狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪

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第80章 改元

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「あ、あなた、お着替えを」
「志乃、無事か。おりんは?」
「大丈夫です。それより、早くお殿様のところへ」
 さすが武士の妻である。おりんも動じていない様子だ。言われる前から、ちゃっちゃと火の始末に動き回っている。

 吉之助が両刀を携えて廊下に出ると、ちょうど竜之進も来た。
「よう。美咲殿や子供たちは?」
「大丈夫です」
「そうか。では、こっちから行こう」
 吉之助たちの住む侍長屋は浜屋敷の西側の守りも兼ねている。日常、玄関方向にぐるりと回って間部の御用部屋や御成書院に向かうのだが、奥の木戸を使えば、裏庭を抜けて藩主夫妻の居住エリアに駆け付けられる仕組みだ。
 江戸に来た当初、竜之進にその旨言われたことがあったが、まさかこの開かずの扉を開く日が来るとは思わなかった。

 ともかく、二人は奥に向かった。緊急時とは言え、男性家臣が奥御殿に上がり込むのは憚られる。身は外に置いたまま回廊沿いに進む。すると、一室の襖が開き、見知らぬ女性が姿を現した。続いて寝間着姿の綱豊も。
「殿!」
「おお、そなた等か。よく参った。して、状況は?」
「はっ。詳しくは確認中でございますが、建物の倒壊や出火など、大きな被害は出ていないようです」
「そうか」

 吉之助は、綱豊に寄り添う女性をちらりと見た。新しい側室か。二十代半ばの、目鼻立ちのはっきりした美人だ。大名たる者、血統維持のため側室の三、四人はいて当然。分かってはいるが、何か気に障る。次の声は少し尖ったかもしれない。
「殿。御前様はご無事でしょうか」
「ああ、大事ない。喜世、そうだな?」
 横の女性が頷くのを見て綱豊がさらに言った。
「予もすぐに着替えて書院に出る。皆を集めておけ」
「かしこまりました」

 しばらく経って御成書院に綱豊が出て来たとき、横には御前様・近衛熙子がいた。彼女はすでに完璧に身繕いしている。

「西之丸入城は日延べせざるを得ないか」
 綱豊が沈痛な面持ちでそう述べれば、間部がすかさず、「残念です」と応じた。

 一方、熙子は全く動じていない。むしろ鳳眼を輝かせている。
「仕方ありませんわ。殿、こうなった以上、幕府の者たちと信頼関係を築く機会と致しましょう」
「お照。予は何をすればいい?」
「何も。ただ言ってやればよいのです。全責任は次期将軍たる自分が負う。故に、被災者救援のため、そなた等が必要と思う全てのことを速やかに為せ、と」
「なるほど、分かった。詮房、直ちに城へ行け」
「はっ」

 吉之助は強く思った。やはり殿の横は御前様でなくてはならぬ。世の中には、あるべき形というものが確かにある、と。

 元禄十六年(一七〇三年)十一月二十二日の夜半(現代の表記では二十三日の午前二時頃)に発生した巨大地震。歴史上、元禄地震と呼ばれている。

 震源地は房総半島の南沖。特に、安房(千葉県南部)と江戸湾を挟んだ相模(神奈川県)の沿岸地域において大きな被害を出した。全壊の家屋二万戸、死者一万人に及んだという。
 江戸は比較的軽微な被害で済んだ。死者も三百人程度であった。しかし、実際に市中で被災した新井白石の日記「折たく柴の記」には、多数の家屋が倒壊し、人々が泣き叫ぶ惨状が生々しく記されている。

 三日後の昼前、浜屋敷の庭園を綱豊と熙子が揃って散歩していた。余震は続いており、吉之助と竜之進がそれぞれ四名ずつを率いて藩主夫妻の警護に当たっている。

 潮入の池のほとりを歩きながら熙子が言う。
「この池の水も溢れ、一時はどうなることかと思いましたわ」
「海と繋がっているからな。大事に至らずよかった」
「はい」
「されど、安房の海岸では津波で漁師の家が流され、多くの者が命を落としたそうだ」
「何と痛ましい」
「うむ。追々他の場所の情報も入って来るだろう。しっかり対応せねばな」
「ふふ、頼もしいこと」
「からかうな」

「そう言えば、側用人の本庄何某はどうしていますか」
「豊後守は職を解かれ閉門謹慎。以降、特に動きはないようだ。表向きは先代の因幡守の公金横領の責任を取らせる形にしたから、これ以上追求も出来ん」
「そうですか。問題は後任ですわね。今後、将軍も側用人も有名無実になるとは言え、結託して妙な動きをされては面倒です」
「分かっている。側用人には旗本の大久保信濃守を充てる。出羽守の推挙だが、実直な男だ。心配あるまい」

 すると近習の一人が小走りでやって来た。間部が城から戻り、何やら報告があるという。
「分かった。すぐに行く。お照、どうする?」
「わたくしはもう少しここに」
「そうか。よし、竜之進は予と参れ。吉之助はここに残ってお照を守れ」
「はっ」

 一人残った熙子が手招きする。吉之助は踏み石三つ分の距離まで寄って片膝を付いた。
「狩野。この近辺の状況はどうなのですか」
「はっ。品川辺りでは地面が急に泥水のようになり、何軒かの家が飲み込まれたと聞きました」
 所謂、液状化現象であったと思われる。

「何と恐ろしい。民も難儀しておろう」
「はい」
「よい。勅額火事のときと違い、最早遠慮はいらぬ。藩の蔵を開いて民に施しておやり」
「はっ。殿にご許可いただいた後、きっとお申し付け通りに致します」

「しかし、西之丸入城の前夜に地震とはな。出鼻をくじかれたことは否めぬ。何か、人心一新の妙手はないものか。どうじゃ?」

 吉之助はしばし考える。彼の教養はほとんどが絵画から来ている。物語の名場面や偉人の肖像などを描く前提として学んだことを頭の中で検索する。

「左様ですな。新時代の到来と言えば、やはり、い、いえ、考えも及びません」
「何じゃ? 遠慮なく申せ」
「その、御前様にはご不快なことではないかと・・・」

 吉之助の口ごもる様子を見て、熙子は頓悟した。
「そうか。改元か」
「はっ、私ごときが口にするのも恐れ多きことながら」
「ふふ、狩野。そなた、存外策士じゃな。今や改元は幕府の奏上によって決まる仕組み。忌々しいことながら、この際は好都合。柳沢に任せましょう。甲府二十五万石をくれてやるのです。それくらいは働こう」

 すると、熙子が脇に控える側近の平松時子に言った。
「そうじゃ、よいことを思い付いたぞ。改元に合わせ、現在右大臣の家煕(熙子の同母弟・近衛家煕)を左大臣に昇らせよう。父上(関白・近衛基煕)は俗物に過ぎる。殿が将軍となったとき、朝廷の代表は家煕の方がよい。そう思わぬか」

「結構なお考えと存じます。家煕卿は姉君思い。何事も姫様のお考えに従って下さいましょう。されど姫様、お気を付けあそばせ。少々悪いお顔になってきましたよ」

 時子の言葉に驚き、慌てて池をのぞき込もうとする熙子。その様子を見て、吉之助は思わず吹き出しそうになったが、ギリギリ堪えた。そしてその四ヶ月後、元禄が終わり、宝永となった。
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