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第一話
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明の嘉靖年間のことでございます。江南は会稽の地に、一人の貧乏書生がおりました。この書生、姓は盧、名は廣、字は子柳と申します。何でも、生まれたときに母親がありがたい夢を見たそうで、そのお腹に真っ白な毛並みをした兎が頬ずりをするというものでした。
そうしてこの世に生を受けた子柳は、母の愛に包まれながら元気に成長し、五才のときには四書五経をそらんじ、難解な古注は言わずもがな、古人の施した注解の誤りを指摘するほどになりました。
子柳の家は貧しく、母ひとり子ひとりの生活でした。本を買おうにもなかなか思うに任せません。そこで子柳は、地元の蔵書家の家に出向いては経書を読み込み、全て暗記することにしたのです。これが都の書肆ならば、商売上がったりということで煙たがられるのは明白ですが、会稽の蔵書家たちは子柳の才を愛し、いくらでも読ませてくれたのでした。
その記憶力は桁外れでした。まるで頭の中に無数の書物が丸々収まっているようで、一切本を開けずとも、古の聖人賢人の言葉をさらさらと筆墨でしたためるのです。子柳の神童ぶりは会稽のみに留まらず、南京応天府まで鳴り響くようになりました。
彼の才は記憶力だけではありませんでした。なんと書にも優れていたのです。その証に、例えばこんな逸話がございます。
会稽で名高いのはやはり書聖と崇められる王羲之でありましょう。しかし惜しむらくはその真筆がこの世に全く存在しないことで、なんでもその書を愛した過去の皇帝が、自分の陵墓の中に全て持ち込んでしまったと伝わっているのです。しかし幸いにもその模写はたくさん世に行われ、王羲之の書風を間接的にではありますが、鑑賞することができました。特にもてはやされたのが唐代の褚遂良の模写で、その完成度の高さは、好事家たちの間でも大人気でございました。
あるとき、子柳は会稽郡に居を構える田修という書家の宴に招かれたことがございました。田修は会稽でも指折りの好事家でありまして、その収蔵品の数には目を見張るものがございました。中でも、特に自慢にしていたものが、かの褚遂良が模写するところの王羲之「蘭亭序」だったのです。模写とはいえ、入手するのは大変です。何しろ、金銀珠玉を山と積んだとしても、皇帝の勅命だとしても、おいそれと手に入れることはできないのですから。田修にとってはまさに一世一代の買い物、大枚をはたいたであろうことは想像に難くありません。
子柳は田修宅でその模写を目にするや、食べることも忘れて見入っておりました。やがて筆墨を所望すると、まるで何かに取り憑かれたかのように、一気呵成に写し取ったのです。すぐさま軸に仕立てて両者を並べたところ、その場に居合わせた玄人たちでさえ見分けがつきませんでした。まるで褚遂良、いや王羲之の魂魄が宿ったとしか思えません。あまりの出来映えに、田修も呆然とするばかりだったといいます。
そうしてこの世に生を受けた子柳は、母の愛に包まれながら元気に成長し、五才のときには四書五経をそらんじ、難解な古注は言わずもがな、古人の施した注解の誤りを指摘するほどになりました。
子柳の家は貧しく、母ひとり子ひとりの生活でした。本を買おうにもなかなか思うに任せません。そこで子柳は、地元の蔵書家の家に出向いては経書を読み込み、全て暗記することにしたのです。これが都の書肆ならば、商売上がったりということで煙たがられるのは明白ですが、会稽の蔵書家たちは子柳の才を愛し、いくらでも読ませてくれたのでした。
その記憶力は桁外れでした。まるで頭の中に無数の書物が丸々収まっているようで、一切本を開けずとも、古の聖人賢人の言葉をさらさらと筆墨でしたためるのです。子柳の神童ぶりは会稽のみに留まらず、南京応天府まで鳴り響くようになりました。
彼の才は記憶力だけではありませんでした。なんと書にも優れていたのです。その証に、例えばこんな逸話がございます。
会稽で名高いのはやはり書聖と崇められる王羲之でありましょう。しかし惜しむらくはその真筆がこの世に全く存在しないことで、なんでもその書を愛した過去の皇帝が、自分の陵墓の中に全て持ち込んでしまったと伝わっているのです。しかし幸いにもその模写はたくさん世に行われ、王羲之の書風を間接的にではありますが、鑑賞することができました。特にもてはやされたのが唐代の褚遂良の模写で、その完成度の高さは、好事家たちの間でも大人気でございました。
あるとき、子柳は会稽郡に居を構える田修という書家の宴に招かれたことがございました。田修は会稽でも指折りの好事家でありまして、その収蔵品の数には目を見張るものがございました。中でも、特に自慢にしていたものが、かの褚遂良が模写するところの王羲之「蘭亭序」だったのです。模写とはいえ、入手するのは大変です。何しろ、金銀珠玉を山と積んだとしても、皇帝の勅命だとしても、おいそれと手に入れることはできないのですから。田修にとってはまさに一世一代の買い物、大枚をはたいたであろうことは想像に難くありません。
子柳は田修宅でその模写を目にするや、食べることも忘れて見入っておりました。やがて筆墨を所望すると、まるで何かに取り憑かれたかのように、一気呵成に写し取ったのです。すぐさま軸に仕立てて両者を並べたところ、その場に居合わせた玄人たちでさえ見分けがつきませんでした。まるで褚遂良、いや王羲之の魂魄が宿ったとしか思えません。あまりの出来映えに、田修も呆然とするばかりだったといいます。
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