上 下
16 / 36

第15章 姉弟子(前段)

しおりを挟む
 栄は、出発前に台所脇で軽い夕食を摂った。
 家老の長谷川から禁足令が出ているため、台所では女中総出で俵型のおむすびを握っている。画塾の門人も含めると大所帯だ。女中たちが、いくつも並べられた塗りの重箱におむすびをどんどん詰め込んで行く。
 その中から三つほど取り分けてもらった。その際、女中の一人が気を利かせて、香の物とほうじ茶を添えてくれたことが、ひどく嬉しかった。

 栄が浜町狩野屋敷から通りに出ると、本所横堀で撞かれている五つ(ほぼ午後八時)の鐘が背後で鳴った。わずかにずれてもう一つ聞こえる鐘の音は、日本橋のものだろう。

 冬の五つとなれば、外は完全に真っ暗である。町駕籠は、色町周辺などを除けば、だいたい六つ(ほぼ午後六時)を過ぎると町中からいなくなる。特別料金を払って個別に呼ぶことは出来るが、今は自分の足で歩く。

 通りを西に進み、商家の並ぶ地域に入ったところで北に折れようとすると、同行する狩野新十郎が声をかけてきた。長谷川が付けてくれた護衛兼連絡役である。

「お栄様、方角違いではありませんか。ご家老の話では、阿部様のお屋敷は呉服橋御門の近くとのことですが」
「いいのです。阿部様のお屋敷の前に寄っておくところがあるのですよ」

 新十郎は、御用絵師・駿河台狩野家の三男坊だ。歳は十六。駿河台家は、奥絵師四家の下の表絵師と呼ばれる階級に属する。表絵師は、お目見え(将軍に拝謁する)資格のない御家人格であった。ただ、駿河台家は、狩野探幽の養子を祖とする家で、十五家ある表絵師の筆頭とされ、時として奥絵師四家と同格に扱われてきた名門である。

 駿河台家は、当然のこととして、探幽直系の鍛冶橋狩野家の系列に属する。しかし、新十郎は、父親や兄たちと反りが合わず、あえて系列外の浜町家に修行に来ていた。

 入門から二年足らず。絵画の腕はまだまだ半人前。一方、画塾では珍しい剣術好きで、浜町屋敷からほど近い男谷道場に熱心に通っている。
 中肉中背、身なりは至って普通の若侍だが、大小の鞘を梅花皮(梅花に似たブツブツが浮き出た鮫皮)の拵えにしているあたり、何かと背伸びしたい年頃なのかもしれない。

 新十郎は、御家人格とはいえ幕臣の子であるから、身分的には栄より上になる。年齢も三つしか違わない。しかし、何せ栄は九歳から融川門下にいる。技量の差も大きい。故に新十郎は、栄に対して常に目上に接する態度を崩さない。
「それならばいいのですが。どちらに寄られるのですか」
「新十郎さんは、神田駿河台のお志津様のところは分かりますか」

「お志津様ですか。ああ、大久保様ですね。実家の近くですし、殿様の出稽古で一度お供したこともあります。ただ、あの辺りは、同じような屋敷が並んでいますからね。まあ、近くまで行けば何とかなるでしょう」

「そう。では、ご苦労ですけど、わたくしが火急の用件でこれから伺うと先触れしてくれませんか」
「承知しました。でも、お一人で大丈夫ですか」
「まだ人通りもありますし、この辺りで追剥ぎもないでしょう」
「承知しました。では、お先に失礼!」
 新十郎は駆け出すと、あっという間に見えなくなった。元気な青年である。

 神田駿河台は、現代でいうと御茶ノ水駅の南側のエリアで、大名屋敷や高級旗本の屋敷がひしめく典型的な武家町であった。栄がこれから訪ねる大久保家もその中のひとつだ。
 そして、「お志津様」とは、大久保家の奥様・志津のことである。栄にとっては、融川門下の姉弟子にあたる。

 志津の実家の永井家、婚家の大久保家は、ともに三千石を超える高級旗本。しかも、江戸幕府創立以来、約二百年にわたって幕府中枢に人材を提供し続けてきたエリート一族であった。志津の夫・大久保信濃守も、数ある遠国奉行の首座・長崎奉行を務めている。

 志津は、大久保家に嫁ぐ前、実家の永井家にいた頃から融川に師事していた。弟子と言えば弟子だが、職業絵師を目指して画塾に入門する弟子ではない。栄や新十郎などとは全く異なる。

 江戸時代、絵画も、和歌や漢詩、書などと一緒で、武家の子弟にとって必修の教養科目とされた。教師役は主に御用絵師たちが務め、中でも、大名や高級旗本の子弟の教育には、奥絵師四家が当たった。この場合、絵画の稽古は、師が弟子の屋敷を訪れて行う、いわゆる出稽古形式であった。

 普通、一通りのカリキュラムを修めれば指導は終わるのだが、志津は、融川を師として敬うこと厚く、その後も絵画修行を続けている。融川の名から「寛」の一字をもらい、画には「寛道」と署名する。水墨で山水や竹木を描くのを好む。

 そして、三年ほど前から、栄は、主に課題の提出と添削後の返却であるが、融川と志津の間の連絡役を任されていた。
 志津は、融川門下でメキメキと頭角を現しているこの妹弟子を大層気に入っており、栄が屋敷を訪れるといつも歓待してくれる。誇り高い官僚一族の出らしく、少々うるさいところはあるが、今夜のような状況においては、これ以上頼りになる味方はいない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪
歴史・時代
 狩野岑信は、江戸中期の幕府御用絵師である。竹川町狩野家の次男に生まれながら、特に分家を許された上、父や兄を差し置いて江戸画壇の頂点となる狩野派総上席の地位を与えられた。さらに、狩野派最初の奥絵師ともなった。  特筆すべき代表作もないことから、従来、時の将軍に気に入られて出世しただけの男と見られてきた。  しかし、彼は、主君が将軍になったその年に死んでいるのである。これはどういうことなのか。  彼の特異な点は、「松本友盛」という主君から賜った別名(むしろ本名)があったことだ。この名前で、土圭之間詰め番士という武官職をも務めていた。  舞台は、赤穂事件のあった元禄時代、生類憐れみの令に支配された江戸の町。主人公は、様々な歴史上の事件や人物とも関りながら成長して行く。  これは、絵師と武士、二つの名前と二つの役職を持ち、張り巡らされた陰謀から主君を守り、遂に六代将軍に押し上げた謎の男・狩野岑信の一生を読み解く物語である。  投稿二作目、最後までお楽しみいただければ幸いです。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

『帝国の破壊』−枢軸国の戦勝した世界−

皇徳❀twitter
歴史・時代
この世界の欧州は、支配者大ゲルマン帝国[戦勝国ナチスドイツ]が支配しており欧州は闇と包まれていた。 二人の特殊工作員[スパイ]は大ゲルマン帝国総統アドルフ・ヒトラーの暗殺を実行する。

浅井長政は織田信長に忠誠を誓う

ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

日本には1942年当時世界最強の機動部隊があった!

明日ハレル
歴史・時代
第2次世界大戦に突入した日本帝国に生き残る道はあったのか?模索して行きたいと思います。 当時6隻の空母を集中使用した南雲機動部隊は航空機300余機を持つ世界最強の戦力でした。 ただ彼らにもレーダーを持たない、空母の直掩機との無線連絡が出来ない、ダメージコントロールが未熟である。制空権の確保という理論が判っていない、空母戦術への理解が無い等多くの問題があります。 空母が誕生して戦術的な物を求めても無理があるでしょう。ただどの様に強力な攻撃部隊を持っていても敵地上空での制空権が確保できなけれな、簡単に言えば攻撃隊を守れなけれな無駄だと言う事です。 空母部隊が対峙した場合敵側の直掩機を強力な戦闘機部隊を攻撃の前の送って一掃する手もあります。 日本のゼロ戦は優秀ですが、悪迄軽戦闘機であり大馬力のPー47やF4U等が出てくれば苦戦は免れません。 この為旧式ですが96式陸攻で使われた金星エンジンをチューンナップし、金星3型エンジン1350馬力に再生させこれを積んだ戦闘機、爆撃機、攻撃機、偵察機を陸海軍共通で戦う。 共通と言う所が大事で国力の小さい日本には試作機も絞って開発すべきで、陸海軍別々に開発する余裕は無いのです。 その他数多くの改良点はありますが、本文で少しづつ紹介して行きましょう。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

処理中です...