融女寛好 腹切り融川の後始末

仁獅寺永雪

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第1章 滴る血

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 文化八年(一八一一年)一月十九日、昼の九つ半(ほぼ午後一時)、月番の南町奉行所与力・筧重四郎は、両国橋西詰、仮設の芝居小屋や飲み屋が軒を並べて賑わう地域から、静かな武家町に入った。

 この辺り、大名屋敷もあるにはあるが、多くは中級程度の旗本屋敷で占められている。いずれにせよ、町奉行の与力には武家屋敷に対する捜査権はなく、管轄外と言えるのだが、武家屋敷を相手に商いをする商家もちらほらあるので、見回りルートには入っている。 

「う~、寒い。さっさと回って、茶店で甘酒でも飲もうぜ」
「旦那。あんな甘ったるいもの、よく飲めますね。同じ酒なら熱燗といきやしょうよ」

 伝令として連れている下っ引の三次と話しながら歩いていると、通りをこちらに向かってくる駕籠の行列が目に入った。

 行列と言っても、先頭に槍持一人、次いで警護の侍一人、駕籠、その後ろに挟み箱持ちと草履持ちが一人ずつ続くという小規模なものだ。
 この地域に多い中級旗本が駕籠で移動するときは、大概こんな感じで珍しくもない。しかし、わずかながら違和感を持った。

 城の方向からか。下城にしては早いな。

 幕府の政庁である江戸城への登城下城の時刻は決まっている。登城が四つ(ほぼ午前十時)、下城が八つ(ほぼ午後二時)。もっともこれは幕府の執政である老中のために定められた時間である。下の者は老中よりも早く登城し、遅く下城することになる。現代も江戸時代も変わらない。

 無論、城下に住む武士も様々で、昼間に出歩いている者もいる。ただ、公務以外で行列を仕立てて移動することは珍しい。ちょっとした用で出かけるような場合、徒歩か騎馬で出ることの方が圧倒的に多いのだ。

 すっと横に身を引いて会釈をして行列をやり過ごす。駕籠が重四郎の目の前を過ぎたとき、駕籠の戸の端から、ぽとりと一滴のしずくが落ちた。

 何だ、と思って目を凝らすと、続けて、ぽとり、ぽとり、さらにぽとぽとと液体が流れ出ている。地面を見てとっさに思った。血だ、と。父を継いで与力職を拝命して十年、さすがに水と血は間違えない。

「しばらく!」
 重四郎が駕籠に声をかけた。行列が止まり、警護の侍が振り返って、「何事か」と返した。まさか町方役人に声を掛けられると思っていなかったのか、少々動揺した様子だ。
 重四郎はすっと駕籠の下あたりを指さし、「中を確認された方が、よろしいのではありませんか」と言った。

 重四郎の指先に目をやり、警護の侍も事態を悟ったか、駕籠を下ろさせて戸の脇に片膝をつく。
「殿、大事ございませんか」
 返事がない。侍が、「失礼つかまつる」と言って駕籠の戸を開けた。しかし、その手は、戸が七分ほど開いたところで止まった。

 重四郎の位置からも駕籠の中が見えた。角度的に見える範囲は限られたが、それでも、その狭い空間が、さながら地獄絵図となっていることは分かった。

 四面に血が飛び散り、あぐらの状態で座った「殿」の下半身を覆う袴がほとんど真っ赤に染まっている。上体は前のめりで、不自然な形で前方に突き出された右手に何か棒のような物を持っている。その何かも、大半はべっとりと血に覆われている。そして、ほんのわずかに白く剥き出た部分が、細く差し込む冬の日に、キラリと光った。

 重四郎は与力の本能か。反射的に駕籠脇に身を寄せた。しかし、その瞬間、目の前でバンッと大きな音を立てて戸が閉まる。
「屋敷はすぐ近くゆえ、後の処置は屋敷でいたす。これにて御免。ご出立!」
 警護の侍はそのように叫ぶと、有無を言わせず駕籠を進ませてしまった。

 重四郎はあっけに取られつつも、「待て」の声を飲み込んだ。町方役人に武家の駕籠を止める権限はない。しかし、放置するわけにもいかない。少し離れて駕籠を追った。すると、駕籠は本当にすぐ、半町(約五十メートル)ほど行った角を曲がって一軒の屋敷に入った。路上には、点々と血の滴りが残っている。

 屋敷の立派な門の前で下っ引の三次が表札を見て、「かのう、ですか」と呟いた。

「ああ、奥絵師の狩野法眼の屋敷だな」
「あっしは、中は本当にちらっとしか見ませんでしたが、坊さんのようでしたけど」
「うん、奥絵師は頭を剃ってるからな。なりは坊さんだが、歴とした旗本だ。まあ、坊主にしろ旗本にしろ、管轄外であることには違いねぇ。そうだな、俺は念のため、奉行所に戻って土方様のお指図を仰いでくる。お前は、寒い中すまねぇが、ここで人の出入りだけ見ておいてくれ」

 同じ頃、御家人屋敷の庭に建つ離れで、女絵師・小杉栄が、お花見時期に売り出すための扇面に紅白の梅を描いていた。朝からの作業で、すでに五枚目に入っている。

 この屋敷は、両国橋の東側、御竹蔵のさらに東に広がる武家町の中の一軒である。御竹蔵とは、幕府が公用で使う材木の保管場所で、現代の両国国技館から江戸東京博物館までの一帯を占める。周辺には、大名の下屋敷や中級から下級の幕臣の屋敷が多くあった。

 この御家人屋敷は、栄の姉の婚家である。栄の父親・小杉吉弥は五十半ばで、三千石の名門旗本・高井飛騨守の家臣であった。栄は元々、父と兄と共に神田飯田町の高井屋敷の侍長屋に住んでいた。
 しかし、十一歳から絵画の内弟子修行のために家を出て、その後、十六歳で内弟子修行を終えたとき、その長屋には戻らなかった。姉の嫁ぎ先である御家人・斎藤家の屋敷で厄介になることにしたのだ。

 兄・吉太郎が、栄が絵画の道に進むことに批判的で、何かと口うるさいのが鬱陶しかったこともあるが、何より、旗本屋敷内の長屋では、画を描くためのスペースを確保できないことが大きかった。

 その点、姉の嫁ぎ先は、お目見え(将軍に拝謁する)資格のない御家人で、禄高も五十俵三人扶持と少ないが、腐っても幕臣、拝領屋敷は二百坪もある。

 しかも、姉の幸は、栄に甘かった。栄より十歳も上で、母が亡くなるときに妹の世話を託されたこともあって、何かと世話を焼いてくれる。栄の画の才能についても、母の思いを継いで、高く評価している。そのため、栄が縁談に興味を示さず、絵画修行を続けたいと言っていることについても、父や兄とは異なり、積極的に応援してくれていた。

 幸の夫・斎藤清次郎は大坂御蔵奉行の下役同心として単身赴任中であり、すでに舅姑とも他界しているので、屋敷は完全に幸の掌握下にあった。屋敷内の菜園の脇に居室兼作業場の離れを建てたいという栄の希望も、簡単に通った。

 栄は、当年十九歳である。絵師としての腕は、すでに尋常でない域にあった。

 彼女は、江戸時代の画壇の覇者・江戸狩野派の頂点を占める奥絵師四家のひとつ、浜町狩野家の第五代当主・狩野融川寛信の弟子である。
 弟子入りして十年、浜町狩野家の画塾において、年次上の先輩は幾人もいるが、技量の面ではすでに並ぶ者なし。師の融川にすら迫る勢いで、日々その才能を伸ばしていた。

 栄は、入門して三年足らずで師の融川寛信から「寛」の一字を拝領し、以降、「寛好」の筆名を使っている。
 板橋区立美術館が所蔵する掛け軸に、「藤原氏栄女寛好筆」と署名したものがある。「藤原氏」は恐らく、小杉家の本姓であろう。加賀に藤原氏の流れをくむ小杉という一族がいたらしいが、それとの関係は分からない。

 得意は花鳥図で、繊細な線と上品な色彩が見る者を魅了する。今描いている内職の扇面は市販品である。従って、いちいち署名は入れない。しかし、美意識の高い江戸時代のこと、見る人が見れば分かる。近年では、富裕層の婦人たちを中心に、販売店の扇屋に対して、この前と同じ絵師が描いた扇が欲しい、と名指しとも言える注文が増えている。

 そのため、扇屋からの注文も手間賃も増える一方で、今や、姉の夫の家禄と役料を合わせた三倍以上を軽々と稼ぎ出すまでになっていた。
 筆や絵具、墨から画材まで、絵画修行に関する出費に糸目は付けないが、それ以外はほとんど家賃代わりに姉に渡している。姉は半分を家計に回し、半分は栄の将来の独立資金として貯めてくれている。

「お栄、お茶にしましょう。唐橋屋の薄皮饅頭を求めてきましたよ」と、離れの入口の障子が開き、姉の幸が声をかけてきた。
「姉上、お子達は?」
「今日は剣術の稽古で、まだしばらく帰りませんよ」
 姉夫婦には男の子が二人いる。使用人は通いの下男と下女が一人ずついるだけである。

 栄は、前日に描いたものも含め、畳の上に並んでいる扇面を少し脇によけて座布団を出した。
「姉上、こちらに」

 二人分の湯飲みと菓子皿の載った盆を置きながら、幸が言った。
「相変わらず、見事なものですね。あら、こちらなどは、同じ梅でも昨年とは随分と雰囲気が違いますね」
「はい。背景の金泥と金砂子の使い方を変えているのです。融川先生もここのところ工夫を重ねている技法なのですよ」
「まるで金色の霞がかかっているみたいだわ。素敵なこと」

 半時(現代の一時間)ほど、のん気に女同士の会話に花を咲かせていると、屋敷の玄関先から大きな声が聞こえた。
「御免ください。お栄様、お栄様はいらっしゃいませんか。一大事です。殿様が、殿様が!」
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