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第3章 栄女駆ける

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 昼の八つ(ほぼ午後二時)過ぎ、両国御竹蔵の東にある御家人屋敷の離れで、栄と姉の幸が、女同士でささやかなお茶会をしていると、屋敷の玄関先から大きな声が聞こえた。
「御免ください。お栄様、お栄様はいらっしゃいませんか。一大事です。殿様が、殿様が!」

「騒々しい。何事かしら」
「姉上、わたくしが出ます。わたくしを呼んでいるようですから」

 栄は、座っていると気付かないが、この時代にしてはかなりの高身長である。手足もすらりと長い。色白で顔の作りも整っている。
 ただ、絵筆を持って描画に集中していると、切れ長の目が怪しく光り、ちょっと怖いところがある。

 髪は根結いの垂髪(江戸時代版のポニーテール)だ。粋筋などでもこの髪型をする女性がいることから、父や兄には不評である。しかし、冬はよいとして、梅雨から夏にかけて画を描いていると、あっと言う間に汗だらけになる。日に三度も四度も湯屋に行かねば気持ちが悪くて仕方ない。手入れの簡単さという点で、この髪型を気に入っている。

 その垂髪を揺らして栄が駆ける。屋敷を出てしばらくはまだ早歩きだった。陪臣とはいえ武士の娘だ。昼日中、足をむき出しに走るわけにもいかない。しかし、どうにも堪らず、両国橋が見えてきた辺りから遂に駆け出した。

 それにしても、融川先生が亡くなったとは、どういうことだろうか。使者はひどく慌てていて、事情を問い質すことも出来なかった。嘘であって欲しい、切に。

 栄が、狩野融川寛信に弟子入りしたのは九歳のとき。その約一年半前に最初に師事した奥絵師・板谷桂意からの紹介であった。

 この物語の舞台である江戸後期、絵師を志す者の絵画教育は、すでに高度にシステム化されていた。七、八歳で筆を持ち始め、十五歳くらいで正式に画塾に入る。そして、いわゆる「粉本」と呼ばれる絵手本を模写するなどの課題をこなし、段階的に技量を上げて行く。二十歳前後で師匠の仕事の彩色の手伝いが出来るくらいまでになる。その後、部分的に描画を任されるようになり、だいたい二十五から三十の間に画塾を卒業する。

 栄が七歳で画塾に入門を許されたこと自体、通常よりかなり早い。さらに、課題をこなす速度が、他の弟子たちと比較にならぬほど早かった。

 最初の師である板谷桂意は、これは余程しっかり見てやらねば、せっかくの才能を宝の持ち腐れにしてしまう、と危惧した。

 桂意は狩野派ではなく、大和絵系の住吉派から分かれた板谷派の二代目である。後進の育成にも熱心であったが、何分この時期、桂意自身が奥絵師に昇進したばかりで、とても幼い弟子の指導に時間を割く余裕はなかった。
 そこである日、栄を呼び、かねて懇意の浜町狩野家の融川寛信のところに移ってはどうか、と勧めたのである。

 結果としてこのことが、栄の絵師としての才能を開花させた。

 栄が浜町狩野家の画塾に入ったとき、融川寛信はまだ二十三歳であった。狩野派の若き俊英として名を高める一方、遊び好きの融川、女好きの融川、などという悪い噂もあった。その点、挨拶に同行した父の吉弥は心配していたが、会ってみれば、豪放磊落で実に感じのいい若殿様だった。

 何より、見学させてもらった画塾の雰囲気がよかった。桂意の画塾は、主の生真面目な性格を反映して、子供には少し息苦しいものがあった。しかし、こちらは和気藹々。騒々しいほどに皆が、ああでもない、こうでもない、と議論しながら画を描いている。

 しかも、そんな中に女性が数人混じっているではないか。彼女たちも弟子だという。皆、真から楽しそうだ。そして、その中の一人が、「おや、可愛いらしい。お栄ちゃんっていうのかい。これでもお上がり」と言って、ホカホカの薄皮饅頭をひとつくれた。

 その瞬間、ここしかない、と思った。あれはもう十年も前だ。光陰矢の如し、である。

 江戸名代の両国橋、川面から吹き上げる冷たい風。橋のたもとが見えてきた。橋を渡り切れば、浜町狩野屋敷はすぐそこだ。垂髪を揺らしながら、思わず声が出た。
「先生、融川先生、待っていて下さい。今、参ります」
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