融女寛好 腹切り融川の後始末

仁獅寺永雪

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第17章 虎穴に入る

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 栄は、神田駿河台の大久保屋敷を辞し、いよいよ阿部家上屋敷に向かう。現代で言うと、東京駅丸の内口の新丸ビル辺りである。
 神田からは、神田橋御門を渡ってまっすぐ南下すれば近い。しかし、その地域には、御三卿の一橋家や譜代大名筆頭・酒井家などの屋敷が並んでいる。近道なのでちょっと失礼、とはいかない。よって、少し東に迂回し、呉服橋御門の側から阿部家上屋敷を目指すことになる。

 栄と護衛兼連絡役の狩野新十郎が、呉服橋御門の番所に着いたのは、四つ(ほぼ午後十時)少し前であった。江戸城下は、四つを過ぎると町と町の間に設けられている木戸が閉まる。自由往来が出来なくなるのだ。

「新十郎さん、どうしましょうか。あなたには一度戻ってもらった方がいいかしら。あなたの足で駆ければ、木戸が閉まる前に帰れるでしょ」
「それはそうですが、お栄様は、お帰りはどうなさるのですか。阿部様のところで駕籠を呼んでいただけるでしょうか」
「さあ、どうかしら」

 そこで新十郎は、番所の建物に目をやった。囲炉裏の火らしい明かりが障子に透けて見える。
「大丈夫ですよ。あそこで待っています。中は暖かそうだ」
「そう。じゃあ、そうしてもらおうかしら」

 番所の前に立つ役人に、「主命により備後福山藩上屋敷を訪問いたします」と伝えると、すぐに一人が連絡に走ってくれた。これより先は勝手に入るのではなく、阿部家の家臣に伴われて進むことになる。

 阿部家の迎えはすぐに来た。
「狩野家の代表の方ですな。お待ちしておりました。ご案内いたします」
「恐れ入ります。じゃあ、新十郎さん、行ってきますね」
「ご武運を」
 新十郎が急に思い詰めた表情になったので、何か言うべきかと思ったが、やめた。そのまま、くるりと背を向けて歩き出した。

 三十半ばくらいだろうか。細身の侍が、阿部家の定紋の入った提灯で足元を照らしながら先導してくれる。こんな夜分に、女が一人で大名屋敷にやって来た。何事かと思っているはずだが、そんな素振りは微塵も見せない。志津の大久保家同様、この家もしっかりしている。

 大名屋敷には門がいくつもある。将軍など高位の客を迎えるための御成門、藩主が使う正門、家臣が使う通用門、下働きや出入りの商人などを通す勝手口と言った具合だ。
 栄は、屋敷地の東側にある家臣用と思われる門に案内された。飾り気はないが、さすがに堂々たる構えである。夜分なので門は閉まっていて、脇のくぐり戸から中に通された。動悸が激しくなるのを必死に抑え込む。

 玄関で案内の家臣が交代した。ここでも手燭をかざして足元を照らしてくれる。暗い中、綺麗に磨かれた廊下の表面に手燭の明かりがキラキラと光って、ちょっと幻想的だ。

 あれ、どこまで行くのかしら?

 てっきり、玄関脇の控えの間か、少し入った家臣同士が事務的な話をする部屋に通されると思っていた。そして、家老か、その下の渉外担当の中老あたりが出て来て、阿部家側の要求を一方的に突き付けられて終わるだろう、と。

 栄がここまで、歩きながらずっと考えていたのは、そうなった場合の対処法である。如何に食い下がって相手の本音を引き出すか。そして、こちらが簡単に泣き寝入りする者ではないと理解させるか。その上で、本格的な交渉は日を改めて、と考えていたのだ。

 しかし、案内の家臣は、どんどん進んで行く。奥へ、さらに奥へ。この長い廊下は、恐らく大広間の横だろう。襖がずらりと並んでいる。

 まだ奥に行くの?

 当たり前のことだが、奥に行けば行くほど部屋の格は上がり、この屋敷で最も偉い人間がいる場所に近づく。

 まさか、備中守本人が。まさかね。

 案内の家臣の足が止まった。彼は、「こちらです」と言って、一枚の障子の前で片膝を付いた。位置的に、広い屋敷地のほぼ真ん中だろう。大名屋敷の構造は、細かくはそれぞれ異なるが、大きなところは似たり寄ったりである。

 奥絵師・浜町狩野家では、公儀の御用だけでなく、大名からの依頼で大名屋敷の襖絵を描くことも多い。大名の代替わりや将軍の御成を控え、屋敷全体の襖を一度に入れ替えるという大仕事を請け負うこともある

 そうした場合、浜町家の工房だけでは手が足りず、系列の表絵師や町絵師なども総動員して作業にあたる。そして、作業全体の統括者となる奥絵師は、屋敷の図面を見ながら全体のバランスを考え、襖絵の配置と担当者を決めていく。
 栄も何度か融川の横でその手伝いをしてきた。当然、大名屋敷の基本構造くらいは頭に入っている。

 ここは、黒書院だ。

 黒書院は、天井の格子や障子の縁が黒漆で塗られていることから、その名で呼ばれる。大広間が正式な会合や儀式に使われるのに対して、黒書院は、大名が私的な対面や実務的な話し合いのために使う部屋である。

 いきなり大名本人との交渉?!

 さすがに想定外だが、引き返すわけにもいかない。案内の家臣が、「どうぞ中へ」と促すので、軽く会釈した後、栄も廊下に片膝を付いた。そして、障子に手を掛け、すっすっすっと静かに開けた。さらに、膝からにじり寄るように体を室内に運ぶ。視線を上げないように気を付けつつ、障子を閉め、体を回転させる。そのまま、とりあえず平伏しておく。

 すると左斜め前方から、「あ、お栄殿。お栄殿がいらしたのですか」と、聞き覚えのある声がした。

「あら、町田先生。先生が同席されるのですか」
「はい。備中守様から、今回の話はご家中の方々には聞かせたくない。部外者の、私のような者の方がよいと言われまして」
「そうなのですか」
「まあ、気楽に。まだいらしていませんから。とにかく、そこではお体が冷えましょう。あちらへ」と、町田が部屋の中程を指し示した。

 見るとそこには敷物があり、小さな手あぶりも置いてある。
「ありがとう存じます」
 足がもつれないように気を付けて移動し、敷物の上に正座した。正面を見ると、部屋を上段と下段に分かつ太い横木が、見事に黒漆で塗られていた。
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