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第十二話
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それからというもの、子柳は花街通いに夢中になってしまいました。どっぷりはまって抜け出せなくなったのです。初めて抱いた蓮の葉の柔肌を忘れることができません。まるで吸い付くようだったのです。頬を染めて恥じらう姿が、脳裏にちらついて消えないのです。四書五経を開いても、詩作をしようと字書を引いても、全く頭に入りません。気晴らしに絵筆を取ってみれば、あられもない裸体を描く始末。夜は寝付くことができず、ひたすら寝台の上でまろび続けるばかりでした。
花代も馬鹿にはなりません。初めこそ仕送りをやりくりして捻出していましたが、やがてそれも苦しくなりました。会えないときほど、会いたい気持ちが募るもの。今こうしている間にも、他の男の腕に抱かれて、などと想像すれば、叫び出したくなるほどの痛苦に苛まれました。
そして子柳はとうとう友だちの翔鷹に金を借りるようになったのです。初めは少しだったものの、借りる額はどんどん膨らんでいき、到底返せるような金額ではなくなりました。翔鷹の支援者は皇帝の第八王子という身分だったので、彼自身はまるでお金に困っていませんでした。子柳が申し訳なさそうに無心すると、いつも笑顔で気前よく用立ててくれたのです。
実は翔鷹には狙いがあったのです。それは、借金のカタとして、子柳が隠し持つ宝物をせしめてやろうというものでした。
子柳は元来淡泊な性格で、物欲などはまるでなかったのですが、あの日三人の女仙から贈られた扇子だけは絶対になくさないよう大切にしておりました。毎日寝る前に取り出して、うっとりと眺めては、悦に入っていたのです。
少し前のことですが、子柳は乾いた墨跡を観賞しながら、ニヤニヤと笑みを浮かべておりました。そこへ、隣室に泊まる翔鷹が入ってきたのです。これといった用事などなく、借りていた本を返しに来ただけでした。しかし、子柳の様子を見た翔鷹は俄然興味をかき立てられたのです。
「何だかずいぶんご執心じゃないか。ははあ、さては流行の絵師にでも書かせた春画かい? そいつは僕も見逃せないな。女性にはまるで興味なさそうな君が夢中になるくらいなんだから」
そう言うなり扇子を取り上げようとします。慌てた子柳、取らせまいと体をねじりました。嫌がられると意のままにしたくなるのが人の性。この翔鷹も例外ではありません。何とか取ってやろうとしましたが、大人しいはずの子柳が懸命に抵抗するので、少しやり方を工夫することにしたのです。
「わかったよ、もうしない。謝るよ、悪かった。あまりに熱心だから、ついからかっただけだよ。それにしても、君をそこまで夢中にさせるんだ、その扇子は間違いなく逸品なんだろう。はは、天上に住まう仙人たちの宝物も色あせるくらいにね」
押してだめなら退いてみろ、とは古人の言でありますが、効果は往々にしててきめんです。この場合も、子柳の心をくすぐるには十分でした。心中ひそかに、誰かに自慢したくてならなかったのです。そこで子柳は、絶対に手を触れないこと、息を吹きかけないことを念入りに約束させてから、翔鷹に見ることを許可したのでした。
翔鷹は一目見るなりため息をつきかけましたが、慌てて口を押さえました。そして、
「僕が詩文はもとより絵画にも造詣が深いことは、君もよく知っていると思うんだけれど、この絵は明らかに王摩詰の運筆そのままだ。ほら、唐の詩人で南画の祖といわれるあの王維だよ。そして書かれた詩は李白と杜甫のものだが、どちらも二人の真筆にしか見えない。僕に出資してくれている第八王子の邸宅にお邪魔したときに、王維と李白、杜甫の真作を見たことがあるから間違いないよ」
子柳はあまりの驚きに、思わず扇子を取り落とすところでした。側にいる翔鷹のことなどお構いなしに、扇子をじっと見つめています。そのありさまを、翔鷹はあごひげをひねりながら、興味深そうに眺めていたのでした。
これだけ真に迫る出来映えなのだから、贋作といえど献上すれば第八王子もきっと喜んでくれるだろう。もしかしたら仕官への道が開かれるかもしれない。翔鷹はそう考えたのです。
ついでに言い添えておくと、真面目で朴訥、才能が溢れる子柳のことを妬んでもいたのです。いたずら半分に、べそをかかせてやろうと軽く考えておりました。
花代も馬鹿にはなりません。初めこそ仕送りをやりくりして捻出していましたが、やがてそれも苦しくなりました。会えないときほど、会いたい気持ちが募るもの。今こうしている間にも、他の男の腕に抱かれて、などと想像すれば、叫び出したくなるほどの痛苦に苛まれました。
そして子柳はとうとう友だちの翔鷹に金を借りるようになったのです。初めは少しだったものの、借りる額はどんどん膨らんでいき、到底返せるような金額ではなくなりました。翔鷹の支援者は皇帝の第八王子という身分だったので、彼自身はまるでお金に困っていませんでした。子柳が申し訳なさそうに無心すると、いつも笑顔で気前よく用立ててくれたのです。
実は翔鷹には狙いがあったのです。それは、借金のカタとして、子柳が隠し持つ宝物をせしめてやろうというものでした。
子柳は元来淡泊な性格で、物欲などはまるでなかったのですが、あの日三人の女仙から贈られた扇子だけは絶対になくさないよう大切にしておりました。毎日寝る前に取り出して、うっとりと眺めては、悦に入っていたのです。
少し前のことですが、子柳は乾いた墨跡を観賞しながら、ニヤニヤと笑みを浮かべておりました。そこへ、隣室に泊まる翔鷹が入ってきたのです。これといった用事などなく、借りていた本を返しに来ただけでした。しかし、子柳の様子を見た翔鷹は俄然興味をかき立てられたのです。
「何だかずいぶんご執心じゃないか。ははあ、さては流行の絵師にでも書かせた春画かい? そいつは僕も見逃せないな。女性にはまるで興味なさそうな君が夢中になるくらいなんだから」
そう言うなり扇子を取り上げようとします。慌てた子柳、取らせまいと体をねじりました。嫌がられると意のままにしたくなるのが人の性。この翔鷹も例外ではありません。何とか取ってやろうとしましたが、大人しいはずの子柳が懸命に抵抗するので、少しやり方を工夫することにしたのです。
「わかったよ、もうしない。謝るよ、悪かった。あまりに熱心だから、ついからかっただけだよ。それにしても、君をそこまで夢中にさせるんだ、その扇子は間違いなく逸品なんだろう。はは、天上に住まう仙人たちの宝物も色あせるくらいにね」
押してだめなら退いてみろ、とは古人の言でありますが、効果は往々にしててきめんです。この場合も、子柳の心をくすぐるには十分でした。心中ひそかに、誰かに自慢したくてならなかったのです。そこで子柳は、絶対に手を触れないこと、息を吹きかけないことを念入りに約束させてから、翔鷹に見ることを許可したのでした。
翔鷹は一目見るなりため息をつきかけましたが、慌てて口を押さえました。そして、
「僕が詩文はもとより絵画にも造詣が深いことは、君もよく知っていると思うんだけれど、この絵は明らかに王摩詰の運筆そのままだ。ほら、唐の詩人で南画の祖といわれるあの王維だよ。そして書かれた詩は李白と杜甫のものだが、どちらも二人の真筆にしか見えない。僕に出資してくれている第八王子の邸宅にお邪魔したときに、王維と李白、杜甫の真作を見たことがあるから間違いないよ」
子柳はあまりの驚きに、思わず扇子を取り落とすところでした。側にいる翔鷹のことなどお構いなしに、扇子をじっと見つめています。そのありさまを、翔鷹はあごひげをひねりながら、興味深そうに眺めていたのでした。
これだけ真に迫る出来映えなのだから、贋作といえど献上すれば第八王子もきっと喜んでくれるだろう。もしかしたら仕官への道が開かれるかもしれない。翔鷹はそう考えたのです。
ついでに言い添えておくと、真面目で朴訥、才能が溢れる子柳のことを妬んでもいたのです。いたずら半分に、べそをかかせてやろうと軽く考えておりました。
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