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第14章 奥様の憂鬱

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 報告会が終わり、廊下に出た栄に、妹弟子で奥様付きの女中でもあるこまが声をかけてきた。
「お栄様、ちょっとよろしいですか」
「ええ、もちろん。何かしら?」

「その、奥様のことですが、お部屋にお戻りになるなり、私に文をしたためる準備をするようにとおっしゃいました。その、よろしいのでしょうか。奥様は少々、世事に疎いところがおありなので、勝手に文など出されては、その、何と言いましょうか」
「文を。よく知らせてくれました。でも、どうしましょう。こちらから押しかけるわけにもいかないし・・・」
「そこはお任せを。一緒に参りましょう」

 先立って歩くこまが、歌子の部屋の前で廊下に膝を付き中に問う。
「奥様、よろしいでしょうか。お栄様が、お大名相手のお作法について、奥様にご教授をお願いします、とのことでございます」
「そう。よろしくてよ。お入りなさい」

「失礼いたします」と、静かに襖を開けてこまが部屋に入った。栄もそれに続く。頭の中で、お作法って何を訊けばいいのよ、と文句を言いながら。
 しかし、そのことは問題にならなかった。栄の姿を見るなり歌子が言った。
「お作法の前に、もう少し身なりを整えないといけませんね。おこま、お栄を鏡台の前に」

 歌子の鏡台は、下の引き出し部分から、鏡の裏側まで、びっしりと螺鈿細工が施されている。その細工は精緻を究め、源氏物語のいくつかの場面を見事に描き出す。正真正銘、値千金のお姫様道具である。
 栄はその鏡台の前に座らされ、こまに髪を梳いてもらった。
「お栄様の髪は相変わらずお綺麗ですね。真っ黒で、つやつやで、羨ましいわ」

 次いで、別の女中から熱いお絞りを渡された。首筋や腕の辺りを拭うと実に気持ちいい。この冬は雪が少ない分、外は乾燥して埃っぽい。思えば、昼過ぎからこっち、両国から浜町まで歩き、いや、後半は駆けていたか。さらに駕籠を使ったとはいえ、浜町と神田の間を往復している。時間があるなら湯屋に行きたいくらいだ。

「着物も替えた方がいいかしら? わたくしの持ち物からどれか・・・」と歌子。
「め、滅相もない。お気持ちだけで十分でございます!」と、栄は即座に謝絶した。
 当たり前である。旗本の奥様と陪臣の娘では身分が違う。江戸時代、身分によって着るものは厳格に分けられていた。それを無視すれば、かえって侮りを受ける。自分だけならともかく、その後ろにいる親や主家まで恥をかくのだ。

 すると、こまが、ポンと手を打って部屋を出て行った。そしてすぐに、数枚の小袖と帯を抱えて戻ってきた。それは、女中用のお洒落着だった。歌子の外出に随行したり、屋敷で賓客の世話をするときに着るものだ。
 栄はその中から、落ち着いた錆浅葱の小袖を選んだ。全体に少し大きめの雪持笹と雪輪紋が散らしてある。帯は臙脂に唐草柄。歳よりも少し背伸びした感じである。

 こまは、新しい白足袋と女性用の羽織も出して来た。そして、栄を立たせて着付け、上から下まで確認。その後、大きく頷いた。
「これでよし。お栄様、お綺麗です。これなら、大奥のお中臈様でも通りますよ」
「もう、いい加減なことを」
「でも、ちょっと頭が貧相だなぁ。あっ、そうだ」と言うと、こまは丈長(垂髪を結っている紙)を一度外し、綺麗な飾り結びにしてくれた。
「如何ですか」
「素敵ね。ありがとう」

「あと、何が必要かしら? そうだ、お草履。重ね草履の新しいのをお玄関に出しておきましょう。夜は冷えるから、御高祖頭巾もあった方がいいかなぁ」
「いろいろ悪いわね」
 栄の身支度がだいたい済んだところで、歌子が、部屋の反対側に置かれた文机に視線を向けながら言った。
「おこま、少しお栄と二人にしてちょうだい」

 こまが部屋を出て行った後、栄は歌子の前に座り直して頭を下げた。
「奥様。お心配り、ありがとう存じます」
「よいのです」
「何かお話がございますか」
「ええ。そうですね。わたくしも、殿様があのようなお姿で戻られ、もう驚くやら怖いやら。それで少し落ち着いたら今度は、悲しくて、悲しくて・・・」
「お察しいたします」

「でも、このままではいけないでしょ。お栄の言う通り、これからが大変ですもの。ご支配様(奥絵師の直接の上司である若年寄)や他の御用絵師の皆様へのご連絡は明日以降にするとして、まずは、実家の父や兄に使いを出して助けてもらおうと思うのです。どうかしら?」

 ああ、そっちか。そっちだったか。栄は頭を抱えたくなった。

 なるほど、夫を失った今、歌子の頼りは実家だ。何せ四千五百石。そこらの大名より富裕だし、幕府内での人脈もある。しかも、歌子は父親に溺愛されている。孫二人に対する愛情も加われば、力強い後ろ盾になってくれるに違いない。

 無論、いずれ助けてもらう局面はあるだろう。しかし、今ではない。

 武家屋敷は基本的に秘密主義なのだ。たとえ親兄弟であっても、家が違う以上、一線を引かなければならない。ましてや、歌子の実家は絵画とは無関係の家である。下手に関わられると話がややこしくなる。

「奥様、それはお控えになった方がよいと存じます」
「どうして?」

「はい。わたくしは、ご公儀の上の方の事情など詳しくは存じません。されど、阿部備中守様の奏者番というお役目が、公方様のご側近が就く職であるということくらいは存じています。その阿部様が、このように急いで話し合いを求めてきているのです。何か余程の事情があるのではないでしょうか」
「何があるのかしら? お栄は何か見当をつけているのですか」
「いえ、それはまだ。しかし、どうか、わたくしが阿部家より戻るまでは、外への連絡はお控え下さいませ」

 歌子は一応納得してくれたが、不安そうな表情は変わらない。栄が、これは長谷川に注意しておいた方がいいかな、と考えていると、勢いよく横の襖が開いた。
 驚いて目を向けると、浜町狩野家の嫡男・舜川昭信が駆け込んできて、歌子の左横にちょこんと座った。そしてすぐに、「兄上、待って!」と、次男の友川助信も入ってきて、兄とは反対の歌子の右側にこれまたちょこんと座った。舜川十歳、友川八歳。二人とも可愛い盛りである。

「母上。お栄がどうしてここに?」と、舜川が尋ねた。
「お栄はこれから、当家のため、大事な会合に赴くところなのです。その準備ですよ」
「父上のことですか」
「ええ、そのことも含めて大事なお話なのです」
「そうですか。では、お栄、頼むぞ」と舜川。友川も「頼むぞ」と慌てて兄に倣う。
「かしこまりました。栄も励みます故、舜川様、そして友川様も、どうかこちらで奥様をお守り下さいませ」
「相分かった」、「任せよ」と、幼い二人の声が被った。
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