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1巻
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王城の裏手に広がる庭園。貴賓室からの眺めを考えて設計され、四季折々の花を楽しめると称賛されるその庭に、エミールはこっそりと入りこんでいた。貴賓室に客が入っている間は人払いがされるため人気もない。そこは生垣に囲まれた他者の視線が届かない場所であり、エミールにとっては秘密の遊び場でもあった。
『おい、お前、俺の婚約者にしてやる』
久しぶりに訪れた遊び場で精霊たちとお喋りを楽しんでいると、突然現れた黒髪の少年がそう言い放った。
唐突なことでエミールは驚き、すぐさま断ったのだが、色々と話すうちに彼が不思議な目を持っていることを知った。精霊の姿を見ることはできないが、魔力を形として捉えることができるというもので、エミールの周りを飛び回る精霊の存在を認識しているのだという。
『本当に精霊っているんだな』
その少年は言った。
エミールは生まれてきてからその時まで、自分の他に精霊使いがいると聞いたことがなかった。
正確にはその少年は精霊使いではなかったのだが、それでも家族以外で初めて精霊が見えるという力を真正面から受け止めてくれた人物だったのだ。
『目はいいんだ』
と少年は自慢げに語る。そして、エミールが人前で精霊と話すことを禁じられていると打ち明けると、『俺の前では話していい』とぶっきらぼうに許可を出した。その一言にエミールは彼の優しさを感じていた。
出逢った瞬間に、『婚約者にしてやる』と詰め寄られ、横柄な態度を取られたというのにどこか憎めない少年。もっと話したい。もっとこの子たちのことを知ってほしいと、あれほどに胸を高鳴らせたことはなかった。
そんな彼に、自分よりひ弱そうな人とは結婚したくありません、と言ってしまったことを思い出し、流石に酷いことをしたなとエミールは夢うつつに思う。そして、もう彼に会えないということをなんとなく感じ取っていた。
彼といる時は幼い時に戻ったかのように精霊たちとお喋りができた。通訳をしなければ彼は精霊と話ができないため少しもどかしさもあったが、精霊を認めてくれていることがなによりも嬉しかった。そして、王都に来てからロルとテル以外の精霊と関係を断っていたエミールにとって、その時間はとても恋しいものだった。
「……また、お会いしたかった……」
エミールの小さな呟きは誰の耳にも入ることなく、大気に溶けていった。
二 帝国の皇太子
賓客たちにウェルカムドリンクが振る舞われる控室。
ワイングラス片手にソファを陣取り、持て余すほどに長い足を組みなおしたのはアレキサンドライト帝国の皇太子、シグヴァルトだった。
黒髪をオールバックに撫でつけ、彫りの深い端整な顔を余すことなく見せつけている。赤い紐で結われた伸びた襟足も、ただただ彼の色気を引き立たせるもので、その空間にいる年頃の未婚者たちは、その褐色の肌と鮮やかなターコイズの双眸に釘付けだった。成人したばかりで、婚約者選びの最中だというから熱い視線が集まるのも頷ける。
ただ、そんな眼差しを向けられながらも、本人は不機嫌そうに眉を寄せて五杯目のワインをグイっと呷った。
「どういうことだ。エミールの結婚式だから来たってのに」
「殿下、お声が大きいですよ!」
すぐさま従者のデミオ・スタークが「しぃぃ」と口に人差し指を当て、キョロキョロと周りを見渡した。
皇太子には劣るが彼もそこらにはいない美丈夫で、空色の髪と瞳は鮮やかでよく目を引く。線が細くどことなく軟弱な印象があるものの、皇子の従者を任されるだけあって国内有数の魔術師でもあった。
そんな従者に皇太子は冷めた目を向ける。
「……お前の方がうるさいだろ」
「ご自分の発言にどれだけ影響力があるか、ご存知でいらっしゃいますか⁉」
「わかってる。わかってるから言ってるんだ。どう考えてもおかしいだろ、なんだあの女」
久しぶりに顔を見られると思ったのに、と肘置きを指でトントンと叩きだす皇太子に、デミオはどうしたものかと頭を悩ませた。
楽しみにしていたと知っているため強くは言えない。その上、疑問に思っている者がシグヴァルトだけでないことも周りの様子から伝わってきていた。
大神殿の礼拝堂。花びらが舞う中、赤い絨毯の上を歩いていた新郎新婦。
その段階で、タンザナイトの内情など知らない招待客も第二王子の隣に並ぶ人物が見知った顔でないことに気付いていた。流石に祝いの席でそのことを口に出す者はいなかったが、去り際に礼拝堂を見渡し、どこかに姿がないものかと視線を彷徨わせる者があとを絶たなかった。
エミール・ダイヤモンドは一介の貴族に過ぎない。だが、ディートリヒの婚約者として幼い頃から式典などに顔を出していたため他国の王子や王女との交流があった。エミールは彼らの中でも声望が高く、一目置かれる存在で、評判はその親に当たる国王と王妃にも届いていた。だからこそ多くの参列者たちは「なぜ?」と首を傾げたのだ。
「まあ、そうなりますよね。妃殿下になられたらおいそれと話しかけられなくなりますし。私もお会いしたかった……最後にお顔を拝見したのは二年前ですから」
「ああ。この二年でますます美人になったって噂だ。晴れ姿が見られないなんて詐欺だろ」
「詐欺って……言葉が悪いですよ、殿下。確かに招待状にはエミール様のお名前がありますし、そう言えなくもないですが」
「招待状……そうか。でかしたぞ、デミオ」
面白いことを思いついた、とシグヴァルトは顎に手を当てて口端を歪めた。その悪い顔を見て、デミオは余計なことを言ってしまったと内心後悔しつつ、滝のような汗を流した。
「シグヴァルト殿下、どうぞこちらへ」
案内役に声を掛けられ、シグヴァルトは意気揚々と立ち上がった。
謁見室へ一番に通されたのはシグヴァルトで、皇太子とはいえ他国の王より格上扱いだ。
デミオは入ってすぐ扉の横で待機し、国王と王妃、そして新郎新婦が立つ場所まで颯爽と歩いていく皇太子の背中を見守った。
これから起こることにデミオの背中は汗だくだ。しかし、これも仕方ないと腹をくくる。
十年前シグヴァルトは、すでに第二王子と婚約関係にあったエミールに恋をした。だが、第二王子に対する想いと覚悟を知り、当時唯我独尊だった皇太子が求愛を諦めた相手なのだ。今でもとても大切に想っており、晴れ姿を見れば気持ちにも踏ん切りがつくからと、皇帝の代わりに出席を申し出たのだ。
だからこそデミオはシグヴァルトの虚しさを痛いほどにわかっていた。
シグヴァルトは簡単な祝いの言葉と共に国王と握手を交わし、少し離れて立つ王子とその妻の方へと向き直る。
どこかむっとした様子のリアナを見て、シグヴァルトは目を細めた。決して微笑んだわけではない、蔑むように見下したのだ。
「ディートリヒ殿下、祝いの席でこのようなことを申し上げるのは心苦しいのですが――殿下の横においでになるのはどなたですか?」
シグヴァルトは第二王子を真っ直ぐに見据えた。
「な……」
まさかこの場で歯に衣着せぬ指摘をされるとも思わずディートリヒは言葉を失い、予想外の展開に狼狽えていた。リアナとのやり取りで疲弊していた王子にとって、この迎賓式はなにも考えずただ笑みを貼りつけておけばいい唯一の休息時間になるはずだったのだ。
「……こ、これは」
「これは?」
鋭い眼差しで射抜かれ、目を泳がせる。皇太子を納得させられるような言い訳を必死にかき集めているようだった。
「て、帝国の皇太子とはいえ、無礼にもほどがあるぞ!」
「無礼? それは心外です。招待状に記されていたのはダイヤモンド公爵のご子息のお名前でしたので、殿下が違う方と結婚されるとは露とも思わず」
横から口を挟んでくる国王を一睨してだまらせると、硬直したままの王子に視線を向けて説明を促す。すると、慌てた様子で王子が一歩前へ進み出た。
「エミール・ダイヤモンドとは婚約を解消し、彼女リアナ・トパーズと婚約を致しました。ですから問題はなく……」
「本当に問題がないとお思いか?」
「内情をお話しする必要はありません。エミールとは婚約を取りやめ、その後リアナと婚約をした。それ以外に説明することなどありはしません。それにこれは第二王子である私の結婚式であり、彼とは関係のないものです」
「ディートリヒ殿下。なにか勘違いをされておいでだ。貴殿が誰と婚約し直したか、などという話はしていない。参列者は貴殿とエミール殿の結婚を祝いにきている。しかし蓋を開けてみれば顔も知らない女性が相手だ。貴国は招待状に虚偽を記し、我々参列者を騙すおつもりだったと?」
「だ、騙すなど滅相もない!」
「事実、私の目の前にいる花嫁は彼ではない。これをどう弁明なさるのか。貴国の信頼に繋がるものだ、心して答えられよ」
シグヴァルトの追及に王子は押し黙った。
強行を決定したのは国王であり、なぜかと問われるのを避けるためにこうして変更を申告せずにいたのだ。そして、妃が変わったなど誰も気にしない、気付いたとしても祝いの場で文句を言うものはいないと高をくくっていた。だが、それを問うてきたのが最悪なことに帝国の皇太子だったのだ。
謁見室の入り口に並んでいた他の国賓たちも、話を聞く権利があると衛兵たちを押しのけて、デミオが立つ位置まで野次馬のように入ってきていた。
ディートリヒに視線が集まり、皆が息を呑んで彼の言葉を待つ。張り詰めた空気が王子を追いつめるかのように感じられる時間。それがしばらく続いたあとのことだった。
「私を襲ったのよ!」
重い空気を裂くような甲高い声が室内に響いたのだ。
その声は発言を禁止されていたリアナのものだった。皆の注目が王子から隣に立つ彼女に移ったのは言うまでもない。それは発言したことに対してではなく、驚愕に値する内容だったからだ。
「リアナ、君は黙っていろという指示だっただろう」
「だって本当のことでしょ! どうしてはっきり言わないのよ!」
襲う、という言葉がどの意味を示しているのか不明だったが、第二王子に一途だったエミールが彼女を襲うとは到底思えない。それ以前にどう転んでも人を傷つけるとは考えられなかった。
「ディートリヒ殿下。エミール殿が彼女を襲ったというのは本当のことか?」
なにやら揉めている様子だったが、シグヴァルトは歯牙にもかけず王子に問うた。
「兵士くずれを使って襲わせたのです。彼女の成績に嫉妬し、起こした行動だと聞いております」
「嫉妬? 彼が?」
「はい。リアナは類稀なる魔力適性の持ち主で、戦闘技術も高く評価されていました。国王が見守る試合でエミールは彼女に敗れ、それから嫌がらせなどをするように。そして、暴行事件にまで発展したのです。本当に、なにを考えているのか……」
ディートリヒの吐き捨てるような言い草に、シグヴァルトの眉がピクリと動く。
「……その時すでに婚約の解消をしていたのか?」
「い、いえ、その時はまだ」
「ならば貴殿が傍にいたのにもかかわらず、その事件を起こしたということか」
「はい、その通りです。彼の行動は度が過ぎるものでした。ですから婚約破棄をしたまで」
すべては王子の婚約者という立場を忘れてことに及んだエミールの咎。そうディートリヒが主張すると、シグヴァルトは口を噤んだ。
皇太子の怒気が徐々に治まっていくのを感じとり、王子だけではなく国王や王妃も胸を撫で下ろしていた。帝国が認めれば他国も口を出さないはずだと。
だが、皇太子が押し黙ったのは納得したからではなかった。
「殿下は罪を償われたのか」
「……どうしてです。私はなにも」
「まるで他人事のように話されるのだな。婚約者は将来共に責任を背負って生きていく伴侶だ。聞いていれば、貴殿がエミールに寄り添った気配はなく放置していたように見受けられる。まさかとは思うが、その試合に敗北したエミールを貴殿は蔑ろにしたのか」
「そ、それは……」
「そんなの決まってるじゃない。強い方が婚約者に向いてるんだから、相手にされないのは当然でしょ! さっきからしつこいのよ、あんた!」
「リアナ! 立場を弁えろ!」
「な、なによ、ディート! 酷いわ! いつも素直なのが一番だって言ってくれるじゃない! エミールはなにを考えてるかわからないからって!」
「リアナ‼ 口を閉じろ!」
新婚夫婦のやり取りは公の場で交わされるようなものではなく、皆が閉口した。
国王は顔を真っ赤にして、この場を立ち去りたい、そんな雰囲気を醸し出している。この場で他国の皇太子に好き勝手発言させている時点ですでに胆の小ささを晒してしまっているのだが、三人のおかげで存在を忘れられており、その醜態を認識している者は少なかった。
その中でただ一人、シグヴァルトだけは声高らかに笑った。
「シグヴァルト殿下、なにが可笑しいのですか!」
「あぁ、これは失礼。戦闘能力に長けたものが婚約者にふさわしい? 妃に戦闘をさせ、貴殿が戦いの行く末を後ろで見守っていると想像するとつい笑いが止まらず」
皇太子はクククと肩を揺らす。
「……それは私を侮辱していると取れますが」
「そうお怒りにならないでいただきたい。ただ、そのような安直な結果で婚約者を挿げ替えるとは驚きで」
「なっ」
「そして、その女性が、エミールが嫉妬するにも値しない存在だと気付けて良かった」
「先ほどから口が過ぎるのではないですか!」
「では聞くが、なぜエミールが戦闘が不得手だと知りながらそのような争いに参加させた? 貴殿は知っていたはずだ、エミールの能力が戦闘向きのものでないことを」
シグヴァルトは言いようもない悔しさに駆られていた。
リアナが戦闘特化の属性を持っていることは、シグヴァルトの目にも見えていた。反してエミールの属性は後方支援を得意とするもの。二人が戦えば、リアナが勝利すると簡単に予想がつく。この国の者も当然わかっていたことだろう。
『強い方が婚約者に相応しい』
そのような噂がある中行われた試合。立場上逃げることも許されず出場しなければならなかったエミールはなにを思ったのか。
シグヴァルトは奥歯を噛み砕かんほどに怒りを煮え滾らせていた。
「どうしてエミールをぞんざいに扱った。エミールを婚約者から引きずり下ろしたかったのか。その女と結婚するために」
「違う! そ、それよりも、なぜエミールの力のことを貴方が知っている! 貴方こそエミールと関係があったのでは――」
「私は『見える目』を持っている。いらぬ誤解をしないでいただきたい」
お前とは違うとでもいうようにシグヴァルトが唸ると、ディートリヒは押し黙った。
「稀有な能力を持つエミールが、婚約者という立場を奪われるなどあり得ない話だと貴殿もわかっているはずだ」
「……それは……」
「ではどうして事件を起こしたのか。他に嫉妬するようなことといえば、殿下とトパーズ嬢との仲以外に考えられない。婚約者であるエミールを蔑ろにして、彼女と誤解されるようなことをしたとか?」
「私が不貞を働いたとおっしゃりたいのですか!」
「そうではないと?」
「そんなことはありえない! 私はエミールのことを――」
「大切にしていた? エミールに対し誰もが誤解しない態度を取っていたのか? ではなぜ彼がトパーズ嬢に嫉妬し、暴行事件を起こしたなどという話が生まれる? エミールはなにに嫉妬していたとお思いか」
「わ、私は……」
頭を抱えこんでしまったディートリヒをリアナが「こんなやつの話無視すればいいじゃない」と励ましているが、今の状況を全く理解していないと自ら公言しているようなものだった。
「あの人はもう掴まって牢屋に入ってるのよ! 証言だってあるんだから!」
「証言?」
「命令されて仕方なくやった、って。確かルーイが言ってたわ」
「自白は?」
「じはく? ディート、じはくってどういうこと?」
リアナが王子の体を揺らすと、王子は項垂れたまま頭を振った。
エミールがもしその力を持たなかったとしたら、リアナに嫉妬し、この状態になり得たかもしれない。だが実際、エミールは特異な能力を持ち、その能力がある限り婚約者の座を追われることはない。エミールもその自覚を持っていた。自分の力がどれほどの影響を及ぼすかを知っていたからだ。
その力が明かされれば、どの国も喉から手が出るほど欲しい力なのだ。だからこそ能力は秘匿され、王家が囲いこむ形で第二王子の婚約者にした。そして、エミールはそこにあるものが愛や恋などではなく、王家を支えるという大きな意味があることを幼い頃から心得ていた。嫉妬でその使命を忘れるなど考えられないことなのだ。
すべて、それを知らない者たちが、エミールを陥れるためにしたことだとすぐに察しがついた。王子も冷静になってみて初めてそのことに気付いたのだろう。
「動機を持たないエミールを自白もなしに牢に入れたのか。貴殿のために生きてきた婚約者を」
恋は盲目。だが、今まで尽くしてきた者を邪険に扱うなどもってのほか。信じていた婚約者に裏切られたことが、どれだけエミールに深い傷を与えたか。
「国王陛下。アレキサンドライト帝国シグヴァルト・べリオス・アレキサンドライトは、エミール・ダイヤモンドに結婚を申しこむと共に、牢獄からの解放を要求する」
王子は伏せていた顔を上げ、強い意志を持った皇太子の顔を茫然と見上げた。
この求婚をエミールが断ることはできない。人一人渡せば帝国の皇子の怒りが鎮められるのだから、国王にとっても渡りに船。
それにエミールが冤罪だったということになれば、犯人捜しが始まるため、国内にいられる方が厄介なことになる。ダイヤモンド派からの追及から逃れ、顔を立てるにはもってこいの願い出。何事もなかったことにして帝国に押しつけてしまうのが一番いい。
国王はそのような短絡的な考えから即座に答えを出した。
「構わん! おい、衛兵、殿下を案内して差し上げろ」
「では、後ほど正式にエミールに対し婚約書状を送らせていただく。また、ただいまをもってエミール・ダイヤモンドの身柄はアレキサンドライト帝国に帰属するものとする。決して対応をお間違えなきよう」
シグヴァルトのよく通るテノールが謁見室に響き、閉廷を告げた。
だめだ、とディートリヒの口が動くが、そのか細く震えた声は誰にも届くことはなかった。
シグヴァルトの糾弾と求婚で王子の面目は丸つぶれとなってしまったが、披露宴は予定通り現在進行形で催されている。そんな中、シグヴァルトとデミオは案内役の兵士に連れられ、エミールが投獄されているという騎士団の別館に馬を走らせていた。
自国であれば勝手気ままに移動できるのだが、知らない土地ということもあり色々と制約が付き纏う。その上基本的に、牢獄には魔術による外部からの介入を防ぐために魔導障壁が張られており、流石のシグヴァルトもその中に飛びこむことは不可能だった。
それに先ほど公開裁判のようなことをやってのけたとはいえ、他国の規律を積極的に破りたいわけではない。力を持っているからこそ安易に振り回してはならないという戒めが、帝国が帝国たるための教え。今回はそれだけ特別なことだったのだ。
だからといって平常心でいられるかというのは別の話。今すぐにでもエミールの傍に飛んでいきたいのにと、シグヴァルトの顔には苛立ちが滲んでいた。
「国王も一枚噛んでるな」
「どういうことですか?」
「王子とあの男爵の娘の結婚が実現したのは、国王が首を縦に振ったからだ。国内の力関係が変わったか、エミールを切り捨てていいと判断できるほど、王家にとって良い話があったのか……」
「良い話ですか、なんでしょうね。私には皆目見当つきませんが」
「こちらには関係ないこと……と言いたいが、少し気になる。親父に報告し後日調査に回す」
「ええ。その方がよさそうですね。でもまあ、そのおかげでエミール様を国にお連れすることができるのですから良かったじゃないですか。――あ、ちょっと殿下、口元が緩みすぎているんじゃないですか?」
その指摘にシグヴァルトは慌てて口元を手で覆った。だがすぐにそれがからかいだと知る。デミオのニヤニヤとした締まりのない笑みのせいだ。
「おい、デミオ」
「いいじゃないですか。謁見室で沢山汗をかかされたお返しですよ」
シグヴァルトはギロリと切れ長の目で睨みつけるが、彼を赤子の頃から世話してきたデミオがそんなもので怖気付くことはない。
「帰ったら覚えとけよ」
「物騒なことをおっしゃいますね、殿下。その際はエミール様に泣きつくことに致します。それにしてもまさか求婚までやってのけられるとは」
「……帝国の威を借りるようなことはしたくなかったが、エミールの身の安全のためだ。借りれるものはなんでも借りるさ」
「どういうことですか?」
「婚約者の座から引きずり降ろされたとしても使いようはある。王家が陰ながら飼うか、傀儡にするか。だがまだ手は加えられてない。流石の陛下もそんな状態で国外には出さないからな」
「その通りですね。あぁ……無事でおられることを願います」
「だからこうして急いでいるんだ。ただ、エミールになにかあれば、親父が黙ってないだろうしな」
「…………それ洒落になりませんからね?」
寡黙で知られる皇帝の親バカっぷりは側近のみぞ知る裏の素顔で、身内の前では子供たちに無理矢理パパ呼びさせようとする変態でもある。だが、帝国という大国を束ねる皇帝には違いなく、皇太子の妃となろうとする者が他国の手によって命を落とすようなことがあれば、火の雨が降り注ぐことになる。そう考えてデミオはぶるりと体を震わせた。
一行は王都の端、城壁に併設された騎士団の別館へやってきていた。建物の前で案内役の兵士が手綱を引いて馬を止めると、皆それに倣う。
「少々お待ちください」
案内人が門兵に書状を渡し、その門兵が建物の中に姿を消す。しばらくして出てきたものの、なにやら揉めはじめた。成り行きを見守っていたシグヴァルトも痺れを切らし、護衛に手綱を渡すと門に近づいた。
「なにがあった」
「で、殿下……そ、それが」
凄みの利いた低音に案内役の兵士が怯えつつ振り返った。自分の首が飛ぶかもしれない事態なのだから当然のことだ。
「我々はエミール・ダイヤモンドの身柄を預かりにきただけだ。陛下からの書状もある」
「そのような者はここにはおりません。どうぞお引き取りください」
門兵は何事もなかったかのようにシグヴァルトから視線を外し、待機姿勢を取る。
「…………」
シグヴァルトは顔を顰めると無言のまま門兵の横を通りすぎた。その際、するりと門兵の腕に触れる。
「おい待て――なっ……」
追いかけようとした門兵は自分の体が動かないことに気付き驚愕の声を上げる。しかし、どうにもならない。まるで全身が凍ってしまったかのように固まっている門兵を見て、案内役の兵たちは顔を青くして言葉を失くしていた。
「お邪魔しますね。許可はありますし不法侵入には当たりませんので。あ、それと彼、しばらくはそのままなので、安全なところに運んで差し上げてくださいね」
これ以上彼らを怖がらせないよう、デミオは明るく言い残してシグヴァルトを追った。
魔力の流れを止めて一時的に無力化する反魔術の一種であり、他国内ではなるべく穏便にという規律をぎりぎりのところで守るものだった。あまり追い詰めすぎて下手に抵抗などされようものなら、なにが起きてもおかしくない。それほどに皇太子の背中は焦燥感に満ち、すべてを威圧するような魔力が溢れはじめていた。今にも建物ごと吹き飛ばしてしまいそうな様子に、これ以上悪いことが起きませんようにとデミオは心の中で祈っていた。
シグヴァルトは追いついてきたデミオと共に地下への階段を駆け下りる。騎士団員たちの視線はすべて二人に注がれているが、誰も声をかける者はいない。一言でも声を発しようものならどうなるか。その未来の映像が彼らの脳裏にまるで走馬灯のように流れていたからだ。そうさせたのはシグヴァルトの殺気だった。
エミールがこの建物の中にいることはもちろんシグヴァルトには見えていた。しかし近づけば近づくほど読み取れる情報は多くなり、エミールがどのような状態に陥っているかを否が応でも思い知らされていたのだ。もし今手を出されようものなら、他国の者を死に至らしめることになる。殺気を垂れ流すことで、それを未然に防いでいるのだから、これは彼の慈悲ともいえた。
牢獄の入り口は脱獄防止のため厳重に鉄格子が張り巡らされている。入るには鍵が必要かに見えたが、シグヴァルトは規則的に並ぶ鉄の棒におもむろに手をかけた。反魔性のない鉄格子は彼には紙でできた筒と同じようなもので、広げるように押しのければひしゃげて道を開く。
最下部の通路に一歩踏み入れると、地上とは違い背筋がヒヤリとするほどの冷たい空気が足元に絡まってくる。そして歩くたびに淀んだ空気が巻き上がり、シグヴァルトは眉を寄せた。換気が行き届かず、かび臭い空間。暑い季節よりはまだ救いがあるとはいえ、こんなところに、と愕然とする思いだった。
暴行事件の首謀者として投獄されたとしても、エミールは仮にも公爵令息であり王子の元婚約者だった者だ。ここまで酷い扱いを受けていたとは流石に予想していなかった。
エミールの身を案じ、薄暗い空間の向こうに意識を凝らす。うわごとのようにエミールの名を零した。そして大股でその暗く狭い通路を進み、迷うことなく石扉の一つに手をかけた。扉を開けることに躊躇する時間などなかった。
扉の向こうにあったのはほんの小さな空間。そして、ごつごつとした石張りの床に敷かれた申し訳程度の板と布があり、エミールはそこに力なく横たわっていた。
うっすらと開いた瞼の隙間から見える金色の瞳は濁り、ただ朦朧と天井を見上げている。
「エミール……」
この狭い空間だというのに、人が入ってきたことすら気付けないでいるエミール。シグヴァルトは静かに傍に寄り、横にしゃがみこんだ。捕縛されてから弁明することも許されず、制服のまま直接この独房に放りこまれたのだと即座に悟る。
衰弱しきった姿を見て怒りに我を忘れそうになりながらもぐっと堪えた。今はエミールを最優先しなければならない。怒りに任せて扱ってしまえば脆く崩れてしまいそうな体をそっと抱き起こした。
「エミール、迎えにきた」
浅い呼吸を繰り返しながら、金色の瞳がゆるゆると動いてシグヴァルトを映す。その瞳がじわりと潤いを増したことを見逃さなかった。
「俺がわかるか?」
驚かさないように優しく語りかける。痩せ細った手首に嵌められた枷を粉々に破壊し、寒さに凍える手を大きな手で包みこんだ。
「……いけませ……お召しものが、汚れ……」
こんな時になにを言っている。
そう言いたかったが、「いい」とシグヴァルトは短く返すだけに留めた。それ以上の言葉を発すれば、怒号を上げてしまいそうだったからだ。
そのままエミールを抱き上げようとして、デミオが横からそれを止める。
「殿下、エミール様は気にされているのですよ。早く浄化して差し上げないと」
皇太子を支え補うのが従者というもの。狼狽しているシグヴァルトの代わりに、デミオが汚れた制服に触れる。エミールの体は淡い光に包まれ、身に付けていたものは清潔に白く浄化されていく。
「エミール様、もう大丈夫ですからね」
デミオが子供に語りかけるように言うと、シグヴァルトは横で「わるい」と小さく謝罪を零した。エミールは公爵令息として、王子の婚約者として、人一倍体裁に厳しかった。このような姿を見られること自体不本意なのだ。それを思い出して唇を噛む。
途切れ途切れの掠れた声で礼を言ったエミールはもう意識を保っているのも辛いようで、その体からは徐々に力が抜けていった。
「もう心配いらない。今は眠れ」
必死に起きていようとするエミールの瞼を、シグヴァルトが眠りを促すようにそっと撫でた。弱い魔術を施すと、シグヴァルトの腕にすとんとエミールの体重が伸しかかった。しかしその重さすら軽い。制服の上からでも、触ると骨が浮き出ているのがわかる。
腕の中にしっかりと抱きしめ、シグヴァルトは無言のままに立ち上がった。デミオはその傍に控えた。
「デミオ、俺はこのまま部屋に戻る。お前はこれまでのことを速やかに皇帝へ報告しろ」
「御意に」
その場の処理をデミオに任せると、シグヴァルトは迎賓館に用意されたもっとも格式の高い部屋に転移し、すぐにエミールを寝台に横たえた。制服の上着を脱がせ、シャツを寛げる。そしてブランケットを肩までかけてから、その傍らに腰掛けた。
一仕事終えた安堵もあり、ゆっくりと息を吐く。襟元を緩める間もずっとターコイズの瞳にエミールを映していた。
深く休ませるため、眠りの魔術をかけており当分目覚めることはない。施したのは自分だというのに、早く美しい金色の瞳を見たいと、早く言葉を交わしたいと願ってしまう。
「こんなやり方でお前を手に入れるなんて、俺は望んでいなかった」
記憶にある絹糸のようなものとはほど遠くなってしまった髪。その瑞々しさの感じられない毛先に指を絡ませた。
「だが、手に入ったからには離しはしない」
いつもの凛とした雰囲気とは違った幼い寝顔。眺めていると苦い記憶が蘇ってきて、自然とシグヴァルトの口元が緩んだ。
出逢った瞬間恋に落ち、求婚したが即座に断られた十年前の出来事だ。
帝国の皇太子であったとしても手に入らないものがあると身を以て気付かせ、独裁者気取りだったシグヴァルトの鼻をへし折ったのは誰でもないエミールだった。
彼に恥じぬように生きてきたからこそ今のシグヴァルトがいる。
人のものになるはずだったその愛しい人を腕の中に囲いこむことができるのだから、嬉しくないはずがない。
エミールに対する処遇は当然許されるものではない。だが、今は怒りよりも喜びの方が大きく、国に連れ帰ったあとどうやって甘やかしてやろうか、と計画を立てることにシグヴァルトの頭の中は忙しかった。
『おい、お前、俺の婚約者にしてやる』
久しぶりに訪れた遊び場で精霊たちとお喋りを楽しんでいると、突然現れた黒髪の少年がそう言い放った。
唐突なことでエミールは驚き、すぐさま断ったのだが、色々と話すうちに彼が不思議な目を持っていることを知った。精霊の姿を見ることはできないが、魔力を形として捉えることができるというもので、エミールの周りを飛び回る精霊の存在を認識しているのだという。
『本当に精霊っているんだな』
その少年は言った。
エミールは生まれてきてからその時まで、自分の他に精霊使いがいると聞いたことがなかった。
正確にはその少年は精霊使いではなかったのだが、それでも家族以外で初めて精霊が見えるという力を真正面から受け止めてくれた人物だったのだ。
『目はいいんだ』
と少年は自慢げに語る。そして、エミールが人前で精霊と話すことを禁じられていると打ち明けると、『俺の前では話していい』とぶっきらぼうに許可を出した。その一言にエミールは彼の優しさを感じていた。
出逢った瞬間に、『婚約者にしてやる』と詰め寄られ、横柄な態度を取られたというのにどこか憎めない少年。もっと話したい。もっとこの子たちのことを知ってほしいと、あれほどに胸を高鳴らせたことはなかった。
そんな彼に、自分よりひ弱そうな人とは結婚したくありません、と言ってしまったことを思い出し、流石に酷いことをしたなとエミールは夢うつつに思う。そして、もう彼に会えないということをなんとなく感じ取っていた。
彼といる時は幼い時に戻ったかのように精霊たちとお喋りができた。通訳をしなければ彼は精霊と話ができないため少しもどかしさもあったが、精霊を認めてくれていることがなによりも嬉しかった。そして、王都に来てからロルとテル以外の精霊と関係を断っていたエミールにとって、その時間はとても恋しいものだった。
「……また、お会いしたかった……」
エミールの小さな呟きは誰の耳にも入ることなく、大気に溶けていった。
二 帝国の皇太子
賓客たちにウェルカムドリンクが振る舞われる控室。
ワイングラス片手にソファを陣取り、持て余すほどに長い足を組みなおしたのはアレキサンドライト帝国の皇太子、シグヴァルトだった。
黒髪をオールバックに撫でつけ、彫りの深い端整な顔を余すことなく見せつけている。赤い紐で結われた伸びた襟足も、ただただ彼の色気を引き立たせるもので、その空間にいる年頃の未婚者たちは、その褐色の肌と鮮やかなターコイズの双眸に釘付けだった。成人したばかりで、婚約者選びの最中だというから熱い視線が集まるのも頷ける。
ただ、そんな眼差しを向けられながらも、本人は不機嫌そうに眉を寄せて五杯目のワインをグイっと呷った。
「どういうことだ。エミールの結婚式だから来たってのに」
「殿下、お声が大きいですよ!」
すぐさま従者のデミオ・スタークが「しぃぃ」と口に人差し指を当て、キョロキョロと周りを見渡した。
皇太子には劣るが彼もそこらにはいない美丈夫で、空色の髪と瞳は鮮やかでよく目を引く。線が細くどことなく軟弱な印象があるものの、皇子の従者を任されるだけあって国内有数の魔術師でもあった。
そんな従者に皇太子は冷めた目を向ける。
「……お前の方がうるさいだろ」
「ご自分の発言にどれだけ影響力があるか、ご存知でいらっしゃいますか⁉」
「わかってる。わかってるから言ってるんだ。どう考えてもおかしいだろ、なんだあの女」
久しぶりに顔を見られると思ったのに、と肘置きを指でトントンと叩きだす皇太子に、デミオはどうしたものかと頭を悩ませた。
楽しみにしていたと知っているため強くは言えない。その上、疑問に思っている者がシグヴァルトだけでないことも周りの様子から伝わってきていた。
大神殿の礼拝堂。花びらが舞う中、赤い絨毯の上を歩いていた新郎新婦。
その段階で、タンザナイトの内情など知らない招待客も第二王子の隣に並ぶ人物が見知った顔でないことに気付いていた。流石に祝いの席でそのことを口に出す者はいなかったが、去り際に礼拝堂を見渡し、どこかに姿がないものかと視線を彷徨わせる者があとを絶たなかった。
エミール・ダイヤモンドは一介の貴族に過ぎない。だが、ディートリヒの婚約者として幼い頃から式典などに顔を出していたため他国の王子や王女との交流があった。エミールは彼らの中でも声望が高く、一目置かれる存在で、評判はその親に当たる国王と王妃にも届いていた。だからこそ多くの参列者たちは「なぜ?」と首を傾げたのだ。
「まあ、そうなりますよね。妃殿下になられたらおいそれと話しかけられなくなりますし。私もお会いしたかった……最後にお顔を拝見したのは二年前ですから」
「ああ。この二年でますます美人になったって噂だ。晴れ姿が見られないなんて詐欺だろ」
「詐欺って……言葉が悪いですよ、殿下。確かに招待状にはエミール様のお名前がありますし、そう言えなくもないですが」
「招待状……そうか。でかしたぞ、デミオ」
面白いことを思いついた、とシグヴァルトは顎に手を当てて口端を歪めた。その悪い顔を見て、デミオは余計なことを言ってしまったと内心後悔しつつ、滝のような汗を流した。
「シグヴァルト殿下、どうぞこちらへ」
案内役に声を掛けられ、シグヴァルトは意気揚々と立ち上がった。
謁見室へ一番に通されたのはシグヴァルトで、皇太子とはいえ他国の王より格上扱いだ。
デミオは入ってすぐ扉の横で待機し、国王と王妃、そして新郎新婦が立つ場所まで颯爽と歩いていく皇太子の背中を見守った。
これから起こることにデミオの背中は汗だくだ。しかし、これも仕方ないと腹をくくる。
十年前シグヴァルトは、すでに第二王子と婚約関係にあったエミールに恋をした。だが、第二王子に対する想いと覚悟を知り、当時唯我独尊だった皇太子が求愛を諦めた相手なのだ。今でもとても大切に想っており、晴れ姿を見れば気持ちにも踏ん切りがつくからと、皇帝の代わりに出席を申し出たのだ。
だからこそデミオはシグヴァルトの虚しさを痛いほどにわかっていた。
シグヴァルトは簡単な祝いの言葉と共に国王と握手を交わし、少し離れて立つ王子とその妻の方へと向き直る。
どこかむっとした様子のリアナを見て、シグヴァルトは目を細めた。決して微笑んだわけではない、蔑むように見下したのだ。
「ディートリヒ殿下、祝いの席でこのようなことを申し上げるのは心苦しいのですが――殿下の横においでになるのはどなたですか?」
シグヴァルトは第二王子を真っ直ぐに見据えた。
「な……」
まさかこの場で歯に衣着せぬ指摘をされるとも思わずディートリヒは言葉を失い、予想外の展開に狼狽えていた。リアナとのやり取りで疲弊していた王子にとって、この迎賓式はなにも考えずただ笑みを貼りつけておけばいい唯一の休息時間になるはずだったのだ。
「……こ、これは」
「これは?」
鋭い眼差しで射抜かれ、目を泳がせる。皇太子を納得させられるような言い訳を必死にかき集めているようだった。
「て、帝国の皇太子とはいえ、無礼にもほどがあるぞ!」
「無礼? それは心外です。招待状に記されていたのはダイヤモンド公爵のご子息のお名前でしたので、殿下が違う方と結婚されるとは露とも思わず」
横から口を挟んでくる国王を一睨してだまらせると、硬直したままの王子に視線を向けて説明を促す。すると、慌てた様子で王子が一歩前へ進み出た。
「エミール・ダイヤモンドとは婚約を解消し、彼女リアナ・トパーズと婚約を致しました。ですから問題はなく……」
「本当に問題がないとお思いか?」
「内情をお話しする必要はありません。エミールとは婚約を取りやめ、その後リアナと婚約をした。それ以外に説明することなどありはしません。それにこれは第二王子である私の結婚式であり、彼とは関係のないものです」
「ディートリヒ殿下。なにか勘違いをされておいでだ。貴殿が誰と婚約し直したか、などという話はしていない。参列者は貴殿とエミール殿の結婚を祝いにきている。しかし蓋を開けてみれば顔も知らない女性が相手だ。貴国は招待状に虚偽を記し、我々参列者を騙すおつもりだったと?」
「だ、騙すなど滅相もない!」
「事実、私の目の前にいる花嫁は彼ではない。これをどう弁明なさるのか。貴国の信頼に繋がるものだ、心して答えられよ」
シグヴァルトの追及に王子は押し黙った。
強行を決定したのは国王であり、なぜかと問われるのを避けるためにこうして変更を申告せずにいたのだ。そして、妃が変わったなど誰も気にしない、気付いたとしても祝いの場で文句を言うものはいないと高をくくっていた。だが、それを問うてきたのが最悪なことに帝国の皇太子だったのだ。
謁見室の入り口に並んでいた他の国賓たちも、話を聞く権利があると衛兵たちを押しのけて、デミオが立つ位置まで野次馬のように入ってきていた。
ディートリヒに視線が集まり、皆が息を呑んで彼の言葉を待つ。張り詰めた空気が王子を追いつめるかのように感じられる時間。それがしばらく続いたあとのことだった。
「私を襲ったのよ!」
重い空気を裂くような甲高い声が室内に響いたのだ。
その声は発言を禁止されていたリアナのものだった。皆の注目が王子から隣に立つ彼女に移ったのは言うまでもない。それは発言したことに対してではなく、驚愕に値する内容だったからだ。
「リアナ、君は黙っていろという指示だっただろう」
「だって本当のことでしょ! どうしてはっきり言わないのよ!」
襲う、という言葉がどの意味を示しているのか不明だったが、第二王子に一途だったエミールが彼女を襲うとは到底思えない。それ以前にどう転んでも人を傷つけるとは考えられなかった。
「ディートリヒ殿下。エミール殿が彼女を襲ったというのは本当のことか?」
なにやら揉めている様子だったが、シグヴァルトは歯牙にもかけず王子に問うた。
「兵士くずれを使って襲わせたのです。彼女の成績に嫉妬し、起こした行動だと聞いております」
「嫉妬? 彼が?」
「はい。リアナは類稀なる魔力適性の持ち主で、戦闘技術も高く評価されていました。国王が見守る試合でエミールは彼女に敗れ、それから嫌がらせなどをするように。そして、暴行事件にまで発展したのです。本当に、なにを考えているのか……」
ディートリヒの吐き捨てるような言い草に、シグヴァルトの眉がピクリと動く。
「……その時すでに婚約の解消をしていたのか?」
「い、いえ、その時はまだ」
「ならば貴殿が傍にいたのにもかかわらず、その事件を起こしたということか」
「はい、その通りです。彼の行動は度が過ぎるものでした。ですから婚約破棄をしたまで」
すべては王子の婚約者という立場を忘れてことに及んだエミールの咎。そうディートリヒが主張すると、シグヴァルトは口を噤んだ。
皇太子の怒気が徐々に治まっていくのを感じとり、王子だけではなく国王や王妃も胸を撫で下ろしていた。帝国が認めれば他国も口を出さないはずだと。
だが、皇太子が押し黙ったのは納得したからではなかった。
「殿下は罪を償われたのか」
「……どうしてです。私はなにも」
「まるで他人事のように話されるのだな。婚約者は将来共に責任を背負って生きていく伴侶だ。聞いていれば、貴殿がエミールに寄り添った気配はなく放置していたように見受けられる。まさかとは思うが、その試合に敗北したエミールを貴殿は蔑ろにしたのか」
「そ、それは……」
「そんなの決まってるじゃない。強い方が婚約者に向いてるんだから、相手にされないのは当然でしょ! さっきからしつこいのよ、あんた!」
「リアナ! 立場を弁えろ!」
「な、なによ、ディート! 酷いわ! いつも素直なのが一番だって言ってくれるじゃない! エミールはなにを考えてるかわからないからって!」
「リアナ‼ 口を閉じろ!」
新婚夫婦のやり取りは公の場で交わされるようなものではなく、皆が閉口した。
国王は顔を真っ赤にして、この場を立ち去りたい、そんな雰囲気を醸し出している。この場で他国の皇太子に好き勝手発言させている時点ですでに胆の小ささを晒してしまっているのだが、三人のおかげで存在を忘れられており、その醜態を認識している者は少なかった。
その中でただ一人、シグヴァルトだけは声高らかに笑った。
「シグヴァルト殿下、なにが可笑しいのですか!」
「あぁ、これは失礼。戦闘能力に長けたものが婚約者にふさわしい? 妃に戦闘をさせ、貴殿が戦いの行く末を後ろで見守っていると想像するとつい笑いが止まらず」
皇太子はクククと肩を揺らす。
「……それは私を侮辱していると取れますが」
「そうお怒りにならないでいただきたい。ただ、そのような安直な結果で婚約者を挿げ替えるとは驚きで」
「なっ」
「そして、その女性が、エミールが嫉妬するにも値しない存在だと気付けて良かった」
「先ほどから口が過ぎるのではないですか!」
「では聞くが、なぜエミールが戦闘が不得手だと知りながらそのような争いに参加させた? 貴殿は知っていたはずだ、エミールの能力が戦闘向きのものでないことを」
シグヴァルトは言いようもない悔しさに駆られていた。
リアナが戦闘特化の属性を持っていることは、シグヴァルトの目にも見えていた。反してエミールの属性は後方支援を得意とするもの。二人が戦えば、リアナが勝利すると簡単に予想がつく。この国の者も当然わかっていたことだろう。
『強い方が婚約者に相応しい』
そのような噂がある中行われた試合。立場上逃げることも許されず出場しなければならなかったエミールはなにを思ったのか。
シグヴァルトは奥歯を噛み砕かんほどに怒りを煮え滾らせていた。
「どうしてエミールをぞんざいに扱った。エミールを婚約者から引きずり下ろしたかったのか。その女と結婚するために」
「違う! そ、それよりも、なぜエミールの力のことを貴方が知っている! 貴方こそエミールと関係があったのでは――」
「私は『見える目』を持っている。いらぬ誤解をしないでいただきたい」
お前とは違うとでもいうようにシグヴァルトが唸ると、ディートリヒは押し黙った。
「稀有な能力を持つエミールが、婚約者という立場を奪われるなどあり得ない話だと貴殿もわかっているはずだ」
「……それは……」
「ではどうして事件を起こしたのか。他に嫉妬するようなことといえば、殿下とトパーズ嬢との仲以外に考えられない。婚約者であるエミールを蔑ろにして、彼女と誤解されるようなことをしたとか?」
「私が不貞を働いたとおっしゃりたいのですか!」
「そうではないと?」
「そんなことはありえない! 私はエミールのことを――」
「大切にしていた? エミールに対し誰もが誤解しない態度を取っていたのか? ではなぜ彼がトパーズ嬢に嫉妬し、暴行事件を起こしたなどという話が生まれる? エミールはなにに嫉妬していたとお思いか」
「わ、私は……」
頭を抱えこんでしまったディートリヒをリアナが「こんなやつの話無視すればいいじゃない」と励ましているが、今の状況を全く理解していないと自ら公言しているようなものだった。
「あの人はもう掴まって牢屋に入ってるのよ! 証言だってあるんだから!」
「証言?」
「命令されて仕方なくやった、って。確かルーイが言ってたわ」
「自白は?」
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リアナが王子の体を揺らすと、王子は項垂れたまま頭を振った。
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すべて、それを知らない者たちが、エミールを陥れるためにしたことだとすぐに察しがついた。王子も冷静になってみて初めてそのことに気付いたのだろう。
「動機を持たないエミールを自白もなしに牢に入れたのか。貴殿のために生きてきた婚約者を」
恋は盲目。だが、今まで尽くしてきた者を邪険に扱うなどもってのほか。信じていた婚約者に裏切られたことが、どれだけエミールに深い傷を与えたか。
「国王陛下。アレキサンドライト帝国シグヴァルト・べリオス・アレキサンドライトは、エミール・ダイヤモンドに結婚を申しこむと共に、牢獄からの解放を要求する」
王子は伏せていた顔を上げ、強い意志を持った皇太子の顔を茫然と見上げた。
この求婚をエミールが断ることはできない。人一人渡せば帝国の皇子の怒りが鎮められるのだから、国王にとっても渡りに船。
それにエミールが冤罪だったということになれば、犯人捜しが始まるため、国内にいられる方が厄介なことになる。ダイヤモンド派からの追及から逃れ、顔を立てるにはもってこいの願い出。何事もなかったことにして帝国に押しつけてしまうのが一番いい。
国王はそのような短絡的な考えから即座に答えを出した。
「構わん! おい、衛兵、殿下を案内して差し上げろ」
「では、後ほど正式にエミールに対し婚約書状を送らせていただく。また、ただいまをもってエミール・ダイヤモンドの身柄はアレキサンドライト帝国に帰属するものとする。決して対応をお間違えなきよう」
シグヴァルトのよく通るテノールが謁見室に響き、閉廷を告げた。
だめだ、とディートリヒの口が動くが、そのか細く震えた声は誰にも届くことはなかった。
シグヴァルトの糾弾と求婚で王子の面目は丸つぶれとなってしまったが、披露宴は予定通り現在進行形で催されている。そんな中、シグヴァルトとデミオは案内役の兵士に連れられ、エミールが投獄されているという騎士団の別館に馬を走らせていた。
自国であれば勝手気ままに移動できるのだが、知らない土地ということもあり色々と制約が付き纏う。その上基本的に、牢獄には魔術による外部からの介入を防ぐために魔導障壁が張られており、流石のシグヴァルトもその中に飛びこむことは不可能だった。
それに先ほど公開裁判のようなことをやってのけたとはいえ、他国の規律を積極的に破りたいわけではない。力を持っているからこそ安易に振り回してはならないという戒めが、帝国が帝国たるための教え。今回はそれだけ特別なことだったのだ。
だからといって平常心でいられるかというのは別の話。今すぐにでもエミールの傍に飛んでいきたいのにと、シグヴァルトの顔には苛立ちが滲んでいた。
「国王も一枚噛んでるな」
「どういうことですか?」
「王子とあの男爵の娘の結婚が実現したのは、国王が首を縦に振ったからだ。国内の力関係が変わったか、エミールを切り捨てていいと判断できるほど、王家にとって良い話があったのか……」
「良い話ですか、なんでしょうね。私には皆目見当つきませんが」
「こちらには関係ないこと……と言いたいが、少し気になる。親父に報告し後日調査に回す」
「ええ。その方がよさそうですね。でもまあ、そのおかげでエミール様を国にお連れすることができるのですから良かったじゃないですか。――あ、ちょっと殿下、口元が緩みすぎているんじゃないですか?」
その指摘にシグヴァルトは慌てて口元を手で覆った。だがすぐにそれがからかいだと知る。デミオのニヤニヤとした締まりのない笑みのせいだ。
「おい、デミオ」
「いいじゃないですか。謁見室で沢山汗をかかされたお返しですよ」
シグヴァルトはギロリと切れ長の目で睨みつけるが、彼を赤子の頃から世話してきたデミオがそんなもので怖気付くことはない。
「帰ったら覚えとけよ」
「物騒なことをおっしゃいますね、殿下。その際はエミール様に泣きつくことに致します。それにしてもまさか求婚までやってのけられるとは」
「……帝国の威を借りるようなことはしたくなかったが、エミールの身の安全のためだ。借りれるものはなんでも借りるさ」
「どういうことですか?」
「婚約者の座から引きずり降ろされたとしても使いようはある。王家が陰ながら飼うか、傀儡にするか。だがまだ手は加えられてない。流石の陛下もそんな状態で国外には出さないからな」
「その通りですね。あぁ……無事でおられることを願います」
「だからこうして急いでいるんだ。ただ、エミールになにかあれば、親父が黙ってないだろうしな」
「…………それ洒落になりませんからね?」
寡黙で知られる皇帝の親バカっぷりは側近のみぞ知る裏の素顔で、身内の前では子供たちに無理矢理パパ呼びさせようとする変態でもある。だが、帝国という大国を束ねる皇帝には違いなく、皇太子の妃となろうとする者が他国の手によって命を落とすようなことがあれば、火の雨が降り注ぐことになる。そう考えてデミオはぶるりと体を震わせた。
一行は王都の端、城壁に併設された騎士団の別館へやってきていた。建物の前で案内役の兵士が手綱を引いて馬を止めると、皆それに倣う。
「少々お待ちください」
案内人が門兵に書状を渡し、その門兵が建物の中に姿を消す。しばらくして出てきたものの、なにやら揉めはじめた。成り行きを見守っていたシグヴァルトも痺れを切らし、護衛に手綱を渡すと門に近づいた。
「なにがあった」
「で、殿下……そ、それが」
凄みの利いた低音に案内役の兵士が怯えつつ振り返った。自分の首が飛ぶかもしれない事態なのだから当然のことだ。
「我々はエミール・ダイヤモンドの身柄を預かりにきただけだ。陛下からの書状もある」
「そのような者はここにはおりません。どうぞお引き取りください」
門兵は何事もなかったかのようにシグヴァルトから視線を外し、待機姿勢を取る。
「…………」
シグヴァルトは顔を顰めると無言のまま門兵の横を通りすぎた。その際、するりと門兵の腕に触れる。
「おい待て――なっ……」
追いかけようとした門兵は自分の体が動かないことに気付き驚愕の声を上げる。しかし、どうにもならない。まるで全身が凍ってしまったかのように固まっている門兵を見て、案内役の兵たちは顔を青くして言葉を失くしていた。
「お邪魔しますね。許可はありますし不法侵入には当たりませんので。あ、それと彼、しばらくはそのままなので、安全なところに運んで差し上げてくださいね」
これ以上彼らを怖がらせないよう、デミオは明るく言い残してシグヴァルトを追った。
魔力の流れを止めて一時的に無力化する反魔術の一種であり、他国内ではなるべく穏便にという規律をぎりぎりのところで守るものだった。あまり追い詰めすぎて下手に抵抗などされようものなら、なにが起きてもおかしくない。それほどに皇太子の背中は焦燥感に満ち、すべてを威圧するような魔力が溢れはじめていた。今にも建物ごと吹き飛ばしてしまいそうな様子に、これ以上悪いことが起きませんようにとデミオは心の中で祈っていた。
シグヴァルトは追いついてきたデミオと共に地下への階段を駆け下りる。騎士団員たちの視線はすべて二人に注がれているが、誰も声をかける者はいない。一言でも声を発しようものならどうなるか。その未来の映像が彼らの脳裏にまるで走馬灯のように流れていたからだ。そうさせたのはシグヴァルトの殺気だった。
エミールがこの建物の中にいることはもちろんシグヴァルトには見えていた。しかし近づけば近づくほど読み取れる情報は多くなり、エミールがどのような状態に陥っているかを否が応でも思い知らされていたのだ。もし今手を出されようものなら、他国の者を死に至らしめることになる。殺気を垂れ流すことで、それを未然に防いでいるのだから、これは彼の慈悲ともいえた。
牢獄の入り口は脱獄防止のため厳重に鉄格子が張り巡らされている。入るには鍵が必要かに見えたが、シグヴァルトは規則的に並ぶ鉄の棒におもむろに手をかけた。反魔性のない鉄格子は彼には紙でできた筒と同じようなもので、広げるように押しのければひしゃげて道を開く。
最下部の通路に一歩踏み入れると、地上とは違い背筋がヒヤリとするほどの冷たい空気が足元に絡まってくる。そして歩くたびに淀んだ空気が巻き上がり、シグヴァルトは眉を寄せた。換気が行き届かず、かび臭い空間。暑い季節よりはまだ救いがあるとはいえ、こんなところに、と愕然とする思いだった。
暴行事件の首謀者として投獄されたとしても、エミールは仮にも公爵令息であり王子の元婚約者だった者だ。ここまで酷い扱いを受けていたとは流石に予想していなかった。
エミールの身を案じ、薄暗い空間の向こうに意識を凝らす。うわごとのようにエミールの名を零した。そして大股でその暗く狭い通路を進み、迷うことなく石扉の一つに手をかけた。扉を開けることに躊躇する時間などなかった。
扉の向こうにあったのはほんの小さな空間。そして、ごつごつとした石張りの床に敷かれた申し訳程度の板と布があり、エミールはそこに力なく横たわっていた。
うっすらと開いた瞼の隙間から見える金色の瞳は濁り、ただ朦朧と天井を見上げている。
「エミール……」
この狭い空間だというのに、人が入ってきたことすら気付けないでいるエミール。シグヴァルトは静かに傍に寄り、横にしゃがみこんだ。捕縛されてから弁明することも許されず、制服のまま直接この独房に放りこまれたのだと即座に悟る。
衰弱しきった姿を見て怒りに我を忘れそうになりながらもぐっと堪えた。今はエミールを最優先しなければならない。怒りに任せて扱ってしまえば脆く崩れてしまいそうな体をそっと抱き起こした。
「エミール、迎えにきた」
浅い呼吸を繰り返しながら、金色の瞳がゆるゆると動いてシグヴァルトを映す。その瞳がじわりと潤いを増したことを見逃さなかった。
「俺がわかるか?」
驚かさないように優しく語りかける。痩せ細った手首に嵌められた枷を粉々に破壊し、寒さに凍える手を大きな手で包みこんだ。
「……いけませ……お召しものが、汚れ……」
こんな時になにを言っている。
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そのままエミールを抱き上げようとして、デミオが横からそれを止める。
「殿下、エミール様は気にされているのですよ。早く浄化して差し上げないと」
皇太子を支え補うのが従者というもの。狼狽しているシグヴァルトの代わりに、デミオが汚れた制服に触れる。エミールの体は淡い光に包まれ、身に付けていたものは清潔に白く浄化されていく。
「エミール様、もう大丈夫ですからね」
デミオが子供に語りかけるように言うと、シグヴァルトは横で「わるい」と小さく謝罪を零した。エミールは公爵令息として、王子の婚約者として、人一倍体裁に厳しかった。このような姿を見られること自体不本意なのだ。それを思い出して唇を噛む。
途切れ途切れの掠れた声で礼を言ったエミールはもう意識を保っているのも辛いようで、その体からは徐々に力が抜けていった。
「もう心配いらない。今は眠れ」
必死に起きていようとするエミールの瞼を、シグヴァルトが眠りを促すようにそっと撫でた。弱い魔術を施すと、シグヴァルトの腕にすとんとエミールの体重が伸しかかった。しかしその重さすら軽い。制服の上からでも、触ると骨が浮き出ているのがわかる。
腕の中にしっかりと抱きしめ、シグヴァルトは無言のままに立ち上がった。デミオはその傍に控えた。
「デミオ、俺はこのまま部屋に戻る。お前はこれまでのことを速やかに皇帝へ報告しろ」
「御意に」
その場の処理をデミオに任せると、シグヴァルトは迎賓館に用意されたもっとも格式の高い部屋に転移し、すぐにエミールを寝台に横たえた。制服の上着を脱がせ、シャツを寛げる。そしてブランケットを肩までかけてから、その傍らに腰掛けた。
一仕事終えた安堵もあり、ゆっくりと息を吐く。襟元を緩める間もずっとターコイズの瞳にエミールを映していた。
深く休ませるため、眠りの魔術をかけており当分目覚めることはない。施したのは自分だというのに、早く美しい金色の瞳を見たいと、早く言葉を交わしたいと願ってしまう。
「こんなやり方でお前を手に入れるなんて、俺は望んでいなかった」
記憶にある絹糸のようなものとはほど遠くなってしまった髪。その瑞々しさの感じられない毛先に指を絡ませた。
「だが、手に入ったからには離しはしない」
いつもの凛とした雰囲気とは違った幼い寝顔。眺めていると苦い記憶が蘇ってきて、自然とシグヴァルトの口元が緩んだ。
出逢った瞬間恋に落ち、求婚したが即座に断られた十年前の出来事だ。
帝国の皇太子であったとしても手に入らないものがあると身を以て気付かせ、独裁者気取りだったシグヴァルトの鼻をへし折ったのは誰でもないエミールだった。
彼に恥じぬように生きてきたからこそ今のシグヴァルトがいる。
人のものになるはずだったその愛しい人を腕の中に囲いこむことができるのだから、嬉しくないはずがない。
エミールに対する処遇は当然許されるものではない。だが、今は怒りよりも喜びの方が大きく、国に連れ帰ったあとどうやって甘やかしてやろうか、と計画を立てることにシグヴァルトの頭の中は忙しかった。
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