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第八話
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それからというもの、子柳は三日に上げず酔仙楼に通うようになりました。宿の主人は困惑顔をしていましたが、子柳が活き活きしているので言葉を挟むことができません。
子柳が金銭に困っていないのが不思議でもありました。酔仙楼の三階は言わずと知れた高級客の御用達、子柳のような書生が頻繁に通えるところではないのです。
もしかして借金でも、いやひょっとすると金持ちの令嬢と、などと勘ぐったものの、なかなか尋ねることができませんでした。
楚興義から預かった大事な身なのは分かっているのですが、見たところ学問にも精を出している様子、仕送りもいち書生には過分な額であったので、とりあえずは静観に徹しようと判断したのでした。
「おお、今日も約束通り来おったな」
急いで階段を上った子柳を、屈託のない笑顔が出迎えました。こぼれる八重歯が何とも愛くるしい少女、すももです。
恭しく拱手した子柳ですが、目の前に座っているのはいつもの二人だけではありません。今日は一人増えていたのです。その一人は、亜麻色の髪にやや垂れ目がちな瞳、右目の泣きぼくろが印象的な少女でした。
緩やかな眉は心をくつろがせ
穏やかな目元には慈愛を含む
子柳はその少女に会釈すると、自分にあてがわれた席に着きました。すると、
「実はな。そなたと酌み交わすうちに、ワシらだけで楽しむのは惜しいと思うてな。今日は新たなメンバーを一人用意したのじゃ」
子柳はすぐさま「面罵」と書き付けます。
その少女は慌てたようすで両手をばたつかせると、
「あうう。でもでも、よかったの? あたしなんかが来ちゃって。その、たい」
「わったた、それではないとあれほど言い含めたであろう? ワシはすももじゃ、間違えるな、このド天然! 天然が可愛いとか時代遅れじゃ! 春秋戦国時代かっ?!」
「ひどいよう。ちょっと忘れただけじゃない。……えっと、そのう。あ、あたしはね」
そこにすももが割り込みます。
「よいか、子柳。こやつはな、ブツ子という。そう呼ぶのじゃ、よいな」
「ねえ、やっぱりその名前やめようよ。何だかイヤだよ。本名はだめなの?」
「真名を晒すと面白くなかろう。よいか、そなたはブツ子、ワシはすもも。そしてこやつはしびっちで安定なのじゃ。それで何の問題もない」
「いやちょっと、安定って何ですか」
子柳はあまりの神々しさに目もくらむばかりでした。二人の女仙と詩酒の遊びができるだけでも幸せなのに、今日はさらにもう一人。子柳の期待がいや増します。
すももはしびっちの訴えを無言で退けながら、
「ホレ見ろ。こやつは純真なのじゃ。予定通り一発自己紹介でもかますがよい」
「えー。無茶ぶりなのは相変わらずなんだから。わかったよ、もう。ブツ子でいいよ」
こほん、と一つ咳払いを入れ、子柳の方に向き直ります。
「この二人よりは、少しだけ先輩になります。少しだけね。……こういうのは初めてだから難しいよ。すぱっと言っちゃえばいいのに」
ブツ子はそうブツブツ言うと、用意していた小箱を開けました。子柳が思わずのぞき込むと、そこには大小さまざまの筆と、絵皿、たくさんの顔料が入っていました。ブツ子はおもむろに顔料を溶くと、扇子を取りだしてさらさらと何やら書き始めました。
「はい。これが自己紹介代わり。よかったら受け取ってね」
子柳がそれを押し戴くと、そこには江南の風景が色鮮やかに活写されておりました。懐かしさのあまり、じっと見入ってしまいます。すると、
「うむ、やはりブツ子の腕は確かよな。ワシも興が乗ってきた。久々に一筆揮毫するか」
すももはそう言うなり、ブツ子の筆をひったくると、一気呵成に書き付けます。
青蓮居士であり 謫仙人
酒屋に隠れて早三十年
わざわざ名を問うこともあるまいて
金粟如来の生まれ変わりがこの私
この「青蓮」とは釈迦の弟子である維摩詰居士を連想した表現になっておりまして、「謫仙人」とは天界を追放された仙人のこと、「金粟如来」とは維摩詰居士の前身とされる仏を指します。
「もう。遠回しでも何でもないじゃない、すももちゃん。ほぼほぼそのまんまなんだけど」
「これくらいはサービスよ。つぎはしびっち、そなたじゃ」
子柳は慌てて「沙比洲」と書き付けました。
「わかりましたよ。空気を読みますから、あたしは」
「ああ、待った。律詩は長いから禁止。それと、湿っぽいのや愚痴っぽいのもな。空気を読むんじゃろ?」
しびっちは唇を突き出しましたが、すももに筆を握らされると、軽快に筆を走らせます。
李白は一斗で 詩を百篇
長安の街なか 居酒屋で夢見心地
皇帝が呼びに来てもなんのその
それがしは酒の仙人でございまする
「ほうほう! しびっちよ、見直したぞ。分かっておるではないか、興趣というヤツが」
上機嫌になったすももは、バシバシとしびっちの背中を叩いて喜んでいます。口をへの字に曲げたまま、しびっちはすもものなすがままでした。
扇子を受け取った子柳は感無量です。乾いたばかりの墨なのに、その目にはにじんで映っていました。
それもそのはず、すももが揮毫した詩は詩仙李太白の「答迦葉司馬問白是何人(迦葉司馬の白は是れ何人ぞと問うに答う)」であり、しびっちが揮毫したのは李太白と双璧を為す高名な詩人、詩聖と崇められる杜甫、字は子美の「飲中八仙歌」の一節だったのですから。
「えへへ、そんなに喜んでもらえるなんて嬉しいよ。ブツ子は微妙だけど、久々に降臨してよかったあ。機会があれば、今度はあたしの別荘に遊びに来てね」
「それはよい。ブツ子の別荘は風光明媚じゃからのう。街の喧騒もよいが、山水に身を抱かれて傾ける酒は何ものにも変え難い趣で溢れておる。フッ……ワシは飲めんけど」
そのあとはお決まりで、四人で飲めや歌えの大騒ぎ。子柳は今夜もうっとりした気持ちのまま、千鳥足で宿へ帰ったのですが、この話はここまでと致します。
子柳が金銭に困っていないのが不思議でもありました。酔仙楼の三階は言わずと知れた高級客の御用達、子柳のような書生が頻繁に通えるところではないのです。
もしかして借金でも、いやひょっとすると金持ちの令嬢と、などと勘ぐったものの、なかなか尋ねることができませんでした。
楚興義から預かった大事な身なのは分かっているのですが、見たところ学問にも精を出している様子、仕送りもいち書生には過分な額であったので、とりあえずは静観に徹しようと判断したのでした。
「おお、今日も約束通り来おったな」
急いで階段を上った子柳を、屈託のない笑顔が出迎えました。こぼれる八重歯が何とも愛くるしい少女、すももです。
恭しく拱手した子柳ですが、目の前に座っているのはいつもの二人だけではありません。今日は一人増えていたのです。その一人は、亜麻色の髪にやや垂れ目がちな瞳、右目の泣きぼくろが印象的な少女でした。
緩やかな眉は心をくつろがせ
穏やかな目元には慈愛を含む
子柳はその少女に会釈すると、自分にあてがわれた席に着きました。すると、
「実はな。そなたと酌み交わすうちに、ワシらだけで楽しむのは惜しいと思うてな。今日は新たなメンバーを一人用意したのじゃ」
子柳はすぐさま「面罵」と書き付けます。
その少女は慌てたようすで両手をばたつかせると、
「あうう。でもでも、よかったの? あたしなんかが来ちゃって。その、たい」
「わったた、それではないとあれほど言い含めたであろう? ワシはすももじゃ、間違えるな、このド天然! 天然が可愛いとか時代遅れじゃ! 春秋戦国時代かっ?!」
「ひどいよう。ちょっと忘れただけじゃない。……えっと、そのう。あ、あたしはね」
そこにすももが割り込みます。
「よいか、子柳。こやつはな、ブツ子という。そう呼ぶのじゃ、よいな」
「ねえ、やっぱりその名前やめようよ。何だかイヤだよ。本名はだめなの?」
「真名を晒すと面白くなかろう。よいか、そなたはブツ子、ワシはすもも。そしてこやつはしびっちで安定なのじゃ。それで何の問題もない」
「いやちょっと、安定って何ですか」
子柳はあまりの神々しさに目もくらむばかりでした。二人の女仙と詩酒の遊びができるだけでも幸せなのに、今日はさらにもう一人。子柳の期待がいや増します。
すももはしびっちの訴えを無言で退けながら、
「ホレ見ろ。こやつは純真なのじゃ。予定通り一発自己紹介でもかますがよい」
「えー。無茶ぶりなのは相変わらずなんだから。わかったよ、もう。ブツ子でいいよ」
こほん、と一つ咳払いを入れ、子柳の方に向き直ります。
「この二人よりは、少しだけ先輩になります。少しだけね。……こういうのは初めてだから難しいよ。すぱっと言っちゃえばいいのに」
ブツ子はそうブツブツ言うと、用意していた小箱を開けました。子柳が思わずのぞき込むと、そこには大小さまざまの筆と、絵皿、たくさんの顔料が入っていました。ブツ子はおもむろに顔料を溶くと、扇子を取りだしてさらさらと何やら書き始めました。
「はい。これが自己紹介代わり。よかったら受け取ってね」
子柳がそれを押し戴くと、そこには江南の風景が色鮮やかに活写されておりました。懐かしさのあまり、じっと見入ってしまいます。すると、
「うむ、やはりブツ子の腕は確かよな。ワシも興が乗ってきた。久々に一筆揮毫するか」
すももはそう言うなり、ブツ子の筆をひったくると、一気呵成に書き付けます。
青蓮居士であり 謫仙人
酒屋に隠れて早三十年
わざわざ名を問うこともあるまいて
金粟如来の生まれ変わりがこの私
この「青蓮」とは釈迦の弟子である維摩詰居士を連想した表現になっておりまして、「謫仙人」とは天界を追放された仙人のこと、「金粟如来」とは維摩詰居士の前身とされる仏を指します。
「もう。遠回しでも何でもないじゃない、すももちゃん。ほぼほぼそのまんまなんだけど」
「これくらいはサービスよ。つぎはしびっち、そなたじゃ」
子柳は慌てて「沙比洲」と書き付けました。
「わかりましたよ。空気を読みますから、あたしは」
「ああ、待った。律詩は長いから禁止。それと、湿っぽいのや愚痴っぽいのもな。空気を読むんじゃろ?」
しびっちは唇を突き出しましたが、すももに筆を握らされると、軽快に筆を走らせます。
李白は一斗で 詩を百篇
長安の街なか 居酒屋で夢見心地
皇帝が呼びに来てもなんのその
それがしは酒の仙人でございまする
「ほうほう! しびっちよ、見直したぞ。分かっておるではないか、興趣というヤツが」
上機嫌になったすももは、バシバシとしびっちの背中を叩いて喜んでいます。口をへの字に曲げたまま、しびっちはすもものなすがままでした。
扇子を受け取った子柳は感無量です。乾いたばかりの墨なのに、その目にはにじんで映っていました。
それもそのはず、すももが揮毫した詩は詩仙李太白の「答迦葉司馬問白是何人(迦葉司馬の白は是れ何人ぞと問うに答う)」であり、しびっちが揮毫したのは李太白と双璧を為す高名な詩人、詩聖と崇められる杜甫、字は子美の「飲中八仙歌」の一節だったのですから。
「えへへ、そんなに喜んでもらえるなんて嬉しいよ。ブツ子は微妙だけど、久々に降臨してよかったあ。機会があれば、今度はあたしの別荘に遊びに来てね」
「それはよい。ブツ子の別荘は風光明媚じゃからのう。街の喧騒もよいが、山水に身を抱かれて傾ける酒は何ものにも変え難い趣で溢れておる。フッ……ワシは飲めんけど」
そのあとはお決まりで、四人で飲めや歌えの大騒ぎ。子柳は今夜もうっとりした気持ちのまま、千鳥足で宿へ帰ったのですが、この話はここまでと致します。
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