逃がした魚は

珈琲きの子

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四、僕の顔はぶさいく

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  最近柊さんは毎日部室を訪れるようになった。そして今日も柊さんは僕の横に座っている。

 毎日来るなんて、柊さん暇なのかな? 部活してないのかな?

 そう思いながらも、柊さんが来てくれることが嬉しくてたまらない。

「今日は? ケガしてねぇ?」
「はい。大丈夫です。少し膝擦りむいたくらい」
「……それも怪我だろが」

 と、手当てしてくれる柊さん。
 こうやって部室に来ては僕を心配してくれている。でももう心配する必要はないんじゃないかなと思っていた。
 最近は持ち物に悪戯されることもなくなったし、呼び出されて暴力を振るわれることもなくなった。突き飛ばされたり、足をかけられたりはまだあるけれど。
 
 竜ちゃんの話をして以降、柊さんは気持ちいいことをしようって言わなくなった。僕は柊さんが触れてくると、気持ちいいことをしたくてたまらなくなるのに。柊さんが「しねぇ?」って言ってくれるんじゃないかって、ティーカップを口に運ぶのをもじもじしながらも見てしまう。

「なあ、碧。髪、切ってみねぇ?」

 一瞬、やっと!、と思ったけれど、柊さんが提案してきたのは全然予想の付かないことだった。

「髪?」

 竜ちゃんが来なくなってから、僕の外見を気にしてくれる人がいなくなったため、髪が伸び放題だった。

「俺のダチが美容師してて練習台が必要なんだと」
「れ、練習台ですか? 僕でいいならなりますけど…」
「じゃあ決まりな。金曜の放課後、外出届出しとけよ」
「…あっ!」
「なに」
「え、えっと…、前髪は切らないで欲しいんです。僕、すっごく不細工で、人に見せれるものじゃなくて…」

 僕がそう言うと、柊さんは僕の事を何とも言えない顔でじっと見つめてから僕の頬を撫でた。それから僕の長い前髪をその綺麗な指で引っ掛けて退ける。
 風通しの良くなった額。前髪を退けられただけなのに、全てを暴かれた様な気分になる。柊さんの強い眼差しが直接感じられて、僕は余りの恥ずかしさに目を伏せるしかなかった。

「碧」
「……は、はい…」
「俺はおまえの事、かわいいと思う」

 一瞬何を言われているのか分からなかった。

 その言葉を理解した途端、今まで感じたことがないくらいに体温が一気に上がるのを感じた。どうしようもないくらいに顔が火照る。
 お世辞だとしても、揶揄いだとしても、可愛いなんて言葉を向けられたことのない僕には軽くあしらう事なんてできなかった。

「か、揶揄わないで下さい!」
「揶揄ってなんかねーよ。そんなめんどくさいことするかっての」
「で、でも…」
「なぁ、俺が嘘ついたことある?」
「…そ、それは…」
「おまえはもっと自信持っていいんだよ。だからその前髪もバッサリ行こうぜ?」

 自信を持っていい?
 自信? 自信ってどういう感覚なんだろう。

 僕が返答に詰まっていると、柊さんは僕の髪を撫で梳いた。その目を細めた柊さんの表情がとても優しくて、僕は柊さんを信じることにしようと決めて、頷いた。

 柊さんと出かけると思うだけで、僕はふわっと浮いたような気持ちになり、柊さんと目を合わせるだけで、どくどくと心臓が音を立てた。

 喜んでもらおうと甘いものが好きな柊さんにスコーンとクッキー、それからマフィンを焼いた。マフィンは新作だ。出かけるときに持っていこうと、冷蔵庫に大切に大切にしまった。
 柊さんを驚かそうと思って、マフィンの事を秘密にしようするけれど、そわそわしてしまう。
 
「髪切るのそんなに楽しみか?  おもしれーなお前って」

 初めて会った時に浮かべてたニヤリとした笑みではなく、自然な微笑みがとても綺麗だった。僕の心臓がとても緊張した時のように激しく脈打った。
 マフィンの事を知られずに済んで良かったと思いながらも、恥ずかしくて柊さんの顔を見ていられなくなって俯いた。

 どうしてだろう。
 竜ちゃんと一緒にいる時と違って、ドキドキする。でもとても穏やかで、とても心地いい時間。なのに、柊さんと一緒にいるとあっという間に寮に帰らなければいけない時間になる。とっても不思議な感覚。

「また明日な」
「は、はい…、明日」
 
 僕の頭にポンと手を置いた柊さんは、踵を返した。その後姿を見送って、僕は寮に向かって歩いた。
 
 ふわふわとした気持ち。
 僕は早鐘を打つ心臓が少しでも収まればいいのにと胸を手でギュッと抑えた。

 
 けれど、その浮足立った心は、直後に突き落とされた。
 

 寮へ到着する前に旧体育館倉庫に連れ込まれて、久しぶりに暴行を受けることになったからだ。

「北條様の次は如月様に付き纏うなんて、どれだけ面の皮が厚いんだよ」
「まだ自分の立場理解してねぇのか? 頭大丈夫かよ」
「理解できるまで、ここで反省してろ、バーカ」

 錆が目立つ鉄扉が軋む音を立てながら閉じられていくのを僕は起き上がることもできずにただ見ていた。外から錠前が掛けられた音が聞こえて、僕は焦った。

「……う、そ…」

 必死になって、僕はその鉄扉に向かった。
 体を丸めて、ひたすらお腹をかばっていたから内臓は大丈夫なようだったけれど、足首を何度も踏まれた所為で、体を引き摺るだけでも痛さが襲ってきた。
 やっとの思いで扉に触れて、両側に開こうと力を入れるけれど、鉄扉はビクともしなかった。

 どうしよう。
 早く寮に帰って外出届を提出しなければいけないのに。
 
 ここからいつ出してもらえるのか。それが分からなくて僕は愕然とした。
 約束を破ったりなんかしたら、きっと柊さんはもう来てくれなくなる。

「お願い! 出して! 誰か、お願い!」

 鉄扉をガンガンと拳で叩いた。叫びながら何度も叩いた。
 
 でも、消灯の迫る時間に旧校舎にいる人間なんていなかった。誰一人、僕の声に気付いてくれることはなかった。

「柊さん…」

 僕は泣いている場合ではないとは分かりながらも、涙を止められなかった。柊さんに嫌われたくない。その思いでいっぱいだった。

 
 いつの間にか泣き疲れて、寝てしまっていたけれど、寒さで目が醒めた。
 カタカタと体が震え、力を入れてもそれは止まらない。その上、足首は熱を持って腫れ、少しでも動かせば痛みが全身に突き抜け、堪らず呻いた。

 こんな足じゃ、柊さんと一緒にお出かけできない。
 どうしようどうしよう。
 
 そう思っているうちに、寒さも耐えられないほどになってくる。
 羽織るものが欲しいのに、そんなものは倉庫にない。もし、あったとしても動くことさえできない。ただコンクリートの床に丸まることしかできなかった。
 自分じゃないんじゃないかと思うくらいに息が荒くなってきて、寒さが辛くて呻いてしまう。

 頭が朦朧とし始めるなか、僕はうわ言のように柊さんの名前を何度も呼んだ。
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