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第一部 第一章
希望の銀色
しおりを挟むアルの本当の名前はアルベルトなのだという。
あの大男――ギルベルトが腹違いの兄弟だと絵本を使って説明してくれたのだけれど、俺は驚くしかなかった。
あれからギルベルトは美味しいお菓子を持って俺に何度も謝りに来る。
最初はアルに怒鳴られていたけれど、俺が怖がらなくなってきたのを見て、最近はアルも追い返すのを諦めたようだった。
ギルベルトが持ってくるお土産がどんどん高価なものになっているような気がするのは気のせいではないと思う。
そして、俺の首にはもう首輪はない。
俺の心は平穏に包まれていて、それをアルが感じ取って、首輪を外してくれたのだと思う。
ほぼ一日中、アルが俺と一緒にいてくれるから安心できる。
アルがいない時は使用人が俺の様子を見ているけれど、ほとんど心配はないと思っているのか、一時期に比べてピリピリとした感じはない。
二人で同じベッドに寝るようになったのも大きい。
酷い夢を見て汗だくで飛び起きても、アルが傍にいてくれる。背中を擦って、俺が寝るまで寄り添ってくれる。
それにどれほど助けられているか。
朝起きるのが少しつらそうで、とても申し訳ないけれど…。
アルといると不安がなくなる。なぜか心が穏やかになる。こんな気持ちは初めてで、とても不思議だ。
最近はアルの職業が気になるほどに気持ちの余裕が出てきた。
こんな屋敷に住み、かなりいい生活をしているのに、屋敷を開けるのは一日ほんの二時間程度。とても割のいい仕事をしているらしい。
家にいるときはほぼ庭仕事。
そして、それが終われば俺に字を教えてくれている。子供が読むような絵本を持ってきて、絵と絵の下に記された文字を読み、書き方を教えてくれる。
聞こえない、話さない、読み書きできないというのは、やはり不便なのだろう。筆談でもできればいいと思っているのかもしれない。
声は出せるとは思うが、こちらの言葉を話せないとなるときっと問題になる。
アルはひたすらに優しい。
俺の事を気にかけ、俺が過ごしやすい様に配慮してくれる。
声が出せると知られれば、この世界の言葉を理解できないと知られれば、確実に環境は変わってしまう。
この夢のような時間は終わってしまう。
それが怖かった。
騙しているような気になりながらも、俺は決して声を発さなかった。
再び街に行った時だった。
前は馬車に乗っていただけだったけれど、今回は馬車を降りて街の散策に連れて行ってくれた。
市場を見て回り、立ち止まってはアルがいろんな物を買って食べさせてくれたり、言葉は分からないけれど、使い方を身振り手振りで説明してくれたり。
色とりどりの野菜や果物が並べられている中で、元の世界と似たものがあったのは驚きだった。
あれはかぼちゃ。あれはみかん。あれはりんご。
珍しくうきうきとした気持ちになって、アルの手を何度も引っ張っては品物を指差して、説明を求めてしまった。
俺が訴えるようにアルを見つめると、アルは嬉しそうに微笑んで気長に丁寧に教えてくれた。
アルも楽しそうだったけれど、俺もアルとこうして過ごせることが嬉しかったし、アルの住む街の雰囲気を感じられてとても楽しかった。
アルはある店に入ると、俺を店番のいるカウンターの横に座らせて、待っているように言うと店の奥へと入って行ってしまった。
その店の店主とは長い付き合いのようで仲がとても良さそうだった。
俺は木製の丸椅子に腰かけて、脚をプラプラとさせながらアルを待った。
すると、俺の横にいた店番をしてた男が俺の肩を叩いた。
「――、アルベルト―――」
その男がアルの名前を言った事だけは聞き取れたけれど、さっぱり言葉の分からない俺は首を傾げた。
俺が理解できていないのを分かったのか男は店の外を指さして、「アルベルト」ともう一度言った。
アルが外にいる?
立ち上がって男を見ると、また男は外を指しながら俺の腕を取って外へ連れて行こうとする。
アルはその店番の男ともとても仲が良さそうだったし、俺を任せられる人なんだろうという思いもあり、少し不安はあったものの、その人について行った。
細い路地まで連れて行かれると、ここで待っていろ、という様にその人は地面を指さした。
俺を置いて帰ろうとするその人によほど不安な目を向けていたのだろう。笑顔を浮かべながら果物と何度か口にしたことのあるお菓子を手渡してきて、俺の肩をポンポンと叩いた。俺に大丈夫だと言い聞かせるように。
俺は心配ながらも一つ頷いて、その人を見送った。
アルがここで待てと言ったのかもしれない。
俺は八百屋の横にある細い路地の入り口に立って、店番の男がくれたお菓子を食べながらアルを待った。
けれど――……待てども待てどもアルは来なかった。
もしかして要らなくなったのかもしれない。
もしかして捨てられたのかもしれない。
あの人に頼んで、俺を捨ててくるように言っていたのかもしれない。
ちらっと見えたお金のやり取り。きっとあれが…。
期待しないと決めたのに。どうして俺はすぐに期待してしまうんだろう。どうして信じてしまうんだろう。
どうして…。
ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
――その時だった。
絶対に取ってはいけないと言われているフードが後ろから引っ張られるように取り払われ、俺は驚いて、振り向いた。
そこには数人の男がいて、俺の顔を確認するように見てから目配し合い、俺を担ぎ上げた。
――ああ、もう幸せな時間は終わりなんだ。
短かったな、と思いながら、俺は力を抜いた。
「―――――!」
誰かが大声で叫んでる。
何かあったのかもしれない。
その声は徐々に近づいてきて、俺を担いでいる男は路地の陰に隠れるように息を潜めた。
「ティーっ!」
俺ははっとして顔を上げた。
アル?
唯一安心できる声。
アルが呼んでる?
アルが迎えに来てくれた?
「ティー、ティーロっ!」
がむしゃらな叫び声。
アル!
俺は身を捩った。
男が舌打ちし、押さえる腕の力を強くした。
「…ぁ…ぅ…」
叫ぼうとして、喉から掠れた音が漏れた。
どうやって、声を出していた?
こんなことなら、声を出す練習でもしておけばよかった。
アル、アル、アル、アル!
俺は何度も声を上げた。
いつかは音が出ると信じて。
「……アル…っ…!」
俺を担いでいた男が俺の身体を地面に叩きつけるように落とし、口に布を押し込んでくる。
男たちは小声で口々に何かを言っていたが、押さえこんでくる手に必死に抵抗した。
何度も顔や腹を殴られたけれど、恐怖はなかった。
アルが助けてくれる。
どこからともなく湧いてくる当てもない希望。
意識を失う瞬間、目の端に銀色が輝いた。
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