酔仙楼詩話

吉野川泥舟

文字の大きさ
上 下
14 / 20

第十二話

しおりを挟む
 それからというもの、子柳は花街通いに夢中になってしまいました。どっぷりはまって抜け出せなくなったのです。初めて抱いた蓮の葉の柔肌を忘れることができません。まるで吸い付くようだったのです。頬を染めて恥じらう姿が、脳裏にちらついて消えないのです。四書五経を開いても、詩作をしようと字書を引いても、全く頭に入りません。気晴らしに絵筆を取ってみれば、あられもない裸体を描く始末。夜は寝付くことができず、ひたすら寝台の上でまろび続けるばかりでした。

 花代も馬鹿にはなりません。初めこそ仕送りをやりくりして捻出していましたが、やがてそれも苦しくなりました。会えないときほど、会いたい気持ちが募るもの。今こうしている間にも、他の男の腕に抱かれて、などと想像すれば、叫び出したくなるほどの痛苦に苛まれました。

 そして子柳はとうとう友だちの翔鷹に金を借りるようになったのです。初めは少しだったものの、借りる額はどんどん膨らんでいき、到底返せるような金額ではなくなりました。翔鷹の支援者は皇帝の第八王子という身分だったので、彼自身はまるでお金に困っていませんでした。子柳が申し訳なさそうに無心すると、いつも笑顔で気前よく用立ててくれたのです。

 実は翔鷹には狙いがあったのです。それは、借金のカタとして、子柳が隠し持つ宝物をせしめてやろうというものでした。

 子柳は元来淡泊な性格で、物欲などはまるでなかったのですが、あの日三人の女仙から贈られた扇子だけは絶対になくさないよう大切にしておりました。毎日寝る前に取り出して、うっとりと眺めては、悦に入っていたのです。

 少し前のことですが、子柳は乾いた墨跡を観賞しながら、ニヤニヤと笑みを浮かべておりました。そこへ、隣室に泊まる翔鷹が入ってきたのです。これといった用事などなく、借りていた本を返しに来ただけでした。しかし、子柳の様子を見た翔鷹は俄然興味をかき立てられたのです。

「何だかずいぶんご執心じゃないか。ははあ、さては流行の絵師にでも書かせた春画かい? そいつは僕も見逃せないな。女性にはまるで興味なさそうな君が夢中になるくらいなんだから」

 そう言うなり扇子を取り上げようとします。慌てた子柳、取らせまいと体をねじりました。嫌がられると意のままにしたくなるのが人の性。この翔鷹も例外ではありません。何とか取ってやろうとしましたが、大人しいはずの子柳が懸命に抵抗するので、少しやり方を工夫することにしたのです。

「わかったよ、もうしない。謝るよ、悪かった。あまりに熱心だから、ついからかっただけだよ。それにしても、君をそこまで夢中にさせるんだ、その扇子は間違いなく逸品なんだろう。はは、天上に住まう仙人たちの宝物も色あせるくらいにね」

 押してだめなら退いてみろ、とは古人の言でありますが、効果は往々にしててきめんです。この場合も、子柳の心をくすぐるには十分でした。心中ひそかに、誰かに自慢したくてならなかったのです。そこで子柳は、絶対に手を触れないこと、息を吹きかけないことを念入りに約束させてから、翔鷹に見ることを許可したのでした。

 翔鷹は一目見るなりため息をつきかけましたが、慌てて口を押さえました。そして、

「僕が詩文はもとより絵画にも造詣が深いことは、君もよく知っていると思うんだけれど、この絵は明らかに王摩詰の運筆そのままだ。ほら、唐の詩人で南画の祖といわれるあの王維だよ。そして書かれた詩は李白と杜甫のものだが、どちらも二人の真筆にしか見えない。僕に出資してくれている第八王子の邸宅にお邪魔したときに、王維と李白、杜甫の真作を見たことがあるから間違いないよ」

 子柳はあまりの驚きに、思わず扇子を取り落とすところでした。側にいる翔鷹のことなどお構いなしに、扇子をじっと見つめています。そのありさまを、翔鷹はあごひげをひねりながら、興味深そうに眺めていたのでした。

 これだけ真に迫る出来映えなのだから、贋作といえど献上すれば第八王子もきっと喜んでくれるだろう。もしかしたら仕官への道が開かれるかもしれない。翔鷹はそう考えたのです。

 ついでに言い添えておくと、真面目で朴訥、才能が溢れる子柳のことを妬んでもいたのです。いたずら半分に、べそをかかせてやろうと軽く考えておりました。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

少年忍者たちと美しき姫の物語

北条丈太郎
歴史・時代
姫を誘拐することに失敗した少年忍者たちの冒険

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

金陵群芳傳

春秋梅菊
歴史・時代
明末、南京(金陵)の街を舞台に生きる妓女達の群像劇。 華やかだけれど退廃しきっていた時代、その中を必死に生きた人々の姿を掻いていきたいと思います。 小説家になろうで連載中の作品を転載したものになります。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

春恋ひにてし~戦国初恋草紙~

橘 ゆず
歴史・時代
以前にアップした『夕映え~武田勝頼の妻~』というお話の姉妹作品です。 勝頼公とその継室、佐奈姫の出逢いを描いたお話です。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

処理中です...