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第11章 報告会(前段)
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栄は、板谷桂意の屋敷のある神田鎌倉横町から浜町に向かい、再び町駕籠に乗っていた。すでに日が暮れている。しかし、そんなことは気にもならず、桂意に言われたことを考え続けていた。
屏風見分の場で起こったことを聞いたときは、師の無念を思って怒りに我を忘れた。しかし、桂意が指摘した通り、浜町狩野家は存続の危機にある。それもかなりの崖っぷちだ。
武家にとって、家の存続は至上命題である。栄も陪臣とはいえ、侍奉公する武士の娘であり、そのことは遺伝子レベルで刷り込まれている。今、何を優先するべきか。自分に何が出来るのか。分かる人がいるなら教えて欲しい。
先生、融川先生。先生はどうして欲しいですか。
駕籠が浜町狩野屋敷に着いたのは、暮れ六つ(ほぼ午後六時)少し前であった。玄関を上がると家臣の一人が寄ってきて、融川の遺体が横たわる座敷ではなく、ひとつ手前の広間に行ってくれと告げた。
その広間では、上座に対して、素川章信と家老の長谷川、家臣たち、画塾から弟子の代表が三人、左右に分かれて着座していた。
素川が中央辺りを指して、「お栄、そこに」と言う。栄が黙ってそこに座る。誰もいない上座に目をやると、横から長谷川の声がした。
「今、奥様がいらっしゃる。しばし待て」
素川は膝をさすりながら、上体をゆすっている。どうにも落ち着かない人だ。
「お栄、何か分かったのか、おい!」
「素川様、お待ちを。お栄の説明を聞くのは奥様の御前でと、先ほど話し合ったばかりではありませんか」
「ああ、じれったい。さっさとあのお姫様を呼んで来い!」
しばらくすると、上座の横の襖が一枚静かに開き、女中が中に告げた。
「奥様のご出座でございます」
栄を含めて浜町狩野家に属する者は平伏して迎える。素川は別の家の元当主で、融川の友人枠なので軽く会釈するだけだ。
「待たせましたね。素川殿、いろいろとお骨折りいただき、ありがとう存じます」
「いえ、ご主人にはこれまで友として親しくお付き合いいただきました。当然のことです」
「長谷川、どうなっていますか。話を聞かせておくれ」
融川寛信の夫人・歌子は、夫より三つ下の三十一歳。実家は四千五百石の高級旗本だ。父親が四十過ぎて設けた末娘で、この上なく大事に育てられた。
浜町狩野家の禄高は二百石。歌子の実家とは格が違い過ぎるようだが、御用絵師、特に奥絵師の家は表の禄高以上に裕福なのである。
また、城勤めにおいて最も危険なのは、派閥争いに巻き込まれることだ。その点、奥絵師は技術系の専門職であり、自ら首を突っ込むような愚を犯さなければ、そうした危険も避けやすい。
歌子の父親は、浜町家の先代・閑川昆信と懇意であったこともあり、愛娘の幸せを最優先に考え、融川との縁談をまとめたのであった。
父親の願い通り、歌子はこれまで平穏な日々を過ごしてきた。長男の舜川昭信、次男の友川助信という二人の男の子にも恵まれた。融川は、遊び好きの融川、女好きの融川などと噂されていて、実際そういう面もあったが、屋敷内では愛妻家であり、子煩悩な父親であった。
浜町狩野屋敷には小規模ながら池泉回遊式の庭がある。屋敷内に工房や土蔵といった他の旗本屋敷にない施設を建てる必要から、スペース的な制約は受けるが、そこは美意識の高い奥絵師の家のことだ。限られた空間を上手に使い、緑豊かで清々しい景色の庭を作っていた。画を描く際の参考も兼ね、松や楓などの植木の他、四季折々の花々も植えられている。
また、この家は、研究資料として、源氏物語や伊勢物語を題材とした貴重な画帖や絵巻物をいくつも所蔵していた。
歌子と融川は庭に面した書院で、季節により、咲く花や色づく木々により、似合いの場面を描いた絵巻物などを広げて楽しむ。歌子が物語の内容や和歌について、融川が画について、お互いに講釈し合っている姿は何とも微笑ましいものだった。
お茶とお菓子を運ぶ女中が、「ほんに、殿様と奥様は絵巻物の中の、光の君と紫の上のようですこと」と褒めそやす。
「あら、光の君は殿様のようなクリクリ頭ではございませんことよ。言うなら、平相国と囚われの常盤御前ではないかしら」
「奥よ、それはひどい。まあ、軟弱な光源氏より清盛入道の方が俺は好きだがな。清盛は今やすっかり嫌われ者だが、武士の世を最初に切り拓いた偉い奴さ」
「武士の世を作ったのは鎌倉殿ではございませんの?」
「確かに、将軍が幕府を開いて政を執るという形を作ったのは頼朝だが、清盛の地ならしがあってこそ出来たことだ。それに、平家の方が何事も派手でいい。源氏はどうも辛気臭いよ。絵師の仕事はなさそうだ」
「それはいけませんね、ふふふ」
栄は、この恩師夫婦の持つ何とも柔らかな雰囲気が好きだった。歌子についても、同じ武士の家に生まれながら、こうも違って育つものか、と思いつつ、それは決して否定的な感情ではない。
その絵巻物の中から抜け出たような、苦労知らずのお姫様に、いきなりの災難である。長谷川の話では、歌子は、栄や素川が浜町屋敷に到着する前、座敷に運び込まれた血まみれの夫の姿を見るや、気を失って倒れたそうだ。さもありなん。今も顔色は真っ青だ。女中に支えられてようやく姿勢を保ち座っている。
その歌子の手を取って支えている女中、名はこま。栄にとっては画塾の後輩にあたる。浜町狩野家に出入りする扇屋の跡取り娘で、画の修行もしているが、むしろ婿取り前の行儀見習いの方に力点を置いている。小柄でよく動き、コロコロと快活に笑う。歌子や若様たちのお気に入りだ。
こまは、内心は分からないが、いつも通りの様子で主の歌子を支えている。町家の出だから切り替えが早いのか、事の深刻さが分かっていないのか。いずれにせよ、意外に頼もしいな、と見直した。
「奥様。お腹を召す直前、殿様のご城中でのご様子につき、お栄が、奥絵師・板谷桂意様から聞いてまいりました。今、報告させるところでございます」と長谷川。
「分かりました。お栄、話しておくれ」
耳を澄ましていなければ、聞き逃しそうなか細い声。そこで歌子と目が合った。栄は慌てて目線を下げ、改めて一礼する。
「かしこまりました。ご報告いしたします」
屏風見分の場で起こったことを聞いたときは、師の無念を思って怒りに我を忘れた。しかし、桂意が指摘した通り、浜町狩野家は存続の危機にある。それもかなりの崖っぷちだ。
武家にとって、家の存続は至上命題である。栄も陪臣とはいえ、侍奉公する武士の娘であり、そのことは遺伝子レベルで刷り込まれている。今、何を優先するべきか。自分に何が出来るのか。分かる人がいるなら教えて欲しい。
先生、融川先生。先生はどうして欲しいですか。
駕籠が浜町狩野屋敷に着いたのは、暮れ六つ(ほぼ午後六時)少し前であった。玄関を上がると家臣の一人が寄ってきて、融川の遺体が横たわる座敷ではなく、ひとつ手前の広間に行ってくれと告げた。
その広間では、上座に対して、素川章信と家老の長谷川、家臣たち、画塾から弟子の代表が三人、左右に分かれて着座していた。
素川が中央辺りを指して、「お栄、そこに」と言う。栄が黙ってそこに座る。誰もいない上座に目をやると、横から長谷川の声がした。
「今、奥様がいらっしゃる。しばし待て」
素川は膝をさすりながら、上体をゆすっている。どうにも落ち着かない人だ。
「お栄、何か分かったのか、おい!」
「素川様、お待ちを。お栄の説明を聞くのは奥様の御前でと、先ほど話し合ったばかりではありませんか」
「ああ、じれったい。さっさとあのお姫様を呼んで来い!」
しばらくすると、上座の横の襖が一枚静かに開き、女中が中に告げた。
「奥様のご出座でございます」
栄を含めて浜町狩野家に属する者は平伏して迎える。素川は別の家の元当主で、融川の友人枠なので軽く会釈するだけだ。
「待たせましたね。素川殿、いろいろとお骨折りいただき、ありがとう存じます」
「いえ、ご主人にはこれまで友として親しくお付き合いいただきました。当然のことです」
「長谷川、どうなっていますか。話を聞かせておくれ」
融川寛信の夫人・歌子は、夫より三つ下の三十一歳。実家は四千五百石の高級旗本だ。父親が四十過ぎて設けた末娘で、この上なく大事に育てられた。
浜町狩野家の禄高は二百石。歌子の実家とは格が違い過ぎるようだが、御用絵師、特に奥絵師の家は表の禄高以上に裕福なのである。
また、城勤めにおいて最も危険なのは、派閥争いに巻き込まれることだ。その点、奥絵師は技術系の専門職であり、自ら首を突っ込むような愚を犯さなければ、そうした危険も避けやすい。
歌子の父親は、浜町家の先代・閑川昆信と懇意であったこともあり、愛娘の幸せを最優先に考え、融川との縁談をまとめたのであった。
父親の願い通り、歌子はこれまで平穏な日々を過ごしてきた。長男の舜川昭信、次男の友川助信という二人の男の子にも恵まれた。融川は、遊び好きの融川、女好きの融川などと噂されていて、実際そういう面もあったが、屋敷内では愛妻家であり、子煩悩な父親であった。
浜町狩野屋敷には小規模ながら池泉回遊式の庭がある。屋敷内に工房や土蔵といった他の旗本屋敷にない施設を建てる必要から、スペース的な制約は受けるが、そこは美意識の高い奥絵師の家のことだ。限られた空間を上手に使い、緑豊かで清々しい景色の庭を作っていた。画を描く際の参考も兼ね、松や楓などの植木の他、四季折々の花々も植えられている。
また、この家は、研究資料として、源氏物語や伊勢物語を題材とした貴重な画帖や絵巻物をいくつも所蔵していた。
歌子と融川は庭に面した書院で、季節により、咲く花や色づく木々により、似合いの場面を描いた絵巻物などを広げて楽しむ。歌子が物語の内容や和歌について、融川が画について、お互いに講釈し合っている姿は何とも微笑ましいものだった。
お茶とお菓子を運ぶ女中が、「ほんに、殿様と奥様は絵巻物の中の、光の君と紫の上のようですこと」と褒めそやす。
「あら、光の君は殿様のようなクリクリ頭ではございませんことよ。言うなら、平相国と囚われの常盤御前ではないかしら」
「奥よ、それはひどい。まあ、軟弱な光源氏より清盛入道の方が俺は好きだがな。清盛は今やすっかり嫌われ者だが、武士の世を最初に切り拓いた偉い奴さ」
「武士の世を作ったのは鎌倉殿ではございませんの?」
「確かに、将軍が幕府を開いて政を執るという形を作ったのは頼朝だが、清盛の地ならしがあってこそ出来たことだ。それに、平家の方が何事も派手でいい。源氏はどうも辛気臭いよ。絵師の仕事はなさそうだ」
「それはいけませんね、ふふふ」
栄は、この恩師夫婦の持つ何とも柔らかな雰囲気が好きだった。歌子についても、同じ武士の家に生まれながら、こうも違って育つものか、と思いつつ、それは決して否定的な感情ではない。
その絵巻物の中から抜け出たような、苦労知らずのお姫様に、いきなりの災難である。長谷川の話では、歌子は、栄や素川が浜町屋敷に到着する前、座敷に運び込まれた血まみれの夫の姿を見るや、気を失って倒れたそうだ。さもありなん。今も顔色は真っ青だ。女中に支えられてようやく姿勢を保ち座っている。
その歌子の手を取って支えている女中、名はこま。栄にとっては画塾の後輩にあたる。浜町狩野家に出入りする扇屋の跡取り娘で、画の修行もしているが、むしろ婿取り前の行儀見習いの方に力点を置いている。小柄でよく動き、コロコロと快活に笑う。歌子や若様たちのお気に入りだ。
こまは、内心は分からないが、いつも通りの様子で主の歌子を支えている。町家の出だから切り替えが早いのか、事の深刻さが分かっていないのか。いずれにせよ、意外に頼もしいな、と見直した。
「奥様。お腹を召す直前、殿様のご城中でのご様子につき、お栄が、奥絵師・板谷桂意様から聞いてまいりました。今、報告させるところでございます」と長谷川。
「分かりました。お栄、話しておくれ」
耳を澄ましていなければ、聞き逃しそうなか細い声。そこで歌子と目が合った。栄は慌てて目線を下げ、改めて一礼する。
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