81 / 94
第79章 政変
しおりを挟む
御内書、源頼朝が最初に武家政権を打ち立てた頃は御教書と呼ばれていた。いずれにせよ、武士の棟梁たる征夷大将軍が直に発する命令書である。将軍の個人的命令という色彩が濃いものだが、武士が武士である以上、これを受けないということはあり得ない。鎌倉の世は遥か遠く、江戸幕府創立からもすでに百年、人心も随分と変わった。しかし、それでも尚、武士たちはこの呪縛の中にいる。
「し、しばらく!」
思わず声が上ずった。気を取り直してもう一度。
「しばらく、御側用人・本庄豊後守様とお見受けします」
「それと知って行く手を阻むか。どけ、無礼者!」
「私は甲府藩士・狩野吉之助。主君・松平中納言様の命により・・・」
話は少し戻る。吉之助が六義園、すなわち川越藩下屋敷に赴き、甲府藩と川越藩の秘密同盟を成し遂げてから半月あまり経った日の昼過ぎ、吉之助は竜之進と共に用人の間部詮房から呼び出しを受けた。
急ぎ間部の御用部屋に行くと、この時間いつも帳面仕事をしている役人たちがもういない。飾り気のない文机の前に間部がただ一人でいた。いつもの無表情、いつもの端正な裃姿である。
「お呼びとか」
「ええ。出羽守様から連絡が来ました。外桜田のお屋敷を返すと」
「それって、御前様が都から嫁いでいらした際に取り上げられたという、あの?」と竜之進。
「そうです。あのお屋敷は三代家光公から殿の父君(家光の次男・松平綱重)が賜ったもの。公方様が殿を嫌い取り上げられていましたが、形式上は没収ではなく借り上げとされていたのです。本日以降、当方の随意に使えます」
「すると、殿と御前様はそちらに移られるのですか。その準備をせよと?」
吉之助は納戸役も兼ねているから、思考がそっちに行った。
「いえ、違います」
「では?」
間部の表情は変わらない。しかし、澄んだ鳶色の瞳がわずかに光ったように思えた。
「狩野殿、島田殿、お二人にそれぞれ番方の藩士五名と足軽五名を預けます。日没後、外桜田に向かい屋敷内で待機を。明朝、登城途中の本庄豊後守様の身柄を確保して下さい」
竜之進が驚きに目を瞠る。
「本庄様と言えば、公方様の御側用人ですよね」
「そうです」
「殿と御前様はこのことを?」
吉之助のその問いに、間部は無言で頷いた。
「分かりました。お任せ下さい」
「そうか。いよいよかぁ。しかし間部様、相手が抵抗した場合、どこまでしていいのですか。いざとなれば斬っても?」
「いえ。母方とは言え、豊後守様は公方様の従弟に当たります。お供の衆も含め、出来れば無傷で捕えて下さい。ただ、一人たりとも逃がしてはなりません。それが最優先。現場での判断はお二人に任せます」
外桜田の甲府藩上屋敷は、現代で言うと日比谷公園に当たる。将軍の側用人を務める笠間藩主・本庄豊後守は、毎朝、二区画先の藩邸からその前を通って出勤していた。
現在、将軍綱吉は心身の衰弱が進み、表には出て来ない。側用人は直に将軍と接することの出来る唯一の幕府高官なのだ。武士の棟梁たる征夷大将軍の代弁者。その気になれば、然るべき者に逆臣討伐の御内書を下して政敵を排除することさえ出来る立場である。
あれは名案だった。六義園視察にことよせ、甲府中納言を誅殺し、出羽守に詰め腹を切らせる。我が智謀の切れ味よ。とんだ邪魔が入ったが、次こそ必ず・・・。
無論、件の謀略については、立案も下準備もすべて大典侍局がしたことだ。豊後守は単なる駒に過ぎない。しかし、女の甘言と妖しい桃花眼のせいで豊後守の脳内では常に主客が転倒させられている。
ともかく、豊後守は駒になれる程度には有能であった。また、放蕩者の父親と違って職務に対しては真面目で、毎日、幕閣どころか並の幕府官僚より早い時間に登城していた。彼は若く、駕籠よりも騎馬を好んだ。
元禄十六年(一七〇三年)弥生朔日。この日もそうであった。
いつもなら、すぐ先の日比谷御門の手前で西に折れ、桜田門を通ってさらに桔梗門へと進む。通りには老中や若年寄を務める譜代の名門の大名屋敷も多い。
彼が毎朝思うことは同じ。側用人など通過点に過ぎぬ。くそっ、父上がせめて若年寄くらいまでになっていてくれれば、私はとっくに・・・。
カッカッカッと蹄の音が通りに響く。
その時である。今は資材置き場として利用されているだけの元甲府藩上屋敷、その正門の脇口が突如開き、わらわらと人数が出て来た。豊後守が、あっと思った瞬間。後方の通用門からも人が走り出て退路まで塞がれてしまった。
こ、これは?!
豊後守が目を正面に戻せば、前を阻む一隊の先頭に六尺(約百八十センチメートル)を超える大男がいた。白鉢巻きに白たすき、背丈より少し短い木の棒を右手に持って仁王立ちするその男が、怒鳴り声を上げた。
「し、しばらく! しばらく! 御側用人・本庄豊後守様とお見受けします」
「それと知って行く手を阻むか。どけ、無礼者!」
「私は甲府藩士・狩野吉之助。主君・松平中納言様の命により、お迎えに参上しました。豊後守様、ご案内いたします故、同道をお願いします」
吉之助がそう言い終わるか終わらないかのタイミングで、通り沿いの大名屋敷の門が一斉に閉じた。各屋敷の前を掃き清めていた門番なども脇口から屋敷内に消えて行く。
それを見て豊後守は全てを悟った。
この辺りの連中、皆、承知ということか。柳沢が何やら動いていることは分かっていた。いずれ何か仕掛けて来るとも思っていた。しかし、まさか今日、ここで事を起こすとは。やられた。完全にしてやられた。
豊後守は伯母である桂昌院から贈られた自慢の黒鹿毛に乗っている。供は平装の武士六人と中間四人。彼等は反射的に主人を守る態勢を取ったものの全員顔面蒼白だ。隙を見て後方から竜之進が一団の中に駆け入った。豊後守の乗馬の轡をがしっと掴む。
「やっ、無礼者! 放せ。放さぬか。ええい、何をしておる。斬れ! 斬り捨てよ!」
「豊後守様、お静まり下さい。お供の方々もご安心を。決して手荒なことはいたしません」
「どの口が言うか」
「豊後守様、どうかお静まりを。お願いします。下馬なさって下さい」
供衆は最早戦意喪失、石のように動かない。一方、豊後守は敵意むき出し、吉之助を睨み付け、下馬の求めにも応じない。
仕方ない。吉之助は黙って左手を挙げた。すると、今度は正門が開き、さらに三十名の武士が出てきた。甲府藩番頭・鳴海帯刀に率いられた完全武装の予備隊である。これを見てさすがに観念したか、豊後守は肩を落として吐き捨てた。
「やむを得ん。好きにしろ」
鳴海の手勢が豊後守の供衆を手際よく拘束して連行する。吉之助は下馬した豊後守の袖を捉えて言った。
「立ったままで失礼します。まずは御腰のものをお渡し下さい」
「それ」
「恐れ入ります。あちらにお部屋を用意しております。しばらくそこでご休息を」
「よかろう。で、お前たち、上様と桂昌院様をどうするつもりだ?」
「ご安心ください。我が主君と公方様は血の繋がったご親族。決して悪いようには致しません」
吉之助は周辺の屋敷を常態に戻すべく、自分の配下を走らせる。次いで竜之進に豊後守の身柄を預け、屋敷内での接遇(拘禁と監視)を任せた。
雲ひとつない朝の空を仰ぐ。してのけた。そう思うと、今更ながら武者震いが来た。吉之助は、一度大きく深呼吸してから配下の駒木勇佑を伴い城へと向かった。
江戸城の諸門は譜代大名が交代で固めている。しかし、柳沢出羽守の名前の入った通行許可証があるので、誰何さえされない。桔梗門から中之門を通り本丸御殿へ。大玄関の脇の小部屋に一人の男が待っていた。いつもの無表情、いつもの端正な裃姿。間部だ。吉之助から報告を受けた彼は、黙って頷くと御殿の奥に入って行った。
第二幕が始まる。舞台転じて、江戸城本丸御座之間。
「これ、伊賀守殿。頭が高い」
「あっ、失礼しました」
横の先輩に注意され、若年寄・永井伊賀守は慌てて平伏した。この部屋は、将軍の日常生活の場である「中奥」と幕府の政務や儀式が行われる「表」の中間にある。普通の大名屋敷の大広間よりさらに広く、さらに豪華な設えであった。
その下段側の真ん中に一人、大老格老中首座・柳沢出羽守が陣取る。そこから遥か下がり、廊下に追い出されそうな位置にその他の幕閣が一列に並んでいた。上段から見て左から老中四人、若年寄四人。
永井伊賀守、名は直敬。当年四十一。今はあの播州赤穂を領している。もっとも、藩の運営は家臣任せで領地に行ったことはない。二十代後半から幕府内で要職を務めているからだ。その彼が寺社奉行から若年寄に昇進にしたのは、わずか六日前。従って、彼の席次はこの場においては最も低い。位置は列の右端だ。
定刻となり二回鈴が鳴った。そこで一斉に平伏しなければならなかったのだが、一人だけ遅れたのだった。
先輩に注意されて彼が人生最速の平伏をすると同時に、上段之間の御簾の中に将軍綱吉が登場、したはずである。
伊賀守たちは平伏しているから、視界は畳の薄緑一色。時折、「承りました」、「御意のままに」などと柳沢出羽守の声だけが聞こえる。しばらくすると、鈴がまた二回鳴った。
その後、出羽守に言われて頭を上げると、出羽守が上段に背を向け、自分たちに正対している。すなわち、すでに御簾の中に綱吉はいないということだ。
上様のお声はまったく聞こえなかったぞ。そもそも、御簾の中に本当に上様はいらっしゃったのか。寺社奉行在任中、結局、一度も上様と直接お会いすることは叶わなかった。幕閣に列っすれば変わると思ったが、やはり駄目なのか。
その思いが顔に出たようで、出羽守に睨まれた。慌ててぎごちない微笑を作り、面に貼り付ける。一方、伊賀守を除く他の幕閣たちは何の疑問もなくこの状況を受け入れていた。それは、出羽守の根回しも無論あるが、それ以上に、これまでの経緯がものを言っていた。
御座之間は、本来、将軍と幕府の重臣(老中、若年寄、担当奉行など)が各種政策について協議するための部屋である。綱吉も将軍就任当初は、それまでの将軍たちと同様にこの部屋に来ていた。
ところが、事件が起きた。
兄・家綱の死により綱吉が第五代将軍となった四年後、貞享元年(一六八四年)八月二十八日、大老・堀田正俊(下総古河藩主)が若年寄・稲葉正休(美濃青野藩主)に刺殺されたのである。
その現場こそ、この御座之間であった。
将軍綱吉は、その日も会議に臨むため時間通りにやって来た。上段之間の脇から入室した彼が見たのは、下段の中央、今出羽守が座っている辺りで、胸や腹を刺され上半身血まみれで畳の上に横たわる堀田の姿。そして、他の幕閣たちが手に手に殿中差し(城内で帯びる脇差より短い刀)を持ち、下手人の稲葉をめった刺しにしている場面であった。
真夏の強い日差しのせいで畳が一面白っぽく見えた。それが、堀田と稲葉の体から流れる血で見る見る赤く染まって行く。
一瞬、綱吉は、幕閣たちこそが下手人で、彼等が堀田と稲葉を手に掛けたと思った。謀反だと思った。学問好きの綱吉は歴史にも詳しい。徳川と改姓する前、この家の当主は何人も家臣の謀反で殺されている。そのことをよく知っていた。
そして、元々血を見るのが苦手な性質だ。恐怖の余り、綱吉が声も出ずに立ち尽くしていると、幕閣たちが血の滴る短刀を握ったまま振り向いた。自分の姿が彼等の血走った目に捉えられたとき、綱吉の意識は飛んだ。
以後、綱吉は御座之間に出なくなった。
だけでなく、家臣と直接会うことさえ拒否。日常の政務における意思疎通は全て側用人を通すように変えた。儀式などで家臣の前に出ざるを得ない場合、必ず御簾を下ろさせ、大抵の場合は影武者を使った。
しかし、こんな無理な体制が続くわけがない。
当時の側用人は牧野成貞。綱吉を幼少期から守ってきた気のいい老人である。牧野は忠臣には違いない。しかし、経綸の才はなく、堀田の代わりの宰相役などとても無理であった。彼は綱吉と幕閣たちの間で右往左往するばかりで、幕政は混乱した。
しばらくすると譜代衆の間で綱吉の早々の隠居を望む声まで出る始末。同時に牧野が心労でダウン。もはやこれまでと思ったところで、とてつもない人材が登場する。柳沢吉保である。
柳沢は、側用人として牧野より遥かにそつが無く、政治家として堀田に匹敵する手腕を持っていた。
彼の存在が、本来無理な綱吉体制の存続を可能にした。綱吉は奥に引き籠って好きな学問さえしていればよい。朝から晩まで聖賢の教えを熟読し、時折、思い付いたことを思い付くまま述べれば柳沢が実現してくれる。綱吉にとって理想的な環境が構築されたのであった。
堀田大老は良識ある実務型の政治家であったから、あのまま堀田に支えられていれば、綱吉の治政は随分違ったものになったであろう。生類憐れみの令も刑罰を伴う実体法として運用されることはなく、「慈悲深い将軍様のありがたい訓辞」程度でお茶を濁していたかもしれない。野犬の収容施設(通称・御犬小屋)や社寺への寄進なども常識的な規模にとどまったに違いない。
しかし、柳沢は違う。綱吉の希望を希望のまま、際限なく実現して行った。
無論、方々から不満が出る。柳沢吉保という男の傑出した点は、その不満を力で抑え込まなかったことである。彼は将軍綱吉を抱え込むことで己が得る利益を独占せず、皆に分配した。味方は勿論だが、敵にさえ分け与えた。
基本、幕府の人事は派閥よりも能力本位で登用し、自派で不遇をかこつ者には役職の代わりに官位や金銀を与えてなだめた。さらに、諸々の不便を被る町衆に対しても、経済を活性化して生活を潤すことで黙らせた。実際、元禄の江戸は、史上最高の繁栄を遂げている。
元々、四代家綱以降、将軍独裁から法と組織による統治へ、すなわち、武断政治から文治政治への流れにあった。柳沢の類まれな調整能力がそれを推し進め、将軍の不在に皆が慣らされて行った。
ところが、十数年経ち、松之大廊下の刃傷事件。ここで突如、将軍綱吉が鶴の一声で浅野内匠頭を切腹させてしまった。大名を詮議もせずに殺してしまったのである。これには、柳沢をはじめとする幕閣だけでなく、大名旗本も含め、江戸中の武士が慄然となった。
幕府とは、元々朝敵討伐の遠征軍司令官に認められた占領地における臨時政権である。それが、源頼朝以降、恒久的かつ全国規模の政権に変貌した。しかし、軍事政権の本質は変わらない。軍事は独裁の方が強く、将軍の独裁権を否定することは出来ない。
ただ、その行使は抑制的であり、かつ、正常な判断力に基づくものでなければならない。
勅使院使に対して最愛の生母への従一位贈呈の礼を述べるため、あの日、本当に久しぶりに将軍綱吉が家臣たちの前に姿を現した。その衰弱ぶりと不安定さは、皆の想像を超えていた。将軍権力の絶対性を認めればこそ、その担い手は、温厚な常識人でないと困る。そうでなければ、おちおち寝てもいられない。
御座之間の下段中央、柳沢出羽守が息を整えた後、堂々と幕閣たちに申し渡した。
「方々。上様は此度、深き思し召しあって、等しく大猷院様(三代家光)の御血を引く、甥御であらせられるところの甲府中納言・松平綱豊様をもって将軍世嗣(将軍の後継者)と定められた。また、上様におかれては、近年とみにご体調優れぬことから、天下万民のことを第一に考え、以後、政務の全権を中納言様に委任なさる、との御意である。この上は、我ら家臣一同、中納言様の下に団結し、益々職務に精励。もって、上様の御心を安んじ奉ると共に、神君以来のご恩に報いるべきものと存ずる」
これを聞いて新任の若年寄・永井伊賀守は半ば呆れ、思わず出羽守の顔を凝視してしまった。はっとして横を見れば、先輩の幕閣たちはすでに揃って平伏している。それは異議なしの意思表示。伊賀守も慌てて畳に額を付ける。幸い、睨まれる前にしてのけた。
彼は思う。なるほど、知らぬは私だけか。これは、甲府公と出羽守様が仕組んだ茶番に違いない、と。
伊賀守は、急死した舅から引き継ぐ形で若年寄に就任した。今の流れを見れば、自分の昇進は急遽の数合わせだったのだろう。
まあ、いいさ。どんな状況でも、私は私の職責を果たすだけだ。
幕府内の多くが伊賀守と同じ思いだったかもしれない。そして、第三幕に移る。
間部が老中控えの間に呼び出された。柳沢出羽守が間部の前につつっと平たい桐箱を押し出す。間部は畳の上からそれを両手で取り上げると、恭しく押し頂いた。箱の中身、それは将軍世嗣が入る江戸城西之丸の詳細な絵図面であった。
この短い芝居を最後にこの日の政変劇は幕を下ろす。同時に、第五代将軍・徳川綱吉の治政も事実上の終焉を迎えた。
その後、様々な根回しや準備が行われ、元禄十六年(一七〇三年)十一月二十二日となった。
いよいよ明日、殿が正式に将軍世嗣となるのか。
吉之助は、そう思いながら妻の横で床に就いた。しかし、なかなか寝付けない。絵師でもある彼は、晴れの日の様子を目に焼き付け、絵画として遺したい。
城に向かう行列を描くのは屏風がいいか、絵巻がいいか。殿と御前様の肖像画も描かねば。いや、それは将軍宣下の後か。あれこれ考えが浮かび止まらない。
深夜、喉が渇いた。志乃とおりんを起こさぬよう気を付けながら台所へ。そして、水桶の蓋に手を掛けた瞬間であった。足元でゴゴゴゴゴという地鳴りが。あっと思った途端、視界が斜めに傾く。揺れが激しさを増す。足腰の強さには自信のある方だが、それでも立っていられない。歴史上、元禄地震と記録される大震災の発生であった。
「し、しばらく!」
思わず声が上ずった。気を取り直してもう一度。
「しばらく、御側用人・本庄豊後守様とお見受けします」
「それと知って行く手を阻むか。どけ、無礼者!」
「私は甲府藩士・狩野吉之助。主君・松平中納言様の命により・・・」
話は少し戻る。吉之助が六義園、すなわち川越藩下屋敷に赴き、甲府藩と川越藩の秘密同盟を成し遂げてから半月あまり経った日の昼過ぎ、吉之助は竜之進と共に用人の間部詮房から呼び出しを受けた。
急ぎ間部の御用部屋に行くと、この時間いつも帳面仕事をしている役人たちがもういない。飾り気のない文机の前に間部がただ一人でいた。いつもの無表情、いつもの端正な裃姿である。
「お呼びとか」
「ええ。出羽守様から連絡が来ました。外桜田のお屋敷を返すと」
「それって、御前様が都から嫁いでいらした際に取り上げられたという、あの?」と竜之進。
「そうです。あのお屋敷は三代家光公から殿の父君(家光の次男・松平綱重)が賜ったもの。公方様が殿を嫌い取り上げられていましたが、形式上は没収ではなく借り上げとされていたのです。本日以降、当方の随意に使えます」
「すると、殿と御前様はそちらに移られるのですか。その準備をせよと?」
吉之助は納戸役も兼ねているから、思考がそっちに行った。
「いえ、違います」
「では?」
間部の表情は変わらない。しかし、澄んだ鳶色の瞳がわずかに光ったように思えた。
「狩野殿、島田殿、お二人にそれぞれ番方の藩士五名と足軽五名を預けます。日没後、外桜田に向かい屋敷内で待機を。明朝、登城途中の本庄豊後守様の身柄を確保して下さい」
竜之進が驚きに目を瞠る。
「本庄様と言えば、公方様の御側用人ですよね」
「そうです」
「殿と御前様はこのことを?」
吉之助のその問いに、間部は無言で頷いた。
「分かりました。お任せ下さい」
「そうか。いよいよかぁ。しかし間部様、相手が抵抗した場合、どこまでしていいのですか。いざとなれば斬っても?」
「いえ。母方とは言え、豊後守様は公方様の従弟に当たります。お供の衆も含め、出来れば無傷で捕えて下さい。ただ、一人たりとも逃がしてはなりません。それが最優先。現場での判断はお二人に任せます」
外桜田の甲府藩上屋敷は、現代で言うと日比谷公園に当たる。将軍の側用人を務める笠間藩主・本庄豊後守は、毎朝、二区画先の藩邸からその前を通って出勤していた。
現在、将軍綱吉は心身の衰弱が進み、表には出て来ない。側用人は直に将軍と接することの出来る唯一の幕府高官なのだ。武士の棟梁たる征夷大将軍の代弁者。その気になれば、然るべき者に逆臣討伐の御内書を下して政敵を排除することさえ出来る立場である。
あれは名案だった。六義園視察にことよせ、甲府中納言を誅殺し、出羽守に詰め腹を切らせる。我が智謀の切れ味よ。とんだ邪魔が入ったが、次こそ必ず・・・。
無論、件の謀略については、立案も下準備もすべて大典侍局がしたことだ。豊後守は単なる駒に過ぎない。しかし、女の甘言と妖しい桃花眼のせいで豊後守の脳内では常に主客が転倒させられている。
ともかく、豊後守は駒になれる程度には有能であった。また、放蕩者の父親と違って職務に対しては真面目で、毎日、幕閣どころか並の幕府官僚より早い時間に登城していた。彼は若く、駕籠よりも騎馬を好んだ。
元禄十六年(一七〇三年)弥生朔日。この日もそうであった。
いつもなら、すぐ先の日比谷御門の手前で西に折れ、桜田門を通ってさらに桔梗門へと進む。通りには老中や若年寄を務める譜代の名門の大名屋敷も多い。
彼が毎朝思うことは同じ。側用人など通過点に過ぎぬ。くそっ、父上がせめて若年寄くらいまでになっていてくれれば、私はとっくに・・・。
カッカッカッと蹄の音が通りに響く。
その時である。今は資材置き場として利用されているだけの元甲府藩上屋敷、その正門の脇口が突如開き、わらわらと人数が出て来た。豊後守が、あっと思った瞬間。後方の通用門からも人が走り出て退路まで塞がれてしまった。
こ、これは?!
豊後守が目を正面に戻せば、前を阻む一隊の先頭に六尺(約百八十センチメートル)を超える大男がいた。白鉢巻きに白たすき、背丈より少し短い木の棒を右手に持って仁王立ちするその男が、怒鳴り声を上げた。
「し、しばらく! しばらく! 御側用人・本庄豊後守様とお見受けします」
「それと知って行く手を阻むか。どけ、無礼者!」
「私は甲府藩士・狩野吉之助。主君・松平中納言様の命により、お迎えに参上しました。豊後守様、ご案内いたします故、同道をお願いします」
吉之助がそう言い終わるか終わらないかのタイミングで、通り沿いの大名屋敷の門が一斉に閉じた。各屋敷の前を掃き清めていた門番なども脇口から屋敷内に消えて行く。
それを見て豊後守は全てを悟った。
この辺りの連中、皆、承知ということか。柳沢が何やら動いていることは分かっていた。いずれ何か仕掛けて来るとも思っていた。しかし、まさか今日、ここで事を起こすとは。やられた。完全にしてやられた。
豊後守は伯母である桂昌院から贈られた自慢の黒鹿毛に乗っている。供は平装の武士六人と中間四人。彼等は反射的に主人を守る態勢を取ったものの全員顔面蒼白だ。隙を見て後方から竜之進が一団の中に駆け入った。豊後守の乗馬の轡をがしっと掴む。
「やっ、無礼者! 放せ。放さぬか。ええい、何をしておる。斬れ! 斬り捨てよ!」
「豊後守様、お静まり下さい。お供の方々もご安心を。決して手荒なことはいたしません」
「どの口が言うか」
「豊後守様、どうかお静まりを。お願いします。下馬なさって下さい」
供衆は最早戦意喪失、石のように動かない。一方、豊後守は敵意むき出し、吉之助を睨み付け、下馬の求めにも応じない。
仕方ない。吉之助は黙って左手を挙げた。すると、今度は正門が開き、さらに三十名の武士が出てきた。甲府藩番頭・鳴海帯刀に率いられた完全武装の予備隊である。これを見てさすがに観念したか、豊後守は肩を落として吐き捨てた。
「やむを得ん。好きにしろ」
鳴海の手勢が豊後守の供衆を手際よく拘束して連行する。吉之助は下馬した豊後守の袖を捉えて言った。
「立ったままで失礼します。まずは御腰のものをお渡し下さい」
「それ」
「恐れ入ります。あちらにお部屋を用意しております。しばらくそこでご休息を」
「よかろう。で、お前たち、上様と桂昌院様をどうするつもりだ?」
「ご安心ください。我が主君と公方様は血の繋がったご親族。決して悪いようには致しません」
吉之助は周辺の屋敷を常態に戻すべく、自分の配下を走らせる。次いで竜之進に豊後守の身柄を預け、屋敷内での接遇(拘禁と監視)を任せた。
雲ひとつない朝の空を仰ぐ。してのけた。そう思うと、今更ながら武者震いが来た。吉之助は、一度大きく深呼吸してから配下の駒木勇佑を伴い城へと向かった。
江戸城の諸門は譜代大名が交代で固めている。しかし、柳沢出羽守の名前の入った通行許可証があるので、誰何さえされない。桔梗門から中之門を通り本丸御殿へ。大玄関の脇の小部屋に一人の男が待っていた。いつもの無表情、いつもの端正な裃姿。間部だ。吉之助から報告を受けた彼は、黙って頷くと御殿の奥に入って行った。
第二幕が始まる。舞台転じて、江戸城本丸御座之間。
「これ、伊賀守殿。頭が高い」
「あっ、失礼しました」
横の先輩に注意され、若年寄・永井伊賀守は慌てて平伏した。この部屋は、将軍の日常生活の場である「中奥」と幕府の政務や儀式が行われる「表」の中間にある。普通の大名屋敷の大広間よりさらに広く、さらに豪華な設えであった。
その下段側の真ん中に一人、大老格老中首座・柳沢出羽守が陣取る。そこから遥か下がり、廊下に追い出されそうな位置にその他の幕閣が一列に並んでいた。上段から見て左から老中四人、若年寄四人。
永井伊賀守、名は直敬。当年四十一。今はあの播州赤穂を領している。もっとも、藩の運営は家臣任せで領地に行ったことはない。二十代後半から幕府内で要職を務めているからだ。その彼が寺社奉行から若年寄に昇進にしたのは、わずか六日前。従って、彼の席次はこの場においては最も低い。位置は列の右端だ。
定刻となり二回鈴が鳴った。そこで一斉に平伏しなければならなかったのだが、一人だけ遅れたのだった。
先輩に注意されて彼が人生最速の平伏をすると同時に、上段之間の御簾の中に将軍綱吉が登場、したはずである。
伊賀守たちは平伏しているから、視界は畳の薄緑一色。時折、「承りました」、「御意のままに」などと柳沢出羽守の声だけが聞こえる。しばらくすると、鈴がまた二回鳴った。
その後、出羽守に言われて頭を上げると、出羽守が上段に背を向け、自分たちに正対している。すなわち、すでに御簾の中に綱吉はいないということだ。
上様のお声はまったく聞こえなかったぞ。そもそも、御簾の中に本当に上様はいらっしゃったのか。寺社奉行在任中、結局、一度も上様と直接お会いすることは叶わなかった。幕閣に列っすれば変わると思ったが、やはり駄目なのか。
その思いが顔に出たようで、出羽守に睨まれた。慌ててぎごちない微笑を作り、面に貼り付ける。一方、伊賀守を除く他の幕閣たちは何の疑問もなくこの状況を受け入れていた。それは、出羽守の根回しも無論あるが、それ以上に、これまでの経緯がものを言っていた。
御座之間は、本来、将軍と幕府の重臣(老中、若年寄、担当奉行など)が各種政策について協議するための部屋である。綱吉も将軍就任当初は、それまでの将軍たちと同様にこの部屋に来ていた。
ところが、事件が起きた。
兄・家綱の死により綱吉が第五代将軍となった四年後、貞享元年(一六八四年)八月二十八日、大老・堀田正俊(下総古河藩主)が若年寄・稲葉正休(美濃青野藩主)に刺殺されたのである。
その現場こそ、この御座之間であった。
将軍綱吉は、その日も会議に臨むため時間通りにやって来た。上段之間の脇から入室した彼が見たのは、下段の中央、今出羽守が座っている辺りで、胸や腹を刺され上半身血まみれで畳の上に横たわる堀田の姿。そして、他の幕閣たちが手に手に殿中差し(城内で帯びる脇差より短い刀)を持ち、下手人の稲葉をめった刺しにしている場面であった。
真夏の強い日差しのせいで畳が一面白っぽく見えた。それが、堀田と稲葉の体から流れる血で見る見る赤く染まって行く。
一瞬、綱吉は、幕閣たちこそが下手人で、彼等が堀田と稲葉を手に掛けたと思った。謀反だと思った。学問好きの綱吉は歴史にも詳しい。徳川と改姓する前、この家の当主は何人も家臣の謀反で殺されている。そのことをよく知っていた。
そして、元々血を見るのが苦手な性質だ。恐怖の余り、綱吉が声も出ずに立ち尽くしていると、幕閣たちが血の滴る短刀を握ったまま振り向いた。自分の姿が彼等の血走った目に捉えられたとき、綱吉の意識は飛んだ。
以後、綱吉は御座之間に出なくなった。
だけでなく、家臣と直接会うことさえ拒否。日常の政務における意思疎通は全て側用人を通すように変えた。儀式などで家臣の前に出ざるを得ない場合、必ず御簾を下ろさせ、大抵の場合は影武者を使った。
しかし、こんな無理な体制が続くわけがない。
当時の側用人は牧野成貞。綱吉を幼少期から守ってきた気のいい老人である。牧野は忠臣には違いない。しかし、経綸の才はなく、堀田の代わりの宰相役などとても無理であった。彼は綱吉と幕閣たちの間で右往左往するばかりで、幕政は混乱した。
しばらくすると譜代衆の間で綱吉の早々の隠居を望む声まで出る始末。同時に牧野が心労でダウン。もはやこれまでと思ったところで、とてつもない人材が登場する。柳沢吉保である。
柳沢は、側用人として牧野より遥かにそつが無く、政治家として堀田に匹敵する手腕を持っていた。
彼の存在が、本来無理な綱吉体制の存続を可能にした。綱吉は奥に引き籠って好きな学問さえしていればよい。朝から晩まで聖賢の教えを熟読し、時折、思い付いたことを思い付くまま述べれば柳沢が実現してくれる。綱吉にとって理想的な環境が構築されたのであった。
堀田大老は良識ある実務型の政治家であったから、あのまま堀田に支えられていれば、綱吉の治政は随分違ったものになったであろう。生類憐れみの令も刑罰を伴う実体法として運用されることはなく、「慈悲深い将軍様のありがたい訓辞」程度でお茶を濁していたかもしれない。野犬の収容施設(通称・御犬小屋)や社寺への寄進なども常識的な規模にとどまったに違いない。
しかし、柳沢は違う。綱吉の希望を希望のまま、際限なく実現して行った。
無論、方々から不満が出る。柳沢吉保という男の傑出した点は、その不満を力で抑え込まなかったことである。彼は将軍綱吉を抱え込むことで己が得る利益を独占せず、皆に分配した。味方は勿論だが、敵にさえ分け与えた。
基本、幕府の人事は派閥よりも能力本位で登用し、自派で不遇をかこつ者には役職の代わりに官位や金銀を与えてなだめた。さらに、諸々の不便を被る町衆に対しても、経済を活性化して生活を潤すことで黙らせた。実際、元禄の江戸は、史上最高の繁栄を遂げている。
元々、四代家綱以降、将軍独裁から法と組織による統治へ、すなわち、武断政治から文治政治への流れにあった。柳沢の類まれな調整能力がそれを推し進め、将軍の不在に皆が慣らされて行った。
ところが、十数年経ち、松之大廊下の刃傷事件。ここで突如、将軍綱吉が鶴の一声で浅野内匠頭を切腹させてしまった。大名を詮議もせずに殺してしまったのである。これには、柳沢をはじめとする幕閣だけでなく、大名旗本も含め、江戸中の武士が慄然となった。
幕府とは、元々朝敵討伐の遠征軍司令官に認められた占領地における臨時政権である。それが、源頼朝以降、恒久的かつ全国規模の政権に変貌した。しかし、軍事政権の本質は変わらない。軍事は独裁の方が強く、将軍の独裁権を否定することは出来ない。
ただ、その行使は抑制的であり、かつ、正常な判断力に基づくものでなければならない。
勅使院使に対して最愛の生母への従一位贈呈の礼を述べるため、あの日、本当に久しぶりに将軍綱吉が家臣たちの前に姿を現した。その衰弱ぶりと不安定さは、皆の想像を超えていた。将軍権力の絶対性を認めればこそ、その担い手は、温厚な常識人でないと困る。そうでなければ、おちおち寝てもいられない。
御座之間の下段中央、柳沢出羽守が息を整えた後、堂々と幕閣たちに申し渡した。
「方々。上様は此度、深き思し召しあって、等しく大猷院様(三代家光)の御血を引く、甥御であらせられるところの甲府中納言・松平綱豊様をもって将軍世嗣(将軍の後継者)と定められた。また、上様におかれては、近年とみにご体調優れぬことから、天下万民のことを第一に考え、以後、政務の全権を中納言様に委任なさる、との御意である。この上は、我ら家臣一同、中納言様の下に団結し、益々職務に精励。もって、上様の御心を安んじ奉ると共に、神君以来のご恩に報いるべきものと存ずる」
これを聞いて新任の若年寄・永井伊賀守は半ば呆れ、思わず出羽守の顔を凝視してしまった。はっとして横を見れば、先輩の幕閣たちはすでに揃って平伏している。それは異議なしの意思表示。伊賀守も慌てて畳に額を付ける。幸い、睨まれる前にしてのけた。
彼は思う。なるほど、知らぬは私だけか。これは、甲府公と出羽守様が仕組んだ茶番に違いない、と。
伊賀守は、急死した舅から引き継ぐ形で若年寄に就任した。今の流れを見れば、自分の昇進は急遽の数合わせだったのだろう。
まあ、いいさ。どんな状況でも、私は私の職責を果たすだけだ。
幕府内の多くが伊賀守と同じ思いだったかもしれない。そして、第三幕に移る。
間部が老中控えの間に呼び出された。柳沢出羽守が間部の前につつっと平たい桐箱を押し出す。間部は畳の上からそれを両手で取り上げると、恭しく押し頂いた。箱の中身、それは将軍世嗣が入る江戸城西之丸の詳細な絵図面であった。
この短い芝居を最後にこの日の政変劇は幕を下ろす。同時に、第五代将軍・徳川綱吉の治政も事実上の終焉を迎えた。
その後、様々な根回しや準備が行われ、元禄十六年(一七〇三年)十一月二十二日となった。
いよいよ明日、殿が正式に将軍世嗣となるのか。
吉之助は、そう思いながら妻の横で床に就いた。しかし、なかなか寝付けない。絵師でもある彼は、晴れの日の様子を目に焼き付け、絵画として遺したい。
城に向かう行列を描くのは屏風がいいか、絵巻がいいか。殿と御前様の肖像画も描かねば。いや、それは将軍宣下の後か。あれこれ考えが浮かび止まらない。
深夜、喉が渇いた。志乃とおりんを起こさぬよう気を付けながら台所へ。そして、水桶の蓋に手を掛けた瞬間であった。足元でゴゴゴゴゴという地鳴りが。あっと思った途端、視界が斜めに傾く。揺れが激しさを増す。足腰の強さには自信のある方だが、それでも立っていられない。歴史上、元禄地震と記録される大震災の発生であった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
融女寛好 腹切り融川の後始末
仁獅寺永雪
歴史・時代
江戸後期の文化八年(一八一一年)、幕府奥絵師が急死する。悲報を受けた若き天才女絵師が、根結いの垂髪を揺らして江戸の町を駆け抜ける。彼女は、事件の謎を解き、恩師の名誉と一門の将来を守ることが出来るのか。
「良工の手段、俗目の知るところにあらず」
師が遺したこの言葉の真の意味は?
これは、男社会の江戸画壇にあって、百人を超す門弟を持ち、今にも残る堂々たる足跡を残した実在の女絵師の若き日の物語。最後までお楽しみいただければ幸いです。
南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳
勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません)
南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。
表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。
2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

キャサリンのマーマレード
空原海
歴史・時代
ヘンリーはその日、初めてマーマレードなるデザートを食べた。
それは兄アーサーの妃キャサリンが、彼女の生国スペインから、イングランドへと持ち込んだレシピだった。
のちに6人の妻を娶り、そのうち2人の妻を処刑し、己によく仕えた忠臣も邪魔になれば処刑しまくったイングランド王ヘンリー8世が、まだ第2王子に過ぎず、兄嫁キャサリンに憧憬を抱いていた頃のお話です。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河
墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。
三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。
全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。
本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。
おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。
本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。
戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。
歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。
※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。
※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

江戸情話 てる吉の女観音道
藤原 てるてる
歴史・時代
この物語の主人公は、越後の百姓の倅である。
本当は跡を継いで百姓をするところ、父の後釜に邪険にされ家を出たのであった。
江戸に出て、深川で飛脚をして渡世を送っている。
歳は十九、取り柄はすけべ魂である。女体道から女観音道へ至る物語である。
慶応元年五月、あと何年かしたら明治という激動期である。
その頃は、奇妙な踊りが流行るは、辻斬りがあるはで庶民はてんやわんや。
これは、次に来る、新しい世を感じていたのではないのか。
日本の性文化が、最も乱れ咲きしていたと思われるころの話。
このてる吉は、飛脚であちこち街中をまわって、女を見ては喜んでいる。
生来の女好きではあるが、遊び狂っているうちに、ある思いに至ったのである。
女は観音様なのに、救われていない女衆が多すぎるのではないのか。
遊女たちの流した涙、流せなかった涙、声に出せない叫びを知った。
これは、なんとかならないものか。何か、出来ないかと。
……(オラが、遊女屋をやればええでねえか)
てる吉は、そう思ったのである。
生きるのに、本当に困窮しとる女から来てもらう。
歳、容姿、人となり、借金の過多、子連れなど、なんちゃない。
いつまでも、居てくれていい。みんなが付いているから。
女衆が、安寧に過ごせる場を作ろうと思った。
そこで置屋で知り合った土佐の女衒に弟子入りし、女体道のイロハを教わる。
あてがって来る闇の女らに、研がれまくられるという、ありがた修行を重ねる。
相模の国に女仕入れに行かされ、三人連れ帰り、褒美に小判を頂き元手を得る。
四ツ谷の岡場所の外れに、掘っ立て小屋みたいな置屋を作る。
なんとか四人集めて来て、さあ、これからだという時に……
てる吉は、闇に消えたのであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる