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逃げなさい!
それは夕暮れ時だった。不用心に開け放たれた玄関の戸口から劈くように響いたのは断末魔の叫びだった。
母のものとは思えない声に驚き、土間に足を踏み入れようとするが、それは叶わずに終わる。アレクに対し、数人の村人が農耕具を振り上げて襲いかかってきたのだ。
避けきれなかった鋭鋒が背中を引き裂き、灼かれるような熱さが半身を覆い尽くす。家の外壁に身を預け、かろうじて倒れることは免れたが、背後に次の攻撃が迫っていることを感じていた。
振り下ろされた耕具の柄を死に物狂いで蹴り飛ばす。馬鹿力でも働いたのか、村人たちが団子になって後ろにひっくり返った。その隙にふらつきながらも駆け出すが、群れの中から奇声があがる。直後、右のふくらはぎに衝撃が走り、前につんのめる。その勢いのままにアレクは地面を転がった。
足には槍が貫通しており、アレクはそれが現実とはにわかに信じられず目を見開いた。振り返れば村人たちがすぐ後ろで目を血走らせている。その赤く狂気めいた眼差しにぶわりと全身が総毛立った。
殺される。
何が起こっているのかわからない。しかし、それだけは直覚し、同時に絶望した。
危機感に胸が破裂しそうなほど激しく鼓動する。突き動かされるように槍を引き抜き、襲い来る村人たちに向かって投げつけた。気が動転していて脳が痛みとして認識していないことだけが幸いだった。
その行動に怯んだのか、誰かに直撃したのか、どよめきが起こる。今しかないと、うまく動かない足を引きずりながら山手にある茂みに転がり込んだ。しかし、村人の怒号がすぐ近くで上がる。アレクは上げそうになった悲鳴を飲み込み息を潜めた。
体格に恵まれ運動能力の高かったアレクだが、今の足では追いつかれる。その上、溢れる血が自分の居場所を知らせてしまう。見つかるのも時間の問題。
それでも。
それでも、逃げなければならなかった。母に逃げなさいと言われたから。その使命感だけがアレクを支えていた。
杖の代わりになりそうな枝を手に取り、茂みから続く森に足を踏み入れて、がむしゃらに足を進めた。
日没前とはいえ森深くに入れば一寸先は闇。その呑み込まれそうな深淵に怯んでしまったことが運の尽きだった。
一歩後ずさった足を砂利に取られた。
ヒヤリとした瞬間にはもう遅い。枯れた木々にぶつかり、砂や石にまみれながら断崖を跳ねるように転がり落ちていく。岩肌に体が打ち付けられる一瞬一瞬がアレクには途方もなく長い時間に感じられた。そして、斜面の中腹にあった岩に叩き付けられ、アレクの体はやっと止まった。
液体が体のそこかしこを流れていく。それが汗ではなく血なのだとアレクは理解し、投げ出された腕がおかしな方向に曲がっているのを他人事のように眺めていた。
(なんでだよ)
母の言葉を思い出すと同時に、土間に倒れていた力ない姿が脳裏に浮かぶ。父の姿は見えなかったが、二人とももうすでにこの世を去っているかもしれない。
(なんで皆……)
よく働くと、お前は将来有望だと、いつも褒めてくれていたあの人たちはどこへ行ってしまったのか。ただの悪夢かもしれない。目が覚めれば戻れるかもしれない。
早く、早く。いつもみたいに叩き起こしてくれ。
はくはくと乾いた浅い息が口から漏れる。じわじわと侵食してくる痛みに歯を食いしばるも、意識はゆっくりと遠ざかっていった。
どうせ死ぬなら、父と母と一緒にいればよかった。逃げなければよかった。木々が途切れ、その隙間から覗く群青色と茜色が混じり合う空を見上げながら、アレクは後悔に似た念を抱いた。
その時、パキと枝の折れるような音と共に、アハハと場違いな笑い声がアレクの耳に響く。
「残念。こんなことじゃ死なねぇよ、お前は」
そう言って満身創痍のアレクを見下ろしたのは、年下にも見える小柄な少年だった。ただ、その顔に浮かぶのは不釣り合いともいえる意地悪な笑み。
「うぇえ、痛そー」
ピクリとも体を動かせないアレクに向けられる、思いやりの欠片もない言葉。中身と外見に大きな差があることは一目瞭然だった。
だが、アレクは綺麗だと思った。
興味津々といった様子で覗き込んでくる、うっすらと水を湛えた金色の瞳が。
(太陽みたいだ)
アレクは意識がぷつりと途切れるまで、淡く光を帯びる瞳をただただ見上げていた。
――それが、アレクと、彼の師となるラヴェルとの出会いだった。
それは夕暮れ時だった。不用心に開け放たれた玄関の戸口から劈くように響いたのは断末魔の叫びだった。
母のものとは思えない声に驚き、土間に足を踏み入れようとするが、それは叶わずに終わる。アレクに対し、数人の村人が農耕具を振り上げて襲いかかってきたのだ。
避けきれなかった鋭鋒が背中を引き裂き、灼かれるような熱さが半身を覆い尽くす。家の外壁に身を預け、かろうじて倒れることは免れたが、背後に次の攻撃が迫っていることを感じていた。
振り下ろされた耕具の柄を死に物狂いで蹴り飛ばす。馬鹿力でも働いたのか、村人たちが団子になって後ろにひっくり返った。その隙にふらつきながらも駆け出すが、群れの中から奇声があがる。直後、右のふくらはぎに衝撃が走り、前につんのめる。その勢いのままにアレクは地面を転がった。
足には槍が貫通しており、アレクはそれが現実とはにわかに信じられず目を見開いた。振り返れば村人たちがすぐ後ろで目を血走らせている。その赤く狂気めいた眼差しにぶわりと全身が総毛立った。
殺される。
何が起こっているのかわからない。しかし、それだけは直覚し、同時に絶望した。
危機感に胸が破裂しそうなほど激しく鼓動する。突き動かされるように槍を引き抜き、襲い来る村人たちに向かって投げつけた。気が動転していて脳が痛みとして認識していないことだけが幸いだった。
その行動に怯んだのか、誰かに直撃したのか、どよめきが起こる。今しかないと、うまく動かない足を引きずりながら山手にある茂みに転がり込んだ。しかし、村人の怒号がすぐ近くで上がる。アレクは上げそうになった悲鳴を飲み込み息を潜めた。
体格に恵まれ運動能力の高かったアレクだが、今の足では追いつかれる。その上、溢れる血が自分の居場所を知らせてしまう。見つかるのも時間の問題。
それでも。
それでも、逃げなければならなかった。母に逃げなさいと言われたから。その使命感だけがアレクを支えていた。
杖の代わりになりそうな枝を手に取り、茂みから続く森に足を踏み入れて、がむしゃらに足を進めた。
日没前とはいえ森深くに入れば一寸先は闇。その呑み込まれそうな深淵に怯んでしまったことが運の尽きだった。
一歩後ずさった足を砂利に取られた。
ヒヤリとした瞬間にはもう遅い。枯れた木々にぶつかり、砂や石にまみれながら断崖を跳ねるように転がり落ちていく。岩肌に体が打ち付けられる一瞬一瞬がアレクには途方もなく長い時間に感じられた。そして、斜面の中腹にあった岩に叩き付けられ、アレクの体はやっと止まった。
液体が体のそこかしこを流れていく。それが汗ではなく血なのだとアレクは理解し、投げ出された腕がおかしな方向に曲がっているのを他人事のように眺めていた。
(なんでだよ)
母の言葉を思い出すと同時に、土間に倒れていた力ない姿が脳裏に浮かぶ。父の姿は見えなかったが、二人とももうすでにこの世を去っているかもしれない。
(なんで皆……)
よく働くと、お前は将来有望だと、いつも褒めてくれていたあの人たちはどこへ行ってしまったのか。ただの悪夢かもしれない。目が覚めれば戻れるかもしれない。
早く、早く。いつもみたいに叩き起こしてくれ。
はくはくと乾いた浅い息が口から漏れる。じわじわと侵食してくる痛みに歯を食いしばるも、意識はゆっくりと遠ざかっていった。
どうせ死ぬなら、父と母と一緒にいればよかった。逃げなければよかった。木々が途切れ、その隙間から覗く群青色と茜色が混じり合う空を見上げながら、アレクは後悔に似た念を抱いた。
その時、パキと枝の折れるような音と共に、アハハと場違いな笑い声がアレクの耳に響く。
「残念。こんなことじゃ死なねぇよ、お前は」
そう言って満身創痍のアレクを見下ろしたのは、年下にも見える小柄な少年だった。ただ、その顔に浮かぶのは不釣り合いともいえる意地悪な笑み。
「うぇえ、痛そー」
ピクリとも体を動かせないアレクに向けられる、思いやりの欠片もない言葉。中身と外見に大きな差があることは一目瞭然だった。
だが、アレクは綺麗だと思った。
興味津々といった様子で覗き込んでくる、うっすらと水を湛えた金色の瞳が。
(太陽みたいだ)
アレクは意識がぷつりと途切れるまで、淡く光を帯びる瞳をただただ見上げていた。
――それが、アレクと、彼の師となるラヴェルとの出会いだった。
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こちらの作品は、2万字程度の短編で10話で完結します。
『地図から消えた村』アンソロジーの寄稿分として一年ほど前に書いたものになります。
楽しんで頂けますと幸いです。
『地図から消えた村』アンソロジーの寄稿分として一年ほど前に書いたものになります。
楽しんで頂けますと幸いです。
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