ミゼルはリディアから告げられた。
その『答え』は、確かに最善のものであった。
だが、それと同時に、失うものはあまりにも多かった。
受け入れれば、これまでの生活は全て消え去るだろう。
家も、仕事も、かつては唯一の拠り所であった冒険者としての名声も、何もかもが失われ、そして二度と同じものが手に入ることはないだろう。
それは、これまで必死になって、歯を食いしばって生きてきた、人生の全てを失うことと同意だった。
残るものは、少年と、新しい家族となった仲間たちだけ。
…………
ミゼルは、迷うことなくリディアの提案に賛成した。
彼女にとっては、少年や仲間と天秤に掛けて惜しむものなど、何一つとして存在しなかった。
そしてそれは、ミゼルだけでなく他の仲間たちも一緒だった。
円陣を組んだはぐれ者たちは、手を重ね、心を一つにして誓いを立てた。
──我ら五人、生まれも育ちも違えど、生きる目的はただ一つ。この命も、この体も、この心も、この愛も、全てを我らが夫に捧げ、死するその時まで彼を守り、彼に尽くすことをここに誓う。
互いに目を合わせ、その意思と決意に偽りがないことを確認すると、はぐれ者たちは重ねた手を下ろし、行動を開始した。
まずはミゼルの転移魔術によって、リディア、アレックス、マリアベルの三人をキャスク平原へ転移させる。
十中八九罠だろうが、アレックスの突破力、リディアの判断力と応用力、そこにマリアベルの回復力が加われば、大概の窮地は凌ぐことが出来るだろう。
彼女たちの役割は、時間稼ぎだ。
ミゼルとルナが役割を終えて到着するまでの間、できるだけ敵の注意を引きつけておくのが主な目的だ。
次にミゼルは、ルナと共に自らも転移で跳んだ。
行く先は大陸南方の地、世界最大の樹海『モンベール』。
巨大な湖や天を突く山脈をその内に有し、未だにその生態系を把握できないほど多数の魔獣が生息する、人外魔境の大樹海である。
そして同時にそこは、容姿の醜さから世に蔑まれるエルフたちの里────
────ルナの生まれ故郷である、『アールヴァーナ』が存在する場所でもあった。
◇
……ルナと共に素早くアールヴァーナでの役目を終えたミゼルは、すぐさま転移魔術によってキャスク平原に跳んだ。
そして到着すると同時に、平原全体を〈広域把握〉で精査した。
……見つけた、少年の気配だ。
間違えようもない、小さくても暖かなその魔力に、ミゼルの瞳から涙がこぼれ落ちた。
だが、泣いている暇などはない。
すぐさま少年のもとに駆けつけたくなる気持ちをぐっと堪え、ミゼルは次なる魔術を展開させる。
はぐれ者たちの拠点にも張り巡らせていた〈守護結界〉を改良し、外からではなく中からの衝撃に対して特に強い耐性を持たせた、〈封印結界〉とでも言うべき魔術である。
それを、キャスク平原全体を包み込むように展開した。
通常、〈守護結界〉は結界の核となる触媒を必要とし、その触媒に込められた魔力によって維持される性質のものだ。
それは、改良を加えた〈封印結界〉であろうとも変わらない。
そして触媒なしにこの魔術を使用した場合、術者は自身が核となって維持するための魔力を注ぎ続けなければならないため、魔術を扱う際と同様に、その場から動く事が出来なくなる。
しかも、範囲が平原を覆うほどの大きさともなれば、魔力の消費も尋常なものではない。
並の魔術師では発動すら出来ず、高位魔術師と呼ばれる一握りの者たちですら、数十人単位の規模で取りかかる必要があるだろう。
しかしそれを、ミゼルは事もなげにやってのけて見せた。
彼女の二つ名は────『深淵』。
底が見えぬほどの魔力を有する、世界最強の魔術師。
今回は作戦上裏方に回っているが、もし彼女が全力を出せば、ドラゴンのブレスすら正面からかき消し、そのまま上半身を消し飛ばしてしまうような威力の魔術を、まるで初級魔術のような気軽さで連発することも可能だろう。
かつてアイーシャがミゼルに誘いを掛けたとき、もしミゼルが彼女の側に付いていたなら、今回の事件は全く違う局面を迎えていたかも知れない。
その心の弱さをアイーシャにつけ込まれ、彼女に心酔する側近として、その深淵なる魔力から繰り出される容赦ない一撃の下に、はぐれ者たちを消滅させていたかも知れない。
……だがそれは、起こりえたというだけのIFの話だ。
今のミゼルは、仲間を信じ、自分を信じ、少年と再会する未来を信じて疑わない、一人の強い女として成長しているのだから。
かつての名は、アッシャーノ・ミゼル。
ティナーク王国創設期から王家に仕えてきた名家のひとつ、アッシャーノ伯爵家の令嬢であったミゼルは、はぐれ者たちの誰よりも貴族という人種の恐ろしさについて理解していた。
美を尊ぶこの世界において、最も美を尊重し、美を誇りとする存在。
だからこそ、そうでない者に対してはどこまでも冷酷に、どこまでも残酷になれる存在。
それが貴族だった。
だからこそ、愛すべき少年を攫ったのがアイーシャではないかという推測を立てたとき、ミゼルは血が凍り付くような恐怖を感じた。
アイーシャ自身はまだいい。
絶世の美貌と、それに付随するカリスマを有するアイーシャではあるが、その思想の異端さから、遥かに格下であるクロード子爵家に、半ば放逐のような形で降嫁させられていたからだ。
だが、彼女に流れる血は、三公とまで呼ばれる大貴族の一角、フォワール家のもの。
そのフォワールが…………マイト、キシェールと共に王国を三分する力を持つフォワールが、初代国王ファナカにも等しいと言われる美貌を持つアイーシャを、格下の家に入れてただ放置しているとはとても思えなかった。
必ず、彼女を見張る『目』がどこかにあるはずだ。
そしてその『目』は、自らが見たものを間違いなく主に伝えるだろう。
もしすでに、その『目』に少年が見られていたら。
もしすでに、フォワール公爵家が少年の存在を認識していたら。
────絶対に、はぐれ者たちだけで少年を守り抜くことは出来ない。
不可能だ。
どれだけリディアやアレックスが強かろうと、どれだけルナが万能であろうと、どれだけマリアベルの癒やしが優れていようと、どれだけミゼルが魔術の扱いに長けていようと。
広大なティナーク王国の三分の一に等しい力を持つ相手に、抗えるわけがない。
はぐれ者たちは、それぞれが超人と言っていいほどの力を持つ者たちだが、だからと言って無敵でも、完璧でもない。
現に、すでに少年を奪われているのだ。
それもフォワールですらない、格下の冒険者の手によって。
この先、無事に少年を取り戻せたとして、そこで終わりではない。
むしろ、そこからが始まりなのだ。
守り続けなければならない、だが、その力が自分たちにはない。
どうすればいいのか、どのような手段を講じれば、少年と共に在り続けられるのか。
ミゼルには、最後まで答えは出なかった。
…………
…………
だが…………
…………
…………リディアは、そうではなかった。
彼女の中には、明確な『答え』があった。
フォワールから……いや、フォワールだけではなく、他の二公や天使教からすらも少年を守り抜き、かつ自分たちが少年とともに在り続けることができる、唯一と言ってもいい手段を、ミゼルはリディアから告げられた。
その『答え』は、確かに最善のものであった。
だが、それと同時に、失うものはあまりにも多かった。
受け入れれば、これまでの生活は全て消え去るだろう。
家も、仕事も、かつては唯一の拠り所であった冒険者としての名声も、何もかもが失われ、そして二度と同じものが手に入ることはないだろう。
それは、これまで必死になって、歯を食いしばって生きてきた、人生の全てを失うことと同意だった。
残るものは、少年と、新しい家族となった仲間たちだけ。
…………
ミゼルは、迷うことなくリディアの提案に賛成した。
彼女にとっては、少年や仲間と天秤に掛けて惜しむものなど、何一つとして存在しなかった。
そしてそれは、ミゼルだけでなく他の仲間たちも一緒だった。
円陣を組んだはぐれ者たちは、手を重ね、心を一つにして誓いを立てた。
──我ら五人、生まれも育ちも違えど、生きる目的はただ一つ。この命も、この体も、この心も、この愛も、全てを我らが夫に捧げ、死するその時まで彼を守り、彼に尽くすことをここに誓う。
互いに目を合わせ、その意思と決意に偽りがないことを確認すると、はぐれ者たちは重ねた手を下ろし、行動を開始した。
まずはミゼルの転移魔術によって、リディア、アレックス、マリアベルの三人をキャスク平原へ転移させる。
十中八九罠だろうが、アレックスの突破力、リディアの判断力と応用力、そこにマリアベルの回復力が加われば、大概の窮地は凌ぐことが出来るだろう。
彼女たちの役割は、時間稼ぎだ。
ミゼルとルナが役割を終えて到着するまでの間、できるだけ敵の注意を引きつけておくのが主な目的だ。
次にミゼルは、ルナと共に自らも転移で跳んだ。
行く先は大陸南方の地、世界最大の樹海『モンベール』。
巨大な湖や天を突く山脈をその内に有し、未だにその生態系を把握できないほど多数の魔獣が生息する、人外魔境の大樹海である。
そして同時にそこは、容姿の醜さから世に蔑まれるエルフたちの里────
────ルナの生まれ故郷である、『アールヴァーナ』が存在する場所でもあった。
◇
……ルナと共に素早くアールヴァーナでの役目を終えたミゼルは、すぐさま転移魔術によってキャスク平原に跳んだ。
そして到着すると同時に、平原全体を〈広域把握〉で精査した。
……見つけた、少年の気配だ。
間違えようもない、小さくても暖かなその魔力に、ミゼルの瞳から涙がこぼれ落ちた。
だが、泣いている暇などはない。
すぐさま少年のもとに駆けつけたくなる気持ちをぐっと堪え、ミゼルは次なる魔術を展開させる。
はぐれ者たちの拠点にも張り巡らせていた〈守護結界〉を改良し、外からではなく中からの衝撃に対して特に強い耐性を持たせた、〈封印結界〉とでも言うべき魔術である。
それを、キャスク平原全体を包み込むように展開した。
通常、〈守護結界〉は結界の核となる触媒を必要とし、その触媒に込められた魔力によって維持される性質のものだ。
それは、改良を加えた〈封印結界〉であろうとも変わらない。
そして触媒なしにこの魔術を使用した場合、術者は自身が核となって維持するための魔力を注ぎ続けなければならないため、魔術を扱う際と同様に、その場から動く事が出来なくなる。
しかも、範囲が平原を覆うほどの大きさともなれば、魔力の消費も尋常なものではない。
並の魔術師では発動すら出来ず、高位魔術師と呼ばれる一握りの者たちですら、数十人単位の規模で取りかかる必要があるだろう。
しかしそれを、ミゼルは事もなげにやってのけて見せた。
彼女の二つ名は────『深淵』。
底が見えぬほどの魔力を有する、世界最強の魔術師。
今回は作戦上裏方に回っているが、もし彼女が全力を出せば、ドラゴンのブレスすら正面からかき消し、そのまま上半身を消し飛ばしてしまうような威力の魔術を、まるで初級魔術のような気軽さで連発することも可能だろう。
かつてアイーシャがミゼルに誘いを掛けたとき、もしミゼルが彼女の側に付いていたなら、今回の事件は全く違う局面を迎えていたかも知れない。
その心の弱さをアイーシャにつけ込まれ、彼女に心酔する側近として、その深淵なる魔力から繰り出される容赦ない一撃の下に、はぐれ者たちを消滅させていたかも知れない。
……だがそれは、起こりえたというだけのIFの話だ。
今のミゼルは、仲間を信じ、自分を信じ、少年と再会する未来を信じて疑わない、一人の強い女として成長しているのだから。
20
お気に入りに追加
1,752
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。

劣悪だと言われたハズレ加護の『空間魔法』を、便利だと思っているのは僕だけなのだろうか?
はらくろ
ファンタジー
海と交易で栄えた国を支える貴族家のひとつに、
強くて聡明な父と、優しくて活動的な母の間に生まれ育った少年がいた。
母親似に育った賢く可愛らしい少年は優秀で、将来が楽しみだと言われていたが、
その少年に、突然の困難が立ちはだかる。
理由は、貴族の跡取りとしては公言できないほどの、劣悪な加護を洗礼で授かってしまったから。
一生外へ出られないかもしれない幽閉のような生活を続けるよりも、少年は屋敷を出て行く選択をする。
それでも持ち前の強く非常識なほどの魔力の多さと、負けず嫌いな性格でその困難を乗り越えていく。
そんな少年の物語。
義兄の執愛
真木
恋愛
陽花は姉の結婚と引き換えに、義兄に囲われることになる。
教え込むように執拗に抱き、甘く愛をささやく義兄に、陽花の心は砕けていき……。
悪の華のような義兄×中性的な義妹の歪んだ愛。

義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話
よしゆき
恋愛
乙女ゲームのヒロインに意地悪をする攻略対象者のユリウスの義妹、マリナに転生した。大好きな推しであるユリウスと自分が結ばれることはない。ならば義妹として目一杯甘えまくって楽しもうと考えたのだが、気づけばユリウスにめちゃくちゃ執着されていた話。
「義兄に嫌われようとした行動が裏目に出て逆に執着されることになった話」のifストーリーですが繋がりはなにもありません。

友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる