酔仙楼詩話

吉野川泥舟

文字の大きさ
上 下
12 / 20

第十話

しおりを挟む
 慣れた手つきで扉をくぐる翔鷹に手を牽かれ、子柳は促されるまま楼内に入りました。

 中は目がくらむくらいに真っ赤で、至るところに桃色の燭台が揺らめいています。やがて胸元がぱっくりと開いた衣裳に身を包んだ女性が二人、子柳と翔鷹の前にかしずきました。

 上から見下ろす子柳の目には、彼女たちの谷間がくっきりと映っています。子柳はくらくらと目眩を覚えました。彼にとって、うら若い女性の柔肌を目の当たりにしたのはこれが始めてだったのです。

 燈火の中で妖しく揺れる白い肌、つやを帯びた黒い髪。

 赤色、桃色、白に黒。今にも色彩の洪水に飲み込まれてしまいそうです。

 鼻を優しく撫でる白粉の香り。頭の奥まで蕩けそうに感じました。

 思わず生唾をゴクリとやってしまいます。

 そんな子柳の耳に、玉を手のひらで転がすかのような声が聞こえました。

「これは翔鷹さま。いつもご贔屓にありがとうございます。昨晩も玉鳳を可愛がって下さったばかりなのに、こうして来て頂けるとは、玉鳳はほんとうに果報者です。あの子も今や遅しと首を長くして、翔鷹さまのご光臨をお待ちしているに違いありません」

 甘く絡みつくかのような、澄んだ声音。それは翔鷹に向けられたものでした。

「はは、可愛いヤツよ。今夜も存分に楽しみたいのだが、実はな、初心者を連れてきた。ちょうどいい感じの、気立ての良くできた子を見繕ってやってくれないか」

「それはありがとうございます。今空いておりますのは三名ですが、どの子がよろしいか選んで頂ければ。玉鸞、連れてきておくれ」

 横に控えていた娘がすっと立ち上がります。わずかに揺れた空気が、仄かな芳香を子柳の鼻腔に届けました。ついぼんやりとその後ろ姿を見送ってしまいます。

 その娘はしずしずと奥へ引き取ると、間もなく三人の女性を連れて帰ってきました。そして翔鷹と子柳の前に再び跪きます。見下ろす子柳の眼には、燭に照らされた三人の白いうなじが艶やかな光を帯びて映っていました。

「この三名になります。左から蓮の花、蓮の実、そして蓮の葉でございます」

「そうだな。なにせ子柳どのは未経験なんだ。やはりここは百戦錬磨の蓮の花がいいだろう」

「さすがは将軍どの。そのご慧眼、誠に感服仕りました。何のためらいもなく一騎当千、万夫不当の花を選ばれるとは、まさに『兵は神速を尊ぶ』の言葉通り。これにて天下太平にございます」

 くつくつ、と忍び笑いがこぼれます。

 子柳は早鐘を打つ心臓を持て余しながら、おどけた調子のやりとりを聞いていましたが、一番右に控えた女性から目を離すことができませんでした。

 ほっそりとした体つき、控えめに差された頬紅、小さな唇。何より恥ずかしそうに俯くその仕草が、子柳の心をがっちりとつかんでいたのです。

「うん? どうしたんだい子柳どの。ああ、その子は蓮の葉で、まだ新人なんだ。客を取ったこともない。だから」

 子柳は翔鷹の言葉などまるで耳に入らないかのよう。蓮の葉と呼ばれた女性から目を逸らすことができません。

 蓮の葉は頬にぱっと紅葉を散らすと、もじもじしながら顔を背けました。うなじから鎖骨にかけて、ほんのりと桃色に染まっています。

「なるほど、子柳どのはそういう趣味か。はは、ならいいじゃないか。よし、その子とうんと楽しむといい。気にするな、今夜の花代は僕が出しておくから、気兼ねなくね」

 そうして二人はめいめい別室へ移りました。

 子柳が誘われた部屋はこぢんまりとしたものでした。ここでも薄桃色の燈火が控えめに揺らめいています。子柳の目に映る蓮の葉のうなじは真っ赤に染まっておりましたが、赤い燭台の照り返しなのか、それとも彼女自身の血潮なのか、子柳には判断が付きません。

 蓮の葉は寝台に座るよう子柳を促すと、黙ったままくるりと背中を向けました。子柳は思わず目を背けてしまいます。彼女の上衣は肩甲骨の辺りまで剥き出しになっていました。あまりの眩しさに、子柳はまるで正視することができなかったのです。

 子柳の耳に、かすかな衣擦れの音が響いてきました。そして、ぱさり、ぱさり、と乾いた音が床の方から聞こえます。子柳は心臓が口から飛び出るかと思いました。

 頑なに目を閉じる子柳の隣が微かに軋んだ音を立てました。子柳は自分のすぐそばに人の体温を感じました。柔らかなぬくもりが波打つようにして、少しずつ自分の肌を覆い、そして心の中までしみ込んでくるように感じていたのです。その抗いがたい誘惑に、魅力に、子柳の心の防波堤は今にも決壊しそうになっておりました。

 子柳は緊張のあまり、手足がガクガクと震え出しました。しかし同時に、書物で読んだ「雲雨の交わり」を想像してもいたのです。やがて子柳の震えを抑えるかのようにして、小さな手のひらが優しく、彼の手の甲に添えられたのです。

 子柳は思わず閉じていた目を開きました。添えられた彼女の手も、微かに震えていたのです。子柳の瞳に、燈火に濡れる蓮の葉のぎこちない笑顔が飛び込んできました。彼女の双眸はまるで夜空のようにきらめいて、手を伸ばしてもまるで届きそうにありませんでした。
 
 そして二人は無言のまま、そっと互いの目を閉じたのです。

 詩に曰く、
 春の鳥は微かに鳴いて 柳の枝でかくれんぼ
 心まで蕩けたあなたは あたしの家で一休み
 燈火は赤々と揺らめいて 重なる影を映し出し
 二筋の煙は絡まり合って 遙か天まで駆け上る
 
 子柳は体の芯から蕩かされるような体験をし、明け方近くになってから、ふらつく足取りで翔鷹と一緒に宿へ帰ったのですが、この話はここまでと致します。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

少年忍者たちと美しき姫の物語

北条丈太郎
歴史・時代
姫を誘拐することに失敗した少年忍者たちの冒険

地縛霊に憑りつかれた武士(もののふ))【備中高松城攻め奇譚】

野松 彦秋
歴史・時代
1575年、備中の国にて戦国大名の一族が滅亡しようとしていた。 一族郎党が覚悟を決め、最期の時を迎えようとしていた時に、鶴姫はひとり甲冑を着て槍を持ち、敵毛利軍へ独り突撃をかけようとする。老臣より、『女が戦に出れば成仏できない。』と諫められたが、彼女は聞かず、部屋を後にする。 生を終えた筈の彼女が、仏の情けか、はたまた、罰か、成仏できず、戦国の世を駆け巡る。 優しき男達との交流の末、彼女が新しい居場所をみつけるまでの日々を描く。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

金陵群芳傳

春秋梅菊
歴史・時代
明末、南京(金陵)の街を舞台に生きる妓女達の群像劇。 華やかだけれど退廃しきっていた時代、その中を必死に生きた人々の姿を掻いていきたいと思います。 小説家になろうで連載中の作品を転載したものになります。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

夢のまた夢~豊臣秀吉回顧録~

恩地玖
歴史・時代
位人臣を極めた豊臣秀吉も病には勝てず、只々豊臣家の行く末を案じるばかりだった。 一体、これまで成してきたことは何だったのか。 医師、施薬院との対話を通じて、己の人生を振り返る豊臣秀吉がそこにいた。

処理中です...