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1巻
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上級貴族の男児が王家に嫁ぐことは政略結婚にはよく見られることで、エミールとディートリヒの婚約もその流れに則って交わされたものだった。すでに王太子には男児が二人生まれており後継者には困らない。エミールが男だとしても第二王子が子供を作る必要がないためなんら問題がないのだ。結局は名ばかりの夫婦になることを誰もが知っていた。
そうだとしても、これまで連れ添った婚約者の気持ちが離れていってしまうことに、多少の寂しさは感じていた。だがそんな状態でも、王子の婚約者としてふさわしい振る舞いをしなければならない。エミールはその気持ちを胸の内にしまい、遠くから二人を見守ることにしたのだった。
しかし、エミールの想いとは裏腹に、生徒たちは勝手にエミール対リアナという対立関係を作り上げ、騒ぎはじめた。リアナが平民ながらもエミールに匹敵、もしくはそれに勝る魔力適性を持っていたことも拍車をかけた。
教養に関してはエミールが圧倒的とはいえ、戦闘実技となるとリアナが王子に次いで各部間で二位を総なめ。平民出身なのに頑張っていると、一部の生徒たちはリアナを構うようになっていった。
比べてエミールは十位以内に入るのがやっと。
王子の婚約者だというのにその順位に甘んじているのは怠慢。体裁ばかりを気にしてなにを考えているのかわからないエミールと比べ、リアナは愛嬌があり、訓練にも真摯に向き合う努力家。ディートリヒが一番にかわいがるのも頷ける、とリアナのことを認めはじめたのだ。
だが、エミールは変わらなかった。堅実に自分ができることをなす。ただそれだけ。相変わらず美しい顔に柔らかな笑みを浮かべているだけだった。
それはなにがあったとしても王子を信じているという意思の表れだったというのに、婚約という契約に胡坐をかいていると言われる始末。すべてが裏目に出てしまっていた。
そんな中、大きく事態が悪化したのは、学期末の親善試合だった。
騎士団の闘技場で行われ、学園が設立されてから毎年継続して開催されている由緒ある試合。国王や国の重鎮たちが観戦するため、彼らの目を引こうと生徒たちの戦いも熱を帯びる。
その上、最終戦は『公爵家のエミール対平民出身のリアナ』という好カードが組まれた。婚約者対決と揶揄され、観戦チケットも完売するという大盛況ぶり。闘技場は二人の戦いを一目見ようと押しかけた客で溢れかえっていた。
成績を見れば出来レースのようなものだが、棄権すれば逃げたと言われ、試合に出れば恥知らずと罵られる。どちらにせよ批判されることが予想できるほど状況は悪くなっていた。
試合は当然のことながらリアナが圧勝。
剣術ではギリギリ互角ではあるものの、魔術戦に持ちこまれると差は広がるばかり。五分も経たずに決着がついてしまい、エミールは苦汁を飲まされることになった。
そのことでエミールに対する風当たりが強くなる。第二王子の婚約者でありながら、平民出の男爵令嬢に負けるとは、と。エミールに貼られた負け犬のレッテルは、ダイヤモンド派の地位を揺るがすものになった。
そして、そこからリアナに対する蛮行が始まったのだ。学内ではリアナの持ち物を隠し、汚水を浴びせるなどの卑劣な行為が横行。茶会や晩餐会では服やドレスに飲み物が零され、酷い時には新調したばかりのドレスがナイフで裂かれたこともあった。
もちろんエミールは一度も命じたことなどない。彼の派閥の一部がその行動を起こしたとはいえ、即座に集会を開いて辞めるよう命じたのはエミール本人である。自分は見守るつもりだと、こんなものでは揺るがないと、皆に道を示した。
しかし、事態は転がりはじめた大岩のようなものであり、一度動き出せば流石のエミールもその勢いを殺すことは叶わなかった。
派閥内の者の行いであれば対処のしようもあったが、王子とリアナの関係を良く思わない派閥外の者たちも、ダイヤモンド派を隠れ蓑にこぞってリアナに矛先を向けはじめたのだ。エミールがすべての責任を背負ってくれるのだから、なにをしてもいいとでもいうように。
そんな状況でもエミールは毎日二人に挨拶を欠かさなかった。
王子からすれば穏やかに微笑む様は狂気のように見えていたが、はっきりとダイヤモンド派が行ったという確証がないため、王子もエミールに注意することはなかった。それだけエミールの派閥の力が侮れないことは王子も承知していた。
もし、ここで話し合いが行われれば、なにかが変わったかもしれない。だが、その機会が訪れることはなかった。
王子が少し離れた隙に嫌がらせが起こる。ずっと監視されているかのようでリアナは視線に怯えるようになり、王子の過保護ぶりは度を越していくばかり。
そんな時起こったのが暴行事件だった。
一月後に迎える卒業式。なにか記念を残したいというリアナに賛同した王子と取り巻きたちが壁画制作を提案した。皆幼い頃から習っていたため描画もお手のもの。塞ぎ気味のリアナを喜ばせようという見え透いた考えだった。そして画材店で材料を調達するため、護衛を連れて街に繰り出したまでは良かった。だが、集団で歩いている貴族の子息たちを白昼堂々窃盗団が襲ったのだ。
兵士崩れか手練ればかり。護衛たちが王子の身の安全を優先したため、金目のものを根こそぎ奪われ、周りの生徒たちに被害が及んだ。リアナを含めた女子生徒が軽傷を負い、リアナを守るために盾になった男子生徒が一人、剣で斬られるという事態に陥った。まるでリアナを狙ったかのような襲撃に、エミールに疑いが向けられるのは当然の流れだった。
窃盗団は数日後に騎士団によって捕らえられ、リアナを襲うように命令されたと白状した。彼らは負傷によって除隊をやむなくされた元兵士で、生活に困窮して仕方なく従ったのだと。
彼らに指示を出したのはダイヤモンド派に属するパール男爵の嫡子であり、彼もまたエミールに指示されて、と罪を告白した。
その証言を得てエミールの関与を確信した王子は、鬼の首を取ったかのようにエミールを断罪したのだった。
◇
エミールが連行されたのは王都郊外にある騎士団別館の地下牢。日の光が届かず、空気は淀み湿り気を帯びている。どこからともなく異臭が漂ってくる不衛生な場所だった。
「入れ」
分厚い石の扉の先には驚くほど狭い空間しかなかった。エミールが使っていた寝台がやっと入るかという広さで、岩肌が剥き出しになった壁に囲まれ、天井近くに申し訳程度の明り採りが設けられているのみ。そして、床には寝台とは言い難い板が置いてあり、誰が使ったとも知れない薄汚れた麻布が被せられていた。
劣悪な環境にエミールは不安を滲ませる。牢番は口端に嘲笑を浮かべると、足を止めてしまったエミールを押しこめ、わざと大きな音を立てて石の扉を閉じた。続けて、重さのある金属音がまるで罪を宣告するかのように響いた。
「恨むのならお前の護衛を恨むんだな」
扉に設けられた小窓からわざわざ顔を覗かせ、親の敵でも見るかのように一睨をくれてから牢番は去っていった。
足音が遠ざかり、静けさが広がる。牢番の言葉から、自分についていた護衛が買収されたのだと知り、エミールはしばらくその場に立ち尽くしていた。
決して甘く捉えていたわけではない。相手は王家であり、最悪な事態になることも考えられたのだ。エミールにとってこれはまだ想定内。最悪なくじを引かなかっただけで幸運だと思わなければならないと不安を押し殺した。
《いなくなった?》
《いなくなったな》
制服の上着のポケットに隠れていたロルとテルがそろりと顔を出してきょろきょろと周囲を見渡すと、うんしょ、とポケットから出てきた。ロルは魚のような尾びれとツンと尖った耳が特徴で、テルはお洒落な帽子とブーツを身に付けた小人のような姿をしている。他の人には見えないとはわかっているものの、なんとなく隠れなければいけないと思ったらしい。どこか緊張感に欠ける二人を見て、エミールは表情を緩めた。
「当分はここで過ごすことになるから覚悟しないとね」
《オレたちがついてるから心配しなくていいぞ。それにしてもなんだか汚いところだな。少し綺麗にするか》
《そうしよそうしよ。こんなところじゃゆっくりもできないもんね》
魔力を抑えられているエミールの代わりに二人がせっせと動きはじめた。取り出したのは、箒とデッキブラシ。以前どこから出したのか聞いたことはあったが、質問の意図がわからなかったのか首を傾げられただけだった。精霊たちは意識することなくそういったものを具現化できるらしく、エミールもそういうものだと理解していた。
地の精霊のテルが箒で塵を集めて丸め、水の精霊であるロルが水を撒いてデッキブラシで床を磨いていく。手枷を嵌められたままでなにもできないと判断したエミールは、彼らの邪魔にならないようにと麻布を持ち上げた。その途端巻き上がる埃。三人は同じように口元を押さえ、ゲホゴホとむせた。
《それもあとで洗うからね! あぁ、でも乾くかなぁ? はぁ、もう! エミールも大変だね。ボクなら嫌になってふわって飛んでいっちゃうね》
「そうだね、それができたらいいんだけど……。でも、ロルもテルのためになにかを我慢する時はあるよね?」
《えぇー、たとえば?》
「そうだなぁ。クッキーが一つしかなくて、独り占めしたいけどテルにもあげたいから、って半分こにする時かな」
《あー! あるねぇ!》
ロルが嬉しそうにくるりと宙に円を描くように回った。その横でテルは丸めた塵を土に還す作業を止めて、《オレも同じだな》と相槌を打った。
「ね? 大切な人の喜ぶ顔が見たいって思うでしょ? だから、その人がなにかを願うなら、僕はその願いを叶える手伝いをして、その人に笑顔になってもらいたい。そのためには我慢しなければいけないこともあるんだよ。二人には嫌な思いをさせてしまうかもしれない。もし辛くなったら主様のところに戻っていてもいいからね。必ず迎えにいくから」
その言葉に精霊二人は顔を見合わせると、頬をぷっくりと膨らませた。
《ったく。エミールはわかってないな》
《そうだよ。ボクたちはずーっとエミールの傍にいるって決めたんだから、エミールが背負うものはボクたちも一緒に背負うんだよ》
「でも、ここだとおいしいクッキーは食べられないよ?」
エミールが問うと、二人の顔が瞬く間に曇る。しかし、迷いを断ち切るようにふるふると頭を振るとフンと鼻息を荒くして胸を張った。
《クッキーなんて子供の食べ物、オレたちには必要ないな》
《そうそう、クッキーを我慢するなんてボクたちには朝飯前だよね》
強がっている二人にエミールの頬は緩み、目は涙を湛えた。彼らの気持ちがエミールにはなによりも嬉しかった。二人を手のひらでそっと引き寄せて、優しく頬に口づける。
「ロル、テル……ありがとう。すごく心強いよ」
予定では護衛を伴って拘置所に入ることになっていたとはいえ、おおよそは父の筋書き通りにことが進んでいる。しかし、護衛が寝返ったというなら、ここはエメラルド派の影響力の強い牢獄である確率が高い。そうなれば自分を守るものは何一つない。
《これがさっき言ってたことだ!》
と合点がいった様子ではしゃぐ二人が、この状況下でどれだけ心の支えになっているか、エミールは身に沁みて感じていた。そして胸に手を当て、湧き上がる暗い影を必死に抑えこんだ。
そう、父上が必ず迎えにきてくれる。だから、その時まで自分はこの役を全うしなければならない。報いを受け、婚約破棄された愚かな悪役を――
エミールはただ大人しく投獄されたわけではない。すべては、守りたいと思う者のためになした決断だった。
公爵からその指示が届いたのは親善試合の数日後のこと。
向けられる視線が日に日に蔑みを含んだものになり、自分のすべての行動が否定されたかのように感じていた時だった。
「エミール様、旦那様よりお返事が届いております」
「父上から……?」
フォルトが公爵に送った手紙には、エミールの立場が悪くなっていること、学内で起きていることを記したと聞いていた。父に相談することは迷惑になると、自分だけで抱えこもうとしていたエミールに代わり、フォルトが独断で送ってしまっていたものだ。しかし、自分ではどうにもできなくなってしまった今、その手紙だけが頼りだったのだ。
エミールはフォルトの差し出した封筒に縋るように手を伸ばして受け取った。ペーパーナイフで封を開け、便箋を取り出す。手紙を広げると、そこには思いもよらないことが書かれていた。
「婚約を取り消す……?」
困惑を漏らすと、フォルトが「大丈夫ですか」と背中に手を添えて椅子に座るように促した。エミールは支えられつつ腰を下ろす。
「ありがとう……大丈夫、ちゃんと読めるから……」
「……無理をなさらないでくださいね」
「うん……」
読み進めていくと、そこに綴られていたのは公爵の怒りだった。婚約者を守りもせず貶めるような王家に我が子を差し出す気はない。ただ、こちらには婚約の解消をするという権限が与えられていないため、王家にそれをさせるのだと。そして最後に、エミールを権力から守り、精霊使いの力を王家のいいように行使させないためには、公国として独立することが必要であると記されていた。
「そんなこと……」
しかし、このまま王国に属していたとしても、明るい未来は見えない。それどころか、家名に傷がつき、領民が虐げられる可能性すらある。独立をするという選択はもっともで、エミールは唇を固く結んだ。ただ、婚約破棄により王家とのしがらみは消え、公爵家は独立の手がかりを掴むことになるのだ。ならば、それに従うまで。
「……このままなにもせずに、僕が悪者になればいいんだ」
「エミール様……」
「大丈夫、できるよ。父上がそう望むのなら。なにがあったとしても必ず迎えにいく、と父上がおっしゃっているのだから、僕はそれを信じる。この収拾のつかない状態がしばらく続くのは辛いけれど、どちらにせよこの国でのダイヤモンド家の権威は失われる。領民を守るためにも父上が最善の方法を考えてくださっているから」
貴族らの目を逸らし、独立へ向けて行動するには好都合といってもいい状況だった。王子とエミールそしてリアナの泥沼関係は貴族らにとっては極上ともいえる娯楽。派閥争いがどう転ぶのか楽しみで仕方ないことだろう。そして、エミールが最終的に投獄されるようなことになれば、ダイヤモンド派を貶めようとしている者たちは歓喜するに違いない。
「時間稼ぎをするには取り乱さず、決着を長引かせればいい。これ以上手を出さないように再度皆に伝えておかないと」
「わかりました。すぐに集会を開きます」
「ありがとう、フォルト。すでにうちを疎ましく思う者たちが動きはじめているから、あとはその流れに身を委ねればいい」
そして、辛抱強くその時を待てばいい。そうすれば相手は痺れを切らせ、行動を起こすはず。王子とエミールの結婚を阻止することが目的の一つならば、必ず――
ただ、ふと考えてしまう。
どうして? と。
どうしてこんなことになったのか。自分はなにをしてしまったのか。それとも、なにか足りなかったのか……
ディートリヒは兄である王太子の大きすぎる背中を見て育ったため卑屈なところもあったが、真面目であり努力の人でもあった。学力は芳しくないが武術には長け、将来は騎士団の重職に就く予定だったのだ。その心構えをエミールは尊敬していた。だからこそこの人のために生きたいと、支えになりたいと、エミールも努力を惜しまなかったというのに。
彼はもう自分を見ることはないのだろうか。もしかしたらまたこちらを振り向いてくれるかもしれない。彼の本来の人柄を知るエミールは心の隅でそんな淡い希望を抱いていた。
しかし、最後までその想いは届くことはなかった。ディートリヒはエミールを罪に問い、逆らえばその場で処刑するとまで言い放ったのだ。
精霊二人には気丈に振る舞うエミールだったが、まるで支えを失ったかのような酷い虚無感に囚われていた。その上、今まで気を張っていたせいか疲労が一気に押し寄せ、エミールは綺麗になった板の上に力なく体を横たえた。
《エミール?》
《大丈夫?》
「きっと大丈夫。少し疲れたから眠るね」
そうは言ったものの、床近くには冷気が溜まっており、板があったとしても体温を奪われる。ヒヤリと冷たい空気がどこからともなく流れてきて、エミールは肌寒さに身を縮めた。
「……ね、二人共、傍に来てくれる? 少し寒いんだ」
《もちろんだよ》
手のひらにちょこんと乗った二人を胸に抱き寄せる。その小さい体からほんのりと伝わってくる温もりを感じながらエミールは瞼を閉じた。
◇
「私はあんなことまでしてほしいなんて言ってないわ、ディート。あの人が可哀想よ……」
ディートリヒは長い睫毛を悲しみに震わせるリアナの背中にそっと手を添えた。伏せていた瞼が開き、王子を見上げたのは青空のように澄んだ瞳だった。
王子はリアナの顔にかかるピンクゴールドの巻き髪を肩にかけるようにさっと払い、慰めるように淡くチークがのせられた頬を撫でた。
「リアナ、優しいなお前は。だが、今回のことは立場ある者の行動として許されるべきものではない。それにこのことでようやく自分の気持ちがわかった」
「ディート?」
「愛している、リアナ。結婚してほしい」
王子の求愛の言葉にリアナははっと息を詰める。しかし、間もなく桃色の唇をわなわなと震わせた。
「わ、私が? ディートと結婚? そ、そんなことできるはず……」
「してみせる。元平民だとしても、この学園での実績が十分にある。それにリアナの力はエミールを凌ぐ。これからの国の発展には欠かせないものだ。父上も快諾してくださる」
「本当に? 私がディートと……」
「ああ。なにも負い目を感じることはない。リアナが自分で努力して勝ち取った場所なんだ」
「……嬉しい。これで堂々と皆の前でディートに抱きつけるのね」
リアナの家は平民の中でも貧しい方で毎日碌に食事もとれていなかったという。だというのに彼女の表情はそれを感じさせないほど色鮮やかだった。腹の探り合いばかりをする貴族との付き合いは憂鬱で、もう媚びた笑いを見ることに飽き飽きしていた。そんな中、感情を隠しもせず顔を綻ばせるリアナの笑顔はディートリヒの心を照らすものだった。
「抱きつくのは二人だけの時でいい。その時のリアナの表情を独り占めしたいんだ」
「もうディート! そんな恥ずかしいこと!」
腕の中で頬を上気させる少女に王子は眦を下げた。そしてその愛らしい姿を目に刻みつけた。網膜に鮮明に灼きついて離れない、エミールの射るような金色の瞳を上書きするかのように。
エミールが投獄されてから一月も経たないうちに、ディートリヒの望み通り結婚式は執り行われた。すでに式の招待状を各国に発送したあとのことだったため、花嫁をリアナ・トパーズに挿げ替えて決行されたのだ。
結婚が決まった直後からリアナは礼儀作法を叩きこまれた。今までのツケを払うかのように厳しいもので、リアナは何度も王子に泣きつき、泣きつかれた王子は教育係にもう少し優しくしろと無茶を言うこともあった。
他国の参列者にお披露目するのだから甘いことなど言ってはいられないのだが、最終的に仕上がることはなかった。当日を迎え、客の前では「食べない」「喋らない」と行動を制限し、ただ笑顔でいればいいという指示が出された。
リアナもディートリヒを陥落させるほどには容姿がいい。化粧映えもする。晴れの日に合わせて使用人たちに磨き上げられ、ドレスと宝石で着飾った結果、美しい姫が完成した。作法以外はなんとか間に合ったと使用人たちは胸を撫でおろした。
「ディート、コルセットがきついわ」
「これも式が終わるまでだ。少しは我慢してくれ」
流石のディートリヒも他国からの客に不格好な姿は見せられない。言葉がきつくなってしまうのも仕方がなかった。
どこか棘のある言い方をする新郎に、リアナは椅子に座りつつ足をブラブラさせ、紅を塗った唇を尖らせる。
「いつまでこのままでいなきゃいけないの?」
「そうだな……舞踏会が終わるまで、明日の日が沈む頃だ」
「えっ」
結婚式は日を跨いで行われる。その間に各国の重鎮が親交を深めるなど外交活動を行うため、目的は式典だけではないのだ。結婚式の延期が許されないのはこれが理由でもあった。
「連続して長い時間拘束されるわけじゃない。心配しなくていい」
「これなら平民でいた方がいいわ。こんなに自由がないなんて思わないじゃない。好きなものを沢山買ってもらえるって聞いたのに、私が好きに使えるものなんてほとんどないんだから」
「リアナ、辛いのはわかるが今日一日――いや、明日までは我慢してほしい。あとは俺がなんとかする」
ディートリヒは項垂れるようにして額に手を当てた。リアナは結婚が決まってからというもの、ずっとこの調子で、どうして言葉遣いや立ち居振る舞いに気を付けなければならないのか、そこから理解できていないようだった。これからは、平民の出だから、という言い訳は通用しない。それをわかってほしいと熱心に訴えるのだが、彼女にはなかなか響かなかった。
――もしこれがエミールなら。
ふと湧いて出た、あってはならない考え。ディートリヒはその考えを振り払うように慌てて頭を振った。
「殿下、会場に」
使用人に促され、ディートリヒがリアナに手を差し伸べる。リアナがわざとらしくため息を吐くのを見て、王子も心の中で同じようにため息を吐いた。
式典は大教会の礼拝堂で行われる。集まった参列者は賓客を入れて千人と王太子の時よりは少ないものの、大規模なものには変わりなかった。
結婚式が終わるとパレードが行われる。街の大通りを一周し、王城へと戻る。そして国賓一組ずつと挨拶を交わし、そのあとに披露宴が続く。翌日は一日中舞踏会というお祭りのようなスケジュールだ。
それを改めて侍女から聞かされたリアナの顔は、大きく引き攣ったのだった。
◇
牢獄生活でエミールを苦しめたものは寒さだった。昼間はじんわりとだが気温が上がるものの、夜にはぐっと冷える。牢獄の脇を流れる用水路が冷気を運び、熱を奪っていくからだった。
湿気が出ても、ロルがいるためどうにかなる。ただロルもテルも熱を発生させられないため寒さを避けることはできなかった。夜はエミールを温めるようにロルとテルは服の中に入りこみ、三人で身を寄せ合って眠った。
そして、それよりも問題なのは食事だった。忘れているのか故意なのか、牢番の気まぐれにより運ばれてくるため一日に一回あれば良い方。内容は食事とは言い難く、水のようなスープと薄く切られたパンの端のみ。よくわからないものが浮いているスープを口にするのは憚られ、最初の数日は水分の全くない堅いパンのみを齧って過ごしていた。
惨めだが食べ物が出されるだけマシ。公爵が迎えにくる日までなんとか耐え忍べそうだとエミールも少し安心していた。
だがある日、食事のトレイを手に取ろうとした時、精霊二人がそれを引き留めた。
《待って、エミール。それ人間は普通食べないんじゃないかな?》
《絶対食べないな。エミール食べるんじゃないぞ》
「なにか入っているの?」
《知らない方がいいよ!》
《ああ。知らない方がいい》
彼らがエミールに対して不利になるような発言をするはずがなく、毒でも入っているのかもしれないと、その言葉を信じてエミールはトレイをそのまま放置することにした。すると、滅多に来ない牢番がなぜか再び現れて、エミールが全く手を付けていないことに舌打ちしたのだ。
「お貴族様はこんな食いもん食べられねぇってか? いいご身分だな!」
その言葉にエミールは胸を抉られた気がした。
自領ではできるだけ領民に寄り添うように、貧困で苦しむことがないように策を練ってきた。しかし、エミール自身はひもじい思いをしたこともなく、これまで温かい食事に当たり前のようにありつけていた。そして、この牢で過ごすのも一時的なことであり、ここを出ればまた日常に戻れると考えていた。
覚悟していたといっても、やはり自分の認識は甘かったのかもしれない。エミールは俯き、拳を握った。
「……そういうわけでは……」
「なら、食え」
牢番がそう言うと、すぐさまロルとテルは身振り手振りを繰り返し、絶対ダメと伝えてくる。
「それを食わねぇと次の飯はねぇからな。早くしろよ」
エミールは歯を食いしばった。なにが正しい答えなのかわからない。ただ、牢番たちに命を握られていることだけはわかっていた。
トレイを取って床にしゃがみこむ。雑に切り取られたパンはいつもと様子が違い、明らかに濡れていた。手に取るのも躊躇してしまうそれを少量千切り口元へと運ぶ。しかし、受け入れがたい刺激臭が鼻腔を刺し、エミールはせり上がってくる吐き気に堪えきれず嘔吐いた。すると。牢番は反応を楽しむようにうすら笑いを浮かべる。
「あぁ、そういや、犬が粗相しちまったんだったなぁ。わりぃわりぃ。だが残せば飯抜きだ。気張って食べろよー」
ぎゃはは、と汚い笑い声を上げると、満足したように去っていった。
ロルがすぐさまエミールの手を洗い流し、テルがトレイに置かれたものを土へと還していく。
これほどまで歪んだ悪意を受けたことがなかったエミールは二人が忙しなく動くのをただただ茫然と眺めていた。
牢に入る前も、毎日のように聞くに耐えない好き勝手な噂を耳にし、通りすがりに暴言を吐かれることもあった。それでも使命感ゆえ耐えられたのだ。しかし、もう限界だった。エミールの心には小さな亀裂が入りはじめていた。
そして、それ以降エミールは出されたものを口にすることができなくなっていた。
牢番は死なない程度に衰弱させるよう命じられていたらしく、一切食事を取らなくなったエミールの口に無理矢理スープを流しこむこともあった。だが、すぐに吐いてしまうため、牢番も最終的に諦めて放置するという手段を取った。
勝手に死んでいたとでも報告するつもりなのかもしれない。
エミールはぼんやりとそんなことを考えつつ疲労困憊した体を静かに横たえていた。牢番とのやり取りでわずかに残っていた体力も奪われ、座っているのもやっとの状態だった。父から挙式の日に独立宣言すると報告を受けていたため、一月近くは牢獄の中で暮らすことになるとわかっていたものの、その日があまりにも遠くに感じる。
《エミール、お水だよ》
「……ありがとう」
ロルが精霊サイズの小さなコップに水を満たし、エミールの口元に運んだ。二人を心配させないようエミールは笑顔を見せるが、明らかに具合は悪くなっていた。
《オレに火が起こせたらいいのに》
《ボクも……。外に行って誰か呼んでこようかな……》
《へんな壁があるし、一回出たら戻ってこられないぞ。出ていく時は主様に助けを求めにいく時だ》
《うん……エミールが許してくれたらすぐにでも行くのに》
彼らのいう主様は木の精霊王のことであり、エミールが牢に閉じこめられ、このような不遇を受けていると知れば、彼は怒り狂うに違いないのだ。そうなれば、この国だけでなくこの大陸が干からびることに等しく、関係のない人間に対して慈悲があるかもわからない。ほんの一部の悪意ある人間のために無関係な民が犠牲になることなどエミールは望んでいなかった。
「大丈夫……父上がきっと来てくださるから」
《エミール……》
鈴のなるような愛らしい声が自分の名前を呼ぶのを聞きながら、そっと瞼を閉じた。
そして、エミールはうつらうつらとする中、ある光景を思い出していた。
そうだとしても、これまで連れ添った婚約者の気持ちが離れていってしまうことに、多少の寂しさは感じていた。だがそんな状態でも、王子の婚約者としてふさわしい振る舞いをしなければならない。エミールはその気持ちを胸の内にしまい、遠くから二人を見守ることにしたのだった。
しかし、エミールの想いとは裏腹に、生徒たちは勝手にエミール対リアナという対立関係を作り上げ、騒ぎはじめた。リアナが平民ながらもエミールに匹敵、もしくはそれに勝る魔力適性を持っていたことも拍車をかけた。
教養に関してはエミールが圧倒的とはいえ、戦闘実技となるとリアナが王子に次いで各部間で二位を総なめ。平民出身なのに頑張っていると、一部の生徒たちはリアナを構うようになっていった。
比べてエミールは十位以内に入るのがやっと。
王子の婚約者だというのにその順位に甘んじているのは怠慢。体裁ばかりを気にしてなにを考えているのかわからないエミールと比べ、リアナは愛嬌があり、訓練にも真摯に向き合う努力家。ディートリヒが一番にかわいがるのも頷ける、とリアナのことを認めはじめたのだ。
だが、エミールは変わらなかった。堅実に自分ができることをなす。ただそれだけ。相変わらず美しい顔に柔らかな笑みを浮かべているだけだった。
それはなにがあったとしても王子を信じているという意思の表れだったというのに、婚約という契約に胡坐をかいていると言われる始末。すべてが裏目に出てしまっていた。
そんな中、大きく事態が悪化したのは、学期末の親善試合だった。
騎士団の闘技場で行われ、学園が設立されてから毎年継続して開催されている由緒ある試合。国王や国の重鎮たちが観戦するため、彼らの目を引こうと生徒たちの戦いも熱を帯びる。
その上、最終戦は『公爵家のエミール対平民出身のリアナ』という好カードが組まれた。婚約者対決と揶揄され、観戦チケットも完売するという大盛況ぶり。闘技場は二人の戦いを一目見ようと押しかけた客で溢れかえっていた。
成績を見れば出来レースのようなものだが、棄権すれば逃げたと言われ、試合に出れば恥知らずと罵られる。どちらにせよ批判されることが予想できるほど状況は悪くなっていた。
試合は当然のことながらリアナが圧勝。
剣術ではギリギリ互角ではあるものの、魔術戦に持ちこまれると差は広がるばかり。五分も経たずに決着がついてしまい、エミールは苦汁を飲まされることになった。
そのことでエミールに対する風当たりが強くなる。第二王子の婚約者でありながら、平民出の男爵令嬢に負けるとは、と。エミールに貼られた負け犬のレッテルは、ダイヤモンド派の地位を揺るがすものになった。
そして、そこからリアナに対する蛮行が始まったのだ。学内ではリアナの持ち物を隠し、汚水を浴びせるなどの卑劣な行為が横行。茶会や晩餐会では服やドレスに飲み物が零され、酷い時には新調したばかりのドレスがナイフで裂かれたこともあった。
もちろんエミールは一度も命じたことなどない。彼の派閥の一部がその行動を起こしたとはいえ、即座に集会を開いて辞めるよう命じたのはエミール本人である。自分は見守るつもりだと、こんなものでは揺るがないと、皆に道を示した。
しかし、事態は転がりはじめた大岩のようなものであり、一度動き出せば流石のエミールもその勢いを殺すことは叶わなかった。
派閥内の者の行いであれば対処のしようもあったが、王子とリアナの関係を良く思わない派閥外の者たちも、ダイヤモンド派を隠れ蓑にこぞってリアナに矛先を向けはじめたのだ。エミールがすべての責任を背負ってくれるのだから、なにをしてもいいとでもいうように。
そんな状況でもエミールは毎日二人に挨拶を欠かさなかった。
王子からすれば穏やかに微笑む様は狂気のように見えていたが、はっきりとダイヤモンド派が行ったという確証がないため、王子もエミールに注意することはなかった。それだけエミールの派閥の力が侮れないことは王子も承知していた。
もし、ここで話し合いが行われれば、なにかが変わったかもしれない。だが、その機会が訪れることはなかった。
王子が少し離れた隙に嫌がらせが起こる。ずっと監視されているかのようでリアナは視線に怯えるようになり、王子の過保護ぶりは度を越していくばかり。
そんな時起こったのが暴行事件だった。
一月後に迎える卒業式。なにか記念を残したいというリアナに賛同した王子と取り巻きたちが壁画制作を提案した。皆幼い頃から習っていたため描画もお手のもの。塞ぎ気味のリアナを喜ばせようという見え透いた考えだった。そして画材店で材料を調達するため、護衛を連れて街に繰り出したまでは良かった。だが、集団で歩いている貴族の子息たちを白昼堂々窃盗団が襲ったのだ。
兵士崩れか手練ればかり。護衛たちが王子の身の安全を優先したため、金目のものを根こそぎ奪われ、周りの生徒たちに被害が及んだ。リアナを含めた女子生徒が軽傷を負い、リアナを守るために盾になった男子生徒が一人、剣で斬られるという事態に陥った。まるでリアナを狙ったかのような襲撃に、エミールに疑いが向けられるのは当然の流れだった。
窃盗団は数日後に騎士団によって捕らえられ、リアナを襲うように命令されたと白状した。彼らは負傷によって除隊をやむなくされた元兵士で、生活に困窮して仕方なく従ったのだと。
彼らに指示を出したのはダイヤモンド派に属するパール男爵の嫡子であり、彼もまたエミールに指示されて、と罪を告白した。
その証言を得てエミールの関与を確信した王子は、鬼の首を取ったかのようにエミールを断罪したのだった。
◇
エミールが連行されたのは王都郊外にある騎士団別館の地下牢。日の光が届かず、空気は淀み湿り気を帯びている。どこからともなく異臭が漂ってくる不衛生な場所だった。
「入れ」
分厚い石の扉の先には驚くほど狭い空間しかなかった。エミールが使っていた寝台がやっと入るかという広さで、岩肌が剥き出しになった壁に囲まれ、天井近くに申し訳程度の明り採りが設けられているのみ。そして、床には寝台とは言い難い板が置いてあり、誰が使ったとも知れない薄汚れた麻布が被せられていた。
劣悪な環境にエミールは不安を滲ませる。牢番は口端に嘲笑を浮かべると、足を止めてしまったエミールを押しこめ、わざと大きな音を立てて石の扉を閉じた。続けて、重さのある金属音がまるで罪を宣告するかのように響いた。
「恨むのならお前の護衛を恨むんだな」
扉に設けられた小窓からわざわざ顔を覗かせ、親の敵でも見るかのように一睨をくれてから牢番は去っていった。
足音が遠ざかり、静けさが広がる。牢番の言葉から、自分についていた護衛が買収されたのだと知り、エミールはしばらくその場に立ち尽くしていた。
決して甘く捉えていたわけではない。相手は王家であり、最悪な事態になることも考えられたのだ。エミールにとってこれはまだ想定内。最悪なくじを引かなかっただけで幸運だと思わなければならないと不安を押し殺した。
《いなくなった?》
《いなくなったな》
制服の上着のポケットに隠れていたロルとテルがそろりと顔を出してきょろきょろと周囲を見渡すと、うんしょ、とポケットから出てきた。ロルは魚のような尾びれとツンと尖った耳が特徴で、テルはお洒落な帽子とブーツを身に付けた小人のような姿をしている。他の人には見えないとはわかっているものの、なんとなく隠れなければいけないと思ったらしい。どこか緊張感に欠ける二人を見て、エミールは表情を緩めた。
「当分はここで過ごすことになるから覚悟しないとね」
《オレたちがついてるから心配しなくていいぞ。それにしてもなんだか汚いところだな。少し綺麗にするか》
《そうしよそうしよ。こんなところじゃゆっくりもできないもんね》
魔力を抑えられているエミールの代わりに二人がせっせと動きはじめた。取り出したのは、箒とデッキブラシ。以前どこから出したのか聞いたことはあったが、質問の意図がわからなかったのか首を傾げられただけだった。精霊たちは意識することなくそういったものを具現化できるらしく、エミールもそういうものだと理解していた。
地の精霊のテルが箒で塵を集めて丸め、水の精霊であるロルが水を撒いてデッキブラシで床を磨いていく。手枷を嵌められたままでなにもできないと判断したエミールは、彼らの邪魔にならないようにと麻布を持ち上げた。その途端巻き上がる埃。三人は同じように口元を押さえ、ゲホゴホとむせた。
《それもあとで洗うからね! あぁ、でも乾くかなぁ? はぁ、もう! エミールも大変だね。ボクなら嫌になってふわって飛んでいっちゃうね》
「そうだね、それができたらいいんだけど……。でも、ロルもテルのためになにかを我慢する時はあるよね?」
《えぇー、たとえば?》
「そうだなぁ。クッキーが一つしかなくて、独り占めしたいけどテルにもあげたいから、って半分こにする時かな」
《あー! あるねぇ!》
ロルが嬉しそうにくるりと宙に円を描くように回った。その横でテルは丸めた塵を土に還す作業を止めて、《オレも同じだな》と相槌を打った。
「ね? 大切な人の喜ぶ顔が見たいって思うでしょ? だから、その人がなにかを願うなら、僕はその願いを叶える手伝いをして、その人に笑顔になってもらいたい。そのためには我慢しなければいけないこともあるんだよ。二人には嫌な思いをさせてしまうかもしれない。もし辛くなったら主様のところに戻っていてもいいからね。必ず迎えにいくから」
その言葉に精霊二人は顔を見合わせると、頬をぷっくりと膨らませた。
《ったく。エミールはわかってないな》
《そうだよ。ボクたちはずーっとエミールの傍にいるって決めたんだから、エミールが背負うものはボクたちも一緒に背負うんだよ》
「でも、ここだとおいしいクッキーは食べられないよ?」
エミールが問うと、二人の顔が瞬く間に曇る。しかし、迷いを断ち切るようにふるふると頭を振るとフンと鼻息を荒くして胸を張った。
《クッキーなんて子供の食べ物、オレたちには必要ないな》
《そうそう、クッキーを我慢するなんてボクたちには朝飯前だよね》
強がっている二人にエミールの頬は緩み、目は涙を湛えた。彼らの気持ちがエミールにはなによりも嬉しかった。二人を手のひらでそっと引き寄せて、優しく頬に口づける。
「ロル、テル……ありがとう。すごく心強いよ」
予定では護衛を伴って拘置所に入ることになっていたとはいえ、おおよそは父の筋書き通りにことが進んでいる。しかし、護衛が寝返ったというなら、ここはエメラルド派の影響力の強い牢獄である確率が高い。そうなれば自分を守るものは何一つない。
《これがさっき言ってたことだ!》
と合点がいった様子ではしゃぐ二人が、この状況下でどれだけ心の支えになっているか、エミールは身に沁みて感じていた。そして胸に手を当て、湧き上がる暗い影を必死に抑えこんだ。
そう、父上が必ず迎えにきてくれる。だから、その時まで自分はこの役を全うしなければならない。報いを受け、婚約破棄された愚かな悪役を――
エミールはただ大人しく投獄されたわけではない。すべては、守りたいと思う者のためになした決断だった。
公爵からその指示が届いたのは親善試合の数日後のこと。
向けられる視線が日に日に蔑みを含んだものになり、自分のすべての行動が否定されたかのように感じていた時だった。
「エミール様、旦那様よりお返事が届いております」
「父上から……?」
フォルトが公爵に送った手紙には、エミールの立場が悪くなっていること、学内で起きていることを記したと聞いていた。父に相談することは迷惑になると、自分だけで抱えこもうとしていたエミールに代わり、フォルトが独断で送ってしまっていたものだ。しかし、自分ではどうにもできなくなってしまった今、その手紙だけが頼りだったのだ。
エミールはフォルトの差し出した封筒に縋るように手を伸ばして受け取った。ペーパーナイフで封を開け、便箋を取り出す。手紙を広げると、そこには思いもよらないことが書かれていた。
「婚約を取り消す……?」
困惑を漏らすと、フォルトが「大丈夫ですか」と背中に手を添えて椅子に座るように促した。エミールは支えられつつ腰を下ろす。
「ありがとう……大丈夫、ちゃんと読めるから……」
「……無理をなさらないでくださいね」
「うん……」
読み進めていくと、そこに綴られていたのは公爵の怒りだった。婚約者を守りもせず貶めるような王家に我が子を差し出す気はない。ただ、こちらには婚約の解消をするという権限が与えられていないため、王家にそれをさせるのだと。そして最後に、エミールを権力から守り、精霊使いの力を王家のいいように行使させないためには、公国として独立することが必要であると記されていた。
「そんなこと……」
しかし、このまま王国に属していたとしても、明るい未来は見えない。それどころか、家名に傷がつき、領民が虐げられる可能性すらある。独立をするという選択はもっともで、エミールは唇を固く結んだ。ただ、婚約破棄により王家とのしがらみは消え、公爵家は独立の手がかりを掴むことになるのだ。ならば、それに従うまで。
「……このままなにもせずに、僕が悪者になればいいんだ」
「エミール様……」
「大丈夫、できるよ。父上がそう望むのなら。なにがあったとしても必ず迎えにいく、と父上がおっしゃっているのだから、僕はそれを信じる。この収拾のつかない状態がしばらく続くのは辛いけれど、どちらにせよこの国でのダイヤモンド家の権威は失われる。領民を守るためにも父上が最善の方法を考えてくださっているから」
貴族らの目を逸らし、独立へ向けて行動するには好都合といってもいい状況だった。王子とエミールそしてリアナの泥沼関係は貴族らにとっては極上ともいえる娯楽。派閥争いがどう転ぶのか楽しみで仕方ないことだろう。そして、エミールが最終的に投獄されるようなことになれば、ダイヤモンド派を貶めようとしている者たちは歓喜するに違いない。
「時間稼ぎをするには取り乱さず、決着を長引かせればいい。これ以上手を出さないように再度皆に伝えておかないと」
「わかりました。すぐに集会を開きます」
「ありがとう、フォルト。すでにうちを疎ましく思う者たちが動きはじめているから、あとはその流れに身を委ねればいい」
そして、辛抱強くその時を待てばいい。そうすれば相手は痺れを切らせ、行動を起こすはず。王子とエミールの結婚を阻止することが目的の一つならば、必ず――
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ディートリヒは兄である王太子の大きすぎる背中を見て育ったため卑屈なところもあったが、真面目であり努力の人でもあった。学力は芳しくないが武術には長け、将来は騎士団の重職に就く予定だったのだ。その心構えをエミールは尊敬していた。だからこそこの人のために生きたいと、支えになりたいと、エミールも努力を惜しまなかったというのに。
彼はもう自分を見ることはないのだろうか。もしかしたらまたこちらを振り向いてくれるかもしれない。彼の本来の人柄を知るエミールは心の隅でそんな淡い希望を抱いていた。
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《エミール?》
《大丈夫?》
「きっと大丈夫。少し疲れたから眠るね」
そうは言ったものの、床近くには冷気が溜まっており、板があったとしても体温を奪われる。ヒヤリと冷たい空気がどこからともなく流れてきて、エミールは肌寒さに身を縮めた。
「……ね、二人共、傍に来てくれる? 少し寒いんだ」
《もちろんだよ》
手のひらにちょこんと乗った二人を胸に抱き寄せる。その小さい体からほんのりと伝わってくる温もりを感じながらエミールは瞼を閉じた。
◇
「私はあんなことまでしてほしいなんて言ってないわ、ディート。あの人が可哀想よ……」
ディートリヒは長い睫毛を悲しみに震わせるリアナの背中にそっと手を添えた。伏せていた瞼が開き、王子を見上げたのは青空のように澄んだ瞳だった。
王子はリアナの顔にかかるピンクゴールドの巻き髪を肩にかけるようにさっと払い、慰めるように淡くチークがのせられた頬を撫でた。
「リアナ、優しいなお前は。だが、今回のことは立場ある者の行動として許されるべきものではない。それにこのことでようやく自分の気持ちがわかった」
「ディート?」
「愛している、リアナ。結婚してほしい」
王子の求愛の言葉にリアナははっと息を詰める。しかし、間もなく桃色の唇をわなわなと震わせた。
「わ、私が? ディートと結婚? そ、そんなことできるはず……」
「してみせる。元平民だとしても、この学園での実績が十分にある。それにリアナの力はエミールを凌ぐ。これからの国の発展には欠かせないものだ。父上も快諾してくださる」
「本当に? 私がディートと……」
「ああ。なにも負い目を感じることはない。リアナが自分で努力して勝ち取った場所なんだ」
「……嬉しい。これで堂々と皆の前でディートに抱きつけるのね」
リアナの家は平民の中でも貧しい方で毎日碌に食事もとれていなかったという。だというのに彼女の表情はそれを感じさせないほど色鮮やかだった。腹の探り合いばかりをする貴族との付き合いは憂鬱で、もう媚びた笑いを見ることに飽き飽きしていた。そんな中、感情を隠しもせず顔を綻ばせるリアナの笑顔はディートリヒの心を照らすものだった。
「抱きつくのは二人だけの時でいい。その時のリアナの表情を独り占めしたいんだ」
「もうディート! そんな恥ずかしいこと!」
腕の中で頬を上気させる少女に王子は眦を下げた。そしてその愛らしい姿を目に刻みつけた。網膜に鮮明に灼きついて離れない、エミールの射るような金色の瞳を上書きするかのように。
エミールが投獄されてから一月も経たないうちに、ディートリヒの望み通り結婚式は執り行われた。すでに式の招待状を各国に発送したあとのことだったため、花嫁をリアナ・トパーズに挿げ替えて決行されたのだ。
結婚が決まった直後からリアナは礼儀作法を叩きこまれた。今までのツケを払うかのように厳しいもので、リアナは何度も王子に泣きつき、泣きつかれた王子は教育係にもう少し優しくしろと無茶を言うこともあった。
他国の参列者にお披露目するのだから甘いことなど言ってはいられないのだが、最終的に仕上がることはなかった。当日を迎え、客の前では「食べない」「喋らない」と行動を制限し、ただ笑顔でいればいいという指示が出された。
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「ディート、コルセットがきついわ」
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どこか棘のある言い方をする新郎に、リアナは椅子に座りつつ足をブラブラさせ、紅を塗った唇を尖らせる。
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「そうだな……舞踏会が終わるまで、明日の日が沈む頃だ」
「えっ」
結婚式は日を跨いで行われる。その間に各国の重鎮が親交を深めるなど外交活動を行うため、目的は式典だけではないのだ。結婚式の延期が許されないのはこれが理由でもあった。
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「これなら平民でいた方がいいわ。こんなに自由がないなんて思わないじゃない。好きなものを沢山買ってもらえるって聞いたのに、私が好きに使えるものなんてほとんどないんだから」
「リアナ、辛いのはわかるが今日一日――いや、明日までは我慢してほしい。あとは俺がなんとかする」
ディートリヒは項垂れるようにして額に手を当てた。リアナは結婚が決まってからというもの、ずっとこの調子で、どうして言葉遣いや立ち居振る舞いに気を付けなければならないのか、そこから理解できていないようだった。これからは、平民の出だから、という言い訳は通用しない。それをわかってほしいと熱心に訴えるのだが、彼女にはなかなか響かなかった。
――もしこれがエミールなら。
ふと湧いて出た、あってはならない考え。ディートリヒはその考えを振り払うように慌てて頭を振った。
「殿下、会場に」
使用人に促され、ディートリヒがリアナに手を差し伸べる。リアナがわざとらしくため息を吐くのを見て、王子も心の中で同じようにため息を吐いた。
式典は大教会の礼拝堂で行われる。集まった参列者は賓客を入れて千人と王太子の時よりは少ないものの、大規模なものには変わりなかった。
結婚式が終わるとパレードが行われる。街の大通りを一周し、王城へと戻る。そして国賓一組ずつと挨拶を交わし、そのあとに披露宴が続く。翌日は一日中舞踏会というお祭りのようなスケジュールだ。
それを改めて侍女から聞かされたリアナの顔は、大きく引き攣ったのだった。
◇
牢獄生活でエミールを苦しめたものは寒さだった。昼間はじんわりとだが気温が上がるものの、夜にはぐっと冷える。牢獄の脇を流れる用水路が冷気を運び、熱を奪っていくからだった。
湿気が出ても、ロルがいるためどうにかなる。ただロルもテルも熱を発生させられないため寒さを避けることはできなかった。夜はエミールを温めるようにロルとテルは服の中に入りこみ、三人で身を寄せ合って眠った。
そして、それよりも問題なのは食事だった。忘れているのか故意なのか、牢番の気まぐれにより運ばれてくるため一日に一回あれば良い方。内容は食事とは言い難く、水のようなスープと薄く切られたパンの端のみ。よくわからないものが浮いているスープを口にするのは憚られ、最初の数日は水分の全くない堅いパンのみを齧って過ごしていた。
惨めだが食べ物が出されるだけマシ。公爵が迎えにくる日までなんとか耐え忍べそうだとエミールも少し安心していた。
だがある日、食事のトレイを手に取ろうとした時、精霊二人がそれを引き留めた。
《待って、エミール。それ人間は普通食べないんじゃないかな?》
《絶対食べないな。エミール食べるんじゃないぞ》
「なにか入っているの?」
《知らない方がいいよ!》
《ああ。知らない方がいい》
彼らがエミールに対して不利になるような発言をするはずがなく、毒でも入っているのかもしれないと、その言葉を信じてエミールはトレイをそのまま放置することにした。すると、滅多に来ない牢番がなぜか再び現れて、エミールが全く手を付けていないことに舌打ちしたのだ。
「お貴族様はこんな食いもん食べられねぇってか? いいご身分だな!」
その言葉にエミールは胸を抉られた気がした。
自領ではできるだけ領民に寄り添うように、貧困で苦しむことがないように策を練ってきた。しかし、エミール自身はひもじい思いをしたこともなく、これまで温かい食事に当たり前のようにありつけていた。そして、この牢で過ごすのも一時的なことであり、ここを出ればまた日常に戻れると考えていた。
覚悟していたといっても、やはり自分の認識は甘かったのかもしれない。エミールは俯き、拳を握った。
「……そういうわけでは……」
「なら、食え」
牢番がそう言うと、すぐさまロルとテルは身振り手振りを繰り返し、絶対ダメと伝えてくる。
「それを食わねぇと次の飯はねぇからな。早くしろよ」
エミールは歯を食いしばった。なにが正しい答えなのかわからない。ただ、牢番たちに命を握られていることだけはわかっていた。
トレイを取って床にしゃがみこむ。雑に切り取られたパンはいつもと様子が違い、明らかに濡れていた。手に取るのも躊躇してしまうそれを少量千切り口元へと運ぶ。しかし、受け入れがたい刺激臭が鼻腔を刺し、エミールはせり上がってくる吐き気に堪えきれず嘔吐いた。すると。牢番は反応を楽しむようにうすら笑いを浮かべる。
「あぁ、そういや、犬が粗相しちまったんだったなぁ。わりぃわりぃ。だが残せば飯抜きだ。気張って食べろよー」
ぎゃはは、と汚い笑い声を上げると、満足したように去っていった。
ロルがすぐさまエミールの手を洗い流し、テルがトレイに置かれたものを土へと還していく。
これほどまで歪んだ悪意を受けたことがなかったエミールは二人が忙しなく動くのをただただ茫然と眺めていた。
牢に入る前も、毎日のように聞くに耐えない好き勝手な噂を耳にし、通りすがりに暴言を吐かれることもあった。それでも使命感ゆえ耐えられたのだ。しかし、もう限界だった。エミールの心には小さな亀裂が入りはじめていた。
そして、それ以降エミールは出されたものを口にすることができなくなっていた。
牢番は死なない程度に衰弱させるよう命じられていたらしく、一切食事を取らなくなったエミールの口に無理矢理スープを流しこむこともあった。だが、すぐに吐いてしまうため、牢番も最終的に諦めて放置するという手段を取った。
勝手に死んでいたとでも報告するつもりなのかもしれない。
エミールはぼんやりとそんなことを考えつつ疲労困憊した体を静かに横たえていた。牢番とのやり取りでわずかに残っていた体力も奪われ、座っているのもやっとの状態だった。父から挙式の日に独立宣言すると報告を受けていたため、一月近くは牢獄の中で暮らすことになるとわかっていたものの、その日があまりにも遠くに感じる。
《エミール、お水だよ》
「……ありがとう」
ロルが精霊サイズの小さなコップに水を満たし、エミールの口元に運んだ。二人を心配させないようエミールは笑顔を見せるが、明らかに具合は悪くなっていた。
《オレに火が起こせたらいいのに》
《ボクも……。外に行って誰か呼んでこようかな……》
《へんな壁があるし、一回出たら戻ってこられないぞ。出ていく時は主様に助けを求めにいく時だ》
《うん……エミールが許してくれたらすぐにでも行くのに》
彼らのいう主様は木の精霊王のことであり、エミールが牢に閉じこめられ、このような不遇を受けていると知れば、彼は怒り狂うに違いないのだ。そうなれば、この国だけでなくこの大陸が干からびることに等しく、関係のない人間に対して慈悲があるかもわからない。ほんの一部の悪意ある人間のために無関係な民が犠牲になることなどエミールは望んでいなかった。
「大丈夫……父上がきっと来てくださるから」
《エミール……》
鈴のなるような愛らしい声が自分の名前を呼ぶのを聞きながら、そっと瞼を閉じた。
そして、エミールはうつらうつらとする中、ある光景を思い出していた。
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現在精霊使い編改稿中です。改稿が終わり次第投稿いたしますので、しばらくお待ちくださいませ。
引き続き完結までよろしくお願いいたします!
引き続き完結までよろしくお願いいたします!
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