83 / 94
第81章 義士の手紙
しおりを挟む
古利根川沿いに北上する日光街道、杉戸宿手前の茶店でのこと。二人の旅人が縁台に腰を下ろして見惚れているのは、うららかな春の景色ではなく、店前で客引きに精を出している看板娘。すると、店主が注文した茶と菓子のセットを運んで来た。
「お待たせしました」
「おお、ありがとよ。ところで、この元禄饅頭、どうすんだ? 名前を変えるのか」
「何のことです?」
「知らないのか。昨日で元禄は終わったぞ」
「えっ、元禄が終わって何になったんで?」
「ほう、何だったかな。ほう、ほう、ほう」
すると、もう一人が湯呑を取り上げながら言った。
「ほうえい、だよ」
「字は? どう書くんだ?」
「知るか」
新元号の宝永は、中国五代十国時代の晋(後晋)で編まれた歴史書「唐書(旧唐書)」を出典とする。実は前回の改元時にも朝廷側が挙げた候補の中にあったのだが、幕府が拒否したという経緯がある。
それはともかく、看板娘の威勢のいい声も耳に入らぬが如く、一人の侍が足早に茶店の前を通り過ぎて行った。その腰には三日月のように反りの深い大刀。新見典膳である。
彼は日光街道の幸手宿を目指していた。長身でがっしりした体格、物騒な雰囲気はそのまま。身なりも悪くない。ただ、かつては綺麗に剃り上げていた月代が伸び、総髪になっている。
彼は川越藩を出奔した後、正直、目標を見失った。
甲府藩とその藩主家に対する遺恨は消えてない。しかし、赤穂の浪人たちが吉良の隠居の首を欲したレベルで、現藩主・松平綱豊の首を取りたいかと問われれば、そこまでの執着はない気もする。
取り敢えず、己の剣を磨き直す、という分かりやすい理由を設定し、剣聖・塚原卜伝を輩出した鹿島の地を目指した。そして、かの地でしばらく修行に励んだ後、常陸(茨城県)から安房(千葉県南部)にかけて周遊していたところで大地震に遭った。
身を寄せていた網元も被災。成り行き上、漁村の復興を手伝うことになり、江戸に文を書いた。共に甲斐に潜入した川越藩の元の仲間に宛て、典膳が長屋に置き捨てにした金子が今も保管されているなら送って欲しい、と。
返事として小包が届いた。彼が残した二十両ほど入った紙入れの他、切り餅(小判二十五枚の紙包み)が二つ同梱されていた。川越藩の江戸家老から託された慰労金だという。
青山の奴、穴山様に報告したのか。
少々バツが悪いが、今となってはありがたい。そう思いつつ、荷物の中をよく見ると書状が二通あった。一通はむき身。もう一通は綺麗に懐紙に包まれている。ただし、封は切られていた。
まずむき身の書状に目を通す。驚いた。すなわち、懐紙に包まれたもう一通は、先日切腹して果てた赤穂浪人・不破和右衛門から典膳に宛てた手紙だ、とのことだ。
不破? 知らんな。なぜ俺に?
封が切られているのは、不破が預けられていた松山藩の目付が中を改めているからで、書状を届けられた川越藩でも穴山が文面を確認済みだそうだ。とにかく、急いで不破の手紙を開いてみた。
そうか。米原の禅寺で手合わせしたあの槍遣いか。何年前だ? 恐らく名乗り合ったとは思うが、よく覚えていたものだ。
赤穂浪人が切腹する数日前、穴山家老が主君の柳沢出羽守に代わって浪人たちが預けられている大名屋敷を視察した。典膳は警護のため同行していた。その視察場所のひとつ、伊予松山藩松平家の中屋敷に不破数右衛門はいたようだ。
広間での面談の際、不破は、穴山の斜め後ろで控える典膳に気付いた。文中に、思わぬ再会に驚くと同時に、御仏の引き合わせに違いないと感じた、とある。さらに、誠に不躾ながら、と前置いた上で、典膳にひとつの頼みごとをしていた。
すなわち、不破が浪人中、一時夫婦同然に暮らしていた女がいる。その女に最後の手紙を届けて欲しい。主君・内匠頭の不興を買って浪人した経緯もあり、親族や旧赤穂藩関係者には頼みにくい、とのことだ。
たった一度、刃を交えただけの間柄。そんな面倒を引き受ける義理もないのだが、典膳は行くことにした。当座の旅費と生活費として元々自分のものであった二十両は手元に残したが、穴山から贈られた五十両は世話になった網元に渡して旅立った。
目指すは、日光街道幸手宿。
女の名はお紋。不破の説明では、彼女は腕のいい髪結いで、宿場の表通りに店を構えている。経済的に自立した女性で、浪人時代の不破はむしろ彼女に食わせてもらっていた。そのため、金銭を贈る必要性を感じなかったのだろう。典膳が託されたのは手紙だけであった。
しかし、状況は大きく変わっていた。
手紙に記された場所に彼女の店はなく、ようやく探し当てたその住まいは、宿場の端のさびれた裏長屋であった。
戸を開ければ一瞬で奥まで丸見え。日当たりだけはいいせいで、粗末な暮らしが余計にはっきり見えた。一人の女が四畳半の板の間に薄っぺらい布団を敷き、横になっている。
「お紋とはそなたのことか」
女が静かに頷く。顔色が悪い。ただ、商売柄か、髪型は乱れていない。
典膳は用向きを伝え、土間に立ったまま手を伸ばして不破の手紙を彼女に渡した。彼女は布団の上に正座しようとしたが、急に咳き込んだ。しばらく苦しそうにしていたが、落ち着くと、手を合わせて感謝の意を示した。その肩は、悲しいほど細かった。
「随分と具合が悪いようだな。俺宛の書状によれば、不破には父親と弟がいるらしい。不破が一番苦しいときに支えたのはそなたであろう。遠慮することはない。その連中を頼ってはどうだ?」
「とんでもない。あたしみたない女がしゃしゃり出ては、あの人の名前に瑕がつく。だって、旦那。あの人はね、天下の赤穂義士・不破数右衛門なんですよ。総大将・大石内蔵助様のご嫡子・主税様と共に吉良屋敷の裏門から攻め込んで、誰よりも勇敢に戦った人なんです」
「・・・」
場所柄もわきまえず抜刀し、無抵抗の老人一人討ち取ることも出来ず、挙句、身は切腹、家は断絶。そんな愚かな主君のためでも、仇討ちとなれば正義なのか。正直、そこまで共感できん。
お紋は典膳の思いなど構いもせず、言葉を続けた。
「あの人の名は、百年先まで残る。いぃや、この日の本の国が続く限り、武士の鑑として残るんです。嬉しいじゃありませんか。大抵の人間は、自分が何のために生まれてきたのか知らずに死んで行くでしょ。でも、あたしは違う。あたしは、役割を果たしたんです」
「役割?」
「そうですよ。仏様があたしに下さった役割は、あの人を助けること。あたしはそれを果たした。それで十分、十分なんです」
「そうか」
お紋が不破の手紙を開いた。細長い糸のようなものが数本、彼女の膝の上に落ちた。彼女はその一本一本を注意深く摘まみ上げ、手紙と共に大事そうに抱き締めた。典膳はくるりと踵を返すと、お紋のむせび泣きを背中で聞きながら外に出た。
幸手宿は、将軍の日光社参のルート上でもあることから幕府の直轄地とされていた。江戸から十二里(約四十八キロメートル)、利根川水系の要衝でもある。従って、江戸期を通じて大いに盛んであった。
典膳は宿場内の剣術道場にしばらく逗留していたが、何となく気になり、もう一度お紋を訪ねてみた。すると、彼女の家の前に忌中の札が掛かっているではないか。見れば、土間で数人の男女が顔を寄せ合って何やら相談している。
「何かあったのか」
「あっ、旦那。えっと確か、何日か前にいらしていた・・・」
「そうだ」
「お紋さんねぇ、気の毒に、首くくっちまったんですよ」
「何だと?!」
「どこで聞きつけたのか。旦那の来た次の日、岡田屋の連中が来ましてね。旦那が金を渡しに来たんだと思ったんでしょう。踏み込んで家探しして。金はなかったみたいだけど、いい物を見つけたって騒いでたよ。お紋さんは、それだけは勘弁してくれって、泣いてたなぁ」
「それで?」
咎めるような典膳の視線に皆がたじろぐ。
「む、無理ですよ。あっしらじゃ、あ奴らには敵わねぇ。その・・・」
「それで、それでどうなったんだ? さっさと言え!」
「へい。連中が帰った後、様子を見て、気を落とすんじゃないよって。その時は、平気ですって言ってたんだ。でも、今朝、うちのかみさんが髪結いを頼もうと声を掛けたら、返事がなくて、それで中をのぞいたら・・・」
「そうか。で、その岡田屋ってのは何者だ?」
「高利貸しでさ。お紋さんは昔は表通りで髪結い屋を営んでいたんだ。ご存知でしょ?」
「ああ」
「お紋さんの店、流行っていたんですよ。それがさ、先日の地震で。この辺りでは家が潰れたりは無かったんだけど、宿場の何ヶ所かで火が出てね。それで、お紋さんの店も。しかもその時、灰を吸い込んで体を壊してしまったんですよ」
「そこに金貸しは関係ないと思うが?」
「ああ、それね。焼けた店、ちょうど改装したばかりだったんでさ。その時に借りた金の証文が運悪く岡田屋の手に渡っちまったんですよ」
赤穂浪士は今や天下の英雄。高利貸しの取り立て屋は不破数右衛門の手紙に気付いた。浪士の中でも不和は勇者として著名で、実際、目覚ましい働きをしている。その男が切腹間際に女に宛てて書いた自筆の手紙。不破の実家に持ち込めば大金になるとでも踏んだのだろう。
不破の親族がいくら強請り取られようが、それこそ知ったことではない。しかし、そうなれば、お紋が不破の手紙を売り渡したと思われるに違いない。それだけは許せん。場所を聞き、典膳は岡田屋に向かった。
「二度は言わぬ。死にたくなければ、不破の手紙を返してもらおう」
「ふざけ・・・」
典膳が長屋に戻ると、すでに棺桶が用意されていた。お紋の体を持ち上げ、体育座りのような格好で棺桶に入れる。痩せ細ったその体は、子犬のように軽い。両手を胸の前で組み、その上に取り戻した不破の手紙を載せてやった。手紙は血まみれ、髪の毛は散逸してしまったが。
長屋の連中の話では、宿場はずれに身寄りのない貧乏人や行き倒れなどのための共同墓地があり、荼毘にふした後、そこに埋葬するという。典膳は長屋の差配人に押し付けるように五両渡すと、後は振り返りもせず去って行った。
「人の役割か。仏がわざわざ一人一人にそれを割り振っているとも思えんが、もしあるとするなら、俺の役割とは何であろうか」
夕暮れ迫る日光街道幸手宿。新見典膳は群がる宿屋の客引きを袖にして街道に出た。どうにも胸がざわつき、夜通し歩くしかないと思ったのだ。
さて、彼は何処に向かうのであろうか。ともかく、好むと好まざると、彼の行くところ必ず血の雨が降る。この物騒な男が、己の真の役割を自覚するには、もう少しの時間とちょっとした出会いが必要であった。
「お待たせしました」
「おお、ありがとよ。ところで、この元禄饅頭、どうすんだ? 名前を変えるのか」
「何のことです?」
「知らないのか。昨日で元禄は終わったぞ」
「えっ、元禄が終わって何になったんで?」
「ほう、何だったかな。ほう、ほう、ほう」
すると、もう一人が湯呑を取り上げながら言った。
「ほうえい、だよ」
「字は? どう書くんだ?」
「知るか」
新元号の宝永は、中国五代十国時代の晋(後晋)で編まれた歴史書「唐書(旧唐書)」を出典とする。実は前回の改元時にも朝廷側が挙げた候補の中にあったのだが、幕府が拒否したという経緯がある。
それはともかく、看板娘の威勢のいい声も耳に入らぬが如く、一人の侍が足早に茶店の前を通り過ぎて行った。その腰には三日月のように反りの深い大刀。新見典膳である。
彼は日光街道の幸手宿を目指していた。長身でがっしりした体格、物騒な雰囲気はそのまま。身なりも悪くない。ただ、かつては綺麗に剃り上げていた月代が伸び、総髪になっている。
彼は川越藩を出奔した後、正直、目標を見失った。
甲府藩とその藩主家に対する遺恨は消えてない。しかし、赤穂の浪人たちが吉良の隠居の首を欲したレベルで、現藩主・松平綱豊の首を取りたいかと問われれば、そこまでの執着はない気もする。
取り敢えず、己の剣を磨き直す、という分かりやすい理由を設定し、剣聖・塚原卜伝を輩出した鹿島の地を目指した。そして、かの地でしばらく修行に励んだ後、常陸(茨城県)から安房(千葉県南部)にかけて周遊していたところで大地震に遭った。
身を寄せていた網元も被災。成り行き上、漁村の復興を手伝うことになり、江戸に文を書いた。共に甲斐に潜入した川越藩の元の仲間に宛て、典膳が長屋に置き捨てにした金子が今も保管されているなら送って欲しい、と。
返事として小包が届いた。彼が残した二十両ほど入った紙入れの他、切り餅(小判二十五枚の紙包み)が二つ同梱されていた。川越藩の江戸家老から託された慰労金だという。
青山の奴、穴山様に報告したのか。
少々バツが悪いが、今となってはありがたい。そう思いつつ、荷物の中をよく見ると書状が二通あった。一通はむき身。もう一通は綺麗に懐紙に包まれている。ただし、封は切られていた。
まずむき身の書状に目を通す。驚いた。すなわち、懐紙に包まれたもう一通は、先日切腹して果てた赤穂浪人・不破和右衛門から典膳に宛てた手紙だ、とのことだ。
不破? 知らんな。なぜ俺に?
封が切られているのは、不破が預けられていた松山藩の目付が中を改めているからで、書状を届けられた川越藩でも穴山が文面を確認済みだそうだ。とにかく、急いで不破の手紙を開いてみた。
そうか。米原の禅寺で手合わせしたあの槍遣いか。何年前だ? 恐らく名乗り合ったとは思うが、よく覚えていたものだ。
赤穂浪人が切腹する数日前、穴山家老が主君の柳沢出羽守に代わって浪人たちが預けられている大名屋敷を視察した。典膳は警護のため同行していた。その視察場所のひとつ、伊予松山藩松平家の中屋敷に不破数右衛門はいたようだ。
広間での面談の際、不破は、穴山の斜め後ろで控える典膳に気付いた。文中に、思わぬ再会に驚くと同時に、御仏の引き合わせに違いないと感じた、とある。さらに、誠に不躾ながら、と前置いた上で、典膳にひとつの頼みごとをしていた。
すなわち、不破が浪人中、一時夫婦同然に暮らしていた女がいる。その女に最後の手紙を届けて欲しい。主君・内匠頭の不興を買って浪人した経緯もあり、親族や旧赤穂藩関係者には頼みにくい、とのことだ。
たった一度、刃を交えただけの間柄。そんな面倒を引き受ける義理もないのだが、典膳は行くことにした。当座の旅費と生活費として元々自分のものであった二十両は手元に残したが、穴山から贈られた五十両は世話になった網元に渡して旅立った。
目指すは、日光街道幸手宿。
女の名はお紋。不破の説明では、彼女は腕のいい髪結いで、宿場の表通りに店を構えている。経済的に自立した女性で、浪人時代の不破はむしろ彼女に食わせてもらっていた。そのため、金銭を贈る必要性を感じなかったのだろう。典膳が託されたのは手紙だけであった。
しかし、状況は大きく変わっていた。
手紙に記された場所に彼女の店はなく、ようやく探し当てたその住まいは、宿場の端のさびれた裏長屋であった。
戸を開ければ一瞬で奥まで丸見え。日当たりだけはいいせいで、粗末な暮らしが余計にはっきり見えた。一人の女が四畳半の板の間に薄っぺらい布団を敷き、横になっている。
「お紋とはそなたのことか」
女が静かに頷く。顔色が悪い。ただ、商売柄か、髪型は乱れていない。
典膳は用向きを伝え、土間に立ったまま手を伸ばして不破の手紙を彼女に渡した。彼女は布団の上に正座しようとしたが、急に咳き込んだ。しばらく苦しそうにしていたが、落ち着くと、手を合わせて感謝の意を示した。その肩は、悲しいほど細かった。
「随分と具合が悪いようだな。俺宛の書状によれば、不破には父親と弟がいるらしい。不破が一番苦しいときに支えたのはそなたであろう。遠慮することはない。その連中を頼ってはどうだ?」
「とんでもない。あたしみたない女がしゃしゃり出ては、あの人の名前に瑕がつく。だって、旦那。あの人はね、天下の赤穂義士・不破数右衛門なんですよ。総大将・大石内蔵助様のご嫡子・主税様と共に吉良屋敷の裏門から攻め込んで、誰よりも勇敢に戦った人なんです」
「・・・」
場所柄もわきまえず抜刀し、無抵抗の老人一人討ち取ることも出来ず、挙句、身は切腹、家は断絶。そんな愚かな主君のためでも、仇討ちとなれば正義なのか。正直、そこまで共感できん。
お紋は典膳の思いなど構いもせず、言葉を続けた。
「あの人の名は、百年先まで残る。いぃや、この日の本の国が続く限り、武士の鑑として残るんです。嬉しいじゃありませんか。大抵の人間は、自分が何のために生まれてきたのか知らずに死んで行くでしょ。でも、あたしは違う。あたしは、役割を果たしたんです」
「役割?」
「そうですよ。仏様があたしに下さった役割は、あの人を助けること。あたしはそれを果たした。それで十分、十分なんです」
「そうか」
お紋が不破の手紙を開いた。細長い糸のようなものが数本、彼女の膝の上に落ちた。彼女はその一本一本を注意深く摘まみ上げ、手紙と共に大事そうに抱き締めた。典膳はくるりと踵を返すと、お紋のむせび泣きを背中で聞きながら外に出た。
幸手宿は、将軍の日光社参のルート上でもあることから幕府の直轄地とされていた。江戸から十二里(約四十八キロメートル)、利根川水系の要衝でもある。従って、江戸期を通じて大いに盛んであった。
典膳は宿場内の剣術道場にしばらく逗留していたが、何となく気になり、もう一度お紋を訪ねてみた。すると、彼女の家の前に忌中の札が掛かっているではないか。見れば、土間で数人の男女が顔を寄せ合って何やら相談している。
「何かあったのか」
「あっ、旦那。えっと確か、何日か前にいらしていた・・・」
「そうだ」
「お紋さんねぇ、気の毒に、首くくっちまったんですよ」
「何だと?!」
「どこで聞きつけたのか。旦那の来た次の日、岡田屋の連中が来ましてね。旦那が金を渡しに来たんだと思ったんでしょう。踏み込んで家探しして。金はなかったみたいだけど、いい物を見つけたって騒いでたよ。お紋さんは、それだけは勘弁してくれって、泣いてたなぁ」
「それで?」
咎めるような典膳の視線に皆がたじろぐ。
「む、無理ですよ。あっしらじゃ、あ奴らには敵わねぇ。その・・・」
「それで、それでどうなったんだ? さっさと言え!」
「へい。連中が帰った後、様子を見て、気を落とすんじゃないよって。その時は、平気ですって言ってたんだ。でも、今朝、うちのかみさんが髪結いを頼もうと声を掛けたら、返事がなくて、それで中をのぞいたら・・・」
「そうか。で、その岡田屋ってのは何者だ?」
「高利貸しでさ。お紋さんは昔は表通りで髪結い屋を営んでいたんだ。ご存知でしょ?」
「ああ」
「お紋さんの店、流行っていたんですよ。それがさ、先日の地震で。この辺りでは家が潰れたりは無かったんだけど、宿場の何ヶ所かで火が出てね。それで、お紋さんの店も。しかもその時、灰を吸い込んで体を壊してしまったんですよ」
「そこに金貸しは関係ないと思うが?」
「ああ、それね。焼けた店、ちょうど改装したばかりだったんでさ。その時に借りた金の証文が運悪く岡田屋の手に渡っちまったんですよ」
赤穂浪士は今や天下の英雄。高利貸しの取り立て屋は不破数右衛門の手紙に気付いた。浪士の中でも不和は勇者として著名で、実際、目覚ましい働きをしている。その男が切腹間際に女に宛てて書いた自筆の手紙。不破の実家に持ち込めば大金になるとでも踏んだのだろう。
不破の親族がいくら強請り取られようが、それこそ知ったことではない。しかし、そうなれば、お紋が不破の手紙を売り渡したと思われるに違いない。それだけは許せん。場所を聞き、典膳は岡田屋に向かった。
「二度は言わぬ。死にたくなければ、不破の手紙を返してもらおう」
「ふざけ・・・」
典膳が長屋に戻ると、すでに棺桶が用意されていた。お紋の体を持ち上げ、体育座りのような格好で棺桶に入れる。痩せ細ったその体は、子犬のように軽い。両手を胸の前で組み、その上に取り戻した不破の手紙を載せてやった。手紙は血まみれ、髪の毛は散逸してしまったが。
長屋の連中の話では、宿場はずれに身寄りのない貧乏人や行き倒れなどのための共同墓地があり、荼毘にふした後、そこに埋葬するという。典膳は長屋の差配人に押し付けるように五両渡すと、後は振り返りもせず去って行った。
「人の役割か。仏がわざわざ一人一人にそれを割り振っているとも思えんが、もしあるとするなら、俺の役割とは何であろうか」
夕暮れ迫る日光街道幸手宿。新見典膳は群がる宿屋の客引きを袖にして街道に出た。どうにも胸がざわつき、夜通し歩くしかないと思ったのだ。
さて、彼は何処に向かうのであろうか。ともかく、好むと好まざると、彼の行くところ必ず血の雨が降る。この物騒な男が、己の真の役割を自覚するには、もう少しの時間とちょっとした出会いが必要であった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
融女寛好 腹切り融川の後始末
仁獅寺永雪
歴史・時代
江戸後期の文化八年(一八一一年)、幕府奥絵師が急死する。悲報を受けた若き天才女絵師が、根結いの垂髪を揺らして江戸の町を駆け抜ける。彼女は、事件の謎を解き、恩師の名誉と一門の将来を守ることが出来るのか。
「良工の手段、俗目の知るところにあらず」
師が遺したこの言葉の真の意味は?
これは、男社会の江戸画壇にあって、百人を超す門弟を持ち、今にも残る堂々たる足跡を残した実在の女絵師の若き日の物語。最後までお楽しみいただければ幸いです。
神楽
モモん
ファンタジー
前世を引きずるような転生って、実際にはちょっと考えづらいと思うんですよね。
知識だけを引き継いだ転生と……、身体は女性で、心は男性。
つまり、今でいうトランスジェンダーってヤツですね。
時代背景は西暦800年頃で、和洋折衷のイメージですか。
中国では楊貴妃の時代で、西洋ではローマ帝国の頃。
日本は奈良時代。平城京の頃ですね。
奈良の大仏が建立され、蝦夷討伐や万葉集が編纂された時代になります。
まあ、架空の世界ですので、史実は関係ないですけどね。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳
勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません)
南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。
表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。
2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。

キャサリンのマーマレード
空原海
歴史・時代
ヘンリーはその日、初めてマーマレードなるデザートを食べた。
それは兄アーサーの妃キャサリンが、彼女の生国スペインから、イングランドへと持ち込んだレシピだった。
のちに6人の妻を娶り、そのうち2人の妻を処刑し、己によく仕えた忠臣も邪魔になれば処刑しまくったイングランド王ヘンリー8世が、まだ第2王子に過ぎず、兄嫁キャサリンに憧憬を抱いていた頃のお話です。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる