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第86章 宇治川の姉妹
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友盛たちが甲府から江戸に戻ったのと同じ頃、京橋の料亭・手嶌屋の奥座敷で大奥御年寄を兼ねる将軍綱吉の側室・大典侍局が、子分の赤兵衛を前にイラついていた。
「まったくムカつく」
「姐さん、ご機嫌斜めですな」
「死なないんだよ、あの婆さん。もういい。毒薬を手配しな」
「それは悪手ですぜ。普通に毒を飲ませたらさすがに露見しますよ。お熊の話じゃ、もう一歩だ。辛抱して下さい」
「ちっ。こうなりゃ、丸ごといただかないと気が済まないよ」
「何の話で?」
「桂昌院のへそくりさ」
「へえ、そんなものが。いくらあるんです?」
「いくらだと思う?」
「さて、将軍生母の隠し金か。そうですね。三、四千両ってところでしょうか」
「馬鹿だねぇ。桁が違うよ。三万両さ」
「えっ?! さ、三万、せ、千両箱三十個!」
「ふん。元は天下の公金だ。後はこっちで有効に使わせてもらおうじゃないか」
「それなら、内藤新宿の工作に使わせて下さい。あと、品川にも旅籠を一軒・・・」
「二万両は手元に残しておきたい。これからは方々に配る金も額が大きくなるからね。残りの一万は好きにしな。でも、千両箱を城の外に運び出さないといけないよ」
「その辺はお任せを」
大典侍局の前に豪華な膳が運ばれてきた。中央の丸皿に盛られた鱧の湯引きに箸をつける。鱧の白い身が減るに従い、器に描かれた華麗な文様が顔を出す。
「へえ、これが噂の?」
「はい、伊万里の金襴手です。同じ色絵の皿でも今までのとは格が違うでしょ」
「確かにね。うん、これは見事だ。鍋島藩が毎年完成度の高い器を献上してくるけど、また違った華やかさがある」
「はい。ただ、まだ量産は難しいようで。しかも、ほとんどは長崎の出島から海外に出ちまうそうです」
「ふぅん。取り敢えず、江戸に来る分は買い占めな」
「分かりました。店の格がまた上がりますよ」
「まずはこっちに寄越しておくれ。御台所が好きそうだ。ご機嫌取りにちょうどいい」
大典侍局の大奥支配を容易にしている一因が御台所・鷹司信子の存在である。彼女は都の五摂家・鷹司家から当時まだ館林藩主であった綱吉のもとに嫁いできた。四十五年前の寛文四年(一六六四年)のことである。
この夫婦は当初から不仲であった。いや、不仲というよりお互いがお互いに対して無関心であった。
婚儀の直後、学問好きの綱吉は新妻に対して得意になって聖賢の道を説いたという。その時、お世辞でもよいから信子がひと言褒めていれば二人の関係は変わっていたかもしれない。しかし、悪いことに信子の父・鷹司教平は当時を代表する教養人で、綱吉の学識など、信子には寺子屋の師匠レベルにしか思えなかった。それが態度にも出た。以来、綱吉は信子を苦手とし、信子も自ら歩み寄ろうとはしなかった。
また、綱吉の生母・桂昌院との関係も最悪であった。夫が将軍となり、桂昌院とも江戸城内で共に暮らすようになったが、桂昌院は鷹司家より格の低い二条家に仕えていた武士(俗にいう青侍)の娘で、信子の目から見れば、ほぼ庶民の出と言っていい。しかも、三代家光の側室に過ぎない。夫の綱吉は兄である四代家綱の養子となって五代目を継いだ。従って、信子が義母として敬うべきは家綱の正室・皇族出身の浅宮顕子女王である。また、家光の正室で大叔母にあたる鷹司孝子が義祖母ということになる。信子としては、この二人がすでに故人となっている以上、己から礼を尽くすべき女性は江戸城内には存在しないという認識であった。
一方で、彼女は権力欲絶無、俗なことに全く関心がなかった。御台所となってからは、大奥のほぼ中央に位置する御台所専用スペースと隣接する数部屋を占拠し、京都から連れてきた側近だけに囲まれて、ひたすら花鳥風月を愛でる日々を過ごしている。
対する桂昌院も出自の負い目がある。嫁に文句のひとつでも言いたいと思っても、いざ信子本人を前にするとどうにも頭が上がらい。不愉快極まりない。しかし、自分の権勢に挑戦してこない以上、敢えて争う必要もない。その程度の分別はあった。
こうして、この嫁姑は、お互いを無視、回避、放置という方針で一致できたわけである。幸か不幸か、江戸城本丸の大奥にはそれを許す広さがあった。
大典侍局は桂昌院側の人間として大奥御年寄の地位に就いたわけだが、御台所・鷹司信子とその側近たちに対しては低姿勢を貫き、信子が何の心配もなく自らの世界に引き籠っていられるように便宜を図ってきたのである。
華麗な金襴手の皿を眺めながら手酌でぐびぐび酒を飲み始めた女主に呆れつつ、赤兵衛が話題を変えた。
「それで、お城の方はどうなんですか。将軍世嗣の側近・間部越前でしたっけ。やり手だって噂ですけど」
「ちっ、嫌なことを思い出させるんじゃないよ。あの役者面め」
「でも、姐さんが体を張って将軍や桂昌院を守ったんでしょ」
「どこで聞いたんだい?」
「いえね、読売が・・・」
間部越前守は、将軍綱吉の心身の状態を正確に把握すべく、大名に列し若年寄格の地位を得ると、是非ともと言って将軍への拝謁を願い出た。側用人職も今は自派で占めているから手続き的にはすんなり通る。後は有無を言わせず将軍の居住区である中奥へ。
しかし、そこに立ちはだかったのが大典侍局であった。
本来、中奥で将軍の身の回りを世話をするのは男性の近習である。そこに女性がいること自体、重大な規律違反だ。それを含めて越前守は厳しく問い質した。
江戸幕府の組織運営の特徴として同じ役職に必ず複数の人間を配置し、仕事も単独ではやらせない。不正や越権行為の防止が目的である。越前守には先輩の若年寄が同行していた。
大典侍局はそちらを狙った。態度はあくまで楚々と、か細い声と上品な言葉遣い。そして、涙ながらに、心身ともに弱り切っている将軍綱吉の状態を説明した。さらに、自分たちが中奥まで出張って綱吉の世話をしているのは、自らも重い病の床にある桂昌院の母心から出た命によるものだと訴えた。
越前守は相変わらずの無表情。冷然と聞き流そうとした。しかし、隣の先輩若年寄は大典侍局の演技にころりと騙された。また、彼にしてみれば、元々主君は将軍である。成り行きから将軍世嗣に従っているものの、将軍に対して余り無体なことはしたくない。
一方、越前守にしても就任早々であり、真に為すべきことのため、幕閣間での無用な摩擦は避けたい。結局、先輩の取り成しを受け入れ、綱吉との面会を断念。さらに、綱吉と桂昌院が望む限りにおいて二人の世話は大奥に一任する、との言質まで与えてしまったのだ。
「読売の連中ってのは、どこでそういう話を仕入れてんのかねぇ」
「さあ、半分は作り話なんでしょうが・・・」
「読売を作ったり売ったりしている連中ってのは、金回りはどうなんだい? もしカツカツでやってるようなら、資金援助をして手名付けられないかね」
「それが出来れば面白いですな。分かりました。ちょっと調べてみましょう」
そこに大女のお熊が座敷に入ってきた。元々妓楼の下働きに過ぎなかった彼女も今や大奥では球磨川などと名乗り、いい顔になっている。
「姐さん、そろそろ城に戻る時間ですよ」
「分かった。しっかし、あの澄ました役者面、思い出しただけでも腹が立つ。いつかひと泡吹かせてやる」
そう吐き捨てると、大典侍局は手に持っていた白磁の猪口を正面に投げ付けた。赤兵衛がひょいと躱したものだから、猪口はそのまま飛んで行き庭石に当たって粉々に砕けた。
衣装を整えた大典侍局が玄関に姿を現す。豪華な女駕籠の周りにはお供の奥女中や警護の武士たち。彼等は大典侍局の正体を知らない。大典侍局が外出するたびにこの店に寄るのは、あくまで故郷の味を懐かしんでのことだと思っている。
すでによそ行きの表情になっている大典侍局だが、式台から降りる寸前、動作を止めて振り返った。赤兵衛を手招きする。
「主人、今日のお料理も絶品でした。また来ます」
「勿体ないお言葉、板場の者たちにも伝えておきます。お局様にも御身お大切に。またのお越しを心よりお待ちしております」
平伏しつつ赤兵衛がちらと目線を上げると、片膝を付いた大典侍局の顔がすぐ近くにあった。彼女が小声でささやく。
「忘れるところだったよ。赤兵衛、京都の竜蔵に文を送っておくれ。例の娘、まだ見つからないのか。急げ、とね」
その夜、江戸から遠く離れた近江(滋賀県)の大津宿で火が出た。
「お、お姉ちゃん、ひどいよ。何も火付けまでしなくても・・・」
「ひどいのはどっちだよ。あたいはあんたと一緒に暮らせるっていう約束だったから、あの旅籠に引き取られる話を受けたんだ。いずれは宿場女郎にされることを承知でね。それを奴ら、あんたを寺に入れちまうって。約束を破ったのは奴らの方だ。旅籠の連中だけじゃない。宿場中グルなんだ。みんな同じ穴の狢さ。みんな焼け死ねばいい。天罰だよ」
琵琶湖を赤く染める大火を背に、幼い姉妹が駆け去って行く。数日後、空腹を抱えた二人がたどり着いたのは宇治の川原。それからは橋のたもとで物乞いをして小銭を稼いだ。
ある日、完全に日が暮れた後、橋の下にこさえた藁の寝床に妹を寝かせると、姉の方が一人で水辺に寄って行った。周囲に人がいないことを確認し、顔に塗りたくった泥を洗い流す。月明かりに照らし出されたその容貌は、古の西施や楊貴妃の少女時代もかくの如きかと思うほど、清らかで美しいものであった。
※ お知らせ
いつもお読みいただきありがとうございます。さて、原稿のストックが切れたため、次章から毎週木曜日(午前中)に一章ずつ投稿する形になります。最終章までお付き合いいただけますよう、何卒よろしくお願いします。
「まったくムカつく」
「姐さん、ご機嫌斜めですな」
「死なないんだよ、あの婆さん。もういい。毒薬を手配しな」
「それは悪手ですぜ。普通に毒を飲ませたらさすがに露見しますよ。お熊の話じゃ、もう一歩だ。辛抱して下さい」
「ちっ。こうなりゃ、丸ごといただかないと気が済まないよ」
「何の話で?」
「桂昌院のへそくりさ」
「へえ、そんなものが。いくらあるんです?」
「いくらだと思う?」
「さて、将軍生母の隠し金か。そうですね。三、四千両ってところでしょうか」
「馬鹿だねぇ。桁が違うよ。三万両さ」
「えっ?! さ、三万、せ、千両箱三十個!」
「ふん。元は天下の公金だ。後はこっちで有効に使わせてもらおうじゃないか」
「それなら、内藤新宿の工作に使わせて下さい。あと、品川にも旅籠を一軒・・・」
「二万両は手元に残しておきたい。これからは方々に配る金も額が大きくなるからね。残りの一万は好きにしな。でも、千両箱を城の外に運び出さないといけないよ」
「その辺はお任せを」
大典侍局の前に豪華な膳が運ばれてきた。中央の丸皿に盛られた鱧の湯引きに箸をつける。鱧の白い身が減るに従い、器に描かれた華麗な文様が顔を出す。
「へえ、これが噂の?」
「はい、伊万里の金襴手です。同じ色絵の皿でも今までのとは格が違うでしょ」
「確かにね。うん、これは見事だ。鍋島藩が毎年完成度の高い器を献上してくるけど、また違った華やかさがある」
「はい。ただ、まだ量産は難しいようで。しかも、ほとんどは長崎の出島から海外に出ちまうそうです」
「ふぅん。取り敢えず、江戸に来る分は買い占めな」
「分かりました。店の格がまた上がりますよ」
「まずはこっちに寄越しておくれ。御台所が好きそうだ。ご機嫌取りにちょうどいい」
大典侍局の大奥支配を容易にしている一因が御台所・鷹司信子の存在である。彼女は都の五摂家・鷹司家から当時まだ館林藩主であった綱吉のもとに嫁いできた。四十五年前の寛文四年(一六六四年)のことである。
この夫婦は当初から不仲であった。いや、不仲というよりお互いがお互いに対して無関心であった。
婚儀の直後、学問好きの綱吉は新妻に対して得意になって聖賢の道を説いたという。その時、お世辞でもよいから信子がひと言褒めていれば二人の関係は変わっていたかもしれない。しかし、悪いことに信子の父・鷹司教平は当時を代表する教養人で、綱吉の学識など、信子には寺子屋の師匠レベルにしか思えなかった。それが態度にも出た。以来、綱吉は信子を苦手とし、信子も自ら歩み寄ろうとはしなかった。
また、綱吉の生母・桂昌院との関係も最悪であった。夫が将軍となり、桂昌院とも江戸城内で共に暮らすようになったが、桂昌院は鷹司家より格の低い二条家に仕えていた武士(俗にいう青侍)の娘で、信子の目から見れば、ほぼ庶民の出と言っていい。しかも、三代家光の側室に過ぎない。夫の綱吉は兄である四代家綱の養子となって五代目を継いだ。従って、信子が義母として敬うべきは家綱の正室・皇族出身の浅宮顕子女王である。また、家光の正室で大叔母にあたる鷹司孝子が義祖母ということになる。信子としては、この二人がすでに故人となっている以上、己から礼を尽くすべき女性は江戸城内には存在しないという認識であった。
一方で、彼女は権力欲絶無、俗なことに全く関心がなかった。御台所となってからは、大奥のほぼ中央に位置する御台所専用スペースと隣接する数部屋を占拠し、京都から連れてきた側近だけに囲まれて、ひたすら花鳥風月を愛でる日々を過ごしている。
対する桂昌院も出自の負い目がある。嫁に文句のひとつでも言いたいと思っても、いざ信子本人を前にするとどうにも頭が上がらい。不愉快極まりない。しかし、自分の権勢に挑戦してこない以上、敢えて争う必要もない。その程度の分別はあった。
こうして、この嫁姑は、お互いを無視、回避、放置という方針で一致できたわけである。幸か不幸か、江戸城本丸の大奥にはそれを許す広さがあった。
大典侍局は桂昌院側の人間として大奥御年寄の地位に就いたわけだが、御台所・鷹司信子とその側近たちに対しては低姿勢を貫き、信子が何の心配もなく自らの世界に引き籠っていられるように便宜を図ってきたのである。
華麗な金襴手の皿を眺めながら手酌でぐびぐび酒を飲み始めた女主に呆れつつ、赤兵衛が話題を変えた。
「それで、お城の方はどうなんですか。将軍世嗣の側近・間部越前でしたっけ。やり手だって噂ですけど」
「ちっ、嫌なことを思い出させるんじゃないよ。あの役者面め」
「でも、姐さんが体を張って将軍や桂昌院を守ったんでしょ」
「どこで聞いたんだい?」
「いえね、読売が・・・」
間部越前守は、将軍綱吉の心身の状態を正確に把握すべく、大名に列し若年寄格の地位を得ると、是非ともと言って将軍への拝謁を願い出た。側用人職も今は自派で占めているから手続き的にはすんなり通る。後は有無を言わせず将軍の居住区である中奥へ。
しかし、そこに立ちはだかったのが大典侍局であった。
本来、中奥で将軍の身の回りを世話をするのは男性の近習である。そこに女性がいること自体、重大な規律違反だ。それを含めて越前守は厳しく問い質した。
江戸幕府の組織運営の特徴として同じ役職に必ず複数の人間を配置し、仕事も単独ではやらせない。不正や越権行為の防止が目的である。越前守には先輩の若年寄が同行していた。
大典侍局はそちらを狙った。態度はあくまで楚々と、か細い声と上品な言葉遣い。そして、涙ながらに、心身ともに弱り切っている将軍綱吉の状態を説明した。さらに、自分たちが中奥まで出張って綱吉の世話をしているのは、自らも重い病の床にある桂昌院の母心から出た命によるものだと訴えた。
越前守は相変わらずの無表情。冷然と聞き流そうとした。しかし、隣の先輩若年寄は大典侍局の演技にころりと騙された。また、彼にしてみれば、元々主君は将軍である。成り行きから将軍世嗣に従っているものの、将軍に対して余り無体なことはしたくない。
一方、越前守にしても就任早々であり、真に為すべきことのため、幕閣間での無用な摩擦は避けたい。結局、先輩の取り成しを受け入れ、綱吉との面会を断念。さらに、綱吉と桂昌院が望む限りにおいて二人の世話は大奥に一任する、との言質まで与えてしまったのだ。
「読売の連中ってのは、どこでそういう話を仕入れてんのかねぇ」
「さあ、半分は作り話なんでしょうが・・・」
「読売を作ったり売ったりしている連中ってのは、金回りはどうなんだい? もしカツカツでやってるようなら、資金援助をして手名付けられないかね」
「それが出来れば面白いですな。分かりました。ちょっと調べてみましょう」
そこに大女のお熊が座敷に入ってきた。元々妓楼の下働きに過ぎなかった彼女も今や大奥では球磨川などと名乗り、いい顔になっている。
「姐さん、そろそろ城に戻る時間ですよ」
「分かった。しっかし、あの澄ました役者面、思い出しただけでも腹が立つ。いつかひと泡吹かせてやる」
そう吐き捨てると、大典侍局は手に持っていた白磁の猪口を正面に投げ付けた。赤兵衛がひょいと躱したものだから、猪口はそのまま飛んで行き庭石に当たって粉々に砕けた。
衣装を整えた大典侍局が玄関に姿を現す。豪華な女駕籠の周りにはお供の奥女中や警護の武士たち。彼等は大典侍局の正体を知らない。大典侍局が外出するたびにこの店に寄るのは、あくまで故郷の味を懐かしんでのことだと思っている。
すでによそ行きの表情になっている大典侍局だが、式台から降りる寸前、動作を止めて振り返った。赤兵衛を手招きする。
「主人、今日のお料理も絶品でした。また来ます」
「勿体ないお言葉、板場の者たちにも伝えておきます。お局様にも御身お大切に。またのお越しを心よりお待ちしております」
平伏しつつ赤兵衛がちらと目線を上げると、片膝を付いた大典侍局の顔がすぐ近くにあった。彼女が小声でささやく。
「忘れるところだったよ。赤兵衛、京都の竜蔵に文を送っておくれ。例の娘、まだ見つからないのか。急げ、とね」
その夜、江戸から遠く離れた近江(滋賀県)の大津宿で火が出た。
「お、お姉ちゃん、ひどいよ。何も火付けまでしなくても・・・」
「ひどいのはどっちだよ。あたいはあんたと一緒に暮らせるっていう約束だったから、あの旅籠に引き取られる話を受けたんだ。いずれは宿場女郎にされることを承知でね。それを奴ら、あんたを寺に入れちまうって。約束を破ったのは奴らの方だ。旅籠の連中だけじゃない。宿場中グルなんだ。みんな同じ穴の狢さ。みんな焼け死ねばいい。天罰だよ」
琵琶湖を赤く染める大火を背に、幼い姉妹が駆け去って行く。数日後、空腹を抱えた二人がたどり着いたのは宇治の川原。それからは橋のたもとで物乞いをして小銭を稼いだ。
ある日、完全に日が暮れた後、橋の下にこさえた藁の寝床に妹を寝かせると、姉の方が一人で水辺に寄って行った。周囲に人がいないことを確認し、顔に塗りたくった泥を洗い流す。月明かりに照らし出されたその容貌は、古の西施や楊貴妃の少女時代もかくの如きかと思うほど、清らかで美しいものであった。
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(2022.04.04)
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